山形県

紅花資料館
東北おもしろ博物館(加藤貞仁著)より
 おもしろ博物館山形県河北町 
「紅花資料館」は、江戸時代の豪農、堀米家の屋敷を活用して昭和59年にオープンした。長屋門が入口
●開館時間=午前9時〜午後5時
        (11月〜2月は午後4時まで)
●休館日=年末年始
●入館料=一般400円、高校生150円、
       小・中学生70円
●交通=JR奥羽本線天童駅からタクシー25分


河北町谷地戊1143
問い合わせ=0237・73・3500
 最上川は、堂々たる大河だ。山形県の内陸を北行し、大石田から新庄にかけて、大きく蛇行して西方へ向きを変える。有名な芭蕉の「さみだれを集めて早し最上川」の句は、大石田の高野平右衛門という人の家で詠まれた。いかにも「大河」を思わせる。だが、最初は「集めて涼し」という句だった。高野家は最上川の船宿で、すぐ裏手の最上川は流れも緩やかだった。その後、実際に舟に乗った実感が「早し」と改作させたのだ。
 大石田は大きな川港で、上流から小舟で来た荷物は大型の舟に、逆に下流から上ってきた荷物は、船底の浅い舟に積み替える、貨物の集積地でもあった。江戸時代、どの川でも最も大事な積み荷は年貢米だった。が、最上川では、それと並んで重要な物資が、紅花だった。
 芭蕉も、尾花沢から山寺・立石寺(りっしゃくじ)へ向かう途中で、「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」という句を残している。「まゆはき」は、漢字では「眉掃」。眉にかかった白粉を払うための、小さな刷毛のことだ。この花から作った紅が、女性をいろどることに思いをはせているのである。芭蕉が訪れたのは、新暦では七月中旬。ちょうど紅花が咲き誇っている季節だった。
 花を摘み取るのは、朝霧があるうちに限るという。この最上川中流域で江戸時代、全国の紅花生産の半分を占めたのは、朝霧が立ちやすい地形、気象だったからだ。品質も上々だった。
 紅花から染料を作るには、まず、農家から集めた花をすりつぶし、固く絞って十日ほど日陰で乾燥させる。これを「紅餅」という。重量は、生花の一割弱にまで減る。紅餅は、馬の背に揺られて大石田まで運ばれ、ここから舟で酒田へ、さらに日本海を渡って、最終的には京都へ運ばれた。布を紅で染めたり、口紅を作ったりするのは、京都で行われた。
 河北町に「紅花資料館」があるのは、ここが江戸時代中期以降、山形に次ぐ紅花(紅餅)の集散地だったことに起因する。最盛期には、二十軒の荷主問屋があったという。
 開館は、昭和五十九年。その二年後に資料の展示室として増設された「紅の館」に入って、まず目を見張るのは、何と言っても紅花染めの衣裳の美しさだろう。江戸時代から現代の染色家の作品まで、一堂に会しているのは圧巻だ。
紅花から作られる赤と黄色の染料を重ね
て、いろいろな色合いの衣装が染められる
紅花染の装束で舞う「林家舞楽」のジオラマ
摘み取った紅花をすりつぶし、乾燥させた「紅餅」。これを京都へ運び、染料に加工した
戊辰戦争で紅の色があざやかな「紅綸子地刺繍御所小袖」 旧堀米家の武者蔵(農兵隊武器庫)に展示されている槍や甲冑。幕末に、幕府の命令で農兵隊が組織された 紅花から紅を作るまでが描かれた「紅花屏風」が圧巻の展示室
 紅花には、水に溶ける黄の色素と、水に溶けない赤の色素が含まれている。その二種類の色素を別々に取り出し、巧みに染め重ねて、多彩な色調に仕上げるのである。完成品の、自然がかもしだす色には、なんと豊かな深みがあるのだろう。
 「紅餅」は、ちょっとくすんだ色をしていた。それが、純粋な「紅」に加工され、女性の唇や頬をいろどる。貝殻に盛られた紅を、女性が薬指ですくって唇にさす。その姿を思うと、現代のスティック状の口紅より、はるかになまめかしい。
 ところで、一頭の馬が運ぶ荷の量を「一駄」という。紅餅の一駄は約百二十キログラムで、平均すると一駄五十両で取引されたという。現在なら五百万円ぐらいに相当する。布を染めるには、布と同じ重さの紅餅が要る。真紅の布にするには、何度も染め重ね、染めるたびに新しい紅餅を使ったというから、紅染めはとても高価だった。
 紅花は明治時代、舶来の安価な化学染料によって、ほとんど駆逐された。しかし、命脈が断たれたわけではない。紅花を愛する地元の人々の努力によって守られ、今、その真価が再認識されつつある。
 蛇足ながら、この資料館は、江戸時代の富豪、堀米家の屋敷跡だ。長屋門、武者蔵、内部の蔵座敷などが保存、公開されていて、当時の暮らしを知る資料館にもなっている。さらに蛇足を加えれば、世界的に活躍するバイオリニスト、堀米ゆず子さんのご先祖の家でもある。
化粧品としての紅を入れた「紅ちょこ」。これをすくい取った薬指は、「紅さし指」とも呼ばれる

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