西南戦争に参加した秋田藩士
西郷隆盛終焉の地、鹿児島市の城山を訪ねたのは16年前だったと思う。新聞社の経済部記者だったころだ。
鹿児島県経済の現状をルポする取材だったが、最初から城山と、その近くの薩軍墓地を訪ねる予定だった。こうと決めたら後のことは考えず、しゃにむに突き進む「ぼっけもん」と呼ばれる薩摩人の気質や、郷土の人間とのつながりを大切にするという県民性が、現在の県経済にどんな影響を与えているかがテーマの一つだった。それは歴史的に見ると、西南戦争に端的に現れていたのではないかと思っていた。その辺りを原稿に書き入れるために、戦跡を見ておく必要があったからだ。
が、そのほかに、前々から気にかけていたことがあった……。
明治10年の西南戦争は、日本最後の内戦である。明治7年の佐賀の乱、同9年には熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と相次いだ不平士族の反乱の末に、鹿児島士族が西郷を担ぎ出して決起した。各地から同調者が相次ぎ、兵力は1万5千人に達した。
「総兵力3万人」と書いてある資料もあるが、これは少し多すぎるように思う。あるいは従軍夫卒まで加えた数かもしれないが、いずれにしても、箱館戦争での榎本軍が4千人を超えるぐらいだったから、西南戦争がいかに大規模な争乱であったかは、この数字だけを見てもよくわかるだろう。もしも3万人が西郷隆盛の下で動いたとすれば、日本の戦乱史の中では、関ヶ原に次ぐ動員数なのである。
西南戦争には、もうひとつ特筆すべきことがある。
それは、徴兵によって一般市民、つまり当時の平民が参加した戦争だったことだ。白兵戦では、薩摩示現流の斬り込みに逃げ出す場面も多かったが、結局は優秀な銃砲を大量に持つ平民が勝った。本来は戦争のプロである武士階級が、存在意義を根こそぎ否定された事件でもある。以後、武力による反政府行動は、五・一五事件や二・二六事件などのテロ行為を別にすれば、日本では起きていない。
さて、その政府軍だが、もちろん平民だけの軍隊ではない。指揮官はほとんどが士族だった。創設されたばかりの近代的な軍隊で、平民を訓練し、戦場で彼らを動かす能力を、旧武士階級に求めたのは当然だっただろう。いわば、最初の職業軍人である。だが、西南戦争ではそれとは別に、政府軍として多数の士族が戦場に赴いた。その多くは、戊辰戦争で敗者となった奥羽越列藩同盟諸藩の人々である。
薩長を中核とした、戊辰戦争時の「官軍」の片割れを「征伐する」のだから、彼らには「今こそ往時の怨みを晴らす」という気持ちがみなぎったに違いない。
代表例は、元会津藩家老、佐川官兵衛だろう。戊辰戦争では、越後、会津戦線で猛将と恐れられた官兵衛は明治7年、旧会津藩士300人を引き連れて、発足間もない東京警視庁に奉職した。そして西南戦争では、警視隊(警察官で編成した応援部隊)の小隊長として出陣した。だが、官兵衛は、阿蘇山麓の熊本県長陽村で銃弾にたおれた。彼については、史実を丹念に積み重ねる作風で知られる中村彰彦氏の小説、『鬼官兵衛烈風録』(角川文庫)に詳しい。
戊辰戦争時、15歳だった二本松(福島県)少年隊士、安部井壮蔵も西南戦争で死んでいる。こうした人々のことは、書き始めればきりがない。
ところが、薩摩軍の方に身を投じた東北人もいたのである。
今、私の手元に『西南の役戦没者名簿』という小冊子がある。西郷を祀った、鹿児島市上滝尾町の南洲神社が、「百年祭記念」として、戦没者全員の名前を再調査した記録だ。5年の歳月をついやして昭和57年に確定した戦没者は、6765人に及ぶ。
名簿は、出身地別に編集されているのだが、その末尾、6765人目に、「秋田県 中村恕助」という名前が記されているのだ。
