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馬とロバの尻を追う ムンジャン川のほとりのシャイパリ村から帰路のキャラバンを始める八月八日の朝もからりと晴れ上がった。 登攀用具はベースキャンプでスコットランド隊に譲り、不要な装備もあらかた昨日のシャイパリ村特設バザールで処分した。その上食料も心もとないほどの量しか残っていないから、身軽なキャラバン隊の旅立ちだ。しかし、それでも三頭の馬と一頭のロバを雇わなければならないだけの隊荷がある。 ポーターとしてあまりまじめに働かなかった村人ではあったが、いざ別れの時が来るとさすがに感傷的な気分になる。バクシーシ(神のお恵み)とタシャコール(ありがとう)だけくり返していた村長をはじめ、村人たちの見送りを受けながらムンジャン谷の草原に出発した。昨日まではぼくの所有物だったキャラバンシューズを履いた村長の息子が、ぶかぶか音を立てながらしばらくキャラバンの後をついて来た。 次のウィロという村を通過し、デー・アンビ谷の合流点にさしかかる。この谷の奥にもまたマラウ谷と似たような山群がある。ムンジャン山群と呼ばれるこれらの山域は、少し北のコー・イ・バンダカー山群と並んで初登頂競争の対象となる時期が割りと早かった。とくにドイツ隊の活躍はめざましく、一九六〇年代、ほぼ毎年のように複数隊が軒並みいろいろな高峰に初登頂の足跡を残している。 ムンジャン川の両岸に切り立つ五千メートル級の山並を眺めながら、気分は貴族、見かけは乞食同然の徒歩旅行は、往路の大隊列と違って馬足を追いかける小規模なものとなった。しかし、三人の馬方たちはすでに親しくなっていた男たちなので楽しいキャラバンとなりそうだ。 ぼくはキャラバンシューズを処分してしまったので、重い登山靴を履いているがさすがに歩きにくい。キャンプで使っていたゴムぞうりにしようかなと思ったが、この先、シャーラン峠というちょっとした山越えがあるので我慢することにした。 河畔から離れた山の中腹にごつごつした岩山の道がつづいていた。そこは樹木も草もない寒々しい景色で、山賊でも出そうなところだ。事実、このムンジャン界隈では盗賊が出没することで警戒するようにと注意も受けていた。(翌一九七一年、日本からの拓殖大学パーティが同じムンジャン山群でベースキャンプを襲われて一五〇万円相当の金品を強奪されている) こんな危ない場所に怖気づいたか、ぼくはなぜか唐突に便意をもよおした。馬も人も待ってくれるほどヒマではない。仕方なく大きな岩陰にしゃがんだのだが、キャラバン隊はとっとと先に行ってしまって影もなくなった。「クソッ!」と思いながら尻を拭いて駆け足で後を追った。今日はこのシャーラン峠を下りたロバーツという村まで泊り場はないということだった。峠は登りも下りもつらく、ぼくらは「マンダナバシ峠(ごくろうさん峠)」と呼んだ。 日も暮れかける頃、緑の木々と小麦畑が広がるルボーツの村に着いた。もはや乏しいものしかない夕食はなんの楽しみも期待もない。今日も豪華な食事のむなしい夢を見て眠るしかないのか。みんなの気持の中には確実に里心が芽生えている。 アルカダリ地方 ところで、この近くのケロンというところに、バダクシャン州の郡役所があってそこに郡長がいるという。ほんらいなら、ぼくらが登山行動に入る前、そこまで行って登山の届出をしなければならなかっただが、不確実な登山期間のことを考え、「帰りに寄ってもいいのではないか」と無視していた経緯がある。ちょっと危ない行動だったのだが結果はオーライだった。 昨日、ぼくらが出向くまでもなく、白い馬に乗ってルボーツのキャンプに現われた偉そうな郡長に、 「手続きは明日にでも」というと、 「それはそれとして、わしは近ごろ腰が痛くてつらい」 と暗に薬を要求する気配だったので、さっそく大里ドクターが試供品に貰っていたアリナミン錠剤をプレゼントした。 翌日、ムンジャン川の対岸にあるケロン村の川べりに立つアルカダリの郡役所に全員で行った。アルカダリというのは、ここムンジャン川流域の地方名で、正しくは「アルカダリ・ケロン・オ・ムンジャン」というらしい。 ぼくたちの不安をよそに、郡長はすこぶるご機嫌な様子で迎えてくれた。旅行許可の手続きはもはや形式的なもので、ふかふかの絨毯敷きの部屋に招じ入れてお茶まで振舞ってくれた。 「いやぁ、あの薬はよかった。わしは四人の妻を持っているのだが、近ごろ腰が痛くて十分なサービスができずに困っていたのだ」と、自慢と喜びの笑顔を見せた。とにかく郡長がご機嫌だったから安心した。ドクターはこの絶倫郡長の腰に、魔法の鼻薬を施したために波及効果はてきめんだった。 