んだんだ劇場2004年1月号 vol.61
No17
家庭教師が無理なんて言わせない(下)

「すみませんけど…今日の午後5時、喫茶店で会ってくれませんか。家庭教師のことでお聞きしたいことがあります…」
 1996年7月6日(土)の午前。待ちに待った家庭教師の電話連絡。受話器を持ちながら、身体が震えていました。すぐに、電話で仲間に伝えました。
「待ちに待った電話がかかってきたよ」
「やったな。ガクちゃん。今からドキドキするね…オレも行ってイイ?ガクちゃんが初めて、教える子どもを見てみたい。それに、一人よりは心強いだろ」
(家庭教師をすることになったわけでないのに、気の早い人だなぁ)と思いながら、仲間の言葉を聞いたら、とても元気がわいてきました。電話があったことをサークルのメンバー全員に知らせました。不在の人には、留守電にたっぷりと僕の気持ちを入れました。
 僕に電話をくれた方は、子どものお母さんでした。お母さんは僕の住所を聞き、僕のアパートから歩いて15分の近くの喫茶店を選んでくれました。午後4時頃、僕は身だしなみを整え始めました。何の服を着ていこうかなぁ、髪はどうしようかなぁ…とてもオシャレをしたかった…午後4時半過ぎ、仲間が迎えに来ました。喫茶店には、留守電に入れておいた仲間が待っていました。
「アレ、どうしたの?」と聞くと、「留守電を聞いて、心配で来ちゃったよ」と仲間。残り4人の仲間が頷いていました。「ありがとう」と言うと、「ガクちゃん、よっぽど嬉しかったんだね」と仲間の一人。「なんで?」と聞くと、「ガクちゃんからの留守電、最初は悪戯電話と間違えてしまったわ。モゴモゴって、ウー、ウーって。本当に怖かったよ。最初、イヤらしい電話だと思った。しばらく聞いて、ガクちゃんからだって、分かったよ」
仲間も彼女の話に頷いていました。
「今まで一緒にやって来たから、最後まで関わりたいのよ」
 仲間といた方が心強く、僕の人柄が伝わりやすいと思いました。
 仲間4人と喫茶店に入りました。約束の時間の10分前。まだ、来ていない様子。空席を見つけて、座りました。仲間は男3人、女1人。僕を含めて、5人の学生がいると、何となく威圧しているようで、相手のことを考えて、僕と彼女が一緒の席に座り、他の仲間は1つ離れた席に座り、会話を見守ることにしました。
 ウェートレスに差し出された水をストローで少しずつ吸い上げ、感情の高まりを抑えていると、「こんにちは。三戸学さんですか。白鳥えりなと申します。どうも、今日はお忙しいところ、ありがとうございます」と声をかけてくる方を見上げたとき、心臓の鼓動が有頂天になりました。
 両親とお母さんの足元に絡むようにして小さな女の子が立っていました。初めて、えりなちゃんと会って、とてもきゃしゃな印象を受けました。両親とえりなちゃんは座り、僕は対面しました。お母さんは僕にえりなちゃんのことを紹介しました。僕の体は不思議なもので、しっかりと話を聞こうとすればするほど、緊張が強くなり、分けの分からない不随運動を繰り返します。そのため、首を縦横無尽に振っていました。お母さんが「話をしっかりと聞く方ですね」と言って、好感をもたれたようでした。
「あなたの言葉、えりなは理解できるかしら」
 電話を受けたときから、いろいろと質問されるだろうと思っていました。お母さんが一番に気になったことは僕の言葉でした。僕が答えようとしたら、隣りに座っていた彼女が【ガクちゃん。私に任せて】と言わんばかりの表情で答えました。
「確かに、ガクちゃんの言葉は初め聞き取り辛いかもしれないけど、慣れると全く問題はありません」
 彼女の言った「慣れる」ことに、両親は納得した様子。
「うちのえりな、うまく学さんとやっていけるのかしら…」
