んだんだ劇場2003年11月号 vol.59
No20
あとがき

 宇宙探索の最前線に立つ研究者がまずやるべきことは、実に泥くさく単純な作業です。山中に巨大な穴を掘る、円盤に精密に穴を穿ちケーブルを繋ぐ、人里離れた地に観測器を並べる、ひたすら揺らさない方策を考える、それ以前にお金をつくるため奔走しなければならない。そうまでして得たい目当ての信号は、ノイズの中に容易に隠れてしまう。わらに落ちた針を探すように、それを一個一個拾い上げていくのが研究者の日々です。
 1年に1個の収穫でもあればいい。信号は宇宙を写したモザイク画の一片のそのまたかけらです。信号が集まればモザイク画の一片が見えてきます。こうした微小の断片で、あらかた剥げ落ちたモザイク画をジグソーパズルのように埋めていけば、真の宇宙像が浮かび上がってくるかも知れません。
 しかし中には、十数年かけて1個も得られない信号もあります。こうなると、それは人間の時間スケールには無いのか、あるいは端からそんなものは存在しないのか、答えようがありません。無いことを証明するのは、在ることを証明するより、格段に難しい。
 このように宇宙のモザイク画には、欠落を埋められない箇所がいくつもあります。これだと思ったものを貼り付けても、パズルの最後の一片がはま嵌らないように、しっくりこない。どこかで過ちを犯している可能性もあります。モザイク画自体、どれだけの大きさがあるのか分かりません。無限の広がりを持つのかも知れませんし、永遠に完成を見ないのかも知れません。そもそも、完成させたとして、それが本当に真の宇宙を表していると言えるのか分かりません。

 量子力学の創始者の一人ですが、コペンハーゲン解釈には懐疑的だったシュレディンガーは、生命体内で起る事象も物理学と化学の言葉で説明できると考えていました。彼の著した「生命とは何か」で、今(1944年)はまだ無理だが将来もそうだとは言えない、としています。この考えは分子生物学を切り開き、その後のDNA二重らせん構造の発見に寄与しています。これは、生命現象を化学反応に還元することであり、突然変異や進化は量子力学や統計力学が決することになります。生命も機械的であるということです。
 シュレディンガーは、細胞核の物質構造(遺伝子)が何世代にもわたって形質を伝え、その結果たる人間がそのことを理解しようとしていることを驚異としています。ただ、人間が遺伝の驚異を完全に解明することは可能だろうが、それをする人間が遺伝子の相互作用の結果である驚異は、人知の範囲を超えるものだろうとしています。遺伝子と個体の関係は、素粒子と宇宙の関係のようなものです。ならば、さすがのシュレディンガーも、宇宙の驚異は素粒子を解明しても不可知と考えていたのかも知れません。
 遺伝子も分子に還元できますから、もっと拡張して、分子もしくは原子と生命体の関係もそうだと言えるでしょう。あるいは、個体と生態系も同じ関係でしょう。たしかに、分子を並べてやれば生命は誕生するのでしょうか、時間かけてやれば必ず進化は起るのでしょうか。仮に一本の木の歴史を記述できたとして、森の生態系を説明できることになるのでしょうか。
 根元をおおっている何気ないコケがその木には不可欠であり、枝先に宿る鳥が森の命運を握っているかも知れません。下草から落ち葉、そこに棲む獣や虫、降り注ぐ太陽の光や雨、あらゆるものがあって森が構成されています。あらいざらい考慮したつもりでも、重要な何かを取りこぼしているかも知れない。森という生態系を明らかにするには、その全てを把握する必要があります。とても不可能に近い。
 一本一本の木を理解しても森を理解することにはなりません。ものごとを還元して突き詰めていくことには、限界があると思われます。生命体を分子に還元して理解することは生命体を理解する有力な手段ですが、それだけで分子と生命体の間を埋められないのは間違いありません。生命体と生態系の間も同じです。
 生命現象はそもそも、他の物理現象と統計的観点を異にします。エントロピーの法則(時間とともに混沌の度合いは増大する)に反しているのです。シュレディンガーはこれを、エントロピーとは逆向きの負エントロピーを導入して説明しています。生物体は負エントロピーを食して生きているのです。しかしこれは、不可逆であるはずの時間に可逆性を認めることになりかねないし、生命の維持(エントロピーを低く保つ)を説明できても生命の誕生(組織化)の説明は難しいでしょう。

