No3 もう寒い、人生を考えよう
もう寒い、人生を考えよう
北京の季節は突然変わる。昨日は夏だったのに今日はもう秋だ。一日の平均気温はいきなり10度も下がり、私はあっという間に風邪をひいてしまった。でも私は寒い季節も結構好きだ。なんだか身も心もしゃっきり、頭も冴える様な気がするからだ。そういえば、私が突然結婚すると言ったときに母親の言った一言がこうだった。
「あんた、暑いタイでとうとう脳みそとろけちゃったんじゃないの?」
確かにこれは一理ある。タイに着き、空港を出てモワーッとする熱気に包まれた瞬間に、あー、もうだめー、脳みそとろけるー、、、となんともいい気持ちになってしまい、明日の悩みや心配事も溶けた脳みそと一緒にどこかへ消えてしまうのだ。
でも時々はとろけた脳みそを固めなおして人生を真剣に考える必要もあるので、寒い季節というのは私にとってやっぱり必要で、私の体もきっとそれを認識しているのであろう。
現在の仕事の任期は今年の12月の上旬まで。現在来年以降の行く先を検討中である。今まではあまり深く考えずに次の行く先を決めてきたが、今回は難航している。それはなぜか。理由は簡単。何をやりたいのか、どこに進んだらいいのか、自分でもはっきりわからないからだ。漠然とわかっていることは、子供と関わって生きていきたいということである。
私は子供好きだ。大人になってからは子供と触れ合う機会なんてほとんどなかったが、子供を生んでからというものは必然的にその機会が増えたので大変うれしい。アパート内の公園で小さい子供たちと遊ぶのが現在の私の楽しみのひとつである。私は今の自分の生き方に結構満足してはいるのだが、時々「やっぱり幼稚園の先生になるべきだったかなあ」と思ってしまうのも事実だ。私の人生初めての将来の夢は幼稚園の先生になることだったのだが、実はそれが本当に進むべき道だったのかもしれない。
それならばと小児科医を夢みたこともあった。でも白衣を着て痛いことばかりする私はどちらかというと子供の敵で、(小さい頃に、'言うこと聞かない子はお医者さんに注射してもらうよ!'と叱られたことはありませんか?)私はとても悲しかったのだ。
そんなわけでずっと子供から縁遠くなっていたのだが、自分の出産をきっかけにやっぱり子供と関わる仕事をしたい、と思うようになった。それと同時に自分の適性についても改めて考えた。私はどちらかというと人と話すのが好きで、体を動かすのも好きである。苦手なのは机やコンピューターに向かって書いたり、考えたりすること。それゆえに医者として病院で働いた毎日は本当に楽しかった。患者さんといろいろ世間話をするのも楽しかったし、病院のスタッフと冗談を言い合いながら仕事をするのも楽しかった。難民キャンプで働いていたときも、話すのが仕事のようなところもあり充実した毎日だった。でも残念ながら現在の仕事の9割はコンピューターに向かってする仕事なのである。ここらでそろそろ軌道修正をする必要がありそうだ。
そんなわけで今、子供、開発途上国、人と話す、体を動かす、をキーワードに進路を検討中である。もう少し寒くなればいい案が浮かぶかなあ。
雨が好きな理由
昨日は一日雨だった。今年は本当に雨が多い。でも私は雨が好きなので結構うれしい。
なぜ私は雨が好きなのか。それは体育とテニスのせいである。
小学校の頃、私は体育の時間が大嫌いだった。かけっこや鉄棒が苦手だったからである。でも体育館でのマット運動や跳び箱は結構好きだったので、体育の授業のある日は、雨が降って体育館での授業になるよう、いつもお祈りしていた。高校に入学しテニス部に入った。新入生は毎日4キロのランニングと筋トレでしごかれた。でも雨が降ると、4キロのランニングが校舎の中の階段ランニング(途中で教室に隠れてサボること可)に変更となるのでやっぱり雨が待ち遠しかった。そして大学。懲りずにテニス部に入った。これがなんと高校時代よりも厳しい部で毎日4時半から日没まで練習させられた。唯一練習が中止となるのは雨の日だけだった。午後になって雲行きがあやしくなると、
「雨ふれ、雨ふれ!」
と必死に雨乞いし、運良く雨が降ってくるといそいそと買い物や映画に出かけたものであった。
これらの体験が私をすっかり雨好きにしてしまったのであろう。今は部活も体育の授業もないけれど、雨が降るとなんとなくうれしくなってしまう。
雨が好きなんて自分は変わっていると思っていたら、やっぱり雨が好きという人にタイの難民キャンプの中で出会った。
それはキャンプ内の病院のスタッフの一人、Dさんだった。彼女自身難民であり、トレーニングを受けてスタッフとして働いているのだ。
ある日の午後、葉っぱで葺いた病院の屋根に容赦なくたたきつける土砂降りの雨の音を聞きながら、
「私は雨が大好き。雨は私にパワーをくれるからね。」
と彼女は言った。
「どうして雨がパワーをくれるの?」
と私が聞くと、彼女は、
「だって雨が降っていれば停戦状態になるから、ビルマ軍が襲ってくることはないもの。」
と言った。
