んだんだ劇場2004年9月号 vol.69
No4
伏見の寺田屋

交通の要衝だった伏見
 京都市伏見区南浜町にある「船宿 寺田屋」を訪ねたのは、昭和六十二年三月一日だった。どうしてそんなにはっきり書けるのかと言うと、その時買い求めた小冊子「史蹟寺田屋 説明書」を持っているからだ。その後三回転居したが、五十ページにも満たないこのちっぽけな冊子は、常に手元に置いていた。それで今回、冊子を開いてみたら、日付スタンプを押した「参観券」がはさんであったのである。
 そのころ私は、読売新聞経済部の記者だったから、何かの出張のついでに立ち寄ったはずだが、それが何の取材だったかは思い出せない。ただ、時間に余裕がなくて、寺田屋には三十分ほどしかいられなかったことは覚えている。
 そんな時間を割いてまで寺田屋を訪ね、冊子も保存しておいたのは、ここで文久二年(1862)四月二十三日、薩摩藩の急進的な尊皇攘夷派藩士を、同じ薩摩藩士が上意討ちにした凄惨な事件があり、それに山形県立川町清川出身の志士、清河八郎が関係していたからだ。清河八郎は後に、新選組誕生のきっかけを作った人物である。
 それだけではない。寺田屋の一階で事件が起きた時、二階には、後に日露戦争で日本を勝利に導いた陸軍元帥、大山巌(いわお)がいた。戊辰戦争の時、薩摩軍の砲兵隊長として会津若松の攻防戦まで経験した大山は、明治十六年、かつての敵国、会津藩の元家老の娘、山川捨松(すてまつ)を妻に迎えることになる。その事情は、また別に書く機会があると思うが、二人の間に生まれた子供、大山柏(かしわ)は、箱館戦争終結までの各地の戦闘を詳細に調べ、分析した大著『戊辰役戦史』(上・下二冊、時事通信社)を書き残した。
 さらに、上意討ちを命じられた藩士の方には、大山格之助がいた。明確な証拠はないが、慶応四年(1868)七月四日の夜、秋田藩の若い藩士をそそのかし、秋田に来ていた仙台藩の使者を襲撃させたと推測される男だ。秋田藩はこの日の朝、奥羽越列藩同盟を離脱し、庄内藩へ攻め込むことを決めたのだが、秋田藩が逆戻りできぬ「決定的な事実」を作らるための策略と考えられる。そのために、現在の秋田県の半分以上が戦場と化し、何万人もの人々が、家を焼かれる結果となった。
 「寺田屋事件」は、幕末史の中で非常に重要な事件であると同時に、のちのち、東北地方に関係する人物が顔をそろえていたのだった。
 それにしても寺田屋は……「思っていたより、ちっぽけな建物だな」というのが、私の第一印象だった。東北地方の古い温泉地に残る老舗旅館のような、いくつも客室が連なった長大な建物を、私は想像していた。なにしろ、事件の時、二階には三十人くらいの人がいたし、惨劇のあった一階でも、別室に十数人の人々がいたはずだ。しかし考えてみれば、船宿は旅館ではないのである。自前の舟と船頭を置いて、客を運ぶのが商売なのだ。だから建物は、乗客が船を待つ間に休み、時には食事もする場所でしかない。伏見の船宿はどうか知らないが、江戸の大川(隅田川)沿いの船宿などは、逢い引き宿、つまり現在のラブホテルのような使われ方もした。
 寺田屋も、総二階だが、ちょっと大きめの住宅ぐらいだ。記憶が定かではないが、二階は三室か四室だったと思う。
 伏見の京橋付近は、京都と大坂の間を行き来する三十石舟の船着き場で、何軒もの船宿が軒を連ねる繁華街だった。また、その昔、豊臣秀吉が城を設けた陸路の要衝でもあり、江戸時代は、幕府の京都所司代に属する伏見奉行所が置かれていた。慶応四年一月三日に、旧幕府軍と薩長を中心とした新政府軍が衝突し、戊辰戦争の火蓋が切られたのも、この付近である。
 薩摩藩は、京都の錦、大坂の土佐堀のほか、伏見にも藩屋敷を持っていた。伏見の藩邸の役割はよくわからないが、薩摩藩では寺田屋を定宿にしていた。おそらく伏見の藩邸は長屋が狭く、何かの時には藩士を寺田屋に宿泊させていたのだろう。公然とは藩邸に住まわせることができなかった坂本竜馬を、寺田屋に紹介したのも薩摩藩である。

