んだんだ劇場2004年3月号 vol.63
No12
憧れのワハン渓谷
 八月一三日、日本は旧盆である。夏の美味しい食べ物の夢から醒めると、ポプラの梢でスズメがにぎやかにさえずっていた。ここジュルムは玄奘三蔵が唐から天竺(インド)までの旅の帰途、立ち寄った村である。玄奘も果たしてこの賑やかなジュルム雀のさえずりを耳にしただろうか。
 玄奘の旅のルートは、ぼくたちのキャラバンとは逆路で、これから向かうファイザバードからジュルムに至り、コクチャ川沿いにケロンを経由したあと、ムンジャン川支流のパルギッシュ谷のムンジャン峠を越える。そしてサングリッチ川からワハン渓谷に入る道であったという。
 ジュルムからふたたびトラック上の人となって一路北上する。一時間半ほどでバロックに達する。車だと見過ごしてしまいそうだが、このバロックからはワハン渓谷に向かうサングリッチ川が分かれている。ひとつの思いが駆けめぐる。

 ここで少しばかりワハン渓谷へ机上の旅をしてみたい。
 コクチャ川から東南に分かれるサングリッチ川を遡ると、シルクロードの歴史に幾多も登場するイシュカシムがある。そこは北のパミール高原と南のヒンズー・クシュに挟まれたワハン渓谷(オクサス川)の入り口で、オクサス川とパミール川の源流に至り、さらに中国、あるいはチトラル方面へ昔からの道が通じている。
 ワハン。この禁断の地名はなんと魅力的な響きを持って迫ってくることだろう。アフガニスタンの北東部に鳥の嘴のように伸びるこの狭隘の谷間は、シルクロードのワハン回廊として古くからよく知られている。ソ連、中国、パキスタン、インドと複雑なボーダーラインが絡み合っているため政治的には非常に微妙な立場におかれている。それゆえにワハン区域に外国人が立ち入るのはことのほか難しい。
 ワハン渓谷の南に障壁のように聳える七千メートル級の高峰群は東部ヒンズー・クシュ、またはハイ・ヒンズー・クシュと分類される山域で、パキスタン領に属し、登山基地チトラルに各国からの精鋭的な登山隊を集めている。
 最高峰のティリチ・ミール(七七〇八m)を始め、ノシャック(七四九二m)、サルグラール(七三四九m)、イストル・オ・ナール(七四〇三m)など天を突くような高峰が氷河の上に軒を並べてひしめき合っている。
 一方、シルクロードとしてのワハン回廊の周辺には、まわりが高い山脈に囲まれているためにいろいろな峠が残されている。主なものはワクジル峠(四九〇七m)やミンタカ峠(四七〇九m)、キリク峠(四七五五m)などだが、ワハン渓谷から中央アジアのタシュクルガン、タリム盆地、天山南路に通じる重要な交通路となっていた。また南のヤルフーン川マスツージ渓谷、チトラル方面(パキスタン)へはダルコット峠(三八〇四m)やバロギル峠などが通じ、サングリッチ川からチトラルへはムンジャン峠やドラー峠(四五七〇m)の短絡路があった。いずれの峠にしても、厳しい氷雪の山を越えるのが常であった。
 ちなみに、アフガンにおける峠の呼び名はコタールが圧倒的に多いが、ワハンに入るとパスがほとんどである。たぶん、イギリス人の測量専門官や探検家の手によるところが多いからであろう。
 ところで、ワクジール峠を始めとするワハン周辺の峠を越えたのはどんな人たちだったのだろう。これは大いに興味が湧くところである。
 調べてみると、古いところでは六二七年から六四五年にかけ、唐の国からはるばるインドへ旅した玄奘三蔵の旅が知られ、さらに七四七年には、唐代、玄宗皇帝の命をうけた高仙芝将軍(高句麗人)が一万の兵を率いて中央アジア方面へ遠征した折、ダルコット峠やバロギル峠を越えている。
 さらに有名なのは、一二四七年、マルコポーロが元の始祖、フビライハーンの宮廷を訪ねた時に、バダクシャン(アフガニスタン北部)からワハン渓谷を通っていることだ。黄金の国ジパングとワハンはマルコの中でははっきりとしたつながりを持っていただろう。
 その後、近年にかけてもさまざまな商人や探検家、諜報員、軍人などがワハン渓谷や各峠に幾多の足跡を刻んでいる。探検家オーレル・スタインやヤング・ハズバンド、ハロルド・ティルマンとて例外ではない。ティルマンはカシュガルからワクジール峠を越えてオクサス源流に入ったところをアフガニスタンの官憲に捕えられ、ファイザバードまで連行された。しかしその後、釈放されたティルマンはファイザバードからゼバック、サングリッジ経由でドラー峠越え、チトラルまで護衛付きで送られている。
 探検好きや登山家には垂涎のまととなるワハン渓谷である。

