んだんだ劇場2003年8月号 vol.56
No1  はじめましてナオコです。

放浪癖
 そういわれてみると確かに小さい頃からすでに放浪の気があったのかもしれない。
 幼稚園の頃や小学校低学年のころは「お話」を作って遊ぶのが好きだったのだが、その話はいつも「小鳥の冒険」とか「タケシ君の冒険」などの冒険物語で、とにかくどこか遠くに行ってみたかった。
 高校受験のときには自分の学力もかえりみずに、
「東京の高校に行きたい!(私の出身は水戸である)」
と言い出し、 
「じゃあ、宝くじが当たったらね。」
と親に言われて買った宝くじがあっさり外れてしまったので泣く泣くあきらめた。
 大学入学にともない、とうとう親元を離れて秋田で一人暮らしをすることになったのだが、思えばこれが私の冒険、いや放浪の始まりであった。秋田での学生時代は二度引越しをし、大学卒業後そろそろ十年になろうかという現在までに合わせて十二回引越しをすることになろうとはまさか思ってもみなかった。
 小さい頃作った話のひとつに「百回引越しをすれば」というのがある。一匹のバッタが友達のバッタに「百回引越しをすれば幸せになれるんだよ、知っていたかい?」といわれたので、さっそく草の穂の上をピョンピョンとんでインチキの引越しを百回しました。ところが、それはインチキの引越しだったのでそのバッタは貧乏になってしまいましたが、でも幸せになりました、というなんだかわけの分からないお話なのだが、まさに私の人生を暗示していたようで笑ってしまう。
 大学卒業後、横浜、千葉、東京と転々とし、1997年からは海外での放浪が始まった。それから六年が経ち、今私は中国の北京に住んでいる。放浪の途中で出会った夫と、放浪中に生まれた娘と一緒である。
 放浪の身ではあるが、一応仕事をしている。今北京でやっているのは子供の予防接種の仕事である。予防接種の仕事とはいっても、私が実際に子供に注射をしているのではなく、中国の予防接種関係の仕事のお手伝い、例えば接種をする医療従事者へのトレーニングとか、子供の親たちへの宣伝活動などをやっている。 
 夫はタイ人、その中でも北タイに住むカレン族という少数民族の出身である。私の放浪に巻き込まれてタイを離れて以来、ずっと主夫をしてくれている。料理好きで、というより自分が作った料理が一番おいしいと信じているふしがあり、他人が作った料理に百パーセント満足するということがない人なので、彼のために私は料理権を放棄した、ということになっている。そのかわり掃除洗濯は大嫌いなので、それは私の担当である。
 彼は山の中の小さな村で生まれ育ったので、結婚後ロンドンに一年間住むことになったときには結構心配したのだが、すぐに順応してしまったのでびっくりした。しまいにはさっさとバイト先を見つけてきて観光客でにぎわうマーケットで服を売っていた。その後中国に住むことになったわけだが、ここでもあっさりと順応し、今では私の中国語通訳までしてくれる。
 娘は今年二歳になった。タイのチェンマイで生まれて、二ヶ月になったときに日本へ行き私の実家の水戸で一ヶ月過ごした後、北京にやってきた。子供好きの中国の人たちにかわいがってもらい毎日楽しく過ごしている。ズボンとTシャツが好きで髪の毛も短いのでいつも男の子と間違えられるのだが、これは私に似てしまったのかもしれない。
 子連れで放浪していていいのだろうか、とさすがに時々考えるのだが、多分あともう少し、放浪が続くことになりそうである。