ここケロンの北東、サキ谷の奥には六千m前後の氷雪を頂いた山々がひしめき合っており、羊が草を食む川べりからそのバンダカー山群が美しく眺められた。 郡役所があるケロン村は中部ヒンズー・クシュ山脈の最高峰であるコーイ・バンダカー(コーイ・バンダコール、六八四三m)を始め、ムンジャン山群などへの入口として各国の登山隊が必ず通過する重要なチェックポイントとなっている。 最高峰であるコーイ・バンダカーについていうと、登山の歴史は新しく、一九六〇年にドイツ隊が初登頂するまでは無名峰で、標高もはっきりしなかったらしい。しかし、それ以後は毎年のようにさまざまなルートからの登頂がつづいている。非常に人気の高い山群なのだ。六千メートル級の山で十数隊のパーティに、東面の難しいバリエーションルートを含めて二十登も数えられるほど登頂される山も珍しい。 コクチャ川街道 ケロンの先でムンジャン川は西からのアンジュマン川と合流する。この二つの流れを合わせた川は北に屈曲しコクチャ川と名を変える。しかし、その合流点付近に橋はないのでアンジュマン川の右岸に沿ってイスカズールまで回り道をして橋を渡らねばならなかった。石と柳の木材で造られた粗末な橋でも、氷河から流れてくる激流を越えるにはありがたいものだった。 アンジュマン峠を越えパンジシール谷からカブールに至る道は、通称アンジュマン街道と呼ばれ、この道も古くから利用されてきたところである。 ぼくらのキャラバンはこのコクチャ川と共にしばらく下ることになる。コクチャ川はしだいに流れが成長し、北でワハン川(オクサス川)と出合い、アムダリア(アム河)となってカスピ海東方のアラル海に注ぐ。中央アジアに多い内陸河川のアムダリアを境として北はソ連領となり、アフガニスタン北部の砂漠地帯やウズベク共和国の平原を潤している。 狭隘の谷間に激流を見せるコクチャ川の右岸には険しく乾いた岩稜の山々が連なっている。これはバンダカー山群の西に連なるイブラー山群である。キャラバン隊が進むコクチャ川左岸の道に植物らしいものはほとんど見えず、目にする風景はすべて乾いた茶色の世界である。高い断崖に囲まれたコクチャ渓谷は、曲がりくねりながらしだいにその谷幅を広めてゆく。 プルシァンブルーの空の下に、谷の下流から緑の樹木が茂るパルワラの村が近づいてきた。しばらくぶりに出会うオアシスである。村の高台にある大きなあんずの木陰でゆっくり休憩をとることにした。例によってたちまち村人たちが集まり始めた。老人から若者、子供までだが、そのほとんどは男だけで、見知らぬ旅人に女性が姿を見せることはまずない。 現地語でザルダルーというあんずの果実を求めた。村人の中に賢そうな青年がいた。ターバンを巻き現地衣装をまとっているが、彼はカブールの大学に行っているという村きってのエリートらしい。エリート君はぼくらの後輩のS君によく似ていたので、「おお、S、おまえこんなところで何してるんだ」との冗談に彼はキョトンとしていたが、にこにこと笑顔を見せた。 さて、ここで聞くには、この先サリサング鉱山の手前の橋が流されて今は普請中で渡れないかも知れないという。山で出会ったスコットランド隊が装備を馬ごと流されたという危険な場所はここだったのだろうか。ただ、そうかといってここに留まるわけにはいかないので村を後にした。 広い川床を見下ろす丘の上にあるロジュワルシェーという村を過ぎて二時間ほど行くと懸案の橋である。その橋の少し手前でスコップや斧を担いだ数人の村人に出会った。聞けばたった今、橋を架けてきたところだという。まさかぼくたちが渡り初めまでするとは思わなかったので、この上ない幸運を喜び合った。 橋の対岸はサリサング鉱山である。ここではラピスラズリの原石を採掘しており、多くの人たちが働いている。ラピスラズリは東洋でいう瑠璃で、その色合いも鮮やかな青、つまり瑠璃色かラピスブルー、プルシァンブルーといわれるものである。 紀元前三千年頃、メソポタミアで世界最古の都市文明を作ったシュメール人が各地と交易をしたいろいろな物資の中に、ここバダクシャン産のラピスラズリも含まれていたという。それほどこの山中の宝石は珍重されたものであったらしい。 宝石の原石採掘場であるため警備は厳しく四〇人の守備隊もいるとか。鉱夫がどれだけいるか分からないが、出入りには厳しいボディチェックもあるという。 鉱山の傍らの河岸段丘の一角にキャンプを張った。うれしいことに、ここで鉱山長から食事の招待を受けた。チャイやパラオという羊肉と乾しブドウ入り炒めご飯のご馳走は小躍りするほど美味かった。昨日のアルカダリのお茶接待といい、このような歓待はこれまでの記録を読んでもあまりないことのようにも思われる。 沈黙の行進 八月一一日、サリサング鉱山を発ち、今日もコクチャ川の流れと共にただ歩くだけ。