その難民キャンプにはビルマ国内の内戦を逃れてタイ側に逃げてきた少数民族が住んでいた。ビルマの軍事政権の軍隊と自治権を求める少数民族の軍隊がいつも国境地帯で衝突を繰り返しており、情勢はいつも不安定である。タイ側にいくつかある難民キャンプは国境からある程度離れてはいるものの、キャンプによってはわずか10キロしか離れていないところもあった。そういうキャンプはよくビルマ軍の標的になって焼き討ちにあったりするのである。
タイには乾季と雨季という2つの季節があるのだが、雨季には本当に毎日雨が降り、国境のジャングルで戦闘を繰り返す軍隊も、さすがに雨季には停戦せざるをえない。だからDさんは安心して過ごせる雨季が好きだ、と言ったのだ。
しかしその年の国境情勢は特に不安定で、雨季が終わって乾季がやってくると、毎日のようにビルマ軍の襲撃の噂を聞くようになった。防空壕を掘り、救急薬品を準備し、襲撃に備えた。Dさんはもちろん、誰もが不安な顔をしていた。毎日夕方にはキャンプを後にして町に戻る私たちを見送る彼らの顔には、一緒に連れて行ってほしい、と書いてあった。キャンプの外に出ることは許されていない彼ら難民の不安はどんなであったのだろうか。私たちはいつも申し訳ないような気持ちで町に戻った。
そしてある晩とうとう恐れていたことが起こってしまった。
私たちボランティアスタッフはキャンプから約1時間程度のところにある町に一軒の家を借りて共同生活をしていた。私は2階の部屋で寝ていたのだが、ある晩、
「Naoko!」
と誰かが自分を呼ぶ声に、無意識のうちに、
「Yes?」
返事をし、その自分の声に驚いて目が覚めた。シーンと静まり返っているので、もう一度、
「Yes?」
と返事をしてみても、寝室のドアの向こうからは何の返事もない。時計を見ると夜中の2時。なんだか怖くなって、蚊帳の中でじっと座っていたら、階下の電話がなった。隣の部屋で寝ていたオーストラリア人の医者のKが起きていって電話をとったようだ。その後あわてて階段を上ってきたKが、
「ナオコ、大変!キャンプが焼き討ちにあったって!」
と叫んだ。足が震えてしまった。慌てて車に乗ってキャンプに駆けつけたが、途中のタイの国境警備警察のチェックポイントで足止めされた。現在タイの軍隊がキャンプ内の安全確認をしているため中には入れないとのこと。キャンプの方角は真っ赤な炎に包まれている。
しばらくするとタイ軍がけが人をどんどん運んできたので、簡単な応急処置をして病院に搬送した。その夜はそれで明けてしまった。
次の日、厳戒が解かれたので救急薬品などを持ってキャンプに入った。あんなにごみごみとしていたキャンプが今日は真っ黒な平原だ。乾季でカラカラに乾いた家々(竹と葉っぱだけを使って建てられている)はきれいに燃えてしまい、唯一コンクリートを使って建てられていた学校だけが焼け残っている。病院のあった所に行ってみると、燃え残った顕微鏡の一部分だけがころんと転がっている。私たちの車に気づいて病院のスタッフたちがぽつぽつと集まってくる。とりあえずみんな無事だったようだ。恐れていたことが起こったとはいえ、とりあえずもう恐れる必要はない、という気持ちからか、何だかみんなさっぱりした顔をしている。兵がやってきて家々に火を放ったときの様子や逃げたときのことなどを面白おかしく話している人もいた。その後数ヶ月は病院の再開、再建で慌しい毎日で、いろいろ考える時間もなくあっという間に過ぎてしまった。その後、そのキャンプは国境から60キロ以上離れたところに移され、その後襲撃を恐れる必要はなくなった。
あれから何年もたった今も、雨が降ると時々Dさんのことを思い出す。雨が好きな理由は彼女と私で全然違う。でも雨が好きな者同士、また葉っぱで葺いた屋根に落ちる柔らかい雨音を一緒に聞きたいなあと思う。
初めての保育園
北京市内にある日本人保育園で二、三歳の小さい子供を対象に一週間の体験コースが開かれるというので娘を参加させてみることにした。でも参加申し込みの電話をした後に急に不安になってきた。現在二才三ヶ月になる娘はいままで保育園というものに一度もいったことがない。いきなり知らない人ばかりのところに一人で行って大丈夫なのだろうか?普通保育園というものは一時間くらいずつから少しずつ時間を延長していく慣らし保育というものがあるらしいが、この体験コースはいきなり最初から三時間である。不安になったので、お隣さんでやはり二才の娘さんをこのコースに行かせたお母さんに聞いてみると、
「泣いたけど仕方ないから置いてきたよ。最初はすごく泣いたけど、三日目には泣かなくなったよ。」
とのこと。そうか、そんなものなのなあ。
さて前日。明日持っていくものを準備する。着替え、タオル、水筒。あー、なんか緊張してきた。娘はすやすやと眠っている。そういえば持ち物に名前を書くんだった、と急に思い出しあわてて油性ペンを探したが、あいにく赤の太いペンしかない。中国人は赤が好きだし、まあいいか、ということにしてタオルやなんかに名前を書く。赤の太文字はなんか異様だがしょうがない。
ここ数日、
「保育園ってお友達がたくさんいて、歌を歌ったり、お絵かきしたりする楽しいとこなんだけど、行ってみる?」
とか、
「いいなー。まなは保育園に行けて。大人は行けないんだよね。残念だなあ」
などとちょっと心の準備(親の?)をさせていたのだが、果たして効き目はあるのか?
