[2025/10/29,09:59:07]
今日の全国紙では「クマの街秋田」という表現を使っていた。散歩をしていてもクマ鈴を鳴らして歩いている人が多くなった。先日テレビで放映されていた医学部そばに現れたクマが走っていたのは、私の散歩コースだ。山用のクマスプレーを持ち歩いたほうがいいのかもしれない。クマ撃退として効果があるとされるクマスプレーだが、たいがいはアメリカ製で1万5千円する。簡単に買って子供に持たせる、というような安価なものではない。さらに一回使うとほぼ終わり。私は一度しか使ったことはないが(それも試しに)、西部劇のように早打ちするなんて芸当は難しい。身近なもので撃退に役立ちそうなのは傘だろう。クマが出たら傘をぱっと開く。大きなものが怖いクマは驚いて逃げていく、ような気がする。夜の散歩に傘を持ち歩く日々が続きそうだ。
給食 [2025/10/28,09:10:25]
「給食」について原稿を書く予定だ。ちょうど「おいしい給食」という映画が封切り中で、これは見なければと映画館まで出かけたら、どうやらアマゾン・プライムで放映中のものの焼き直しだ。それならとさっそくパソコンで観た。給食大好きな中学の若い教師と、給食マニアの中学1年生が毎日の給食を巡ってガチ対決するストーリーだ。そのあまりのくだらなさに逆にすっかりはまってしまった。というのも小生、昭和24年のド田舎生まれ。中学時代は弁当で過ごした最後の世代だ。給食にはものすごい「憧れ」と「コンプレックス」がある。酔うと、思い出話の定番である「給食」話にまったくついていけない負い目が、あったのだ。映画はもちろん、あって当たり前の給食を狂人的に愛してしまうという、なかなかうまいアイデアで給食の「あるある」をドラマ化している。でもそのディテールは経験のないこちらにはよくわからない。今はこのギャップを楽しむしかない。
[2025/10/27,09:42:31]
土日は計画通り、いっさいデスクワークを離れ、外に出ていた。昨日は朝からアトリオンに書道展。琴線に触れる書を一点でも見つけられたら「もうけもの」、のつもりだったが一点もなし。次は文化創造館で「古本市」。これもあまり期待していなかったが、一店舗だけ酒田の古本屋さんが岩波文庫中心の棚ぞろえ。それも一点100円という安さで、高井有一『遠い日の海』の初版本もきれいにセロファンを巻いて500円。それらを5点買う。ここ以外はほとんどは、中学生の夏休み読書コーナーだ。若い人主体の「本の市」とはいえ、あまりに本の選定が幼すぎて、しばし呆然。昨日行った雄和の独立系書店も若い女性が経営者だった。今この手のカフェー系書店がはやりなのだそうだ。並べている本の傾向で、その人がどんな人生を生きてきたかわかる。だから「本棚を作る」というのは、かなり恥ずかしい勇気のいる作業でもある。「私の選書って、けっこうすごいでしょ」と自画自賛の棚が多く、鼻につく店も多い。「税金で運営する」八戸市にある書店の棚には、究極の書店の形を見ることができる。生活感のない、衒いも羞恥もない、理想の書店だが、こんなところで本は買いたくない、と思わせる書店でもある。本を売るって難しい。
大潟村 [2025/10/26,09:32:00]
栗駒山が中止になったので、Fさんと2人で大潟村に行くことにした。行く前に御所野のショピングセンターで買い物。冬の下着類や文具、100円ショップなど回る。一人だと気が付かないことがいっぱいあるので、Fさんのアドヴァイスで買い物がどんどん増えていく。昼はインド人のやっているカレー屋で野菜カレー。美味しかったが、やっぱり辛いものは苦手だ。大潟村では友人のI君の格納庫(大型機械を収納したり、もみすり機や乾燥機、在庫を置いておく)を訪ね、作業を見学。個人の農業格納庫といっても村の小学校体育館ほどの大きさがある。さすが大潟村だ。去年の米価の売り渡し価格は2万4千円、今年は3万6千円。もち米にいたっては4万円台だという。もちろん大潟村は農協などまったく眼中にないから「業者売り渡し価格」だ。この価格にも農家は浮かれていない。敵は外米輸入だ。3トン近くあるモミ米袋を初めて見て、その大きさに驚いてしまった。
中止 [2025/10/26,09:18:46]
今日は久しぶりの「栗駒山」山行だったが、急きょ中止に。参加者の一人が東成瀬村のクマ騒動で、「近くなので行くのはやめてくれ」と家族に懇願されたためだ。大丈夫だから行きましょう、という勇気も保証もできない。これは仕方のない判断で納得できる。20年前に比べると市町村主催の登山会というのが少なくなった。安全面や市民からのクレームなどが多くなり、行政側が責任を負いかねる、という判断のためのようだ。これもまあしょうがない。そして今度は、ひとりで山に行くのは「クマの危険」があるから、やめようという流れができつつある。なんだかいろいろ考えてしまう。山歩きというちょっぴり危険でハードで孤独な「遊び」で、ある程度の危険は納得済みのものだったからだ。そんな考えはもう過去のものになっていくのだろう。昨夜、たまたま深夜にBSテレビで観た「ガザあるジャーナリストの死」は最後まで見てしまった。精神科医のドクター桑山さんは昔、何度か会ったことがある。山形大医学部出身の医師で、世界中を飛び歩るき、戦火の子供たちのケアーを行っているドクターだ。すごいなあ、という感嘆しかない。同じ日、28年前の減反政策を巡って国と対立した岩手県東和町のドキュメンタリーも面白かったなあ。テレビに教えてもらうことは少なくない。
