遠田耕平
No41 ピチュンバンとシハモニ王
ピチュンバン、カンボジアのお盆
10月の12,13,14日はカンボジアではピチュンバンと呼ばれる祭日である。これは丁度、日本でいうお盆である。ここではこのお盆の2週間前からお寺さんにお参りに行き始める。そのお祭りの3日間は死んだ家族の人たちの霊が帰ってくるという、その準備である。そして、そのお盆の当日は富める者も、貧しい者も、真面目な奴も、いい加減な奴も、とにかくお供え物を持ってお寺さんに行かないといけないのである。なぜなら、ちゃんと家族からのお供え物がないと、帰ってきた霊たちが家族のお供え物は何処だと探し回るからだという。そして、万一探しても見つからなかった時は怒り出して大変なことになると言うのである。日本的な「うらめしやー」、という世界とは少し違う。
僕はそもそも教会と神父嫌いのひねくれクリスチャンで、しかも仏教には全く縁のないところで育ったので、仏教的なしきたりがわからない。栃木の典型的な日本的田舎育ちの女房から教えて貰った。
日本ではお盆と言うと自分たち家族のお寺がある人はそのお寺のお墓へ行くか、もし決まったお寺のない人でも霊園などの家族のお墓のあるところをまで行って、お墓参りをし、家族の死んだ霊を迎えに行く。(いや、行こうという努力くらいはする。)それから家に連れてきて、家の中の仏壇でお盆の間ゆっくり休んで貰うのである。(霊を提灯の火の中に入れてもってきて、仏壇にその火を移し、茄子やら胡瓜やらも供えるらしい。)それから、送り火をするなり、供え物を処理するなりして、霊に帰っていただく。
だから日本ではお墓が大事なのである。お墓はなるべく近くにないといけない。ところがそんなお墓は都会では何百万円もしてとても大変である。家族代々のお墓が田舎にあるような人もその土地に行くのも、これを何代にも渡って守るのも大変そうである
カンボジアは違う。そもそもお墓がない。田舎でもそもそも中国系やイスラム教徒の村以外はお墓と言うものを見ない。上座部仏教(小乗仏教)の国であるが、家族が死ぬと死体はお寺に持ってきてそこで焼く。灰は家族にお金があれば、チャイダイという仏塔を寄進して入れるが、一般の人はお寺さんで他の人たちと同じところに埋めてもらう。しかし、そこに埋まっているからと言ってそこがお墓と言うわけではない。日本のようにそのお寺、そのお墓でないといけないということはないのである。クメールの人にとっては家族の霊を迎えるお寺は、忙しければ住んでいる家の傍のお寺でも、働いている場所の傍のお寺でもいいのである。家族の霊は、家族がお供えをして迎えてくれるお寺なら、どこのお寺であれちゃんと見つけて、フワフワと飛んできてくれるのである。これは日本に比べると随分とおおらかで、無理がなくて、いいなと感じるのであるが、皆さんはどう思われるかな?
保健省の仲間がお寺に一緒に行こうと声を掛けてくれた。女房の分のお供えセットまで用意してもらって、プノンペンから一時間ほど車を走らせたの郊外の小高い山の上にあるウドンというお寺に行った。(ウドンは日本のうどんの語源だと人に言われたが。)
山はプノンペンとその近郊からお参りに集まった正装した人たち、出店、おこぼれをねらう乞食たちでごった返している。カンボジアでも女性達が元気だ。僕の友人も親族の10人の女性陣が白いレースのブラウスと長いホールという絹の腰巻という正装で参加、二人の男が運転手で連れてこられた。
お寺の中にお供えを抱えて入ると、だいだい色の袈裟を着た若い坊さんが入り口近くの台座の上に座り、周りにはぐるりと家族が取り囲んでお供え物を渡す。すると簡単な読経があって、次ぎの家族に入れ替わる。若い坊さんはよそ見をしながら、あくびこそしないが、首筋をぼりぼり掻いたりして落ち着きがない。周りを見渡しても高齢の坊さんは一人も見ない。目に付くのはしまりのない顔をした学生のような若い坊さんばかりだ。
お坊さんを囲むお供え物 |
ご飯を全ての鉢に少しずつ入れて供える |
ここで忘れてならないのはポルポト時代(1975−1979年)に何万人という高僧たちが殺されたということ。寺院も破壊され、カンボジアの仏教は壊滅状態にされた。その後、仏門に入る事はカンボジアの慣習であるが、指導者が居ない。失業対策でチョッコシ入ってくるなんていう怪しからん若者も多い。ただカンボジアの人たちはそんなことはそれ程気にしていないようだ。これも大らかなカンボジアの一面かもしれない。
読経のあと、さらに線香を供え、お花を供え、食べ物を供える。お寺の床は食べ物で足の踏み場もないほどである。お坊さんはそのお供えの食べ物を全て一口は口にしないといけないらしい。お坊さんはお昼を過ぎると何も食べ物を口にしてはいけないので、それは大忙しである。そのせいかカンボジアのお坊さんはピチュンバンの時だけは太るという。友人の家族はお供えが終わると、早速お寺の横でご馳走を縁台に広げてピクニックである。僕も女房もそのお相伴に預かり、お坊さんに負けないくらいにおなかが膨らんだようである。