辺境の町ファイザバード
 ジュルムからファイバードまでは車で四時間ほどの距離であった。これまでずっと乾いた山や激流にしか接していなかったせいか、緑も鮮やかなファイザバードの町に近づくと、やっと文明の香りがする場所に帰ったなあという安堵の気になる。
 トラックはバザールが立ち並ぶ狭い道を激しくクラクションを鳴らしながら町の中心に入った。最高にありがたい乗り物であったトラックとはここでお別れだ。さて、ここからはどうするのだろう、と考えるヒマもなく平沢隊長は通訳のアブドラ君を連れてどこかへ消えた。荘司副隊長も一緒だったかも知れないが、ここではまずファイザーバードの役所に出向き、旅行許可証のチェックを受け、そしてカブールまでのバスの手配をしなければならない。
 コクチャ川の左岸は切り立った崖、右岸が緩い斜面を見せ、その山の傾斜地にファイザバードの町はある。ここはバダクシャン州の州都で、ソ連や中国、パキスタンの国境に近い大きな都市(というより町の方が的確かも知れない)には、どこやら緊張感が漂っている。町に残された残りのぼくたちはバザールのあたりをうろうろした。川にはこれまでになかった立派な石の橋がかかっている。
 バダクシャン地方はアレキサンダー大王の昔から名馬の産地として知られるが、この馬のことは中世、マルコポーロの『東方見聞録』でもふれられている。マルコポーロはこのバダクシャンで病気になり、ファイザバードあたりで一年ばかり療養生活を送ったという。
 州都ファイザバードがあるバダクシャン地方は東方のワハンも含めてパミール高原の一角にあり、夏には猛暑となる西部のトルキスタンなどに比べると冷涼な土地である。だから西部の遊牧民たちは春になると、馬や羊などの家畜を率いてバダクシャンまでやって来て秋には肥えた家畜とともに帰る生活をくり返していたという。
 交渉妥結の結果を載せたチャーターバスがやって来た。アフガンではお馴染みのものだが、極彩色に飾られたこんどのバスはエンジン付き馬車に屋根と座席が追加された感じだ。しかし、ここファイザバードからコクチャ川に沿った砂漠の大平原、道なき道を走るのだと思えば果たして無事な旅ができるのかと不安にもなる。

月の砂漠をはるばると
 途中何かのハプニングさえなければ、ぼくたちにカブールまでの足は確保されたということである。バスには運転手と一人の若い助手が乗っていた。大きな荷物はすべて屋根の上全体にかかるキャリーに積み込まれた。座席数は二〇数人分もあるが、乗客はぼくら七人だけである。それぞれ好きなシートを選び、不安と緊張感を伴ってこれから始まる砂漠の長旅に備えた。
 ファイザバードを出発したバスはアムダリアの砂漠地帯に黄色い砂塵を巻き上げながら西に向かって走りはじめた。道路とは呼べないほどのトレースはひどいもので、ぼくらの目から見るとどこが道でどこが砂漠なのか判然としない。砂漠というにはあまりに荒涼とした土漠の平原を突き進むのだ。
 バスの運転手は文字どおりホコリ高いプロドライバーで、助手は将来の運転手を夢見る見習いである。助手はバスの中に乗ることが許されない。荷物と一緒に屋根の上がかれの指定席なのだ。昔、日本でもトラックの上乗りという職分があったが、それと同じであると思った。
 村も何もない砂漠のど真ん中でバスに手を挙げる人がいた。定期路線などもちろん無い長距離道路で、自動車が通れば乗せてもらう、そんな風習らしいが、我が運転手は、高額の契約金が変更されでもたまらんと思ったのか、立ち尽くす旅人には見向きもせずに無視して通り過ぎる。こうした車待ちの人々はまた次のめぼしい自動車が来るまで二日でも三日でも野宿しながら待つのだそうだ。なんと気の長い大陸的な民族なのだろう。
 この荒れ果てた砂(土)漠地帯であるが、氷雪を抱く高山からの雪解け水で季節によってはコクチャ川やその支流があふれ、しばしば交通を途絶させるという。そのことはこれまでの多くの記録が物語っている。
 青柳健著『玄奘三蔵の道を行く』(一九七〇年刊)によると、ムンジャン山群を目指したRCCUの登山隊がやはりこの街道を旅しており、自動車の走行にはかなりの苦労をしていたようだ。
 季節としてはそうした増水期のピークも過ぎて、ぼくらが乗ったバスは順調に、力強く、荒野を走りつづけてくれた。眠ったり外を眺めたり、五時間ほど走っただろうか、キシムという高原の小さな町を通過して夕刻となった。いくらか砂漠らしい光景がまわりに広がって西の空に大きな夕陽が沈み、入れ代わるように大きな月が山の端に昇った。ゆるやかな砂漠の丘にラクダの隊列が影絵のように浮かんだ。古来脈々とつづくラクダの隊商なのだろう、このあまりに幻想的な光景に、誰からともなく「月の砂漠」の歌声が流れた。それはおのずと大きな合唱となった。<月の砂漠を、はるばると、旅のラクダがゆきました……> まさにこれ以上すばらしいロケーションはない。涙が出るほどの感動風景であった。

