んだんだ劇場2004年3月号 vol.63
No8  エイズと孤児

引越し
 やっと見つけたアパートに引越しをした。電車の駅の目の前で、下の階は小さな商店、その隣はパブという立地条件。とても縦に細長いつくりで、入り口をはいって階段を上ったところが、バスルーム、さらに階段を上ると台所とリビング、またまた上ったところにベッドルームが2つある。階段、階段、また階段である。家賃は一ヶ月780ポンド(約15万円ちょっと)と、この近辺ではまだ安いほうらしい。
 レンガづくりの建物なのだが、なぜかとてもよく揺れる。誰かが普通に歩いても振動が伝わってくるし、洗濯機をまわしているときなどまるで超高速のマッサージ椅子に座っているようだ。レンガとレンガの接続が緩んでいるのだろうか?地震のないのが幸いである。
 かなり古いのと台所の窓から下の商店のトイレ(外にある!)が丸見えなのがたまにキズなのだが、電車がホームに入ってから家を出ても間に合う近さなのがうれしい。
 隣のパブは週末にカラオケバーになってしまうのが、ちょっと問題である。しかし客層がかなり高齢で、曲が昔のベストヒットばかりなので、まだいいとしよう。
 夫はいろいろなところから拾ってきた木切れで本棚、靴棚、娘用の小さい机を作った。私が本棚の購入を主張していたときに、
「僕が作ってあげるよ」
と言う夫を鼻で笑っていた私であったが、それなりのものが出来てちょっと夫を見直した。
 それにしても自分の住むところがあるというのは本当にいいものである。3週間の居候生活中はなんとも気持ちが不安定であったが、やっと落ち着けて本当にうれしい。

物価
 予測していたことだが、ロンドンの物価はものすごく高い。さらに円安ポンド高がそれに拍車をかけている。今は1ポンドあたり約200円である。ポンドで表示された値段は桁数が少ないために、なんだか安く感じるが、いったん円に計算しなおしてみるとそれはもうおそろしいことになっている。例えば、蛍光ペン。一番安いのでも一本200円程度!単なるクリアファイル(2枚の硬いビニールシートの間に書類がはさめるようになっているもの)一枚で100円!ファイル用のバインダーがひとつ300円。
 張り切って文房具を買いにいった私は、すっかりショックを受けて何も買わずに帰ってきてしまった。日本の物価も高いけど、ここまでではない。
 香港からきている学生と話をしていたら、彼女はあまりにも文房具が高いので、香港に住む彼女の母親に郵送してもらうことにしたそうだ。
 一方安いものもある。それはジャガイモと肉類、特に鶏肉だ。現在のロンドンでは、昔から有名なフィッシュ&チップス(揚げた魚とフライドポテト、昔からのファーストフード)よりもチキン&チップスの方がポピュラーになりつつあるようだ。野菜はどれも結構高く、ロンドンに長く住む友人にいわせると、ロンドンで肉のたくさん入った買い物袋を下げているのは貧乏人だそうな。

