んだんだ劇場2004年4月号 vol.64

No10

禁漁期間中の漁師は……

 東京で「わたしのチャレンジライフ」というシンポジウムがあり、そのパネリストとして出席する事になった。農林水産省の農山漁村女性活動推進事業の一環として行なわれるイベントという事だ。禁漁期間まで残り少なくなってきたこの日は朝3時半出港、いつもと同じ4回網を引き、入港したのが4時半、それから水揚げをして仙台駅の新幹線に6時過ぎには飛び乗っていた。親方に3日間休みをもらい、妻と子供達もこの機会にという事で、お昼の新幹線で一足早く向かっている。久しぶりの東京、この日僕は前の会社の同僚と飲んでその新居に泊まる約束があり、妻と子供は東京駅に迎えに来てもらった友人の安間の家に泊まる事になっている。仙台を出るときは大雪だったが宇都宮のホームを歩く人達はコートを脱いでいた。東京の玄関口大宮についた時、明らかに自分自身の肩に力が入るのがわかった。条件反射的に、暮らしていた時のテンションになってしまったのだ。毎日肩に力が入って生活していたんだなーと今、気が付いた。
 渋谷に9時待ち合わせ。会社の同僚だった吉野、青柳、岡崎の3人と居酒屋で飲んだ。みんなそれぞれ課長、係長になって、それなりの悩みを抱えていた。それでもおやじくさくはなっていない3人を見て少し安心をした。お土産にと持ってきた、獲ったばかりのカレイやシャコを見たいというので袋を開けると、シャコがカシャカシャと動いてみんな感動してくれた。帰りに駅前の交差点で信号待ちをしている時、つい4時間前まで仙台湾の海の上で仕事をしていたのに今渋谷で友達と飲んでいるのがとても不思議で、だけどこのギャップがどこか心地良い気持ちにもなった。その日は吉野君の新居がある東久留米に行き、朝5時まで奥さんも交えて飲み明かした。
 2日目はシンポジウムの打ち合わせ、夜遅く、ディズニーランドで遊んできた子供たちがホテルに着き、部屋の中で夕飯を食べた。明日は本番。
 今回のシンポジウムの流れは、農村と都市の研究をしている大学の先生が司会、進行の舵をとりながら、進められた。僕の他に、長野で実家のりんご農家を継いだ神田さん、フィリピンから山形県朝日町にお嫁にきた清野さん、東京でおにぎりカフェを開いた青木さんがパネリストとして壇上に座り、全国から約100人の人達が参加して僕たちが今までに至った経緯や苦労、現状に耳を傾け、質問が飛び交った。僕自身もいろんな人と話をしてとても楽しく、出会いもあった。たくさんの人が「今の自分」から脱出して「新しい自分」を求めている。そんな僕もその1人であり同じ仲間として共感したり刺激しあったり出来た今回のシンポジウムだった。長野から来ていた僕と同い年の大工の親方が「あんたを見ていたら元気が出てきたよ」と言ってくれた時はとてもうれしかった。あっという間の東京での4日間、僕も家族も楽しく過ごすことが出来た。

 2月29日今シーズンの最後。漁に出られず、道具をしまい、船を洗った。明日から2ヶ月間底引き漁はお休みで海苔屋さんの手伝い専門となる。それにしても今シーズンは荒浜に来て最低の水揚げとなった。出漁数も伸びず、漁獲量の減少、越前クラゲの出現、今年こそ今年こそ大漁の年にしたい。