いよいよその日がやってきた。外に遊びに行くんだと張り切った娘は行きの車のなかでもウキウキしている。
保育園について名札をつけて、
「じゃあね。少ししたら迎えに来るからね。先生とお友達と遊んで待っててね。」
というとはっと表情の変わった娘。すぐに泣き出す。先生に抱っこされて、
「ママ―。ママ―。」
と泣き叫ぶ娘を置いて教室を出る。夫は教室の外で待っていたのだが、
「大丈夫?大丈夫?」
と心配そうな顔をしている。
「大丈夫。しょうがないよ。」
と言ってずんずん階段を下りる私にちょっと遅れてついてくる夫はなんだか顔を真っ赤にしてちょっと泣きそう、今にも教室に戻って娘を連れ帰りそうだ。
「しょうがないから行くよ。」
と言って、さらに階段を下りる。保育園はビルの四階にあるのだ。下まで降りてもまだ娘の泣き叫ぶ声が聞こえる。あー、大丈夫なのだろうか。強気で出てきたが、やっぱり不安になってきた。娘は怒るとひきつけを起こしそうな勢いで泣くのである。もしものことがあったらどうしよう?でも泣いて死んじゃうことはないよね、となんだか異様に非科学的に心配になってくる。
とりあえず十二時のお迎えの時間まで近くで時間を潰す。胸が重くて、気が晴れない。なんだか時間がとてもゆっくり過ぎていく。
やっと時間になり、また保育園までいく。とりあえず1階には泣き声は聞こえてこない。そうか、泣き止んだのね。よかった。
ところが四階に着くと部屋の中から、
「ママ、来るよ、ママ来るよ。」
と叫んでいる娘の声が。おお、なんと三時間も泣き続けたのか。終園時間まであと十分。中からは先生が本を読んでいるらしい声が聞こえてくるが、それも間歇的に発生する娘の、
「ママ来るよ、ママ来るよー。」
にかき消されがちである。ああ。あと五分、あと三分と、ただ待つことしかできない私と夫である。
「先生さようなら、皆さんさようなら。」
という声とともに、がらがらと扉があき子供たちが出てきた。娘は先生に抱っこされてでてきたが、意外に目は腫れていない。涙が出ていたのはそんなに長時間ではなかったらしい。私のところに寄ってきてケロッとして、
「靴はく。」
という。
「ずーっと泣いていたの?」
と聞くと、
「ずっと泣いてた。」
「おやつは食べたの?」
「食べなかったの。」
先生に聞くと、抱っこも嫌がり、ずーっと泣いていたらしい。
「あのー、こんなに泣く子っているんでしょうか?」
と聞くと、
「いますよー。泣かない子の方が、あとになって問題が出ることもあるんですよ。」
との温かいお言葉。
一応娘に、
「明日も来る?」
と聞いてみた。絶対いやー!と言うのかと思いきや、
「来る。」
と意外な返事。へっ?あんなに泣いたのに、でも楽しかったの?帰りにはさっそくお友達と手をつないで帰ってきた。帰りの車のなかでもやけに多弁になっている。よくわからないけど、なんだか気に入ったらしい。うーん、子供ってわからない。明日は泣かずにいけるだろうか?
でも私たちは神経を使ってもうぐったりである。あー、親のほうが体もたないよー。なんだか情けない親である。 |