盗り
スイカ畑に行くと、スイカはゴロゴロ転がっていて、簡単に盗れそうな気がするけど、これがなかなかそうはいかなくて難しかった。畑には、たいてい3坪くらいの見張り小屋があって、その中ではオヤジが油断なく見張っていた。ボクらが、どんなにヌキ足サシ足シノビ足で、地べたを這って行っても、オヤジは必ず小屋から飛びだして来て、「コラー」と大声を張り上げながら、追ってきた。バラ線なんかにひっかかって、捕まってしまうのは、いつも幸坊で「このわらしどごのわらしだ」と、頭を一発なぐられたり、こづかれたりしていた。他の連中は、そんなことにはおかまいなしに、ドンドン逃げるのだった。スィカは獲物が大きいだけに、盗りがいがあって、成功した時の喜びもひとしおだった。
ボクたちの周りにある柿の木は、ほとんどが横手柿で渋柿だった。ボクたちは、甘柿のことを『ゴマ』と呼んでいた。甘柿をかしると橙色の実に、胡麻を散らしたように黒い点々が付いているからだった。見なれない柿をかじってみて、甘柿だったりすると「ゴマだ、ゴマだ」と叫ぶのだった。横手柿でもかしってみると、どうしたわけかゴマがあったりした。ボクたちが、完全にゴマだと目を付けていたのは、渡辺さんの裏の木だった。柿の木にしては異状にでっかくて、実はピンポン玉くらいだった。皮はまだ青くても、内は橙色でゴマがびっしりとついていた。
山へ行くと山栗がたくさんあって、それはどこの家のものでもなかったから、カコベ(竹籠)を待って捨いに行った。ところが時たま明らかに所有者がいる栗林に出会うことがあった。でも、ボクたちもそのまま、見逃しておくわけがなかった。石を投げつけたり、体でたたいたりしていると、そこのオヤジがやって来て「コラー」と、追っかけてくるのだった。栗はいがが割れて自然に落ちたのが一番良いのだけど、ボクたちはそんなことには頓着なく、まだ青い実を叩き落すのだった。このことがオヤジにはごしゃげる(頭にくる)のだった。でも、もっとオヤジがごしゃげるのは、昨晩は風が強かったから、今朝は実がたくさん落ちているだろうと、東林に行っても、ひとつも落ちていないことだった。ボクたちがもう、先回りして拾ってしまったのだ。
タガまわし
タガまわしのタガって、どこで見つけてきたのかな。丈夫な針金で作ったのもあったし、本格的に竹で編んだものもあった。桶のタガをそのまま外してきたのかな。
学校の帰り道に桶屋があって、別にくすねるつもりはなかったけど、黙ってタガを持ってきたら、桶屋のとうさんに見つかって、竹竿でこっぴどく頭をなぐられたことがあった。このとうさんには、二度なぐられたことがあった。一度は水鉄砲を作ろうとした時で、竹竿の切れっ端がたくさん落ちているから、捨ってくるとやっばりなぐられた。このとうさんとは、このごろ町で会うけども、中風になっているのか右足を引ぎずって、ヨタヨタ歩いている。昔の気短かな元気はどうしたのかなあ。
タガまわしで遊び回っている頃は、道路もまだ舗装されていなかった。どうしたわけか道路の中央部は盛り上っていて、面側に傾斜していた。埃りっぽく、小石はコロコロ転がっていて、下駄を履いて遊んでいると、歯と歯の問に石が快まったり、けつまづいて爪を割ったりした。ぽくの家の前は、高校生の通り道になっていて、朝通学時になると、すごかった。足駄の音がガラガラと響き渡り、二階の窓からのぞいていると、埃りが屋根の上までも舞い上った。ほとんどの高校生が足駄を履いていて、学生服のズボンのスソは埃りで真白になっていた。通学というよりも、あまり表情のない黒い詰襟の集団が、なにかに追い込まれるように黙々と、移動して行くという感じだった。
道路は野球場になり、野球にもこった。電信柱はベースになった。ボールは、テニスボールだったけど、それは物が悪くて、強く打つとバカッと音をたてて割れてしまう。パットはそこら辺にある板っこだった。野球場も、ベースも、バットも筒単に手に入ったけど、ボ−ルは割れてしまったり、失くしてしまうと、だれかが買ってもらうまで手に入らなかった。だから、ボールは貴重だった。どうしても手に入らない時は、ボロ布を糸でしばって、ボールを作った。ボクは運動は駄目な方だったけど、野球だけは好きだった。やっているうちに、調子に乗って砂利道の野球場で、ヘッドスライディングをしたことがあった。ボクは、鼻の頭と、肘の下と、膝が赤むくれにグシャグシャになってしまった。