んだんだ劇場2004年10月号 vol.70
No5
吉田松陰の遺書

萩郊外の松下村塾
 毛利氏の城下町、山口県萩市の郊外(萩市椿東松本)にある「松下村塾」を訪ねたのは、2001年5月が2度目だった。前回は、「何でも見てやろう」というだけの、学生の気まぐれ旅だった。それから、およそ30年ぶりの再訪である。今回は、無明舎出版の編集長、鐙(あぶみ)啓記さんが一緒だった。大阪から下関を回りこんで日本海側へ出て、最終的には北海道の東端、納沙布岬まで、鐙さんが運転する車で2万キロを走破した「北前船の寄港地を訪ねる旅」の途上で寄ったのである。
 この旅は、その後『北前船 寄港地と交易の物語』(無明舎出版)にまとめたので、ぜひ目を通していただきたい。
 さて、長州藩では瀬戸内側も、日本海側も、ほとんどの港に北前船が寄港した歴史がある。城下の浜崎港にも、少し北東の越ヶ浜浦(どちらも現在は萩市)にも、北前船と交易した史料が残っている、しかし「松下村塾」は、北前船とは全く関係がない。にもかかわらず、ここを訪ねたのは、鐙さんに「理由」があったからだ。
 「松下村塾」は、幕末の思想家、吉田松陰の私塾である。高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、幕末・維新史に名を残す多くの俊才が、この塾で学んだ。後世から見れば「明治維新の震源地」と言ってもいい。松陰がここで門下生と過ごしたのは、30歳で刑死する松陰にとっては、「晩年」の一時期にあたる。その松陰が22歳の時、脱藩して津軽半島(青森県)の先端、竜飛(たっぴ)崎まで行ったことがある。当時、しばしば近海に姿を見せるようになった異国船に対して、三浦半島や房総半島など、江戸近郊の海岸でさえ防備がお粗末なことを知った松陰が、北辺の地の海防はどうなっているのか、自分で確かめようとした旅だった。だから吉田松陰は、けっして東北地方と無縁の人ではない。秋田にあって、東北地方をホームグラウンドにしている無明舎出版では、その旅で松陰が何を見て、どう考えたかを考察した『嘉永五年東北』(織田久著)を出しているし、何かと松陰に触れる機会が多いそうだ。無明舎ではそれまで、必要になれば萩市から写真を借用していたのだが、この北前船の旅を利用して、自前の写真を撮っておこうという事情があった。
 幕末・維新史を調べている私にとっては、願ってもない「寄り道」だった。

教育者・吉田松陰
 吉田松陰は、8歳で『孟子』を完全に暗記したという神童だった。わずか26石という微禄の藩士、杉百合之助の2男として生まれた松陰は、叔父で、藩の山鹿(やまが)流兵学師範、吉田大助の養子となった。が、吉田大助が若くして死んでしまったため、6歳でその家を継ぐことになった。そこで、松陰を徹底的に鍛えたのが、やはり叔父で、山鹿流兵学の免許を受けていた玉木文之進である。『孟子』を暗記したのはスパルタ教育の結果だが、たとえ意味がわからなくても、その齢で白文の漢文を覚えてしまったのは、恐ろしいほどの記憶力だ。10歳で藩校明倫館の教授となり、11歳で藩主毛利敬親(たかちか)に『武教全書』を講義し、絶賛を浴びた。その後22歳で藩主に従って江戸へ上り、当時の著名な学者である安積艮斎(ごんさい)、山鹿素水、佐久間象山、古賀茶渓(さけい)などに学ぶまで、松陰は藩校教授を務めた。明治の元勲の一人、木戸孝允(桂小五郎)などは、明倫館での教え子である。
 そのまま何事もなければ、吉田松陰は、著名な学者として名を残しただろう。だが、「時代」が彼を動かしたのだろうか、松陰は大変なことをしでかす。
 その最初が、奥羽遊歴の旅である。途中で立ち寄った水戸で、松陰は尊皇思想を吹き込まれ、当時の日本を取り巻く国際情勢を知ることになる。それは、それまでの机上の勉学とは異なる、生きた学問だった。水戸藩にはそのころ、「我が国はこのままでよいのか」という命題を熱く語り合う雰囲気があった。そういう状況については、また、別に書く機会があると思うので詳しくは述べないが、ここで松陰の心に激しい炎が点火されたのは間違いないだろう。