唯一の秋田県人である。
東北地方からはほかに、山形県の二人(伴兼之と榊原政治だが、彼らについてはまだ何も調べていない)がいるだけだ。
実は、中村恕助という名前は、昭和60年の秋まで勤務していた秋田支局時代から知っていた。秋田市の郷土史家、吉田昭治さんが編纂した労作『明治維新 秋田人物誌』(みしま書房)に、中村が記載されていたのだ。非常に珍しい経歴の人物として、その名前は私の脳裏に強く刻み込まれた。
しかし中村恕助という秋田人が、鹿児島では記憶されているのだろうか、というのが「気にかけていたこと」なのである。
城山からは、鹿児島の市街地を見下ろすことができる。その町並みを埋め尽くすように、明治10年9月、政府の大軍団が西郷らを取り囲んだ。
坂道の途中にいくつか、崖をうがったような大きな穴があった。熊本から宮崎の山中を迂回して鹿児島に戻った西郷が、最後まで行をともにした人々と起居した岩屋である。9月24日、岩屋を出た西郷は、山道を下り始め、途中で腹に銃弾を受けた。「ここらへんで、よか」と西郷が言い、その首を別府晋介が介錯した辺りを岩崎谷と言う。
山道を下りきって、少し歩いた左手の小高い所に、通称「薩軍墓地」、正式には「南洲墓地」がある。石段を上ると、正面に西郷の大きな墓碑が立ち、左に桐野利秋、右に篠原国幹の墓、それに並ぶ墓碑には村田晋八、逸見十郎太、別府晋介ら幹部の名が読み取れた。
ここはもともと、時宗の浄光明寺(じょうこうみょうじ)の墓地だったのだそうだ。ところが明治の廃仏毀釈で寺がなくなり、墓地だけが残った。西郷が死んだその日、鹿児島県令岩村通俊(みちとし、土佐藩出身)が、西郷ら40人ほどの遺体を仮埋葬したのが、この戦没者墓地の始まりとなった。2年後に城山周辺の200人余の遺骨、さらにその後、九州各地から遺骨を改葬し、最終的には2033霊が眠る現在の姿になった。
生存者が西郷隆盛の参拝所を作ったことに始まる南洲神社は、墓地の北側にある。
さて、中村恕助のことである。
私は、墓地に隣接する「西郷南洲顕彰館」を訪ねた。「名簿」と同じく、神社の百年祭を記念して建てられた資料館だ。ここで、スナイドル銃とか、ミニエー銃とか、当時使用された鉄砲の実物を、初めて見た記憶がある。
館長さんに中村恕助のことを尋ねると、「ええ、知ってますよ、お墓もここにあります」と答えてくれた。
西南戦争に関する資料館の館長という立場ではあるが、鹿児島の人が「遠来の兵」を知っていてくれた。中村恕助は熊本城の近くで戦死したはずなのに、その遺骨も改葬されていたのである。
私は、感激した。
そして館長さんが、中村の墓まで案内してくれた……のだが、その墓が墓地のどの辺にあったのか、今は記憶が定かではない。墓地に、同じ大きさの墓石が無数に並んでいたのは覚えているのだが、その時のノートも、写真も、そして館長さんの名刺も、今はどこにしまいこんだかわからなくなっている。情けない話だが、その後何度も引っ越しした際に、紛失したのかもしれない。なにしろ、16年前のことである。
それを今ごろになって、急に思い出したのは、思いがけず「中村恕助」の名前が目に飛び込んで来たからだ。それは『秋田県史4巻』の「第九章 版籍奉還と府県制の成立」の中にあった。国家転覆の陰謀を企てたという罪で、明治4年12月3日に斬首された初岡敬治事件の関係者として、中村恕助が登場していた。
ここから少し話が長くなるが、勘弁していただきたい。当時、秋田藩権大参事だった初岡敬治の事件には、少し複雑な経緯がある。この年に起きた、外山光輔(とやま・みつすけ)と愛宕通旭(おたぎ・みちてる)という二人の公家の政府転覆計画事件で、初岡が首謀者の一人とされたのである。