 夜行バスは暗い外の景色を遮断してただ乾いた砂と土の荒野を寡黙に進むだけ。それにしても運転手のなんとタフなことかと感心していると、どこかの暗闇の中でバスが突然停止した。何ごとかと緊張した。屋根の上の助手がどうやら居眠りをして転落したらしいのだ。幸いかれは怪我をすることもなく、照れながらふたたび屋上の見張り番席に戻った。
 夜半すぎ、大きな満月が砂漠の砂にまみれながら、真赤に充血したような色を残して遠い山の端にドロドロと沈んでいった。あとは闇夜ばかり、それでもバスはノンストップでただ砂漠を走りつづけた。
 タリカーンは広大な荒野の中の小さな町である。岩村忍の『アフガニスタン紀行』の中で、ここには紡績工場と小さな発電所があると書いているが、夜中の今では確認しようもない。バスはタリカーンの砂漠をひた走った。見渡すかぎり明かりらしいものは何も見えない。バスの前照灯だけがこの地球を照らす唯一の光だった。
 ガラスの窓に顔をこすりつけるようにして外を見ると、累々と連なる岩山の黒い陰が走り過ぎるだけである。どこで分水嶺を越えたか定かではないが、ここまで来るともうコクチャ川ではなく、クンヅーツ川の流域となるらしい。
 真夜中、はるか遠くにぽつんと明かりらしいものが近づきはじめた時、それがハナバードの町だということを知った。明かりは電気ではなく、一軒のチャイハナ(茶店)が灯す石油ランプだった。バスはそこに停車した。腹が減っていたぼくたちもバスから降りてチャイハナに入った。腹の足しになる羊肉のパラオ(ピラフ)を頼み、夜食をとった。空腹のせいか味は抜群によかった。チャイを飲み、ふたたび車上の人となる。
 ハナバードはわりあい新しい町らしく、米と綿花の集散地になっているという。腹の皮が突っ張ると目の皮がたるんできて猛烈に眠くなった。

クンズーツ
 眠っているうちに、いつの間にか夜が明けて外の喧騒に気づいたのはクンヅーツの町に入った時だった。ここでもバスはしばらく休憩した。ラクダやロバが引く荷車、そして働く人々の様子をぼんやり眺めながらバザールで求めたバナナを食べた。やはり、新しく栄えた産業の町クンヅーツはファイザバードよりさらに賑やかな近代的な表情を見せていた。
 岩村忍の『アフガニスタン紀行』にクンヅーツは次のように記述されている。
「クンヅーツは近年にできた町であって、綿花と米の産地の中心で、紡績工場もある。二、三〇年前まではこの地方はうっそうたる森林におおわれ、沼沢が多く、豹や虎や猪が横行していたが、その後灌漑設備が整備され、クンヅーツ河の水が利用されるようになったため、水田ができ、綿花の栽培が盛んになった」
 さらにアフガニスタンの諺に「死にたければクンヅーツに行け」といわれるほど危険地帯であったそうだが、産業の町として生まれ変わってからは、南のカンダハル地方と並ぶ北部の代表的な工業都市になったという。
今ではアフガニスタン近代化の一翼をになう化学工業の町である。ここには綿花油脂から石鹸を作ったり陶磁器を生産するスピンザー工場というのがある。陶磁器は日本の橋本さんという陶芸専門家の方が長年指導して発展しているという。農業と遊牧による牧畜だけに頼るこの国の経済状況は厳しく、今各国の援助で新しい産業を構築しようとしている発展途上国なのである。


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