 江戸時代の武士にとって、脱藩は死に価する重罪だった。だが、松陰の学才を惜しんだ長州藩は、松陰の士籍を削って俸禄を取り上げたものの、彼自身は国で謹慎させるという穏便な処置で済ませた。それどころか、嘉永6年(1853)1月には、諸国遊学の許可を与えた。
 再び江戸へ上った松陰は、また、とんでもないことをやった。
 嘉永6年は、ペリーの黒船がやって来た年である。それは6月だった。開国を求めるアメリカ大統領フィルモアの親書に対して、幕府は即答できなかった。それでペリーは一度引き揚げ、翌年1月、返答を得るために再び浦賀に姿を現した。再来した黒船で、吉田松陰はアメリカへ密航しようとしたのでる。
 3月、松陰は、足軽の金子重輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否された。二人が船上にいる間に、二人の荷物を乗せたまま小舟は流された。そのため、しかたなく、松陰は幕府に自首した。
 脱藩と違って、今度は国事犯である。2人は本国へ送還され、市街地の東のはずれにあった野山獄(萩市古萩町)に幽閉されることになった。
 野山獄からさらに東の松本川を越えると、「松下村塾」がある。「塾」を通り過ぎて、南の山を少し登った所が、松陰の生誕地で、市街地を望む一画に、今は、松陰と金子重輔の銅像が立っている。足軽だった重輔は、身分の差のためにひどい扱いを受け、野山獄に入った翌年に病死した。
 しかし松陰はへこたれなかった。囚人の中で、書に秀でた人には書を教わり、俳諧に造詣の深い人を中心にして句会を開いた。松陰自身は、『孟子』をわかりやすく講義した。松陰は、一人一人の個性を育てることのできる、天性の教育者だったのだろう。そのおかげで、ぞれまで前途に全く光明を見出せないでいた囚人たちが、生き生きとした顔を見せ始めたのである。
 獄囚となって1年2か月後の安政2年(1855)12月、松陰は、実家の杉家で禁固を命じられた。仮出獄のようなものだ。ここで松陰は、著述に専念するかたわら、家族に『孟子』を講じ始めた。母親も喜んで松陰の講義を聞いたという。
 それが伝わり、ひそかに松陰の講義を聞きに来る者が現れるようになった。
 杉家の母屋では手狭になり、敷地内にあった物置小屋を改造して講義室を作ったのは、安政4年11月である。8畳の広さだった。
 今、「松下村塾」を訪ねると、「講義室」という案内板が置かれている方の建物だ。そちらから見ると、奥に増築部分がある。「講義室」を造ったら門下生が急増したので、翌年の初め、城下の廃屋を買って解体し、その古材で3畳2間に4畳半という建物を増築したのである。今、そちらには「幽囚室」という案内板が置かれている。松陰が起居し、著述した建物だからだ。時には門下生が泊まりこむこともあった。
 実は、「松下村塾」という看板は、松陰が3代目である。最初は、玉木文之進の私塾だった。文之進が藩の役職に就いたために、杉家の隣にいた久保五郎左衛門が塾を引き継いだが、久保時代の「松下村塾」は、読み書きそろばんを教える寺子屋程度の授業内容だったという。ただし、この時代に伊藤利輔(後の伊藤博文)などが塾生になっていた。松陰が「松下村塾」の名にしたのは、表向きは久保の塾のままにしておいたからだ。松陰はあくまでも囚人であり、禁固の身だったからである。
 松陰は、身分に関係なく塾生を迎え入れた。そして、一段高い所から講義するのではなく、「共に学ぼう」という姿勢を貫いた。それぞれの学力、興味の持ち方に応じてテキストを選択して与え、本人のやる気次第で学力、思考力が伸びるように仕向けた。門下生が何人いても、個人教授の寄せ集めのような塾だったのである。