つまり、単独の事件ではないので、ややこしくなるのだ。
まず、初岡敬治のことを書いておく。
彼は、明治元年に設立された立法機関「公儀所」の公議人を務めた。公儀所は翌年3月に廃止され、7月に集議院(衆議院ではない)と改められた。初岡も集議院議員となったが、明治3年3月に中川健蔵と交代し、秋田へ戻った。
公議所にしても、集議院にしても、設立の趣旨は「立法機関」という位置付けにはなっているが、実際は、明治政府の方針を各藩に伝え、各藩からの意見具申を政府に伝達する諮問機関にすぎなかった。決して現在の国会のような「立法府」ではない。しかし議員は各藩1名だったから、議員当時の初岡は、藩の代表者であり、東京での外交官でもあった。
秋田に戻って藩権大参事となっていた初岡を、明治4年2月12日、中村恕助が訪ねた。中村は1通の書状を持参していた。それは、以前から初岡と親交のあった九州柳川藩の古賀十郎からの手紙だった。古賀は、外山光輔、愛宕通旭を盟主とした陰謀に荷担していた。手紙は、初岡にも決起を促し、上京を要請する内容だったという。しかし初岡は、中村に自重をうながした。そして古賀宛に「今はその時ではない」という意味の手紙を書き、3月6日に、上京する中村に託した。
実は、中村恕助は京都で、愛宕通旭に「秋田で同志を募り、出兵、上京する」と約束していた。戊辰の前から各地の「勤皇の志士」と交友していた中村は、維新後も京都を根拠地に「志士活動」を続けていた。初岡に、「秋田から出兵」ということは伝えなかったようだ。秋田を離れるまでの間、中村は知友を説いて回ったが、賛同者も得られなかったという。
外山が京都で、愛宕は東京で、それぞれ武力蜂起するという陰謀は、新政府で薩長閥が幅を効かしていることや、天皇が東京へ遷座されて京都の威信が失われたことなどへの不満から、明治になって不遇だったこの二人の公家が思い立ったことらしい。やはり新政府の薩長閥に反発する古賀十郎のような人々が、二人に近づき、実行計画が動き始めた。だが昔から公家は、陰謀をめぐらすのは得意だが、実行力の伴わないのが常で、この陰謀もかなりずさんだったようだ。中村が秋田から東京へ戻ったころは、すでに内偵が始まり、逮捕者も出ていた。中村の荷物の中から、古賀十郎に宛てた初岡の手紙を発見し、当局に通報したのは、初岡に代わって集議院議員となっていた中川健蔵だった。中村がすぐに逮捕されたのは言うまでもない。
外山光輔は、中村恕助が秋田を発った翌日の3月7日、愛宕通旭は3月14日に逮捕され、初岡と同じ12月3日に「自刃」を命じられた。「斬首」でなかったのは、公家への配慮だからだろうか。
と、これまで書いた経緯からは、初岡はこの事件にほとんど関係していない。にもかかわらず有罪になったのは、古賀との往復書簡を決定的証拠とされたからだ。
この事件では、肥後熊本藩の高田源兵衛も連座し、処刑されている。高田の、戊辰戦争以前の名前は河上彦斎(げんさい)という。京都で佐久間象山を斬殺し、「人斬り彦斎」と呼ばれた人物だ。高田は愛宕通旭と交流があった。初岡と高田の主義主張にはかなりのへだたりがあるのだが、明治政府に対してしばしば反抗的な言動を示す危険人物とみなされていた。それにどちらも、藩内にかなりの影響力のある人間だった。二人が、浅薄な公家の陰謀事件に連座させられたことには、「将来の危惧は、芽のうちに摘み取ってしまえ」という、明治政府の意図が感じられてならない。
さて、それこそ首謀者の一人とも言える中村恕助の方は、死刑にならなかった。当局の苛烈な拷問に耐えて、一切を語らなかったからだ。「終身禁獄」を言い渡され、そして、「鹿児島預かり」となった。一説には、拷問に耐えた中村の剛毅を西郷隆盛が知り、身柄を預けるよう交渉したからだという。