 物質とは何か、力とは何か、と細分化して突き詰めていくと、そこには始原の宇宙が見えてくるはずです。しかし、現在の宇宙を説明するには、避けて通れない別の問題が浮上します。時間とは何か。この自然界の根本問題をあえて避けてきたのは、任が重過ぎますし、まだまだ時間の概念は哲学の領分に思えるからです。
 矢のように一方にしか進まない時間とはいったい何であるか、ソクラテスの頃から考えられてきたことです。私たちは割れた皿は元に戻らないことを知っています。時間が対称でないことが感覚的に分かっているのです。それなのに、ニュートン力学はもちろんのこと相対論や量子力学(シュレディンガー方程式)ですら、法則は時間に対し可逆であり機械的に定まる決定論です。過去にも未来にも同じく作用します。
 非常に奇妙なことですが、局所的には間違いのないことです。しかし我々が生きている現実は非局所です。非局所では話が異なります。大気中の分子が衝突を止めることはありません。非局所においての相互作用は持続的で、そこに不可逆性が生まれ、時間は一方向にしか進みません。
 1960年代末、イリヤ・プリゴジンは「散逸構造論」で、開放系における揺らぎが自己組織化を起こすことを明らかにします。エントロピーに逆行するかすかな揺らぎが、外部からのエネルギーで増大して生命を組織するのです。時間の経過に再現性はなく、偶発であり不可逆です。
 プリゴジンは1977年にノーベル化学賞を受賞しますが、熱力学が広範な現象に適用されるように、散逸構造はなにも生命体だけに当てはめられるものではありません。木を並べただけでは森にならないし、コンピュータを何台繋げようと意識は生まれないでしょう。しかし外部からの刺激があれば、混沌がかき乱され複雑性(混沌の逆行)が増大し、森や意識が誕生する可能性が出てくるのです。
 宇宙をひとつの閉ざされた系と考えると、外部からのエネルギーに相当するのは何かという問題が残りますが、熱平衡から大きく離れた状態が秩序を生む源泉と思われます。非熱平衡の宇宙においてのみ生命は可能なのです。量子的揺らぎの爆発から生まれた宇宙は非常に均質で熱平衡状態にあると言えますが、重力の面から考えると、均一な物質分布は最もエントロピーの低い状態です。
 重力熱力学的には大きな非熱平衡状態だったこの宇宙が自己組織化するのは、必然とは言えなくとも、ある程度当然のこととなります。そこで生じる物理法則は、必然ではなく偶然の産物ということになります。星が生まれ、爆発し、元素がばら撒かれ、我々の体を構成し、やがて意識を持つに至ったことも、不可思議なことではなく、道理にかなったあり得るシナリオの一つなのかも知れません。

 プリゴジンは、この世は、完全に決定的であるわけでも全くの偶発事であるわけでもなく、確率が支配しているとしています。決定論ではありませんが実在論です。それでは、宇宙や生命が統計的に決定的であるかなり機械的なものだとしても、かかる多様で複雑な仕組みを、モザイクの破片を拾い上げるような還元主義で本当に理解できるのでしょうか。
 大統一理論は1個の粒子に全てを還元するものですが、近年は、まず素粒子ありき、ではなく場があっての素粒子と考えています。個々の構成物より、場という器を先に考えていると言えます。それでも、最前線の現場に立つ研究者が目を凝らして拾い上げる信号は、特異な天体を指すものであり、特異な現象を示すものです。一般人が目を見張るような派手なものではありませんが、そこからなんとか啓示を得て、宇宙の構造を把握し素粒子の振る舞いを理解しようとしています。一個の天体、一個の現象に答を求める還元的な行為です。
 当然ですが、特異な天体や現象だけでこの世が構成されているわけではありません。研究者がノイズとして切り捨てたものに、真の啓示が秘められているかも知れません。所詮シグナル・ノイズは人間の恣意的判断、そんな区別は止めてすべての情報を検証すべきなのでしょうが、土台無理な話です。たとえできたとして、それで全体像が浮かび上がるかは別問題です。たかが数千年の有史ですら、万巻の書をもって明らかにしようとすればするほど、全体像はかえって不鮮明になります。どこまで還元できるかも問題です。白い絵の具と赤い絵の具を混ぜたらピンクになるのは間違いないですが、ピンクの絵が赤い絵の具と白い絵の具で描かれているとは限りません。
 還元主義にはたしかに限界があるのでしょう。しかし還元主義は、自然を探る有力な唯一と言っていい方法です。私たちは経験的に、例外が法則の存在を明らかにすることを知っています。メンデルは例外を観測することで遺伝の法則を見つけたし、ニュートン力学に従わない水星の運行が一般相対論を実証しました。
 科学は自然との対話です。宇宙線は人類の問いかけに対する自然からの返答です。かくして研究者は、井戸の底から狭い空を見上げ、広大な宇宙を推し測るのです。