 下関在住の直木賞作家、古川薫氏の『松下村塾』(新潮選書)によると、街の不良少年までがやって来たという。蛤後門の変で死んだ久坂玄瑞(くさか・げんずい)と並んで、塾の双璧と言われた高杉晋作なども、上級藩士の子弟でありながら、藩校明倫館にはちっとも顔を出さない、ある意味では「不良少年」だった。高杉に言わせれば、明倫館の授業などちっとも面白くなかった。高杉は、家族が寝静まってから家を脱け出して、松陰のもとへやって来た。囚人である吉田松陰と接触することを、高杉の家族が許さなかったからだ。
 ここで彼らが、いかに勉学に励み、松陰を慕ったかについては、古川氏の著作などを参照していただければと思う。
 その後、再び「時代」が松陰を動かした。安政5年、14代将軍の継嗣問題や、アメリカとの通商条約締結などについて、大老井伊直弼に反対する人々が処罰され始めた。いわゆる「安政の大獄」である。京都では尊攘派の指導者と見られた梅田雲浜が捕らえられ、松陰と親しかった漢詩人、梁川星巌は、逮捕直前に、当時猛威をふるったコレラで死んだ。この時、松陰は痛烈な幕政批判の書を藩に提出した。松陰の過激な論を持て余した長州藩では、再び松陰を野山獄に入れてしまった。
 それは、安政5年12月のことである。「松下村塾」はそれから少しの間、書家でもあった富永有隣が教授を続けるが、松陰の再下獄によって、実質的には幕を閉じた。富永は、松陰門下の奔走で、野山獄から釈放された人だ。

農民思想家・菅野八郎との接点
 松陰が江戸へ呼び出され、伝馬町の牢に入ったのは、安政6年7月9日だった。容疑はふたつあって、ひとつは梅田雲浜との共謀、もうひとつは、京の御所にあった捨文が松陰の筆跡に似ている、ということだった。どちらも松陰には関係ないことで、尋問は簡単に終わった。
 が、ここで松陰は、取り返しのつかない失敗をおかす。老中間部詮勝(まなべ・あきかつ、越前鯖江藩主)を襲撃する計画を、自らしゃべってしまったのだ。間部老中は、井伊大老の腹心として京に乗り込み、朝廷対策に当たっていた人物だ。松陰は「松下村塾」にいたころ、水戸藩に井伊直弼を襲撃する計画がある、といううわさを聞いた。「水戸が大老なら、長州は老中の間部を」と、松陰は考えた。そして、「決死の門下生」を募り、血盟して、実行に移そうとした。そのために、藩から武器・弾薬を拝借したいという願書まで出している。当時、これはあまりにも無謀な計画だった。高杉晋作でさえ、あからさまに反対している。そんなことがあったので、間部老中襲撃計画は、既に幕府に知られているだろうから、後から追及されるより、自白した方がいさぎよいと松陰は考えたらしい。ところが、幕府の方では、この計画を全く知らなかった。自白は、やぶ蛇だったのである。
 吉田松陰という人の生涯をたどってみると、黒船に乗り込んだ時に、荷物を積んだままの小舟を流してしまったことにしても、この「老中襲撃計画」の自白にしても、肝心なところで用意周到さに欠ける印象がある。眼前の目標にのめりこんで、周囲が見えなくなる質なのかもしれない。「狂」とも呼ぶべき精神状態になってしまうのだろう。
 さて、この伝馬町の牢で、農民思想家・菅野八郎と、松陰が接触する機会があったことは、寺尾五郎氏の『草莽 吉田松陰』(徳間文庫)で教えられた。
 菅野八郎とは、奥州金原田村(現在の福島県伊達郡保原町金原田)の農民で、後に慶応2年(1866)、10万人を動員した「信達(しんたつ)世直し一揆」の指導者と言われている。「信」とは信夫郡、「達」とは伊達郡のことで、現在の福島県中通り(新幹線が通っている地域)の北部一帯である。このうち信夫郡は、今ではすべて福島市に統合されている。