「それは大丈夫だと思いますよ。ガクちゃんは人懐っこいし。逆にハートフルなガクちゃんから、えりなちゃんは影響を受けると思いますよ」
「学さんを迎えるにあたって、何か準備するものがありますか」
「いいえ、特にいらないと思います…ねぇ、ガクちゃん」と。僕は大きく頷きました。
「学さんも聞きたいことがあったら、言って下さい」
僕は遠慮せずに聞きまし。
「えりなちゃんの家は、どの辺りですか?」
 お母さんは肝心なことを言い忘れた表情で、僕に住所を教えてくれました。僕が歩いても通える距離で、ますます運命的な出会いを感じました。
「あの、三戸さんの名前って、マナブさんですか。ガクさんですか」と聞くお母さんに、横にいた彼女とうっすら笑みを浮かべて、
「彼の名前は学と書いて、マナブと呼ぶけど、友だちから彼はガクちゃんと呼ばれています」
「ガクちゃん…ガクちゃん先生ですか」
「はい!!」
 この一言で、僕の緊張の糸は、ほぐれました。僕の慢心な笑顔がその場のフインキを和やかにして、お母さんの不安が少しずつ解けていったようで、僕は好感触を持ちはじめました。これはイケルぞー…
「えりな。ガクちゃん先生にお勉強習ってみたい?」
 最後に、お母さんはえりなちゃんに聞きました。えりなちゃんは僕を見て、深く考えこんでいる様子。
(ここまで来て、えりなちゃんが「ウン」と言わなかったら…これは、障害の有無の問題ではなく、オレの人柄の問題。余計にショック…)
 えりなちゃんはお母さんの顔色を伺うように、「ガクちゃん先生から、お勉強を教えてもらいたい」透き通る声で言いました。心の中で大きなため息をつきました。安堵感。
「えりなちゃん。これから、ガクちゃん先生といっぱいお話をしてごらん。すんごい面白いよ!!」
 彼女の言葉に、初めて僕とえりなちゃんはお互いの顔を見合わせ、一緒に笑いました。
「今度の水曜日、一度家に来て、えりなに勉強を教えてくれませんか?」
 このお母さんの一言が僕の心に響いてきました。
「どうか、うちの娘を宜しくお願いします」と言って、今まで無口で威厳を漂わせていたお父さんが一礼をしました。僕はこの場で、どうしても聞きたいことがありました。
「なぜ、僕を選んだのですか」
 このことは喫茶店で会う前から、絶対に聞いてみたかった。電話があったときに、家庭教師の依頼を感じていたかもしれない。瞬時に、脳裏を過ぎった言葉でした。隣の彼女はビックリしていたけど、彼女も一番聞きたかったことと察していました。僕はこのことをはっきりさせたい気持ちがありました。このことを確認することで、両親とより親近感を増していくような感じがしました。
「あなたの熱意に負けました。ちょうど、えりなの勉強を家庭教師に見てもらいたいなぁと思っていたのですよ。たまたま、銀行に行ったとき、あなたのビラを見て。ずっと前から、ビラ貼ってたでしょ。実は前から、あなたのことを気になっていたんだけど。最近、いろんなところであなたのビラを見るようになって…そこまで、家庭教師への思いがあるのなら……それにかけてみようという気になりました」
 お父さんがこれまでの経緯を話してくれました。お父さんの話を聞いていて、何と表現したら良いか分からないほど、胸が熱くなりました。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします」
 僕は深々と頭を下げました。心の底から、えりなちゃんのお父さんに感謝したい気持ちに駆られていました。今度の水曜日の時間を確認して、別れました。今度の水曜日にえりなちゃんの家庭教師をすることになり、心の中は晴れ晴れしていました。別れ際に僕たちのコーヒー代のほかに一つ席を離れて座っていた仲間の分まで払ってくれました。いろいろと気を使ってくれて、とても悪い気がしていました。
