んだんだ劇場2004年1月号 vol.61
No10
さて次は?
 ベースキャンプでの遅寝、遅起きはすこぶる気分がいい。朝九時頃までゆっくり寝ていた。目が覚め、ぼんやりとテントの外を眺めていると、ドクターがモーニングコーヒーを差し出してくれた。なんという贅沢だろう。久しぶりに快適でさわやかな朝だった。
 やわらかく暖かな朝の陽を浴びながらまわりの山々を眺めわたすのも、登山前とはまたちがった気分である。金田君は岩手医大麻酔科の学生だが、医者にするのが惜しいくらい旨い料理を作る。今朝も小麦粉を練ってなにやら作ろうとしている。出来たのはすいとんだった。午前一一時、朝昼かねた食事の美味しさに、ぼくは山盛り三杯もたいらげ、食欲首位の座を占めた。この旺盛な食い意地が好調のしるしなのだろう。
 平沢隊長と荘司副隊長の二人が北側氷河の奥へ次なるピークの偵察に出かけた。そこには、アルプスのツールロンドの氷壁を彷彿させる美しいピークがある。きっといい成果を持って帰ってくるだろう。
 午後、シャイパリ村から父子が食料を売りにキャンプまで上がってきた。聞けば二日がかりで来たのだという。鶏卵にサヤエンドウ、あんずなど、前に村でぼくたちが欲しがったものをちゃんと憶えている。そして最大の目玉は一頭の羊だった。生肉が欲しいだろうということも心得ている。問題は値段である。アフガンでは決まって最初に高くふっかけてくるから言い値で買ってはいけない。もっとも欲しい羊は二〇〇アフ(約一〇〇〇円)
だという。いつもニコニコ通訳のアブドラ君を介して値切り交渉を始める。結局、現金七〇アフ(三五〇円)に登山隊で不要になったポリエチレンのガソリンタンクとバケツ一個を付けて交渉成立、こうした文明の道具というものが村ではひじょうに貴重品なのだ。父子は満足のようで羊の解体を引き受けてくれた。考えてみると羊もかわいそうなものだ。殺される運命を知ってか知らずか、二日もワイルドな山道をただただ歩かされてきたのだ。せめて金田君、麻酔でもかけてあげたらよかったのに。捌かれた羊肉の塊は外科医ではないドクターと金田君、アブドラ君の三人で細分された。ぼくはさっそくニンニクのみじん切りにとりかかった。
 奇しくも今日は羊の命日であり、荘司副隊長の誕生日であった。ありがたくいただく生贄料理たっぷりのバースディーパーティは盛大かつおごそかに行なわれた。

初登頂、命名の儀
 夕食後のティータイムの時、さて初登頂したマラウ谷の最高峰には名前がない。未踏峰を最初に登った者に与えられる特権が山の命名である。五八七〇メートルのまろやかな雪の峰はごつごつ岩の多いほかのどれよりも姿が際立って美しい。最初はマラウ谷の最高峰だから、コー・イ・マラウ(マラウの山)でいいのではという意見が優勢だったが、それではあまりに直裁すぎはしないか、もっとロマンがあってもいいのではなどと意見はさまざまだった。
 通訳のアブドラ君もこの命名談義を聞いていた。彼に、「ところで、アフガンでは雪のことを何というの?」と聞いたら、「バルフ」だという。「それじゃ、コー・イ・バルフでいいのでは?」とぼくは提案した。登山行動に入ってから、ぼくたちは便宜上、いつもこの雪のかぶった大きな山を「雪峰」と呼んで区別していた。ほかにこの名で呼べるような雪の目立つ山はなかったから必然的に雪峰となっていたのである。
 こうして最高峰の山名は「コー・イ・バルフ」に決定した。ちなみに最初、最高峰だと思ってアタックをかけ、初登した山は「コー・イ・マラウ」とすることにした。ヒマラヤ大山脈の西端に位置するヒンズークシュ山脈の五八〇〇メートル峰は、高さこそ誇れるものではないが、中央アジアの一角、地図の空白部である以上、そこに自分たちの足跡を残すことができるのは望外の幸せというものであろう。ネパールヒマラヤが全面的に登山禁止になっている今の状況があればこそ、ヒンズークシュがひときわ光り輝くのである。帰ったらさっそく関係機関に報告しようということになった。

