このごろはあまり耳にしないが、その昔「お大尽(だいじん)」という言葉があった。金持ちのことではあるが、「金を使うべき時は使う」という意味合いがある。大富豪の屋敷跡である「齋理屋敷」を訪ねてみて、そんな言葉を思い出した。今は郷土資料館にもなっているこの旧家には、町のために金を散じ、町と共に繁栄した「お大尽」の、典型の一つが感じられたのだった。
福島県中通り地方の南端、西郷村から郡山、福島と流れ下る阿武隈川(あぶくまがわ)が、宮城県に入った所が丸森町だ。川は阿武隈山地の山肌を削り、広大な谷を作っている。かつては伊達家の重臣、佐々氏・三千石の居館があり、阿武隈川の渡し場でもあった。鉄道や自動車道路ができる前の大河は、舟による荷物輸送の大動脈だった。渡し場である丸森には市が立った。人と金が集まるこの場所で、「齋理」は財を成したのである。
「齋理」というのは、代々の当主が「理……」を名乗る「齋藤家」という意味の屋号だ。ただし、文化元年(一八〇四)に呉服屋を始めた初代と、二代目は「利助」。三代「理重郎」、四代「理十郎」と続き、五代目以降は「理助」を襲名した。
三代目の時に、明治を迎えたが、そのころには味噌・醤油の醸造・販売、質屋、金融業も営んでいた。幕末から明治にかけては、繭や生糸、米の相場が当たり、毎年一万両ずつ財産を増やしたという。明治以降は、この地方きっての大地主にも成長した。製糸工場を建設し、電力会社を設立し、小学校建設にも尽力した。「齋理」の歴史が、町の歴史でもあった。
敷地二千坪の「齋理屋敷」に立ち並ぶ蔵や各種の建物にしても、そこに展示されている収蔵品にしても、かつての栄華がひしひしと伝わって来る。
ことに、すべてを花崗岩で作った風呂場には、仰天させられた。脱衣所と浴室だけの小さな建物だが、床や壁ばかりか、天井まで丸森町特産の白みかげ石で覆われている。庭の石灯籠、通路の踏み石、母屋の台所の炉など、ほかにも石造りのものが目につく。
「齋理」ではそのために、石工を常雇いしていたというのだから、いかに財力があったかがわかるし、「みかげ石の産地」という地域性も見て取れるのが面白い。
「齋理」は、昭和六十二年に九十歳で亡くなった七代目で、直系が絶えた。その前年、七代目は、屋敷とすべての収蔵品を町に寄贈したのである。
その後が大変だったらしい。なにしろ土蔵が六棟もあり、寄贈した七代目自身も蔵の中に何が入っているかわからない状態だったからだ。
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山積みされた米俵。「齋理」
は近隣屈指の大地主だった
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