1章 追跡ニュートリノ
重さを解き放つ
1998年6月に第18回ニュートリノ物理学・宇宙物理学国際会議が岐阜県高山市で開催され、ここで「ニュートリノに質量あり」の報告がされました。このニュースはまたたくまに世界を駆け巡り、日本の新聞のみならずニューヨークタイムズなど主要な一般紙の一面をかざりました。ノーベル賞級の発見とされています。
とはいいましても、ニュートリノに質量があったからといってわたしたちの生活になんら変化をもたらすようなもんではありません。これによってなにか便利なものができるとか、人類の意識が急に聡明になるなどということはまずないでしょう。むしろ多くの専門家には困惑をもって受け止められました。それはそれまでの主要な理論が「ニュートリノには質量はない」という予想で組み立てられてきたからです。この発見は彼らに大胆な進路変更を要求したことになるわけです。
既存理論に修正を迫るニュートリノ質量の発見は、東大宇宙線研究所が岐阜県神岡町の神岡鉱山地下1,000mに建設した観測施設の快挙です。これがスーパーカミオカンデです。
スーパーカミオカンデ概要図
質量とは簡単にいえば重さのことですが、宇宙をも対象とする物理学では重さで済ますには都合の悪いこともあります。平地で体重70kgの人も、厳密に計れば富士山頂では少し軽くなるし、逆に極地や低地では重くなります。無重力の宇宙では文字通り重さがなくなります。それでもこの人が固有の量を持っていることは間違いないことで、それを質量と呼びます。質量10gのボールも質量100gのボールも無重力では重さ0ですが、100gのボールを動かすには10gのボールを同様に動かすより10倍の力が必要となります。いうまでもなく質量は地上での重さとほぼ一致します。ある一定の条件を満たした地球上での重さが質量である、といったほうが正解かもしれません。
この質量というものはかってにどこかに消えたり減ったりするものではありません。化学反応で物質が変化して質量が増減したとしても、反応した物質の総和は変化していないのです。鉄が錆びていくとわずかながら重くなります。それは錆の元となった酸素の質量分が加わったからで、鉄と酸素の結合前後の質量の総和に変化はありません。このことを質量保存の法則といい、これは化学の大原則となっています。
しかしもしこれらの質量を究極的に厳密に測ることができたなら、質量は変化しているはずなのです。その理由はアインシュタインが発見した
E=mc2 (E:エネルギー、m:質量、c:光速)
によります。科学史上屈指の優美な方程式といわれるこの式も、物理に素人のものにはどうにもイメージがつきません。ニュートン力学ではエネルギー(仕事)は力×距離であらわされます。力は質量×加速度ですから、
エネルギー=質量×(距離/毎秒2)×距離=質量×距離2/毎秒2
E=mc2も同じになります。ただ光速は真空中においては秒速30万kmという巨大な数値ですので、mをかなり小さな数値にとってもEは大きなものとなります。これはほんのわずかな質量でも巨大なエネルギーを秘めていることを示しています。またcは定数ですから、エネルギーと質量は同等のものであることがわかります。質量とはエネルギーが封じ込められたものといって差し支えないのでしょう。当然、質量保存の法則が成り立つのならエネルギー保存の法則も成り立ちます。
さてここで問題になるのは、化学反応においては光を放ったり熱を出したりします。つまりエネルギーの放出があるのです。エネルギーは質量と同等ですから、質量の放出が起こったと言い替えることもできます。つまり、化学反応でエネルギーが放出されればその分の質量が減じているはずなのです。ただそれは質量としてはあまりに微々たるもので、質量として計測することが難しいだけの話です。エネルギーロスを勘定に入れていない化学反応は、厳密には質量を保存していないのです。ほんのわずかな質量でも莫大なエネルギーに等しいということは、わずかなエネルギーロスを質量の減少からもとめることの無理も意味しています。
物質には必ずそれと対を成す反物質があります。この2つが出会えば2つとも消えて無くなります。電子の質量は約10-27g(10のマイナス27乗g)です。1000個の電子を1兆倍しさらに1兆倍すると1gになります。この電子1個を陽電子(プラス電荷の電子)1個に近づけますと両者は消滅します。それでも質量は保存されなければいけませんから、10-27gに光速の2乗をかけ2倍したエネルギーが、一対のγ(ガンマ)線となって180度反対方向に飛び出していきます。γ線は高エネルギーの放射線です。これを利用したのが医療現場で使われているPET(陽電子放射断層法)です。ガンなどの目的部位に達したときに放出されるように仕組まれた陽電子が、標識として電子と出会い消滅する。その際発せられるγ線で目的部位を特定するわけです。幸運にも自然界には、陽電子などの反物質はまれにしか存在しません。なぜ反物質が極端に少ないのかは現代物理学の根本の問題でもあります。もし物質と反物質が同等にあったらそんなことに頭を悩ます必要はなかったでしょうが、そんなことを考える人も生命も地球もなかったことも確かでしょう。