マッターホルンもどき
 ベースキャンプの横に天を突くように高くそびえる鋭い岩鋒がマッターホルンのようだとは前にも書いたが、このピークもやはり気になる一峰だ。高さは五七〇〇メートルくらいであろうか。この岩山に北側氷河から攻めてみようと、休養日の翌八月三日、荘司さんと二人で向かった。ルートについては前日、平沢、荘司パーティーが偵察済みだ。
 ベースキャンプから北側の大氷河を登り、五三〇〇メートルのモレーンの上にアタックキャンプを設営し、そこに一泊した。
 翌朝はゆっくりの出発、八時だった。キャンプの北に二つの険しい岩山が双耳峰のようにそびえているが、その中間コルに突き上げる雪のルンゼにルートをとった。急傾斜のルンゼに入るまでは氷河の端を進んで行く。雪面はまるで鍾乳洞の石筍のような一メートルほどの氷柱が林立している。これは、ニーベ・ぺニテントスノーと呼ばれ、その合間を縫いながら登るのである。この氷筍群、アイゼンは快調に効くものの、やはり息切れが激しくて疲れる。急峻なルンゼの入口に達すると、両側の岩山から落石が絶え間なく音を立てながら落下している。ヤバそうでちょっといやだなと思ったけど、二人ともやめようとは言わない。
 これから登るルンゼは、どうもその落石の通路となっているようだ。高さにして一五〇メートルほど登ったところで一休みしていると、突然、上方の岩場でガラガラッと落石が発生した。大小の岩石がぼくらのいるルンゼに集中攻撃をかけてきた。逃げるひまも場所もない。一瞬、身の危険を感じた二人は、とっさに身体を小さくしザックで頭を防護する態勢をとった。三秒、五秒、一〇秒……、落石の雨は二人の横の雪面を滑り落ちてゆく。ガラガラの音が雪に消される分だけ不気味だ。そのうち、落石の一個がぼくのザックにドスンと鈍い音をたてて激突した。幸いなことにザックのおかげで事なきを得たが、もしザックなしにヘルメットに命中していたら、たぶんそれは砕け、頭も生命も危うかっただろう。身の毛がよだつような恐怖だった。
 この一回の集中攻撃で落石は一応おさまった。もう少し登ると少しは安全そうに見えたので、気をとりなおしてルンゼが喉のように細くなるところまでがんばって登った。そこから上は氷の斜面を避け、左側の岩場をよじ登った。グレード二級くらいの易しい岩登りだったが、浮石が多くて神経が疲れた。岩場を約二〇〇メートルばかり登って馬の背のようなコルに達した。時間は一〇時四五分、ここまで二時間半以上かかっている。高度計を見ると五六八〇メートルを指している。
 二人は登りたいルートを見定めたが、目指すマッターホルンのピークに向かうには両側すっぽり切れ落ちたナイフリッジで絶望的な感じだ。これは無理だと直感した二人は、まずはコルに落ち着いて軽食をとることにした。ビスケットとレーズンに甘いミルクがとても旨かった。さてどうしようかと思案の末、せっかくここまで登ったのだからコルの反対側のピークにチャレンジしてみようということになった。
 少し先のテラスでアンザイレンしたあと、岩稜に岩登りを開始した。荘司さんがトップをつとめてくれた。岩場にじりじりと高度を稼いでゆく。岩場の難度は二級から三級程度の容易な登りだった。途中、堅雪の混じった岩稜を一〇ピッチ、約一時間半登って目指す絶頂に達した。ふり返ると、おどろくことに最初狙ったマッターホルンのピークよりこちらがはるかに高いではないか。怪我の功名というのだろうか、この幸運を喜び合った。
 頂上到着午後一時ジャスト、ベースキャンプに無線で登頂のコールを送った。
「ベース、ベース、こちらアタック隊、ただいま登頂しました。前のピークが登れず、後方の山に登りました。高度五七九〇、予定のピークよりこちらが高いです。二人も好調です。コー・イ・モンデイがすぐ近くに見えます。ところでベースの羊の肉はちゃんと残っているでしょうね、どうぞ」
「ハイ、こちらベース、どうもごくろうさん、おめでとう。高度はそんなにあったんですか。ぽかぽかして気持がいいって? 了解しました。頂上にはどれぐらい居ますか? どうぞ」。
 結局、あまりの気分よさに、山頂に二人は一時間二〇分も居てしまった。

