|
とうほく廃線紀行(無明舎出版編)より |
東北の廃線 | 大館ー花岡 |
◆銅鉱石を運んで七十年 小坂鉄道花岡線は、大館(おおだて)市の花岡鉱山から産出する銅鉱石を小坂町の製錬所へ輸送する目的で敷設されたもので、大正五年に軽便鉄道として開業している。大館から花岡まで約五キロメートルの距離で、途中には松峰停留場があった。鉱山鉄道であったため主体は貨物輸送で、昭和五十八年に貨物営業を廃止すると、続いて旅客部門も昭和六十年に廃止となってしまった。 当時花岡線を走っていた車両はしばらくの間、そのまま小坂線で使用されたが、平成六年に旅客輸送が廃止され、貨物用のディーゼル機関車だけが現役で残って活躍している。また、旅客輸送を務めたディーゼルカーも小坂鉄道小坂駅の構内に保管されている。 |
|
◆大館駅からたどる廃線跡 JR大館駅より廃線跡をたどってみることにした。小坂鉄道の駅舎はJR大館駅を背にして右手奥の向かい側にあり、旅客用のプラットホームが残っている。軽便鉄道時代には、立派な跨線橋があって、小坂と花岡の方向別の配線となっていたため同時発車も見られたそうだ。この駅舎も、駅前再開発により取り壊される予定になっているので、見学は早めの方がよいだろう。線路は東へ進み、駅構内を抜けると、今となっては珍しい警手のいる御成町(おなりちょう)踏切を渡る。ここまでは小坂線の線路があるので廃線跡という感じはしないが、五〇メートルほど行くと線路の路盤がカーブで分岐しているように見える箇所があり、ここから廃線跡が始まっている。 廃線跡は、線路わきを並行して走る道路を渡り、住宅の間を築堤で登って行く。築堤の先には奥羽本線の線路があり、鉄橋は外されているものの、立体交差していたことが分かる。奥羽本線を渡ると再び築堤で地平のレベルまで下り、住宅地の間を走る、この間に廃線跡を転用した形跡はなく、「立入禁止・大館市」の看板があるだけだ。おそらく固定資産税の関係から市へ譲渡したものであろう。しばらく住宅地の中を走った後、廃線跡は並行して走る県道を横切って、さらに北の方へまっすぐに延びている。いつしか住宅地が途切れ、田んぼの中を走るようになっている。直線の先に最近開通した大館西道路と交差している地点があり、廃線跡にも立体交差する誇道橋が架けられているのが興味深い。 跨道橋を過ぎると下内川の土手に向かって築堤が続いている。築堤の上を歩いて土手の方へ登ってみることにした。廃線跡には枯れ草に埋もれて当時の赤茶けたバラストが残っている、土手にたどり着くと下内川に架かる鉄橋が姿を現した。レールが外された以外は当時の姿そのままである。 |
奥羽本線と交差していた地点 | 下内川に架かる鉄橋跡 | 松峰地区から大館方向を見る |
◆鉱業所のある終点へ 並行する県道に戻り、さらに北へ進むと西側に松峰(まつみね)の集落の入口が見えてくる。集落は元々花岡線の東側にあったのだが、地盤沈下により現在の位置に移転したのだそうだ。集落の入口付近には松峰(まつみね)停留場があったはずだが、線路跡を整地したため正確に停留所跡を特定することはできなかった。 松峰を抜けると、廃線跡わきに選鉱場の建物が残されている。現在は資材置き場として活用されているようだったが、見る者を圧倒するほどの大きな建物である。選鉱場の傍らには小高い丘があり一〇メートルほどのレールと車止めが残されていた。当時は引き込み線があり、鉱石の積み込みや、入れ替え作業が行われていたことを物語っている。また線路をはさんだ東側の大森山の中腹にも鉱山の建物が残されており、花岡線は鉱山(ヤマ)の鉄道であったのだと実感することができる。 廃線跡はその後、少し東に方向を変え、小さい川に架かる橋を渡り、団地のわきをかすめる辺りで再び北に方向を変えて花岡鉱業所の方へ延びて行く。鉱業所と花岡の中心部へ向かう交差点の付近には小さな鉄橋が残っていたが、その先からは整地されていたため線路跡は特定できなかった。 近くにガソリンスタンドがあったので花岡線のことを尋ねると、鉱業所へ向かう道の途中の坂の上に花岡駅があったのだと教えてくれた。早速花岡駅の跡へ行ってみると、駅の入口の階段が二カ所残っており、駅のあったことを実感することができた。駅前には鉱山病院や公園などがあって人々の集う場所であったそうだ。廃線から十五年近くになるが、当時とあまり変わっていない線路跡や鉱山跡は、殺伐とした心象で少々寂しい気がした。 (進藤 宏樹)
|
| |
|
松峰の引き込み線跡には、わずかにレールが残されていた | 花岡駅跡の現在の様子 |