授業と研究テーマ
 リサーチトレーニングコースのほとんどは夕方5時半から始まって8時ごろに終わる。学生の多くが仕事をしながらパートタイムで研究しているためだ。
 コースによってはとても有用なものもあるが、期待はずれのものもある。なにしろ教育研究所というくらいだから、コースの講師も内容もそれなりにレベルが高いのかと期待していたが、必ずしもそうでもなかった。
 講師によっては一人でぼそぼそと2時間もしゃべり続ける人もいる。「教育分野の研究への哲学的なアプローチ」なんていうのがテーマの時に、これではわからないものがさらにわからなくなってしまう。こういうときは、わかりやすい例を出したり、絵や図を使ったりするべきではないのか?そして驚くべきことに、ほとんどの講師のスライドには、ぎっしりと文字が並んでいてとても読めたものではない。なぜもっとわかりやすくしようとしないのか、なんとも不可解である。それぞれの講師はそれぞれの研究分野で優れた成績をあげているにちがいないが、問題は彼らが、彼らの持っている経験や知識を効果的に伝える方法を必ずしも習得していないということなのだろう。
 大学時代に教養課程を終え、専門課程に移ったときにもほとんどの授業があまりにもわかりにくく、つまらないのにびっくりしたが、これも優れた研究者である教授や講師が必ずしも優れた教育者ではないということの表れであったのだろう。少なくとも高校までの教師は教員免許を持った「教えることのプロ」である。ところが、肝心の大学の教師はほとんどが研究者であって教育者ではない!これでいいのか??何だかだんだん腹が立ってきたが、とにかくトレーニングコースは進んでいる。
 大学院生はトレーニングコースをとりながら、自分の研究を進めていく。まずは自分の研究テーマの分野のいろいろな文献を読みあさり、それから研究テーマを絞って研究の計画を立てる。私は現在研究テーマを絞り込むのに一苦労している。
 私のテーマは「エイズによる孤児の健康と教育」という何だか漠然としたもので、まずここからもっと具体的なテーマを見つけなくてはならない。これが結構難しい。
 私には指導教官が二人おり、先日もう一人の指導教官に会った。彼はエイズと教育の分野では結構有名な研究者で、サンタクロースのようなひげと思いっきり肘の抜けた黄色いチェックのシャツが印象的であった。
 彼は、タイでは親がエイズで亡くなったというだけで学校に入れてもらえないことがあるという話に興味を示し、エイズによる孤児たちがどのように学校に受け入れられているのか、また拒否されているのかを研究したらどうかという。確かにいろいろな文献を調べてみても、エイズによる孤児たちの学校への受け入れというテーマはあまり見つからない。博士号に値する研究は、今までに誰も研究していないテーマで、その分野の学術界に多いに貢献することが条件とされており、これが何しろとても大事なことらしい。誰もやっていないことを世界で初めてやる、というのは何ともわくわくすることであるが、その一方で自分にそんなことができるのかなあという気にもなる。
 そういう点からもこのテーマはおもしろそうにも思えるのだが、ちょっとひっかかる部分もあった。私は今まで保健分野で仕事をしてきた。確かに自分の興味はいわゆる医療分野を越え、社会、教育、政治に広がってきているのだが、その一方で自分の今までの経験やバックグラウンドを今回の研究にできるだけ活かしたいという気持ちがある。それは教育研究所というほとんどが教育分野の専門家の集団の中で、自分の保健という専門分野を見失ってしまうのではないかという不安にもなっている。
 このテーマにもっと自分の分野を取り込むにはどうしたらいいのか?現在頭を絞っているところである。

妊婦の自覚
 今回はほとんどつわりもなく、しかも忙しかったこともあり、本当に妊娠しているのか自分でも疑いたくなるほどであった。本当に生きてるのかな、とちょっと心配にもなったりした。
 でもとりあえず住むところが決まらないと、近所のクリニックにも登録できないのでそのままになっていたのだ。イギリスではナショナルヘルスサービス(NHS)というシステムがあり、近所のクリニックを通じて登録され、基本的な医療サービスが無料で受けられるようになっている。長期の留学生とその同伴家族も登録できるのだ。
 やっと登録し、ロンドンで初めての妊婦検診を受けた。ものすごく大きな助産婦さんが私のおなかを診察し、
「あらまー、もうこんなに大きくなってるじゃないの!」
と言っている。現在妊娠15週である。その後胎児の心音をチェック。生きてるかなー、とどきどきしていると、
「はっはっはっはっ(音訳:夫)」
と、無事心臓の音が聞こえた。
 おおー、無事であったか。本当にほっとした。
 夫は早速娘に、
「赤ちゃんがね、お母さんのおなかの中で、はっはっはって泳いでいるんだよ。」
と教え、二人ではっはっはっといいながら喜んでいる。
 それから数日後、初めての胎動を感じた。やっと妊婦の自覚がでてきた。娘は、
「ママのおなかには赤ちゃんが入ってるでしょ。まなのおなかにはねずみちゃんが入ってるの、パパのおなかにはねビールが入ってるの。」
と言っている。どうか無事に育ってくれますように。


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