 専門家でないものが現代物理の最前線に足を踏み入れるのは、無謀もいいところです。ろくに泳げないものが、ドーバー海峡横断に挑戦するようなものです。何度も情報の海に溺れそうになりました。これはきっと現場にいる研究者でも同じなのでしょう。私などと比較にならない広い海で、なんとか真理につながる有益な情報を得て、この世を理解しようと努めています。それもかなりの費用と労力が必要です。
 それでいて、やっと手にする成果は、一片のモザイクというよりも点に近いものです。トップクォークの発見も超新星からのニュートリノも、それだけで自然の本質を明らかにしてくれるわけではありません。幾重にも重なった発見とそれをつなぎ合わせる理論ができて、初めて一片のモザイクとなり、自然の一端が見えてきます。
 政府の総合科学技術会議は、2004年度科学技術予算概算要求の格付けで、新規ニュートリノ振動実験の計画前倒しを最低ランクに評価しました。高速増殖炉「もんじゅ」や国際熱核融合実験炉(ITER)が最高ランクにあるのは、その必要性や実現性ははなはだ疑問ですが、利益をもたらす可能性があるからでしょう。一方で、ニュートリノの質量やCP非対称が明らかになったからといって、私たちに物質的影響を与えないことはまず間違いありません。先進国の責務として、国威発揚として、未来への投資として、あるいは自然の一端を覗く対価としてその必要性を主張しても、税金を使う以上、目に見える果実が優遇されるのでしょう。
 しかし人類がもっとも必要としているのは、そんな自己満足でも物質的利益でもありません。人類を破滅から救う予見であり、無知による不信や偏見を乗り越える相互理解です。人々の間に築かれる壁を本当に取り払えるのは、あるいは、この先に控えた人類の危機を真摯に覚れるのは、政治でも軍事でも宗教でもありません。人類共通の言語であり、自然の声を聞ける合理的で謙虚な精神です。それは科学そのものです。
 たしかに科学は核の恐怖を生み出しました。しかし、その使用がもたらす「核の冬」の愚かしいほどの無益を明かにしたのも科学です。科学は人種差別にも恣意的に誤用されましたが、差別の根拠を打ち砕いたのも科学です。目に見える果実の先にこそ、科学の真価はあります。

 末尾ながら、ご登場願った先生方はもちろんのこと、見ず知らずの私の原稿を添削してくれた上助言を頂いた埼玉大学の井上直也教授、国立天文台から宇宙線研に異動されたばかりなのに時間を割いてくださった安田直樹先生、一対一でスーパーカミオカンデを案内してくれた宇宙線研の伊藤好孝助教授、博士論文執筆中にも拘らずアドバイスしてくれた東大大学院の土屋兼一君、こころよく資料の利用を許可してくださったAstrophysical Research ConsortiumのMichael L. Evans氏、神岡宇宙素粒子研究施設の森田靖子氏、そして参考にした諸々のインターネットサイトの関係者に感謝します。また、宇宙線研の広報担当であったばかりに、福島正己先生をたいへん煩わせました。感謝するとともに、ここにお詫び申し上げます。
間違い、勘違い、見当違いにお気づきになりましたら是非ご一報願います。  塩野梅也


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