 「信達世直し一揆」は、江戸時代の農民一揆の中でも最大級の規模で、多くの豪商の家が打ちこわされた。江戸の「読み売り」(瓦版)には「金原田村八郎世直し大明神」と書かれ、大評判になった。八郎が農民の指導者だったことは間違いなく、岩波書店の「日本思想体系」第58巻『民衆運動の思想』にも、菅野八郎が取り上げられている。しかし一揆について、「指導者と言われている」と、私があいまいな言い方をしたのは、八郎自身はその事実を否定しているからだ。八郎の名前が持ち出された裏には、複雑な事情があったらしい。それについては、また別に詳しく書きたいと思っている。
 吉田松陰が伝馬町の牢に入ったのは、「信達世直し一揆」の8年前になる。この時、八郎も牢にいたのは事実で、松陰の書簡(安政6年9月6日、堀江克之助宛)に、「昨日評定所は(略)小生、八郎、せいまでに御座候」、つまり「昨日取調べを受けたのは、私、八郎、せいまでだった」と記されている。
 八郎は、義弟の水戸藩士、太宰清右衛門の事件に連座して捕縛され、前年12月から入牢していた。その事件というのは、安政5年8月、諸外国との修好通商条約締結に対して、孝明天皇が不満を述べた勅諚をひそかに水戸藩に下したことで、安政の大獄の直接的なきっかけとなった事件だ。関係者として太宰清右衛門の家が捜索された時、八郎の手紙が発見された。その手紙には、幕政を批判する内容が記されていた。それで、幕吏がわざわざ奥州金原田村まで出かけて、八郎を捕らえたのである。
 菅野八郎と太宰清右衛門の関係については、少し説明が要る。
 実は清右衛門は、元来の水戸藩士ではない。彼は、保原(伊達郡保原町)の真綿糸問屋「淀屋」の長男で、清右衛門の妻は、八郎の妻の妹だった。それで八郎と清右衛門は義理の兄弟になる。その妻が若くして死んだので、それを機会に店は弟に譲り、清右衛門は江戸・日本橋に開いていた支店の店長になった。松陰の手紙に「せい」と書いてあるのは、江戸に出てから清右衛門が迎えた後妻である。当時、真綿・絹糸は大変なもうけがあり、清右衛門は、出入りしていた水戸藩に献金して武士になった。武士の株を買った、と言い換えてもいい。幕末になると、そういう例は珍しくなかった。珍しかったのは、商人から武士になった清右衛門が、元来の水戸藩士以上に、尊攘派の武士として活躍したことだろう。天皇の勅諚降下にも一役かった。最後は、天狗党に参加して追い詰められ、自刃することになる。が、安政の大獄の時には、うまく逃げた。
 彼の名も松陰の手紙に登場する。8月13日の、久保清太郎・久坂玄瑞宛の書簡で水戸藩の逮捕者に触れ、「太宰清右衛門などは逃げ去り、その妾せい(今、隣房の女獄にいる)、その僕頼助(これは病死したそうで、ふびんなことだ)、せいの姉婿、奥州信夫郡保原在の八郎(今西大牢に生存す)は、皆人質にとられた。せいが捕らえられた時は、江戸から30人も来たと、せいが言っていた」(現代語訳は加藤)と、松陰は書いている。「頼助」は「雷助」が正しいし、保原は伊達郡だし、八郎の妻は「せい」の姉ではない。そういう細かい間違いはあるが、八郎が太宰清右衛門の縁者であることを、松陰は認識していたことが、この手紙で知れる。松陰がどうして清右衛門を知っていたのかは、よくわからない。東北遊歴の途、水戸で知り合ったか、それとも、この時投獄されていた水戸藩士から聞いたのか。
 ともあれ、松陰は、当時49歳の八郎の顔も見たはずだ。しかし、会話はなかったと思う。あれば、筆まめの松陰が、書きとめていたに違いない。実際、松陰は、同房の囚人のことをかなり書簡に書いている。しかし八郎については、ここに挙げた2通の書簡に名前が出て来るだけである。
