んだんだ劇場2004年1月号 vol.61
No18
(1)若尾文子さん
 仙台出身の女優といえば、真っ先に思い浮かぶのが、この人。若尾文子さんである。
 仙台出身といっても生まれは東京で、仙台には1944年から50年ごろまで、数年間住んだだけである。
 若尾さんは昨年(2003年)の11月で、70歳の古希を迎えた。とはいえ、いまだその美貌は健在である。「おばあちゃん」と言っては失礼に当たる。
 その若尾さんに先日、インタビューする機会があった。同郷のよしみ、と言ってもお忙しい身。事務所に取材を申し込むと、いったんは「年内中は無理かも」と難色を示された。だが、そのまま引き下がるのも嫌なので、取材の趣旨や内容を説明したファクスを流した。それが通じたのか、数日後に電話があって「本人が、お受けしましょう、と言っています」という返事をもらった。そこで、デスクの仕事をほっぽり出して(というわけにはいかぬが)、12月中旬のある日、東京へ取材に出掛けた。
 若尾さんといえば、NHKの大河ドラマで見る戦国武将の母親役のイメージが強い。1988年の「武田信玄」では信玄の母・大井夫人の役で出演。毎回、ナレーションも務め、放送の最後に「今宵はここまでに致しとうござりまする」という名ぜりふを残した。皆さんも覚えがあるであろう(この年の「新語・流行語大賞」に選ばれている)。昨年は「武蔵」で淀君を演じた。
 背筋をぴしっと伸ばし、ゆったりとした口調で語る貫禄十分の若尾さんだが、デビュー当時は実に可愛かった。もちろん、私はまだ生まれていない。というより、物心ついたころには日本映画は斜陽で、若尾さんの映画をリアルタイムで観たのは、1987年に沢口靖子が主演した「竹取物語」ぐらいなものだ(三船敏郎演じた竹取の翁の妻)。
 さて、学芸部のデスクとなって以来、本格的な取材をするのは、2年9カ月ぶりである。しかも相手は日本を代表する大物女優。記者の"現役"時代はそうでもなかったが、けっこう緊張して取材の日を迎えた。取材には「慣れ」というものが必要で、しばらくやっていないと、取材のコツやツボを忘れてしまう。現場にいたころは、あらかじめ質問を一つか二つ用意しておけば、後は相手の反応を見ながら次の質問を繰り出すことができた。
 だが、今はそうはいかない。質問を何項目も準備して、万全を期して取材に臨むことにした。不安が先に立つ。まるで、新人記者のような気分である。
 空いた時間や休みの日に図書館に出掛け、若尾さんに関する本や資料を集めたり、映画のビデオを探したりした。しかし、本は意外に少ない。取材のときに語っていたのだが「私は過去のことを振り返るのは好きではない」からだそうで、自叙伝や写真集のたぐいは一切作っていなかった(当初、取材に難色を示したのも、これが大きな理由でした)。それでも参考になりそうな本が1、2冊あったので借りた。
 また、仙台市内の図書館をはしごして、映画「祇園囃子」(1953年)「処刑の部屋」(56年)「からっ風野郎」(60年)「瘋癲老人日記」(62年)「傷だらけの山河」(64年)「刺青」(66年)など、図書館においてあるビデオを観まくった。
 インタビューは、東京・銀座にあるわが社の東京支社で行った。約束は午後3時だったが、若尾さんはマネジャー(彼女のお姉さんです)と一緒に2時半には会社に来た。「場所を探すのに時間がかかるといけないので、早めに出掛けてきた」というのである。時間に厳格なところは、さすがである。「どこかで時間をつぶしてきましょう」とおっしゃっていただいたが、すぐに取材を始めることにした。
 インタビューは2時間半に及んだ。仙台で過ごした少女時代や高校時代の思い出、映画界に入ることになったきっかけ、デビュー当時の裏話、三島由紀夫との共演、コンビを組んだ増村保造監督とのエピソードなどを、次から次と語ってくれた。途中、休憩を挟もうと思ったのだが、「いいから続けましょう」と言って、長時間にわたり私の質問に丁寧に答えてくれた(このインタビューのもようは、6日(火)から朝刊文化面で5回シリーズとして連載します)。
 久しぶりに取材の楽しさを味わったが、やはり緊張していたのだろう。インタビューを始めてしばらくたってから、録音するのを忘れていたことに気づいたり、後で録音を聞くと自分の声が上ずっていたり。また、取材相手の観察が大事なのに、若尾さんがどんな洋服を着て、どんなアクセサリーを身に付けていたか、どんな表情をして話していたか、といったことを全然注意して見ていなかった。
 何だか、夢の中にいるような2時間半だった。

(2)一番の珍事
