最上川は、堂々たる大河だ。山形県の内陸を北行し、大石田から新庄にかけて、大きく蛇行して西方へ向きを変える。有名な芭蕉の「さみだれを集めて早し最上川」の句は、大石田の高野平右衛門という人の家で詠まれた。いかにも「大河」を思わせる。だが、最初は「集めて涼し」という句だった。高野家は最上川の船宿で、すぐ裏手の最上川は流れも緩やかだった。その後、実際に舟に乗った実感が「早し」と改作させたのだ。
大石田は大きな川港で、上流から小舟で来た荷物は大型の舟に、逆に下流から上ってきた荷物は、船底の浅い舟に積み替える、貨物の集積地でもあった。江戸時代、どの川でも最も大事な積み荷は年貢米だった。が、最上川では、それと並んで重要な物資が、紅花だった。
芭蕉も、尾花沢から山寺・立石寺(りっしゃくじ)へ向かう途中で、「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」という句を残している。「まゆはき」は、漢字では「眉掃」。眉にかかった白粉を払うための、小さな刷毛のことだ。この花から作った紅が、女性をいろどることに思いをはせているのである。芭蕉が訪れたのは、新暦では七月中旬。ちょうど紅花が咲き誇っている季節だった。
花を摘み取るのは、朝霧があるうちに限るという。この最上川中流域で江戸時代、全国の紅花生産の半分を占めたのは、朝霧が立ちやすい地形、気象だったからだ。品質も上々だった。
紅花から染料を作るには、まず、農家から集めた花をすりつぶし、固く絞って十日ほど日陰で乾燥させる。これを「紅餅」という。重量は、生花の一割弱にまで減る。紅餅は、馬の背に揺られて大石田まで運ばれ、ここから舟で酒田へ、さらに日本海を渡って、最終的には京都へ運ばれた。布を紅で染めたり、口紅を作ったりするのは、京都で行われた。
河北町に「紅花資料館」があるのは、ここが江戸時代中期以降、山形に次ぐ紅花(紅餅)の集散地だったことに起因する。最盛期には、二十軒の荷主問屋があったという。
開館は、昭和五十九年。その二年後に資料の展示室として増設された「紅の館」に入って、まず目を見張るのは、何と言っても紅花染めの衣裳の美しさだろう。江戸時代から現代の染色家の作品まで、一堂に会しているのは圧巻だ。
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紅花から作られる赤と黄色の染料を重ね
て、いろいろな色合いの衣装が染められる
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