遠田耕平
No42 乾期の雨
カンボジアの水祭り、カンボジアの山と海
11月に入って僕はまた風邪を引いた。雨期もほぼ終わり、乾期の始まり、朝夕の温度がやっと心地よく下がり始める頃、プノンペン中で鼻水をすする音と咳が聞こえる。お手伝いのリエップも盛んにくしゃみをしている。僕は体を鍛えているので今回こそは大丈夫だと思いきや、鼻水がたらたら出てきた。ここで持ちこたえればいいのだと固く決意するが、喉が痛くなり、咳が出始め、とうとう気管支炎になって、夜も咳で何度も目が覚めるほどになった。女房は少し喉が痛いとは言ったものの、咳でもだえる僕を遠ざけて、しっかり持ちこたえた。僕は小さい頃から熱が出ると必ず吐いたので、「お前はお脳が弱いね。」と、よく死んだ母に言われた。実は気管支も弱い。見かけとは随分と違う。
カンボジアの水祭りは11月の下旬、3日間を祭日にして連日、王宮前のトンレサップ河でボートレースが催される。川上の日本の援助で作られた「日本橋」のたもとをスタートに川下の王宮前のゴールまでの約1000メートルをおよそ400艘のボートが2艘ずつの勝ち抜き戦で夜明けから日暮れまで3日間勝敗を競う。この日ばかりは地方から大勢の人たちがプノンペンにやってきて人口は普段の2倍以上の200万以上に跳ね上がり、王宮の周辺は歩行者天国で、出店が立ち並び、歩く隙間のないほどの人出となる。
去年は日本との国交50周年の太鼓の演奏にかり出されて、ゆっくりとボートレースを観戦できなかったので、今年はゆっくり見ようと、自宅から小一時間かけて川に張り出した見晴らしのいいレストランまでぶつぶつ言う女房を連れて歩いた。いい席を確保して、さあ、見るぞと思うや、突然激しい雨が降り出した。
乾期に入ったのにこれは珍しいと思ったが、いっこうに雨は止まない。眼下で出番待ちをしている船では、1艘に50人も60人も乗っている漕ぎ手達が皆濡れ鼠になって震えている。すると目の前を競争して走る2艘のボートの一艘が突然視界から消えた。おや、と思うと、漕ぎ手達の頭だけが水に浮くスイカの列のようにプカプカと流れていく。なんと沈んだのである。漕ぎながら入ってくる水に加えて、雨水の入り方が想像以上に多かった様だ。漕ぎ手達は船につかまりながらどこまでも川下に流れていく。ここの船はとても細長く、船首と船尾だけが長く尖って空に向いているので、くるりとひっくり返るというよりも、そのままざぶざぶと浸水して船首と船尾が水面に残っている感じである。
夕暮れになってもまだレースは続いているが雨は止まない。諦めて家に帰ることにした。歩いて帰る元気もないので、バイクタクシーをつかまえて3人乗りした。これが女房には少しショックだったらしい。大群衆と大渋滞の中を雨に降られて僕と運転手にサンドイッチされたて蛇行しながら走ったせいか、家に帰り着くとぐったりとしてしまった。もっと気持ちいい熱帯の青空の下で乗って欲しかったのがうまくいかないものである。
水祭りで競う色鮮やかなボートと漕ぎ手たち |
ボコ山の岩盤を流れる滝
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連休を利用して翌日から3日間、友人達と地方を旅行した。初日はプノンペンを200キロ余り南下したコンポット県にある国定公園のボコ山に登った。荒れた道を片道二時間かけて車で登るのはかなり身体にこたえたが、大きな岩盤を原生林で覆われた山の頂上には岩盤を流れる滝があって、その水の流れる様は迫力がある。
頂上からは眼下に東シナ海が見えて、なんと目の前に浮かぶ大きな島があのベトナムのフーコック島だとわかった。ベトナムにいた頃、ベトナム最南端の島で、一度行きたいと思って行きそびれた島が目の前にある。見ればカンボジアと陸続きといっていいほどカンボジアに近いところにある。さらに海を見下ろす頂上の台地にはフランス統治時代に避暑地とカジノとして栄えた街の廃墟がまるで天空の街のように残っているのが不思議だった。教会、カジノ、学校までが廃墟とはいえまだしっかりと建物の外観を残している。目をつぶると賑やかだった頃の音が聞こえてきそうである。