 席に着いたときから、何となく嫌な予感がしていた。
 前の席に座っていた年配の夫婦(らしきカップル)が、パクパクとお握りを食べていたのだ。いくら演奏前とはいえ、場内は食べ物の持ち込みは禁止なのに。また、隣の席の男は、ひじをぐっとこちら側まで押し付け、コートも私の席の方まではみ出している。座席が狭い(会場は「イズミティ21」)のも、もちろん原因だが、前の席の客といい、隣の席の男といい、マナーというものを知らないらしい。
 だが、今日(12月25日)は日本を代表するピアニスト小山実稚恵さん(仙台市出身)のコンサートだし、曲も大好きなラフマニノフである。変に注意して嫌な思いをするよりは、自分が少し我慢すればいいだろうと、身を小さくした。聴くことに専念しよう。
 指揮は広上淳一、演奏は仙台フィル。まずは、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」。抑え気味のスタートから、次第にテンポを速め、第2、第3楽章に進んで高揚感が増す。これまで、小山さんのコンサートには何度か足を運んだが、今回もしなやかなタッチで観客を魅了した。2、3ミスタッチはあったが、本人はちっとも気にしない。大きな動作で、ダイナミックに弾きこなす。それが、彼女の持ち味である。
 休憩を挟んで、後半はお待ち兼ねのラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。小山さんは、先ほどの黒のドレスとは打って変わって、今度は真っ赤なドレス姿で現れた。第3番はロシアの大地を感じさせる雄大な曲で、私の好きなピアノ曲のベストスリーに入る。それだけ期待も大きい。
 ラフマニノフ自身の演奏ではかなり早いテンポの曲だが、広上さんは大振りな指揮で、ゆったりとした出だしでスタート。私も、少し遅いぐらいのスピードが好きなので、最初から心地よく聴くことができた。第1、第2楽章が終わり、小山さんの演奏にも熱が帯びてくる。長く伸ばした髪を振り乱し、あるいは背をそらせて、ラフマニノフの世界を奏でる。陶酔感がこちらにも伝わる。
 しかし、最初の嫌な予感どおり、このままでは終わらなかった。
 最終章の第3楽章も後半に入り、いよいよクライマックスを迎えようかという、その時だった。ジェットコースターで言えば、ぐんぐん、ぐんぐん、上へと向かい、一気に降りようとする瞬間である。頂上に達し、エネルギーを十分にためて、さあ「いくぞ」というほんのちょっとの間。その時だった。後ろの方の席の男が「ブラボー」と叫んで、拍手を一つ、ぱんと鳴らしたのである。
 それまでの緊張感が、そこで途切れてしまった。気持ちを高ぶらせて、フィナーレの大感動を味わおうと誰もが思っていた。その楽しみを奪われてしまったのである。さすがに小山さんは一瞬ひるんだかに見え、次の一小節はちょっと揺らいだ。だが、そこはプロ。すぐに持ち直して組み立て直し、演奏は無事終えた。
 高いお金を払い楽しみにしてきた聴衆としては、なんとも腹の立つ「ブラボー」であった。きっと、演奏が終わったと勘違いして言ってしまったのだろうが、犯罪に等しい許しがたい行為である。
 実は最近、このような「ブラボーおじさん」が横行しているのだ。演奏が終わった瞬間、先を争うかのように「ブラボー」「ブラボー」とやるのである。「一番乗りは俺だ」と言わんばかり。これが始末に終えない。こちらは演奏の余韻に浸っていたいのに、終わった瞬間に変な掛け声がかかると、現実に戻されてしらけてしまう。そうしたマナーの悪さが目立っているのである。
 演奏の途中で咳やくしゃみをするのは当たり前。がさごそ音を出したり、パンフレットを落として大きな音を立てる者もいる。また、演奏が終わると、すぐに席を立つ人たちにも困ったものだ。演奏者たちが、観客の拍手に応えてお辞儀をしている最中なのに、平気で帰る。そんなに帰りを急ぐのなら、最初から演奏会に来なければいいのに。気持ちに余裕のない人は、演奏会を聴く資格はないのだ。
 演奏終了後、小山さんと指揮の広上さんは笑いながら、観客の拍手に応えていたが、どんな心境だったであろうか。
 後で音楽担当の記者が関係者に尋ねると、小山さんは「ことし一番の珍事だった」と語っていたそうだ。「頭が真っ白になり、5秒ぐらいはどう弾いていたか分からなかった」と笑って話していたという。広上さんは大笑いだったそうな。
 二人とも怒らずに笑ってくれたのが、せめてもの救いではあるが、地元の人間としては恥ずかしくて、恥ずかしくて。身が縮む思いである。

(3)図書館の未来
 皆さんがもし引っ越ししたら、まず最初に行く所はどこだろう?
