んだんだ劇場2004年10月号 vol.70
遠田耕平

No40  雨期の青い空

アップアップの脳みそ
 今年の9月のカンボジアは例年になく雨が多い。雨期特有の日中の雨はシャワーのように通り過ぎて、すぐに雲の切れ目から熱帯の強烈な日光が降り注ぐのであるが、夜にしとしとと降り続く雨があることには驚いた。
 僕の行きつけのプールの横を流れるメコン川の水位は去年よりも2m以上も上がっている。乾期に見えた中洲はすっぽり赤茶色の水の下に沈んで、その水はメコン川からトンレサップ川に向かってずんずんと逆流している。今年のトンレサップ湖の水位はさぞかし高くなっているだろうなと想像するのである。
 そもそもカンボジアの中心に位置するトンレサップ湖は、メコン川の貯水池(水がめ)のような役割をしていて、メコン川の水量が一気に増す雨期には川の水がトンレサップ川を逆流してトンレサップ湖を2倍にも膨れ上がらせる。去年も海と見間違えるほどの大きな波が風で起こっていたトンレサップ湖であるが、今年はさぞ大変だろう。湖面にプカプカ浮いていた家も学校も皆そろって支流の川に避難していることだろう。

 僕の9月の仕事もふと気がつくと水かさが増している。逆流するところもないの小さな脳みそは水につかってすぐアップアップである。こんな小さな国の、たかが予防接種の仕事でと思うのだが、なにやら忙しい。気が付くとやってもやっても仕事が積みあがっていく。これは僕の生来の不器用さのせいだなと嘆くのだが、どうも、そのせいだけでもないらしい。
 僕の仕事は生活も習慣も言葉も違う人たちが相手だ。そして、その人がいないと仕事にならない。その人たちがちゃんと理解してくれて、その人たちの力でやれて、はじめて仕事の意味も出て来る。つまり時間がたっぷりとかかる。かかって当たり前なのである。
 何をしていたかというと、ワクチンの年間供給の算定、麻疹の全国接種のまとめ、ジフテリア患者の村での調査、使用した注射器と針廃棄の為の焼却炉設置、全県の衛生局長と小児科医を集めた予防接種の中期報告会、オーストラリアのメルボルン大学との共同研究でのB型肝炎の感染率調査、報告システムとマネージメント強化の為の県衛生局への指導、ポリオ疑いの患者の村での調査、百日咳患者の村での調査、ポリオ根絶確認の国内委員会の準備と開催、WHOへの報告書作成、麻疹の実験室診断のサポート、日本政府の援助による600の冷蔵庫と冷凍室の引渡し式、保健所の接種活動の視察、そしてマニラの地域事務局との様々なやりとり・・・。
 まあ、とにかく途切れない。そんな張り裂けそうな小さな脳みその持ち主の唯一のリラックスが水泳というわけである。

百日咳の赤ちゃん
 先月は、三種混合ワクチン(DPT)にはジフテリアと破傷風と百日咳から子供を守るワクチンが混ぜてあるというお話をした。そしてジフテリア疑いの子供の話を村での調査と絡めてお話ししたが、今度は地方で百日咳の赤ちゃんが見つかったという報告が飛び込んできた。
 百日咳は激しい咳の発作を特徴とする細菌による感染症である。読んで字の如く、百日とは言わないが、咳発作が数週間続く。引き続く咳のために息もできない。やっと息をしようとすると、気管支に分泌される粘調な痰が呼吸を妨げる。苦しくて、乳児はしばしば吐いたり、失神したりする。さらに性質が悪いのは力の弱い乳幼児で罹りやすく、死亡率は特に一歳以下の乳児できわめて高くなる。皆のよく知っている「気管支喘息」は気管支が細くなり呼吸を著しく妨げるのであるが、百日咳は菌の出す毒素が気管支の粘膜を刺激して咳発作を起こし、粘調な痰を大量に分泌させ、気管支をふさいで、呼吸を妨げるのである。
 戦後日本でも10万人を越える患者と乳児の死亡が報告されたが、三種混合ワクチン(DPT)の実施で急速に患者数は減った。しかし、ワクチンの開始時期が遅かったり、接種率が低かったりで、現在の日本を含めた先進国でも予防できる筈の赤ちゃん達の死亡が毎年報告され、問題となっている。皮肉なことに大人では症状が軽いために、感染している母親や医療関係者が気がつかずに乳児に感染させることが多いと言われている。