 3月になり「1級船舶免許」を取りに学校に通いはじめた。この1級小型船舶操縦士の免許は20トン未満の船で、すべての海域を航行できる操縦免許という規定だ。1つ下の2級では5マイルまでしか航行できないので漁業の選択肢が狭まってしまう。最初の4日間が学科、後の3日間が操縦になる。漁師仲間の剛ちゃんと朝7時に車で塩釜市にある船舶免許学校まで通うのだ。海の上でのルール、エンジン、海図の書き方、天気の見方、あらためて講義を受けると今まで間違って覚えていたことも少なくない。特に苦労したのが海図だ。コンパスと三角定規を使って、自分の現在地や行きたい場所までの時間を割り出すのだが、ここ何年か使っていなかった脳の一部分がなかなか可動せず何度も何度もやり直した。明日が学科のテストだと言うのに剛ちゃんと「海図はあきらめ!」となってしまった。
 実技は松島湾で行なわれた。すぐそこを「松島湾観光クルーズ」の定期船が通っていく。観光客が物珍しそうに僕らを見ていく。手を振ってくる人もいたが振り返す余裕は全く無い。いざ舵を持ち自分で船を動かしてみると今まで漠然と船に乗っていたのが良くわかる。風向き、風力、潮の流れ、海面の浮遊物、他船の動き、それらを瞬時に判断し安全に運転しなければならない。一つの判断ミスで大事故になってしまう。車の運転と違って特に難しく感じたのが目的地に行くには風向き、潮の流れを計算に入れて行かないと流されてしまう事だ。方向転換、人命救助、着岸、離岸、ものすごい緊張感のなかで3日間があっという間に過ぎてしまった。よっぽどの大ミスがないかぎり試験に落ちると言う事は無いといううわさだったが、それはそれでかなりのプレッシャーだ。
 いざ本番。方向転換の時に指示されていないのにスピードを上げてしまい、教官に「どこに行く気だ!」と怒鳴られた。その瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。蛇行運転の時舵をきりすぎ、逆にスピードを落としすぎてしまったりと完璧とは程遠い試験だった。次の日が結果発表。自信はまったく無し。
 翌日、海苔の手伝いに行き、家に帰ってから電話で結果を聞こうと思っていた。海苔を積んで岸壁に寄ると剛ちゃんが待っていた。「2人とも合格―!」「よかったよかった!」ガッチリ2人で握手をして辛い1週間は報われた。
 僕らが免許を取りに行っている3月7日「わたりいきいきフェスタ」があった。亘理町の特産物が一堂に会して駅前で販売される。いちご、野菜、アセロラ酢をはじめ、食べ物の売店など大盛況のお祭りである。今年初めて我々青年部もブースを出した。「干しガレイ」の売店だ。前前日からカレイの無料試食用のための500枚と販売用の500枚を天日干しして、パックに詰める作業をみんながしてくれた。当日は雪と強風の中、大勢のお客さんが集まり「美味い美味い!」の声とともにあっという間に試食のカレイは無くなり、4,5枚入って800円。200コ用意したパックも午前中には売切れてしまうほどの大人気となった。実際に自分達の作った「干しガレイ」が本当に売れるのか半信半疑だったのだがお客さんの反応が直に見られて、目の前でどんどん売れていくのが自信となった。まずは一安心。
 それから数日して町の保養センターから注文を受け、100パック分を解凍して干しみんなでパック詰めをした。はじめた頃よりだいぶ段取りが良くなり手際よく作業が行なわれていく。5枚ほどが900円で売られ、在庫がなくなり次第また納品するかたちを取らせてもらう。商売人の感覚も僕ら青年部につき始めたようだ。自分達の獲ってきた魚を自分達で加工して売る。それだけの事にも数多くの作業とお金、時間がかかっていることを僕ら若い漁師達が気付いたことは無駄にしたくない。このリズムを継続していく事が荒浜カレイのブランド化につながっていくのだ。

 3月は次女、風(ふう)の卒園式。4月からは1年生だ。信じられない。彼女が生まれた時には僕は会社員で漁師になろうとはまだ思っていなかった。長女、凪(なぎ)も5年生、一番下の草(草)も4歳になりみんな大きくなったなーと驚いてしまう。この子達の為にも苦労をかけっぱなしの妻のためにも大事なステップアップのシーズンにしたい。


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