 近所のコンビニやスーパー、本屋さん。あるいは、各種手続きのため、市役所や町役場に行く人もいるかもしれない。ところで、図書館へ行くという人はどれだけいるだろう?
 アメリカでは「まず図書館へ」という人が珍しくないそうだ。『未来をつくる図書館』(菅谷明子著、岩波新書)という本を読んでいたら、著者がこんな場面に出会ったという。
 ニューヨークの図書館で調べ物をしていたら、引っ越してきたばかりの女性が駆け込んで来た。そして、地域の地理や学校、医療機関などについて司書にあれこれ相談していたというのである。
 日本では、考えられない光景である。
 わが国で図書館と言えば、本を借りる場所、過去の新聞や雑誌を読む場所であり、受験生にとっては勉強するところである。ところが、この本を読むと、図書館が果たす役割は広範囲に及ぶことが分かった。主にニューヨークの公共図書館の業務を紹介しているが、その充実ぶりは驚くばかりだ。
 まずデータベースがそろっている。新聞・雑誌だけでなく、専門誌や統計、ビジネス関係のデータなどが無料で提供されている。しかも、予約なしで使え、プリントアウトも無料だ。閉館は午後10時で、仕事帰りのビジネスマン、医療従事者などが利用している。
 地域密着のサービスも盛んだ。ニューヨークには85カ所の分館がある。それぞれ一般の図書コーナーのほか、各分館独自の「地域情報サービスコレクション」の棚があり、教育や環境、行政、健康といったテーマに沿って、地域のガイドブックが用意されている。また、学校や市民団体、NPOによる小冊子などの情報もファイルにまとめられている。無料講座も多く、2001年には語学講座、法律相談、ドラッグ・アルコール講座といったイベントが2万7千回開催され、50万人が参加したという。
 特筆されるのはインターネットだ。2001年9月11日の同時多発テロの際、ニューヨークにあるミッド・マンハッタン図書館はいち早くホームページで関連情報を流した。病院や警察、災害支援団体などの緊急電話番号リストや、公共交通機関の運行状況、献血やボランティア、保険などの各種相談窓口などの案内。また、事件の背景を知るための中東やイスラム、宗教などの推薦図書、精神を安らげるような詩や小説、セラピーの本なども紹介した。しかも、メールで司書に問い合わせができる体制も整えた。マスコミが伝えない盲点の部分を情報として市民に知らせたのである。
 普段でも、ホームページには医療や育児関係の情報を載せたり、司書推薦の「子供が読むべき本100冊」「家族ぐるみの読書のヒント」といったコーナーも設けている。
 翻って、日本の図書館はどうだろう。ちなみに仙台市民図書館のホームページを見てみよう。休館日のお知らせと蔵書検索、市内各図書館の所在地一覧などがあるだけ。味も素っ気もない(休みがやけに多いのだけが目立つ)。図書館の特色も独自性も全く感じられないのだ。
 実は、私は「仙台市図書館協議会」という会のメンバーの一人になっている。2、3カ月に一度、集まって図書館の現状や課題、将来像などについて協議している。ある日の会合で、ホームページのお粗末さを話題に出した。すると図書館側は「図書の検索が主体なので、あのような形になっている。もっと充実したいとは思っているのですが」と、返事の方も素っ気ない。何とでも工夫の余地はあると思うのだが…。協議会で発言してから3カ月がたつが、ホームページは一向に改善されていない。
 財政事情の悪化で、地方の公共図書館は、図書購入費が削減されるなど厳しい状況に置かれている。そんなときだからこそ、知恵を絞る必要がある。アメリカの例を持ち出すまでもなく、お金をかけなくても図書館が地域のためにできることは多いはずである。
 夕刊で学芸部の記者が書くコラム欄がある。最近、K君が宮城県図書館について書いた。同図書館は数年前、仙台市中心部から北部へ移転した。移転先は中心部から10数キロ離れ、交通の便も悪く、おいそれと通うわけにはいかない。本を借りる場合は仕方がないとしても「せめて、本の返却を市の中心部でできないか」と提案した。まさに、その通りである。