慣れない聴診器
 さて、久しぶりに使い慣れない聴診器を片手に田舎に車を走らせた。2時間ほどプノンペンから南下すると、国道沿いの田んぼの脇に県の女性スタッフがバイクにまたがって待っている。そのバイクに先導してもらい、さらに田んぼのあぜを、今にも落ちそうにランドクルーザーを走らせる。豚もウシも犬もアヒルも田んぼのあぜで寝ている。そのたびにスタッフが降りて「しっしっ」と移動させる。とうとう進めなくなるので車を降りて、しばらく歩いて農家に着いた。

あぜ道を歩く保健省と県のスタッフ達

慣れない聴診器
 農家の縁台にはまだ生まれて2ヶ月のぽっちゃりした男の赤ん坊が寝かされている。咳が止まらず命も危ないのかと心配してきたが、まずはよかった。お母さんの話では、2週間続いていた咳発作も数日前から少しおさまったが、夜はまだひどいという。
 聴診器を小さな胸と背中に当てて、「そう言えば最近あまり使っていないなあ、」と思いながら耳を澄ます。なるほど、赤ん坊の小さな呼吸とともに「ズルズル、ズルズル」と気管支に詰まっている粘調な痰が動く雑音が入る。そうしているうちにその赤ん坊が咳発作を起こした。咳をたて続けにしたあと、息を吸おうとすると詰まってしまい、しばらく無呼吸になってしまう。背中を叩いてやると口から白色のネバネバした痰を小さな口元に出した。幸いな事に咳発作は長く続かず、赤ちゃんの機嫌も良い。

百日咳の咳発作
 この家族は5人の子供がいて、この赤ちゃんは一番下。6歳の姉もこの赤ん坊が罹る前まで2週間以上の咳発作を続けたというが、今は良くなっている。胸の雑音もない。ただ、激しい咳発作で息むために眼球の結膜の出血を起こしている。この出血を百日咳の診断基準に入れる人がいるがWHOでは2週間以上続く咳発作とそれに伴う嘔吐と失神だけで結膜の出血は基準に入れていない。しかし、幼児ではこの出血が診断に役立つことは確かなようだ。例によって喉の一番奥に綿棒をこすりつけて検体を採取する。兄弟達からも取る。
 残念な事にこの家族の子供達は一人もワクチンを接種していなかった。この赤ちゃんだけはBCGを生後受けていたがまだ生後2ヶ月と言う事で、定期予防接種の3種混合(DPT)を始めていなかった。(カンボジアでは生後1ヶ月半から受けられる。)百日咳が性質の悪いもう一つの点は母体からの免疫の移行がほとんどなく、新生児でも乳児でも、ワクチンを受け始める前に罹ってしまう例が多い事である。この赤ちゃんもそういうことになる。
 集まってきた近所の子供達のワクチン歴も聞いてみたが、それほど悪くなさそうである。あるお母さんがぼやく。村まで保健婦が月に一度来てくれても田んぼに出ていて会えないことのほうが多いし、保健所までも遠くて数キロあるしなと・・・。なるほど、僕はそこで力説、どうか保健所に来てください。保健所は何時でもワクチンができるようになっていますから、少し遠くても時間の都合のつくときにきてください。ただですからね、と。まあ、実はそれ程うまくいっていないのだが・・・。

 農家の人が椰子の実を用意してくれている。ナタで切った切り口からあふれ出る椰子のジュースを自分の口に押し付けて流し込むと、乾いた喉にしみ込む。やっぱりカンボジアではまだまだ百日咳は流行しているんだな、と思いながら顔の前に抱えている椰子の実から視線を上に移すと空が見えた。田舎の田んぼの上に広がる空はどこまでも広い。立ち上がる雨期の白い雲と青い空がどこまでも広がっている。僕は何もしていない。でも、とにかく子供が死ななくてよかった。

百日咳の後に残る結膜の出血

椰子の実と家族


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