 僕は喫茶店に来られなかった仲間に、お父さんの言葉を紹介しました。
「小学校2年生がそんなことを言ったの?」と、少しびっくりした様子で聞き返しました。
「そんなこと、小学校2年生で言うはずないだろ。もし、そんなことを言ったら、逆にこのオレが勉強を教えて欲しいよ」
 ビラを配ったとき、電話をかけたときに通じないと失礼だと思い、仲間の協力を得て、僕のアパートで24時間いつ電話をかけても、対応できる完璧な体制でした。いくら完璧な体制が整えても、機能しないと、盛りあがりません。メンバーの仲間と電話待機は楽しかったけれども、肝心の電話がこないと、段々と白けました。このことを思うと…夢見心地でした。白鳥えりなちゃんに会う日がとても楽しみでした。
 えりなちゃんの家に初めて行く日。喫茶店で会ったときはあまりお話が出来なかったので、どんな子どもだろう…と、家庭教師として、子どもに関わることができる喜びを最大級に感じていました。重い責任感というより、楽しくやっていければナァという気持ちで溢れていました。僕は喫茶店で隣に座った彼女と一緒に行きました。僕に対する子どもの不安を少しでも取り除こうとする彼女の優しさでした。
 えりなちゃんの家は僕のアパートから、歩いて15分くらいのところにありました。エレベーターのある結構リッチなマンション。その4階がえりなちゃんの家。
「ピンポーン」
ゆっくりとチャイムを鳴らすと、えりなちゃんがドアを空けて、ニコニコ顔で出迎えてくれました。「おじゃまします」と玄関に座って、靴を脱いでいました。「お母さん、ガクちゃん先生が来たよ」と、えりなちゃんは台所に走って行きました。えりなちゃんのお母さんも玄関先に来て、「今日は宜しくお願いします」「こちらこそ、ヨロシクお願いします」「どうぞ、お上がりになってください」
 えりなちゃんは自分の部屋に案内してくれました。えりなちゃんの部屋は本もあり、遊び道具もあり、いかにも小学校2年の女の子の部屋。グルッと見回すと、ぬいぐるみが好きなことと、セーラームンを好きなことが分かりました。
 玄関から、這ってえりなちゃんの部屋に向かう僕に、えりなちゃんは何となく遠慮している様子。悔しいけど、初めのうち、えりなちゃんの関心は彼女のほうに向いました。(オレって、子どもに人気ないなぁ)と少し自信を失いかけました。だけど、心から感謝したいほど、彼女はえりなちゃんの関心が僕に向くようにたちまわってくれました。お母さんは僕とえりなちゃんの関係作りを一番心配していたようで、ときどき覗きに来ました。とてもプレッシャーに感じました。
 えりなちゃんとの関係を作るために、お話をしたり、お絵かきをしたり、お人形で遊んだり…しばらくすると、少しずつ僕に打ち解けてきました。僕と話をしている姿を見て、お母さんはえりなちゃんを見直している様子。
「うちのえりなにこのような面があるとは…ガクちゃん先生の言葉を理解できるか不安だったけど、しっかりと聞いているね。初めて見たわ。あの子の姿」
 すっかり感心した様子で、改めて僕に家庭教師をお願いしました。一緒に来てくれた彼女に、
「悔しいけど、もう、私は必要ないわね」
と言わせるほど、帰り際にはえりなちゃんとの関係もできていました。玄関先で、「今度から、僕一人で来るのでヨロシクお願いします」と言うと、「今度から、宜しくお願いしますね」とお母さん。「えりなちゃん。バイバイ」と手を振って、別れました。
 えりなちゃんのマンションを後にして、彼女が「良かったね。ガクちゃん。子ども心を掴むこと、上手いね」と言ってくれました。「そうかなぁ」と言いつつ、照れていました。


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次