だから西南戦争の時、中村は最初から鹿児島にいたのである。わざわざ秋田からはせ参じたわけではない。
久し振りに中村恕助の名前を見て、鹿児島の南洲墓地を思い出し、そして改めて調べてみて、明治という時代の出発は、一筋縄では行かなかったのだということを、強く感じさせられた。
ここからは、書かなくてもよいことかもしれないが……本心を言うと、初岡敬治という人物は、あまり好きになれない。
戊辰戦争が終結した時、初岡は、朝敵とされた会津も庄内も、そして奥羽越列藩同盟諸藩の藩主も、「すべて、即時斬首」と主張していた。かなりエキセントリックな人間という印象を、前々から感じていた。詳しいことは調べていないが、時々突飛な行動もあったようだ。そして、尊皇倒幕論者ではあったが、版籍奉還後も「封建制の維持」を説いていた。つまり初岡には、欧米列強に対抗できる中央集権国家を創設する、という明治政府の理想が見えていなかったのだ。秋田市が刊行した『初岡敬治日記』を読んでいないので、断言はできないが、初岡にとっては、「秋田藩がすべて」だったのかもしれない。徳川幕府を倒した後に実現するのは、秋田藩の一層の繁栄と考えていたのだろうか。戊辰戦争の戦勝国である秋田では、当時、「多大な恩典があるはずだ」という期待が大きかったのは事実である。ところが実際は、「恩典」を独占したのは、薩長をはじめとする西国雄藩ばかりだった。秋田藩の最初の代表者として、東京で活動した初岡に不平、不満が出て来るのもしかたないことである。
しかし、それにしても初岡には、さまざまな面で「バランス感覚の欠如」が感じられてしかたがない。
蛇足をもうひとつ付け加える。
中村恕助の墓は、秋田市八橋(やばせ)の全良寺の「官修墓地」にもある。戊辰戦争時の住職、11世大内海山和尚と、秋田市の石工辻源之助の二人が、私財をなげうって建設した戦没者墓地である。この二人のことは、いずれ、きちんと書かなければいけないと思っているが、まだ調査不足だ。それはさておき、何度かこの墓地に行っているはずなのに、これまた記憶があいまいになっているので、インターネットの「いいまち秋田」というホームページで、中村の墓の存在を確認した。
それはいいのだが、ホームページには「維新期秋田藩の志士、中村恕助・金輪五郎・竹貫三郎や西南戦争戦没者14名」の墓があると紹介されていた。この説明は少し不親切だし、この3人を列記するのは、不適切ではないか、と思った。
中村については、すでにおわかりと思う。
次の金輪五郎は、明治2年の大村益次郎襲撃グループの一員である。司馬遼太郎の小説『花神』の主人公にもなった大村は、襲撃された時の傷が悪化して死んだ。金輪はその罪で死刑になった人物だ。
竹貫三郎は、慶応4年(1868)、「ニセ官軍」として、信州諏訪で処刑された「赤報隊」の一人だった。
確かに3人とも「志士」としての活動歴はあるが、やったことはそれぞれに異なっている。何か一言、補足すべきだと思うのである。
それに「西南戦争戦没者14名」と書いてあるが、その中に「西南戦争で死んだ中村恕助」は含まれるのだろうか。たぶん、違うだろう。「14人」は、政府軍として参加した秋田の人々なのだと思う。一言「政府軍として」とでも書き加えれば、よくわかるのだが……。
ホームページは字数の制限もあるから、多くは望めないが、この紹介文では「では、訪ねてみよう」と思う人はあまりいないのではないか、と思われた。
金輪五郎と竹貫三郎については、それぞれ「探す旅」を、また語りたい。
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