ロバに乗ってもいいというので畠山隊員が乗ったが、どうもロバの方が小さく見えて気の毒だ。ぼくはロバのすぐ後ろを歩いていた。乗客の重さにロバは苦しみ、時々、切なっ屁と糞を吐き出す。その臭いたるやひどいものであった。 ルボーツバラ、ルボーツパヨンという小さな村を過ぎ、左岸にダライ・オシノゴン谷を見て、スピジュメ村に向かうあたりで道は車道のような広い道となった。この街道のちょっと大きな村であるハザライサートまではどうしても今日中には行けそうもないので途中の道端にキャンプすることにした。 めぼしい食料はもうほとんどない。乾燥ワカメの味噌汁でなんとか腹をおさめるが、こんなひもじい思いは耐えがたい。空腹をかかえながら乾いた大地を一日三〇キロも歩く苦行のせいかみんなガリガリに痩せてきた。しかし、今はバザールに食料が並ぶ町まで辛抱するしかない。それが明日なのか明後日なのか予想はつかない。 翌一二日もまた沈黙の行進である。ハザライサート(ハザラ人が住む所の意か)の村に近づくにつれて羊の放牧や小麦畑など耕作地が目につくようになった。また一人で隊から遅れて歩いていると、前方の道の真ん中に犬が一匹寝そべっているのが見えた。羊飼いの番犬らしいが、近づくとそれはシェパードのような、というより大きな狼のようなやつだった。犬の脇を静かに通り抜けようとした。犬は顔だけぼくの方に向けてウーと底唸りしている。ヤバイと思った。「旅のものだ、勘弁してくれよ」と祈りながら通過したと思った。しかし、犬はのそりと立ち上がった。そして低く唸りながらぼくの後をついてくる。走って逃げ出すのは危険だ。犬との距離を測り静かに歩きながら万一に備え、そっと石を二、三個拾った。その動作が犬の神経を逆なでしたのだろうか、ぼくに向かって猛然と吠え始めた。しかし、オレにはこれがあるぞという両手のイシ表示が通じたのか、犬との距離はしだいに離れたが、恐怖の威嚇はしばらくつづいた。山賊も怖いけどアフガンの犬もそれに劣らない。まったく肝を冷やす場面であった。 後で知ったことだが、一九五四年にアフガン各地を旅した京都大学の岩村忍教授が著した本、『アフガニスタン紀行』の中でも、マザリシャリフの近くで教授は大きな犬におそわれ、石を拾って犬をおどかしたとあった。人も歩けば犬にあたるということか。 本隊に追いつき、ハザライサートの村に入った。町とまではいかないが、まとまった村であった。ここには学校もあるようで、その帰りとおぼしき子供たちと会った。外国人がめずらしいのだろう。屈託のない笑顔で近づいて来た。ぼくたちが日本人と分かると、一人の少年が肩掛け袋から一冊の本を取り出して何か喋り始めた。言葉は分からないが、地面に広げたその本はどうも教科書らしい。開いたページにはなんと日本の地図が描かれていた。ペルシャ文字が並ぶ片隅にその図はあった。「ジャポニ、ジャポニ」と喜ぶ子供たちの瞳の輝きが新鮮でかわいかった。ぼくらの汚れた格好が子供たちに親近感を抱かせたのかも知れない。それにしても文盲率九〇パーセントといわれるアフガンの、しかもこのような山奥で「日本」が学ばれているということはおどろきだった。 ハザライサートから車道らしい道をしばらく歩くとトラックが停まっていた。道路工事用の資材を運んでいるらしいのだが、帰りは空車だろうから、これはさっそく交渉の対象となった。ガルメン(ガルミ)という村の外れである。 ジュルムを経由してアフガニスタン北東のバダクシャン州の州都であるファイザバードまで乗せてもらえる交渉がまとまった。やれやれもう歩かなくてすむと喜んだのはいうまでもない。 三日間、親しくつき合った馬ともここでお別れである。気のいい馬方たちとの別れにも少々感傷的な気持になった。まさにセンチメンタルジャーニーである。 トラックは馬車にエンジンを載せたようなシロモノ、たぶんソ連製の中古車だろうが、とりあえずは動力で動くものがありがたかった。高い荷台を占拠したのはいいが、土漠のデコボコ道に砂塵を巻き上げて走るものだから、埃にまみれて乗り心地どうのというような状況ではない。上下左右に揺れは激しく、トラックから振り落とされまいとしっかり座り、頭にコブができるか、ケツにタコができるかの真剣勝負となった。 夕方になってポプラの並木が茂るジュルムの町に入った。今日はここに泊りである。聞くとホテルかゲストハウスなるものがあるといい、そこの土壁の中にトラックが乗り入れられた。土壁造りの小さな旅宿は窓もないようなお粗末な建物で、中で寝るには相当な勇気がいる。なぜなら南京虫と仲良くなりそうだからである。結局は、トラックの荷台の上でビバークすることにした。しかし、ポプラの夜陰と中央アジアの星空に抱かれて眠る涼しい夜は、玄奘三蔵になったような気持だった。 |