上書き [2025/10/24,10:47:34]
原稿を書くために、昔読んだ本をもう一度読み返す、という「作業」が多くなった。何ともしんどいが、本というやつ、読後の印象が時間とともに、かなり自分本位に「上書き」される。だから読後の印象のまま書いてしまうと大変なことになる。昨日は浅田次郎『帰郷』のなかの傷痍軍人の物語「金鵄のために」を読み返した。やはり大幅に思い違いや、勝手な思い込みが多く、まったく冷や汗ものだった。最初に読んだとき「傷痍軍人になるため手足を切りとる組織があった」のことに触れた内容だと思っていた。内容があまりに刺激的でショックだった。でも今回読み直してみると、それは一部で、戦場での「人肉食い」に多くの紙枚が割かれていた。「お前の腹の中に入れて、俺を日本に連れ帰ってくれ」という飢餓で死んでいく兵士の断末魔の言葉がキーワードだ。「感動」は勝手に上書きされる。注意が必要だ。
夕焼け [2025/10/23,09:55:07]
昨日の夕焼けはすごかった。この世のものではないような、まるで一時期の黒澤映画の色彩を思い起こさせるような夕焼けだった。西の空が秋晴れのような青空なのだ。この時間帯で、この空色はあり得ない。その上に真っ白な雲がかかって、この雲に虹色が筋状に描き出されている。空色と雲の白と虹色の絶妙なハーモニーで、街は昼のように明るくなったのだ。人工的にこの色彩を再現するのは難しい。すぐに写真を撮ったのだが、思っていた通り、写真の色はまったく陳腐で、どこにでもある夕方の空だ。この写真の平凡な色を見て、あらためてリアルな夕焼けの美しさにため息が出た。優しいきれいな色のグラデーションは、自分の目に焼き付けるしかない。今年に入ってこの夕焼けは3度目。なぜ今まで見たことがなかったのだろう。
液体歯磨 [2025/10/22,09:39:05]
朝は「ノニオ」というライオンが発売している、うがい薬というか、液体歯磨でゴボゴボやっている。これで口臭が消えたような気がして、気に入っている。色違いのボトルが何種類か売られていて、今使っているものはミント臭が強く、おまけに泡が出て、口に含んでいるとあふれ出る。説明書きには「泡が出る、出ない」の表記はないが、泡の出ないやつのほうが使い心地は断然いい。だから「泡の出ないやつ」と店員にいっても、けげんな顔をされるばかり。そこまでは商品知識がないのだ。もう何度もこの「泡がでる」のほうを選んで後悔。今は泡ボトルを手元に残しておいて、同じ失敗をしないよう注意しているのだが、このダメサンプルを店に持って行って、一瞬、これがダメなほうなのか、いいほうなのか、迷い出し、結局同じものを買ったら、泡が出た。こんな人生でいいのか自分。
ウォーキングシューズ [2025/10/21,09:38:29]
歩いていて違和感があるので、この夏、3足あった靴を思い切って「全とっかえ」した。まあもうボロボロで型崩れしていたのだが。メーカーは「ミズノ」に統一した。そこのスニーカー(1万円)、堅牢なウォーキングシューズ(1万5千円)、何十年もはいている定番の2万5千円のウォーキングシューズの、3足だ。散歩のたびにこれらを交互にはいていたのだが半月ぐらいすると、その履き心地に差が出てきた。軽くてはきやすいスニーカーは足裏に痛みを感じるようになり足が靴の中で動く。長い間歩くのに適してない。真ん中のウォーキングシューズはまあまあ問題はないのだが、やはり長く歩いていると足をしめつけてくる圧迫感が少しある。ひもで調節しても窮屈な感じが否めない。3足目の定番はもう何十年もはき続けていたものだ。形も大きさも、真ん中のものとそっくりだが、なぜか値段が1万円以上高い。その違いが歩いていて分かった。足への圧迫感がないのだ。ワインと同じように靴も結局は「値段」で決まるのか。なんだかがっかりするような、安心したような複雑な心境だ。でもその高いの靴だけを毎日履くわけにもいかない。ローテンションを組みながら履き替えていくつもり。靴って重要だよね。
30ページ [2025/10/20,09:29:18]
朝夕の冷え込みがきつい。また冬がやってきた。しんどいなあ、と思うのは年のせいか。若いころはむしろ冬は大歓迎、とまではいかないが、雪が降りだすと何となく精神が安定し、気持ちが落ち着いた。10月も後半に入る。このあたりから少しずつ忙しくなる予想だったが、まだその兆候はあらわれていない。すべての重要な決定やアイデアは「忙しさ」のなかで発現する、というのが人生経験からえた教訓だが、その忙しさは、なりをひそめたまま。波が来るまでは身を丸めて、読まれるあてもない原稿をコツコツ書いているしかない。夜の読書は奥田英朗『普天を我が手に』第2部はほぼ読了。3部が出る12月17日まで無聊をかこつことになる。「ほぼ読了」というのは、なんだか名残惜しくて、最後の30ページをわざと読み残しているからだ。なんともいじましい。

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