お寺の床を埋め尽くすお供え物、お坊さんはお昼前に食べないといけない。 |
正装のカンボジアの女性達
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ジフテリア、百日咳、その後
カンボジアからの手紙の前回、前々回にジフテリアと百日咳のお話をした事を覚えているだろうか。ジフテリアの疑いのあの生き残った子供とそのお母さんのことを覚えているだろうか。あの子の喉から採取した検体を日本の感染症研究所に送ったところ、一ヵ月後、ジフテリア菌が見事に分離できたと報告がきた。僕も保健省の仲間も興奮した。これがカンボジアで菌を証明できた初めてジフテリアの患者だからである。協力してくださった感染症研究所の先生方に心からの感謝である。ジフテリア菌の毒素も証明され、カンボジアに確実にジフテリアが今も伝播し、子供達の命を奪っている事がハッキリと分かった。
ベトナム国境に近い村で4人のジフテリア患者のうち3人の子供が亡くなった。亡くなった子供達はワクチン(三種混合ワクチンDPT)を受けていなかった。生き残った子だけがワクチンを受け、感染はしたものの助かった。カンボジアにはまだ居る。報告されないで感染し、死んでいるジフテリアの子供達がまだ確実にいる。感染している子供達の本当の数を知り、ワクチンをうけていない子供たちの実態を知る事が僕らの急務だ。そして、ワクチンの接種の改善で、死ななくてもいい子供の命を少しでも救うことがワクチン計画で働く僕らの念願となる。
百日咳の菌も前回お話したあの赤ちゃんの喉から分離された。これもカンボジアでは百日咳菌分離の初めての例となる。百日咳菌はジフテリア菌に比べても分離がずっと難しいと言われていたものだが、発症から3週間経った患者の喉と鼻腔からも十分確認ができる事も分かった。百日咳はジフテリアに比べて死亡率はずっと少ないが、ジフテリアよりもずっと広くまだカンボジアの中で流行している。三種混合ワクチン(DPT)の接種にまだまだ改善する余地があることを教えてくれている。
今回のジフテリアと百日咳の経験は、ポリオや麻疹だけでなく、ジフテリアや百日咳においても、菌の証明が、感染症の診断上だけでなく、その感染の実態を知る上でいかに大事であるかを改めて教えてくれたような気がしているのである。
新しいカンボジアの王様
第二次世界大戦後フランスから独立し、1953年に王位に就いたシアヌーク王は、激動の時代の中で、一時は国家元首となり、ベトナム戦争当時のアメリカ傀儡のロンノル政権下では国外追放、ポルポト時代、ベトナム占領下での中国、フランスでの亡命生活を経て、カンボジア和平実現のために1991年に12年ぶりにカンボジアに帰還し、再び政治の舞台に返り咲く。その後、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)とともに、1993年の初めての民主選挙実施を見守る。
その後選挙は1998年、2003年と実施されるがフンセン率いる現政権の政治の混乱は絶えず、国会が選挙の一年後にやっと開かれた。そのたびに仲介役としてシアヌークは国民からも国際社会からも借り出され、一定の評価を得てきた。そのシアヌークも82歳と言う高齢を理由についに退位を表明した。
彼の現夫人モニネス王妃には二人の息子がいるが、一人は昨年病気で突然なくなり、世継ぎは51歳になる長男のシハモニ王子と言うことになる。ところが最近まで彼の存在はカンボジアの人たちですらほとんど知らず、マスコミですら取り上げることがなかった。
なんとシハモニ王子は全くのフランス育ちで、フランスでバレーダンサーになっていたのである。バレーダンサーにこのドロドロしたカンボジアの政治の頂点に立つことができるのか?父親のように小柄ながら、国のことを話し始めたら止まる事のないバイタリティーを内外に見せる事ができるのか。誰もが不安を感じた。
政府は即位の式典のために急遽5日間の休日を発表。シハモニ王子が飛行機でカンボジアに降り立った。町中のシアヌーク王の肖像画の看板が新王のシハモニの肖像画に架け替えられた。それがなんと親父とは比べ物にならない、なかなかの美男子なのである。
三日三晩、王宮の前のメコン川の対岸からは花火が上がり、王宮前では盛大な即位の式典が行われた。シハモニ王は初めて国民の前で演説をしたのであるが、大方の予想に反して、その謙虚で知的で落ち着いた話し振りと態度はカンボジアの誰もを深く印象付けたのである。
これからどうなるかはあまりに未知数である。しかし、確かにこの新しい王様は、戦争の傷跡と、政治混乱の続くカンボジアに一人握りの希望の光を持ってきてくれたようにも感じる。この王様、ゲイだと言う噂がある。でも、カンボジアの人たちは誰一人そんなこと気にとめる様子もない。これもまたカンボジアらしくていい。いい治世さえしてくれたらいいのである。僕もそう思う。
元バレーダンサーのシハモニ新王 |
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