 今から三年前の一九六七年一〇月半ば、荘司さんの弟、和夫君(当時法政大学)が八ヶ岳で遭難した。それは阿弥陀岳北稜を単独で登攀し、転落死するという事故であった。行き先が不明だったため捜索は一週間にも及んだ。途中から捜索隊に加わったぼくは、畠山さんと二人で阿弥陀岳に登り、そこからはるか下方に赤いヤッケを着た和夫君の遺体を発見していた。兄貴と同じように山岳部で山登りに熱中した彼は、八ヶ岳で帰らぬ人となってしまった。
 攻略した未踏峰の頂上で、荘司さんはそのことに思いを馳せ、涙ぐみながら一心にケルンを積み上げている。元気だったら、今のぼくらと同じように未踏の高峰に挑んでいたかも知れない。その無念の気持を代弁するケルンであった。ぼくも一緒にその石積みをした。
 荘司さんは、自力で勝ち取ったこの頂きに和夫君の名を刻みたいという。ぼくは賛成だった。コー・イ・カズオでも良かったのだけど、さすがに荘司さんには遠慮があったようだ。他のメンバーに認められるかどうか……、認めるに決まっているが、しかしここはカズの名をもじって「コー・イ・カズン(五七九〇m)」ぐらいにしたほうがいいのではと話がまとまった。

 午後二時二〇分、頂上をあとにし、一時間のスタカットピッチでコルまで下った。ここでアイゼンを装着し、堅い雪のルンゼを落石に気をつけながら一気に駆け下った。アタックキャンプまでも一時間だった。ちょうどキャンプには平沢隊長とアブドラ君を除く大里、畠山、金田の三人が上がってきたところだった。
 三人用の狭いテントに五人が入り、アタックキャンプの夜は四方山話で盛り上がった。酒もなければご馳走もないさびしい空腹宴会だった。一ヶ月以上も飢えに飢えている我が隊員たち、ここは何を言ってもどうせ食えないのだから、今いちばん食いたいものは何かという話題に意見が飛び交った。寿司にラーメン、生そば、鍋物、天ぷら、カツどんなどなど、いずれもよだれを誘発するものばかり、しまいには熱いごはんに梅干、シャケ(ボタッコというやつ)でもいいやという始末だった。こんな無駄な話を延々夜中の一一時までつづけたのである。
 テントをさらさらと打つ雨のような音がしたので外を覗くと雪だった。八月の雪、朝はどうなるのだろう。寒さもしだいに厳しくなってきた。今ごろ、日本はまだ暑さのさかりだろうな、と食べ物豊富な日本に思いを走らせて眠った。

未踏峰、終楽章
 マラウ谷の未踏峰群の中に、ヨーロッパアルプス最大の氷壁、ツールロンドのような大氷壁をたたえた山がある。それは、昨日から滞在している北側氷河上部の五八〇〇メートル峰にかかっている。荘司、畠山の二兄がこの山にチャレンジしてみたいという。ぼくはあまり気乗りがしなかったので遠慮した。どう見ても完登できそうな感じがしない。しかし、彼らは行ってみるという。ぼくはサポート役にまわった。
 お昼を過ぎて、ドクターと金田君がベースキャンプに下りて行った。氷壁に向かった二人は、真っ白なシーツに蚤が二匹へばりついたように小さな黒点となってうごめいている。アイスハーケンやアイスメスなどを駆使して氷壁と格闘しているのだろうが、見ていると動作は遅々としてはかどらない。二人はルートの三分の一を残して下降を始めたようだ。
 アタックを途中で断念した二人は、ぼくが待つモレーンの大きな岩場までまもなく下りて来た。壁は相当手強く、体力もつづかないほどで、ビバークしようにもその場所すらない状況なのであきらめてきたという。ベースに下る前に、乾いた岩場の上で温かいスープなどで軽く腹ごしらえした。そして午後の陽を背に受けながら大氷河を下ってベースに帰った。
 ベースに帰ってみると、今日のお昼過ぎ、このマラウ谷にスコットランド登山隊のパーティーが入って来たという。ぼくらが少し遅ければ、マラウ谷の未踏峰群は彼らに先を越されたかも知れない。聞くところによると、彼らはキャラバン途中の渡河の際、大事な登攀用具を馬ごと川に流されてしまったらしい。そこで日本隊がこの谷に入っていることを村で聞き、さらにがっかりはしたが、登山意欲までは失っておらず、登山の終わりかけているぼくらの隊に登攀用具を譲ってほしいとの要請をし、明日またここに上がって来るという。彼らはもう少し下のカラン湖のほとりにベースキャンプを設営したようだ。未踏の谷もいよいよ国際的になってきた。
 