文久二年の寺田屋事件
 この事件については、かいつまんで語ろうとしても、少しさかのぼった時点から始めなければならない。
 薩摩藩に幕末、島津斉彬(なりあきら)という、英明な藩主が登場した。西洋の事物に強い関心を持ち、反射炉を造って鉄を製造し、独自の研究で西洋型帆船を建造し、紡績工場まで造った人だ。斉彬が藩主の座に着いたのは嘉永四年(1851)、四十三歳の時で、その二年後にペリーの黒船がやって来た。それから始まった幕末の動乱に、幕府の屋台骨を支える役割を担ったのが、大老・井伊直弼だが、島津斉彬は、井伊大老の強圧的な政治には反発した。そして、反対派の大名、公家を弾圧し、長州の吉田松陰、福井の橋本佐内らを次々に死刑にした「安政の大獄」が始まると、元凶である井伊大老を罷免させようと考えた。兵を引き連れて上洛し、天皇から「幕政を改革せよ」という詔勅をいただいて江戸へ乗り込み、一気に幕閣を入れ替えてしまおうという、実力行使を企てたのである。
 これは、クーデターと言っていい。ただし、「倒幕」ではない。朝廷と幕府が融合した、円満な政治体制を構築しようとしたのである。その時、京都で、詔勅を得るための事前工作に奔走したのが、西郷隆盛だった。
 斉彬は計画を実行するために、自ら先頭に立って、連日、洋式の軍事調練を始めた。ところが、安政五年(1858)七月八日、調練から戻った斉彬は気分が悪くなり、下痢をし、病状が次第に悪化して八日後に亡くなってしまう。海音寺潮五郎は『寺田屋騒動』(文春文庫)で、「恐らく毒殺でしょう」と語り、「私は亜砒酸系のものだと見当をつけています」とまで言いきっている。
 その真偽はともかく、斉彬の急死によって、西郷隆盛は幕吏に追われる身となった。西郷は、朝廷工作の仲立ちをしてくれていた僧、月照をともなって鹿児島に帰った。しかし「反斉彬派」が政権を握った藩は、月照の滞在を許さなかった。進退に窮した西郷は月照を抱きかかえ、鹿児島湾に身を投げてしまった。二人はすぐに海中から引き揚げられ、西郷はかろうじて蘇生したが、月照は死んだ。その後、西郷は、奄美大島に住むよう命じられた。入水して死んだことにし、幕府の追求をかわすためだったという。
 そんなことがあってから四年後の文久二年、今度は島津久光が、兵を率いて江戸へ登ることになった。その途中で起きたのが寺田屋事件である。
 久光は斉彬の弟だが、母親が違った。久光は、側室の子供だった。しかし父親の斉興(なりおき)は嫡子の斉彬を嫌い、久光をかわいがった。斉興は久光を藩主にしたかったと言われ、斉彬が毒殺されたとすれば、それは斉興のしわざだと見られている。そういう事情はあったが、斉彬の死後、薩摩藩主は、久光の子、忠義が継いだ。それで久光は、藩の実権を握ることになった。
 久光は保守的な人だったようだ。学識は高かったが、漢学と国学だけだった。世事にもうとく、時代の動きも認識がなかったという。幕末動乱の実態を久光に伝えたのは、大久保利通である。つてをもとめて、根気よく時勢を教える文書を久光に届けた。それで久光は、兄がやろうとした「偉業」に気づき、自分でやろうとしたのである。
 そのころ薩摩藩には、「誠忠組」という若手藩士のグループがあった。中心は西郷隆盛や大久保利通で、島津斉彬を敬慕すると同時に、尊皇攘夷思想を信奉する集団である。彼らは、久光が斉彬の遺志を継いで上京することに喜んだが、中に、「斉彬が目指した幕政改革では生ぬるい」と考える過激派が育っていた。久光の引兵上京を好機として一気に倒幕まで持って行こうと、過激派は計画した。
 そのリーダーは、有馬新七という。有馬らは、長州をはじめ各地の尊攘派の志士に連絡をとっていた。そして、久光の軍勢が京都に到着したら、志士たちが京都所司代酒井忠義(越前小浜藩主)を殺し、幕府の代弁者のような関白九条忠尚を幽閉し、天皇から倒幕の勅書をいただいて、久光を倒幕軍の将に担ぎ上げる、という計画を練った。立案には、清河八郎ら尊攘浪士も深くかかわっていた。後世から見れば、無謀な計画だ。だが有馬は「できる」と信じていた。斉彬の死後、四年の間に、「変革の気運」が加速されていたのは事実だろう。