人工的に質量をエネルギーに変換させようという試みは、原子核を操作することに向けられました。これまで人類は化学反応、つまり原子核の周りをまわる電子を利用してエネルギーを得ようとしてきました。しかし質量とエネルギーが同等のものであるなら、原子の質量のほぼ全てを担う原子核に目を向けない手はありません。
原子の中心部分である原子核は、中性子と陽子で構成されています(水素は陽子1個だけですが)。重い原子ほど多くの中性子と陽子を持ち、陽子の数がその原子を特定します。陽子が1個なら水素、2個ならヘリウム、79個なら金、92個ならウランとなります。すべての原子に割り振られている原子番号はこの陽子数と一致します。陽子や中性子に比べれば電子は非常に軽いので、陽子と中性子の数がその原子の質量を決めているといって差し支えありません。それで陽子と中性子の数を足したものを質量数といいます。大きさについていえば核は原子の1万分の1程度しかありません。東京ドームを原子にたとえれば、核はグラウンドにころがったビー玉ということになります。ほとんどスカスカということです。
質量数が238のウランは自然に鉛206に崩壊します。このときエネルギーとして放出されるのが放射線です。ウラン238は放射線を出し得る物質なので放射性物質=放射能と呼ばれるわけです。不安定な原子は余分なエネルギーを放出してより安定な原子になろうとします。ですから不安定な原子はすべて放射性物質といえます。それでは安定な原子とはなにかと問われれば、未来永劫にわたって安定であるといえる原子はないようです。それは全ての原子がもつ陽子すらいずれは崩壊することが予想されているからです。もっともその寿命は最近の予測では1033年(10億年の1兆倍の1兆倍)以上とのことで、人類レベルのスケールではありません。人類が核の持つエネルギーを利用するにはもっと頻繁な放射が必要になります。
鉄より重い核をもつ原子が崩壊するとエネルギーが放出されます。これが核分裂です。これを連鎖的に起せたら巨大なエネルギーが得られるわけです。ウランの同位元素ウラン235を高密度にして、連鎖的に核分裂させる方法が1945年に開発されました。それは原子爆弾、原爆として即座に広島に投下されました。同時に開発されたプルトニウム239を用いたものは3日後長崎に落とされます。これらは一瞬のうちに連鎖反応を起させ膨大なエネルギーを吐き出させているわけですが、もしこれを適当な速度に制御できれば発電として有効になります。1956年、イギリスで世界最初の原子力発電所がつくられます。
これらとは逆に鉄より軽い原子では、核が融合することでエネルギーを得ることができます。実際太陽が燃えているのは、その中心で水素が核融合を起しヘリウムに変わっていくからです。同じことを地上でできるなら人類は第二の太陽を手に入れることになります。重水素(水素の核に中性子1個が加わったもの)1gの核融合エネルギーは大型タンクローリー10台分の石油エネルギーに匹敵するそうです。重水素を高温高圧で閉じ込めればいいだけのはなしですが、残念ながらそののぞみの状態にするには原爆の使用しかありません。1952年マーシャル諸島のエニウェトク環礁でその試験がおこなわれ、広島型原爆の700倍のエネルギーが放出されました。水素爆弾、水爆の誕生です。しかしこの小さい太陽がもたらしたものは災厄と萎縮だけです。誕生から半世紀経ても、いまだにこのじゃじゃ馬を飼いならすことはできません。核融合炉は高レベルの放射性廃棄物が出ない利点を持つが、もっとも実現性の高いD(重水素)−T(トリチウム=3重水素)反応でも強力な中性子が大量に放射され、どんな炉壁もボロボロにしてしまいます。核融合発電はまだまだ遠い未来です。
写真等提供:東京大学宇宙線研究所
参考資料:「先端技術と物理学」大槻義彦(NHKブックス)
Newton 1990年7月号(教育社)
日経サイエンス 1999年10月号(日経新聞)
「元素の王国」P・アトキンス(草思社)
http://www.icrr.u-tokyo.ac.jp/(東大宇宙線研究所HP)
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