 市民サービスはいかにあるべきか。「引っ越して来たら、まず図書館へ」。そんな図書館は、いつになったらできるのだろう。

(4)今年のモットー
 毎年、暮れになると各新聞の読書欄では「今年のベストスリー」と銘打った本の紹介が出る。ある新聞でも、書評委員によるお薦めの3冊というのをやっていた。そこでは23人がそれぞれ3冊、延べ69冊(だぶっているのもあります)の本を紹介していたのだが、その中に私が読んだ本は、たった一冊しかなかった。
 日ごろ、本はよく読む方だと自負しているのだが、これには愕然としてしまった。ちなみに、その一冊は『博士の愛した数式』(小川洋子著)である。書評委員は作家のほか、文芸評論家、哲学者、政治学者、社会学者などジャンルが多岐にわたる。毎年、少なくとも何冊かは読んでいたのだが、たった一冊とは、われながら情けなかった。
 言い訳をすれば、去年はなるべく古典を読むように心がけたからである。古典といっても、まじめくさった本ではない。例えば「ドン・キホーテ」や「ルパン」シリーズといったたぐいである。もう一つ、デスク席で一日中、原稿とにらめっこしていると、帰りのバスや家に帰ってから活字を見るのがつらくなってくるのだ。バスの中では、本を開いた途端、眠気に誘われてしまう。
 もちろん、言い訳はあくまでも言い訳。「文化面のデスクとして失格だ」と糾弾されても仕方がない。そこで今年は、少し腰を落ち着けて本を読むよう努力しようと思う。それでなくても、「学芸部の人間は浮世離れしている」と言われかねないのだから。
 さて、毎年のことだが、年頭に当たってのモットーを立てている。ただし、ここ数年の誓いはほぼ似通っている。似通うということは、つまり、誓いを立てても結局は達成できずに終わった。だから、翌年も同じ目標になってしまう、ということだ。
 なぜ、誓いは破られるか。理由は簡単。自分の中にだけしまっているから。ならば、公にすれば達成できるのではないか。そう考えて、ここに誓いを列記することにした(そんなに大げさに言うほどのものではないが)。毎年、似通ったモットーとは次のようなものだ。
(1)あまり怒らない。
(2)お酒はほどほどに。
(3)○○全集を読む。
(4)英語をマスターする。
(5) 「?」
 1番目。年を取るに従い、怒りっぽくなる。何とか平静な気持ちを保ちたいと思うのだが。釈迦の言葉にこんなのがある。「怒る人に怒りを返さない人は、勝ちがたい争いに勝つ」。また、マホメットはこう言っている。「力強いとは、相手を倒すことではない。それは、怒って当然というときに、心を自制する力を持っていることである」。お釈迦様やマホメット様にはなれないが、これを今年の座右の銘にしたい。
 2番目は言わずもがな。
 3番目にはこれまで、「ドストエフスキー」や「シェークスピア」「夏目漱石」などが入ったが、いつも挫折。今年は全集は無理なので、せめて長編を一つ。「カラマーゾフ兄弟」を20年ぶりに再読したい。
 4番目。これもいつも挫折。そこで今年は、今はやりのTOEICに初挑戦しようと思う。目標は730点(990点満点。国際社会で必要な最低限必要な英語力)。といきたいところだが、まずは600点を目指したい。
 そして、5番目。これは毎年変わっている項目。今年も心に決めた誓いを立てた。だが、ちょっと恥ずかしいので、これだけは秘密にしておきたい。
 先日、テレビを見ていたら、92歳になる聖路加国際病院理事長の日野原重明さんが、今年の目標は「車の免許を取ること」と話していた。常に挑戦し続けるその姿勢には、頭が下がるばかりだ。
 今年の12月。5項目のうち幾つ達成できたか報告できれば、と思う。
 「やるべきことが決まったならば、執念を持ってとことんまで押しつめよ。問題は能力の限界ではなく、執念の欠如である」。これは、土光敏夫さんの言葉である。


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