 しかし、彼らが暴発しそうなことを、久光の耳に入れた者がいる。久光は、自分の統制に従わない者を非常に嫌った。また、浪人も嫌いだった。久光は、「おぼっちゃん育ちの、お殿さま」だったのだと、私は思う。と言っても、出発を前にして内紛は避けたかった。それで、西郷隆盛を奄美大島から呼び戻した。斉彬の遺志を実行するのだから西郷は喜ぶだろうし、過激派も抑えこんでくれるだろうと期待したのである。ところが西郷は出兵に反対した。そればかりではなく、久光に向かって「あなたのような田舎者には、斉彬公のまねはできない」という意味のことを、ずけずけと言った。そのために、久光は終生、西郷を憎むことになる。また西郷も、久光を嫌い抜いた。
 実際には、西郷は先発し、浪士らの暴発を抑えようとするのだが、久光との間に誤解が生じて徳之島、次いでもっと遠い沖永良部島へ流罪となってしまう。それで、有馬らには歯止めが利かなくなった。
 京都に着いてから、有馬らの動きを知った久光は、「自分が説諭するから、ここへ連れて来い」と言って、使者を送ることにした。選ばれたのは、同じ誠忠組のメンバーで、しかも腕の立つ者九人だった。言うことを聞かない場合は、上意討ちにしてもいいと命じたのである。
 
難をまぬかれた清河八郎
 清河八郎は、庄内の清川村(現立川町)の豪農で、酒造業も営んでいた斎藤家に生まれた。本名は斎藤元司という。十八歳で江戸へ出て、短期間のうちに儒学、剣術を習得し、安政六年、二十五歳で私塾を開いた。非常な才人であったことは間違いない。
 この塾生に、薩摩藩の伊牟田(いむた)尚平がいた。後に、英国公使館の通訳、ヒュースケンを暗殺した男だ。清河は、伊牟田のつてで、京の中山大納言の家士、田中河内介(かわちのすけ)と知り合うことになる。また、薩摩藩の中にも知己を得た。京の尊攘浪士の庇護者であり、指導者でもあった田中と意気投合した清河は、田中の勧めで九州へ遊説に赴き、さらに同志を増やした。そして、島津久光の出兵に合わせて、浪士を集合し、有馬らとともに事を起こそうとした。その直前に、故郷の父親あてに「今回、自分は死んでも悔いはない」という内容の手紙まで書いている。清河は間違いなく、「暴発」の中心人物の一人だったのである。
 だから私は、事件の時、当然、清河は寺田屋にいたと思いこんでいた。そう書いてある本を読んだ記憶もあった。ところが今回、資料を読みなおして、事件当日、清河が寺田屋にいなかったことを知って、愕然とした。その理由が、どうにもばかばかしかったからでもある。
 清河らは、大坂の薩摩藩邸で決起の時を待っていた。そこへ、越後寺泊(新潟県寺泊町)出身の志士、本間精一郎が訪ねて来た。清河とは江戸にいたころからの知人で、実家が裕福なために、浪士らのパトロン顔をしている男だった。本間は、大言壮語するわりには実行力が伴わないというので、次第に尊攘浪士らの信用を失い、ついには京都で斬殺されることになる。本間を殺したのは、薩摩の田中信兵衛とも、土佐の岡田以蔵とも言われるが、確かではない。この日、本間は、舟遊びをして酒を飲もうと、誘いに来たのである。それが事件の十日前のことである。薩摩屋敷に引きこもっていた清河は、一緒にいた同志数人を誘って、うさ晴らしに出かけた。
 薩摩藩の屋敷は、現在の大阪市西区土佐堀二丁目にあった。土佐堀川に面し、向かいは中之島である。土佐堀川はすぐ下流で堂島川と合流し、安治川と名を変える。そのすぐ下流の、西区川口二丁目に大阪税関富島出張所があるが、ここには当時、通行する舟を監視する幕府の番所があった。そこに舟がさしかかるころには、本間はすでに相当できあがっていたらしく、ケガ人こそ出なかったものの、役人相手に暴れた。