 『草莽 吉田松陰』の中で寺尾五郎氏は、「重要なことは、歴史のあやつる運命の糸によって、この二人の人間が安政六年の数日間を、同じ時、同じ場所で、同じように端座し、じっと見つめあっていたという事実であり、偶然の不思議さである」と述べている。やや文学的表現だが、確かに、そういう歴史の面白さは感じさせてくれる。ただし「数日間」は間違いだ。松陰が入獄する前から八郎は牢にいた。10月7日に判決があって、「せい」は無罪、八郎は「遠島」となったが、実際に八郎が流刑地の八丈島へ向かったのは、翌年4月だった。つまり、7月9日に入獄して、10月27日に斬首されるまでの吉田松陰を、八郎は知っていたはずなのである。
 伝馬町の牢で、八郎が松陰に感化され、後の八郎に何らかの影響を与えたとすれば、小説的な面白さも加わるのだろうが、八郎の思想家としての成長は、思想犯の多かった八丈島で、京都・加茂の神主と言われる梅辻飛騨守に出会い、さまざまなことを学んだおかげだとされている。八丈島時代から始まった八郎の著作活動の中にも、吉田松陰の名は出て来ない。
 ところが、伝馬町の牢には、もう1人、福島の人間がいた。そしてこちらは、松陰の最期に重要な役目を果たすことになる。

松陰の遺書を守った男
 伝馬町の牢は、武士が収容される揚屋(あがりや)、庶民が入る大牢、それに女性の牢に分かれている。松陰が入ったのは「西奥の揚屋」だった。新入りの囚人は、まず牢名主に金を渡さないと板(きめ板と言う)でたたかれる慣習があった。しかし松陰は、無一文で入牢したにもかかわらず、「上座の隠居」という、牢内の役職を牢名主から与えられ、優遇された。松陰はそれを久坂玄瑞宛の手紙(8月13日)で、「ことのほか安楽世界」と書き送っている。
 それは前々から、牢名主が松陰の名を知っていたからだという。牢名主は「元奥州福島藩士にて当時能勢久米次郎家来沼崎吉五郎」(松陰の手紙)だった。沼崎は、殺人の疑いで入牢し、既に5年目だった。寺尾氏は「人を斬って逃亡、侠客となった沼崎吉五郎」と書いている。「侠客」かどうかは、確かめる史料を私は持ち合わせていないが、沼崎がそうした肌合いの人間だったことは確かだ。
 沼崎が、どうして松陰を知っていたかもわからない。が、沼崎は松陰に頼んで、中国古代の兵法書『孫子』を講義してもらった。松陰がそういう学者であることを、沼崎は知っていたのだ。それで、萩の野山獄の光景が再現されることになったのである。
 松陰は記憶によって、『孫子』13篇のうち、5篇までを講義した。しかしその後は記憶に自信がなかったらしく、『孫子』の注釈書を入手して牢に持ち込めないかと、当時は江戸にいた高杉晋作に手紙(7月19日)を出している。8月13日の久坂玄瑞宛の手紙では、『孫子』のほかに『孟子』も時々、沼崎に講習していると書いている。松陰は、本気で沼崎に講義したのだ。松陰は、常に教育者だった。
 吉田松陰は10月20日、「松下村塾」門下生で、江戸にいた飯田正伯・尾寺新之丞連名宛の手紙を書いた。松陰は、処刑される日が近いことを予感していたのだろう。自分の死後のことを二人に頼む内容だった。「囚中にて恩になり候(そうろう)人、沼崎吉五郎と申す人なり。この人篤志の人なり、用に立つべき人に御座候。遠島也」と書き、自分の首を葬ることを沼崎に頼んだ、ということまで書いている。そして飯田と尾寺の2人に、金を工面して沼崎に3両贈ってくれと頼んでいる。それは「私が生前の恩を忘れないという志を表す」ためだと、松陰は言う。「遠島也」とあるように、沼崎の刑は決まっていて、翌年、三宅島へ流された。
 そして25日、松陰は『留魂録』(りゅうこんろく)を書き始めた。『吉田松陰全集 第四巻』(昭和九年、山口県教育会編纂、岩波書店発行)の解題によると、4つ折りにした薄い半紙10枚を、細かい字でびっしりとうずめたこの著作を書き終えたのは、翌日の黄昏(たそがれ)だったという。松陰は遺書のつもりではなかったようだが、結果的には遺書となった。そして、その最初に書かれた「身ハたとひ武蔵の野辺に朽(くち)ぬとも留(とどめ)置(おか)まし大和魂」は、松陰の辞世とされる。
 その翌日の10月27日、松陰は斬首された。