 翌日、スコットランド隊が登攀用具の受取りに来た。平沢隊長と装備担当の畠山が対応、ロックハンマーやカラビナ、各種アイスハーケン、ロックハーケンなど〆て四万七千円相当の譲り渡し、一ドル三六〇円で一三〇ドルを受け取った。無償で譲りたいところなのだが、こちらも究極の貧乏隊である。用具を手にしたR・アザン・ノース隊長がお礼を言って彼らのキャンプへ帰って行った。 
 登山活動がすべて終わったこの日の夜、ベースキャンプで盛大な打ち上げパーティーが催された。何よりの楽しみはご馳走である。今まで我慢に我慢を重ねてきた飢餓っこが喜ぶのはいうまでもない。パーティーのメニューは、「マンダナバシ!(ごくろうさん)」の発声のもと、とっておきのビールで乾杯のあと、うに、鯛でんぶ、しいたけの巻寿司に、なめこと豆腐の味噌汁、にんにくたっぷりの羊の焼肉、キャベツと玉ねぎの野菜炒め、しいたけと人参の煮付け、奈良漬のフルコース。下界ではまったくたいした料理でもないが、ここではすごいご馳走なのだ。デザートはプリンと桃の缶詰、しまいにコーヒーが出て、今夜の見世物として畠山書店提供の花火が打ち上げられた。桃の缶詰は、切り身が全員に均等に分けることができず不公平となり、険悪な空気がただよった。取り分の少ない者は、「チクショウ、日本に帰ったら、缶詰を一〇個も並べて食ってやる!」と息巻く始末だ。こうしてベースキャンプの最後の夜も更けた。
 
ベースキャンプ撤収
 早朝五時四五分、「起きろーっ!」と大声で叫ぶ畠山隊員の声がキャンプに響いた。下山のため頼んでおいたシャイパリ村のポーターたちが上がって来たというのだ。一斉に飛び起きたみんなも早かったが、金田君の朝飯づくりも迅速だった。昨夜の豪華食事とは天地の差がある粗食だった。それでも、これで帰国に向かっての旅が始まると思えば、みんなの顔は晴れ晴れとしている。
 六時五〇分、十三日日間、慣れ親しんだ登山基地のキャンプを出発。雪と岩の山々をふり返りながらマラウ谷を下った。四番めの氷河湖であるカラン湖の上端にスコットランド隊のキャンプがあった。そこで一時間ほど交歓のティーパーティーがあり、英国製の美味しい紅茶とビスケットをご馳走になった。
 スコットランド隊は四人で、R・アザン・ノース(ドクター)を隊長に、エンジニアのウィルフ・J・A・ターヴァー、大学生のイアン・ロー、セールスマンのビル・M・A・スプロールと紹介された。みな二〇代、三〇代の若いパーティである。記念写真を撮ったあと、名残惜しく別れて山を去ることにした。
 モレーンのマラウ谷は次のミヨネー湖、カラン湖、マエダ湖を順々に見ながら下る。午後四時、人里であるシャイパリ村に着いた。例によってまた見物の輪ができ、その中でキャンプを張った。ぼくたちは明日から帰路のキャラバンに入ることになる。
 あとは荷物を少しでも減らしたい。そこで、不要になった物品はできるだけここシャイパリで処分しようと特設バザールを開いた。お客がぞくぞく集まってきた。村人に支払ったポーター賃金をいくらかでも取り返そうとするあさましい日本商人。しかし、彼らは何でも欲しがる。たとえ汚れた下着でもビニール袋でも何でもいい。捨てようとした紙屑まで手に入れようとする。
 ぼくはあまり履き心地のよくないキャラバンシューズを売りに出した。それはケペル村長がかわいい息子のために買ってくれた。サイズはぶかぶかだが、子供は大喜びでそれを履いて走り回っている。結局、夕方の一時間にも満たないバザール商売は一〇〇〇アフ(約五〇〇〇円)の収入を得た。これは七、八人のポーターを一日使える金額である。


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