 それが原因で翌日、清河らは薩摩藩邸から退去を求められた。清河と一緒に京都へ立ち去った仲間に、前回の「余話」で、天誅組の中心人物と紹介した藤本鉄石もいた。
 という、つまらないことで、「自分が作を立てた」(と清河は言っている)決起に、清河は参加できなくなったのである。
 しかし、清河の盟友だった田中河内介は大坂の薩摩藩邸にそのままいて、四月二十三日の日暮れ、伏見の寺田屋に入った。有馬らも、ばらばらに大坂の屋敷を脱出し、田中らよりは早い時刻に寺田屋へ着いていた。
 島津久光の命を受けた九人が寺田屋を訪れたのは、すっかり暗くなってからだった。話し合いはつかず、乱闘になった。討手の道島五郎兵衛と斬り合ううちに刀が折れた有馬新七は、道島を壁に押しつけ、「おいごと刺せ」と叫んで、当時二十歳の橋口吉之丞の刃に貫かれて死んだ。結局、この時七人が死に、あとで二人が切腹させられた。
 事件後、薩摩藩以外の人たちは、それぞれの藩に引き取られたが、田中河内介ら所属する藩を持たない五人は、薩摩藩の預かりという処分になった。それで、五人は大坂から船に乗り、鹿児島へ向かったのだが……河内介と彼の息子は、途中、船上で斬られて投げ捨てられ、残る三人は日向(宮崎県)の浜で斬られた。河内介父子の遺体は、小豆島に漂着した。薩摩藩が彼らを斬った理由は、よくわからない。が、清河八郎がもし当日、寺田屋にいたら、同じ運命をたどっただろうという推論はできる。そうなれば、新選組も生まれなかったことになる。
 ところで、海音寺潮五郎の『寺田屋騒動』は、小説ではない。雑誌『歴史と旅』に昭和五十年四月から翌年十月まで連載していた「史論」である。史料を精査し、その上でこの事件に対する論評を加えている。寺田屋事件を知るには、最上の書だと思われる。それで今回、しっかり読みなおしてみたら、寺田屋の二階にいて、惨劇に加わらなかった誠忠組メンバーの中に、三島弥兵衛(やへえ)という名があるのに初めて気づいた。明治になって山形県令、福島県令などを歴任して警視総監になり、自由民権運動の弾圧者として歴史に名を残した三島通庸(みちつね)である。ただし、私は、三島を悪人とは思っていない。山形県内各地に、当時の人々を驚愕させる洋館を建て、道路を造り、現在の山形市の基本的な都市計画を作った。有能な官僚であった側面を、多分に持つ人物だと思っている。そのことは、いずれ書く機会を得たいと願っている。

坂本竜馬の寺田屋事件
 さて、もう一つの「寺田屋事件」がある。東北地方には全く関係ない話なので、簡単に触れておく。
 慶応二年(1866)一月二十三日の夜、寺田屋に投宿していた坂本竜馬が、伏見奉行所の捕吏に囲まれた事件だ。風呂に入っていた寺田屋の養女「おりょう」がそれに気づき、素っ裸のまま階段を駆け登って竜馬に急を知らせ、竜馬はかろうじて伏見の薩摩藩邸に逃げ込むことができた、という事件である。「おりょう」はその後、坂本竜馬と結婚し、二人は鹿児島まで旅をする。日本で最初の新婚旅行だと言われている。
 しかし、竜馬は慶応三年十一月に暗殺されてしまった。たぶん、二人で暮らせた時間は、ほとんどなかっただろう。「おりょう」はそれから再婚し、明治三十九年、現在の神奈川県横須賀市で亡くなった。六十六歳だった。
 坂本竜馬は、現代人の「人気者」だから、寺田屋を訪ねる人の大半は、「竜馬の史蹟」を見に来るに違いない。二階には、その時の部屋がそっくり残っていて、床の間には竜馬の肖像を描いた掛け軸もかけてある。
 だからと言って、寺田屋は資料館ではないのである。少なくとも、私が訪ねた当時は「現役」の旅館だった。予約の電話を入れて、空いていれば泊まれた。当時のパンフレットには「一泊 朝食付き 五千円」と印刷されている。今も旅館を営業しているかどうかは、確認していない。だが、こういう「歴史の現場」が、代々そのまま受け継がれていることに、その時、大感激したことが思い出される。


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次