海外での保健医療援助
 高校生の頃、テレビでアフリカの飢餓についての番組を見た。がりがりに痩せた子供の目や口の周りにハエがたかり、その子は悲しそうに泣いていた。その時に将来はこの子たちを助ける仕事をしよう、と思った。感受性の豊かな、それでいて単純な十代の頃である。それには医者になるしかないと即決し、運良く秋田大学に入れてもらえることになった。
 大学を卒業し、数年間日本の病院で働いた後、国境なき医師団というNGOに応募し、タイの難民キャンプに派遣された。それは今から六年前のことで、あれからあっという間に時間が経ってしまった。
 最初の頃は、
「私が困っている人たちを助けるんだ。」
と気負っていた私であったが、実際には困っているはずの人たちから教えてもらったことの方がずっと多く、また医者としての自分にできることなどほとんどなにもないことにも気づいた数年間であった。
 実は、医者として働き始めてからは毎日の仕事がおもしろく、途上国で医療援助をするという夢はすっかり忘れていたのだ。外科の仕事が自分に合っているような気がし、このまま外科医になろうかと考えていた。そんな私に夢を思い出させてくれたのは一人の患者さんであった。彼女は日本で働いていたタイ人で、タイに帰国する途中、成田空港で倒れて私が当時働いていた救急病院に運ばれてきた。重度の呼吸困難の状態だった彼女はエイズによるカリニ肺炎と診断され、集中治療室に運ばれて人工呼吸器がつけられた。
 知り合いも誰もいないところでひとりぼっちで入院し、どんなに心細かったことだろう。彼女はタイのチェンライという、エイズの影響をひどく受けた地域の出身であった。彼女の様子は学生時代に訪れたタイの貧しい農村の様子を私に思い出させた。幸いなことに彼女の病状は好転し無事帰国することができたのだが、彼女との出会いが私に学生の頃からの夢を思い出させてくれることにもなったのだ。
 その頃の私は研修医という身分で比較的自由に進路を選ぶことができる立場であった。でも少なくとも半年以内に進路、つまりどこの大学のどの医局に入るか決めなければならなかった。一度医局に入ったら最後、自由に海外でボランティアなどすることはほとんど不可能に近い。
「ボランティアとして途上国の医療援助に参加できるのは今しかない。それでやっぱり外科医になりたいと思ったら日本に戻ってきて医局に入ろう。」
と決めてNGOに応募し、タイに派遣されることになったわけである。
 そして結局外科医になる夢はあきらめてしまった。途上国での仕事は確かに大変なことや辛いこともあったのだが、それを差し引いても十分に余るほど楽しかったのである。こんなことを言うと不謹慎と怒られてしまいそうだが。
 今はできればこの仕事をずーっとしていきたいと思っている。個人としての無力さはよくわかっているのだが、自分が好きでやっている仕事がほんの少しでも困っている人たちの助けになったら言うことないなあ、と思いながら。 

中国人は子供好き
 北京に来て間もない頃、三ヶ月の娘を連れてよく外出した。道を歩いていると娘を見つけた人たちがすぐに寄ってきていろいろ話しかけたり、いきなり抱っこしたりする。
ある時は前から歩いてきた若い女性が突然、
「キャー!」
といいながら駆け寄ってくるので何が起こったのかとびっくりしたが、どうやら娘をみつけて興奮して寄ってきたらしい。私たちと娘に向かっていろいろと話しているのだが、中国に来たばかりで中国語もあまり分からないので呆然としていたら、彼女の友人らしき人たちも寄ってきて、その中の英語が話せる一人が、
「彼女はこの赤ちゃんがとっても可愛いと言っているんだよ。」
と教えてくれた。
 食事をしにレストランに行くと、スタッフの女の子たちが寄ってきてあっという間に娘を連れ去ってしまう。私と夫が食事を終えて探しに行くと、娘は抱っこされたりしながらご機嫌で遊んでもらっている。
 バスに乗るともう乗った瞬間に席を譲られ、隣の人はあれこれと娘について質問してくる。いやはやなんとも子育てしやすい環境である。


冬の中国の子供 覆面をして毛布もかぶって。

 でも冬になるとちょっと大変である。中国では体を冷やすことは大変よくないこととされており、子供はまるで雪だるまのように着膨れる。日本では基本的に子供には親よりも一枚少なく着せるように、と言われるが、うちもそれに習って薄着主義である。薄着した娘を連れて外にでかけると、すぐに寄ってきたおばちゃんたちに怒られてしまう。
「あんたたち何やってんの!赤ん坊にこんな薄着させて、病気になったらどうすんの!」
ひどいときには道路の向こう側にいるおばちゃんからも怒声が飛んでくる。中国の女性はすごく迫力があり、おばちゃんに至ってはもう何というか、
「ごめんなさい、私たちが間違っていました。」
と謝るしかない。しまいには娘をつれて外出するのをあきらめ、どうしてもというときは大きな肩掛けで娘をくるみ、外から薄着をさせているのがわからないようにした。
 とはいっても、他人の子供のことも気にかけてくれる中国人。ありがたいことである。


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