翌日は海岸線沿いをシアヌークビルへ向った。ここはカンボジア唯一の貿易港であると同時にフランス統治時代からの唯一の海の避暑地でもある。僕は仕事で何度か来たことはあるが、いつも雨期だったせいで、海はいつ見ても泥色、長い砂浜のビーチも暗くかすんで、どうしてここが人気があるのか分からなかった。ところが今回乾期の海を見て驚いた。水は澄んで、青い空が白い砂浜と青い海を浮かび上がらせている。海岸を歩く売り子から買った炭焼きのイカをかじりながらいい気分である。女房もこのときばかりは日ごろの憂さを晴らしたような顔をして砂浜のイスでふんぞり返っていた。
シアヌークビルの青い海と売り子達 |
イカの炭焼きの売り子さんとお客さん
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田舎で出会った麻痺の子供
仕事は相変わらず何故かオフィスでの雑用で忙しく感じる。連日のように保健省とのミーティング、本部とのメールや電話でのやり取り、来年の予算の算定や新たな調査の準備で毎日があっという間に流れてしまう。苦手な英語のペーパーの束に目を通すのが億劫で、えいと、ばかりペーパーの束をゴミ箱に突っ込んで、フィールドに出かける。
最近は県を一つずつじっくり回る事にしている。衛生局の人とじっくり膝を交えて、過去の報告書を一緒に見直して、報告の仕方、病気の見つけ方、臨床医とのやり取りの仕方等を話す。すると次第にその県、その県の顔が見えてくる気がする。
プノンペンから200キロほど北にあるプルサット県に行った時だ。県の衛生局の予防接種担当の部屋はなんとも狭く、誰が寝るのかベッドまで引き込まれていて、雑然としている。ぼんやりした顔をした小太りの女性が出てきて報告の担当者だというが、郡から送られる月間報告書や保健省に提出する報告書がどこにファイルされているのかなかなかわからない。
このことは他の県でも同じで、報告書はただサインして提出すればいいものだと考えている。下から上がってくる報告に目も通さないし、遅れて届こうが、届かない事があろうが、適当に書いて、サインして中央に流す。誰もチェックせず、咎める事もない。病気の広がりや予防接種の状況、ワクチンの使われ方の監視に利用しない。これは中央の保健省の責任でもあるが、カンボジア人の体質的なところもあるかもしれないと思う時がある。だから話はいつでも、なぜこの報告書が必要なのか、どうやって利用したらいいのかを一つ一つ説明するところから始まる。
溜息をついていると、このぼんやりとした顔の女性が、数日前にポリオに似た麻痺の子供の報告を保健所から受けてすぐに調査をして、便の検体も採ったと、ポツリと言った。早速のその村に行って、その子供を診ることにした。
田舎道を走って辿り着いた家は椰子の木に囲まれた貧しい農家。高床の家の木の階段を登ると8歳位の男の子が目の前の床に座り込んでいる。診ると確かに両足が「突然、ダラリとして動かなくなった」まさにポリオに似た症状だ。母親に聞くとこの子の12歳の兄も同じ頃左手が動かなくなったという。二人とも2週間で少しずつ症状が改善している。
臨床的にはギランバレー症候群といわれる病気に似ているが、いずれ報告を義務付けているもので、この小太りの女性の迅速な仕事に脱帽である。「本当によくやってくれたね。ありがとう。」というと、緊張した顔がほぐれて、皆が嬉しい顔になった。人や物は見かけだけではわからない。ゆっくりと時間をかけて、一緒に動いてみると見えないものが見える。現場ではいつも教わる事がある。
椰子の木に囲まれた村 |
ポリオに似た麻痺の子供達と県の担当者
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