 『留魂録』は、幕府の尋問の様子、牢内で知り合った人々のことを書き、主だった門下生(松陰は「同志」という言葉を使っている)のことを彼らに紹介した、という内容だ。気負いは全くなく、死を覚悟した人の強い信念が、非常に冷静な文章で綴られている。『全集』に掲載されているこの著述の写真を見ても、字の乱れはない。
 松陰の死後、『留魂録』を長州へもたらしたのは、飯田正伯のようだ。すぐにいくつも写本が作られ、門下生たちに読まれた。その写本のいくつかは現存するが、飯田がもたらした原本の方は、今は行方不明になっている。
 さて、そのうちに、門下生の中で、飯田が送った『留魂録』は「先生の筆跡ではない」と言う者が出て来た。それはなぜか、という疑問が解決するのは、明治9年、松陰が没して17年後のことだった。
 そのころ、松陰の門人で、神奈川県令を務めていた野村靖を訪ねて来た男がいた。野村は「田舎じみた、貧しい身なりの老人」と書き残している。それが、三宅島から戻った沼崎吉五郎だった。そして沼崎はふところから、松陰真筆の『留魂録』を取り出して、野村に渡したのである。
 獄中で、松陰はすぐに写本を作らせた。書き写したのがだれかはわからないが、飯田の手に渡ったのは「最初の写本」だった。真筆の方は、「長州の人なら、皆私を知っているから、島から戻ったら、だれでもいいから長州人に渡してくれ」と言って、沼崎に託したのである。松陰がどれほど沼崎を信頼していたか、このことだけでも推測がつく。そして沼崎は、17年間、『留魂録』を守り通したのだった。
 『全集』の解題には、「その折畳みの跡深く垢染(あかじ)みたるは、沼崎が流竄(るざん)十幾年に渉る保存の苦心を物語るのであらう」と記している。この真筆は、明治24年に、萩の松陰神社に納められた。「松下村塾」の地に創建されたのが松陰神社で、今も真筆『留魂録』の写真見ることができる。
 野村靖が真筆入手の経緯を書き残したのは、それが松陰神社に納められた時だ。野村は、沼崎を「至誠の人」と評している。だが、沼崎は、訪ねあてた長州人が、松陰の直弟子だったことを知って喜び、獄中の松陰の様子を詳しく語ると、松陰の遺墨を何枚かそこに置いて立ち去った。その後の消息はわからない。
 福島市出身の私としては、同郷の人、沼崎吉五郎について、もっと語りたいのだが、ほとんど手がかりがない。松陰の書簡にあった「当時能勢久米次郎家来」が間違いなければ、沼崎吉五郎は、福島藩主板倉氏の直接の家来ではなく、藩士能勢久米次郎の家来、「陪臣」である。こういう人のことは調べにくい。まして福島藩は、戊辰戦争後、現在の愛知県へ移封され、幕末の史料がどれだけ残されているかも、私には見当がつかない。沼崎が人を殺したというのも、どういう事情で、だれを殺害したのか、さっぱりわからないのである。
 だが、『留魂録』を後世に残した、という事実のほかは、沼崎吉五郎に関しては、取るに足らないことなのかもしれないとも、私は思っている。沼崎は、まるで「歴史の必然」のように登場し、役目を終えたところで、さっさと舞台から姿を消してしまった。
 歴史を調べていると、沼崎のような人が、しばしば現れる。


[参考文献]
『吉田松陰全集 第四巻』(山口県教育会編纂=岩波書店)
『日本思想体系 54巻 吉田松陰』(岩波書店)
『日本の思想 19巻 吉田松陰集』(筑摩書房)
『草莽 吉田松陰』(寺尾五郎=徳間文庫)
『松下村塾』(古川薫=新潮選書)
『山口県の歴史散歩』(山川出版社)
『保原町史』(福島県伊達郡保原町)
『金原田八郎伝』(高橋莞治=保原町歴史文化資料館)
『信達世直し一揆と金原田八郎展』(保原町歴史文化資料館)
『ふくしまの歴史3 近世』(福島市教育委員会)


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