んだんだ劇場2004年3月号 vol.63
No20
(1)春は残酷である・上
 春になると、いつも心に浮かぶ言葉がある。「春は残酷である」というフレーズだ。
 冬の長い東北の人間にとっては、待ち遠しいはずの春。喜びに満ち、美しく再生するはずの春。なのに、どうして春は残酷なのだろう?
 イギリスの詩人T.S.エリオットに『荒地』という詩がある。その第一部「死者の埋葬」は、こんな一節で始まる。

    死者の埋葬
  四月は残酷極まる月だ
  リラの花を死んだ土から生み出し
  追憶に欲情をかきまぜたり
  春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ
  冬は人を温かくかくまってくれた
  地面を雪で忘却の中に被い
  ひからびた球根で短い生命を養い
               (西脇順三郎訳)

 冬の間は静かに包んで、そっとしておいてくれたのに、春になると無理やり生き返らせ、心をかき乱される。人がこの世に生まれ出ても、それが荒廃した地ならば、生は苦悩でしかない。詩のタイトル「荒地」とは現代のこと。この詩は、不毛の現代に生きなければならない苦しみや悲しみを、比喩的に述べたものだと解釈できる。
 『春は残酷である』というのは、星三枝子さんが書いた本のタイトルだ。エリオットの詩にちなんで題名が付けられたこの本は、戦後最大の薬害事件の一つ、スモン病の患者だった三枝子さんの手記である。
 星三枝子さんは福島県田島町に生まれた。田島町は、仙台から東北新幹線、磐越西線、会津鉄道を乗り継いで四時間あまり。会津地方の山あいにある。
 私が取材に訪れたのは、今からちょうど10年前の一月末。「平成くすり事情」という連載企画の取材のためだった。家の門の前で三枝子さんの母親イチヨさんが出迎えてくれた。
 「こんな遠くまで、雪の日に、よくおいで下さった」
 取材は約3時間に及んだ。イチヨさんや、三枝子さんの兄の輝夫さんに話をうかがったが、あまりにも三枝子さんが不憫で、泣けてきてしょうがなかった。取材から戻った後で、記事を書いている最中も、涙が止まらなくて困ってしまった。新聞記者になって20年以上にもなるが、顔をぐしゃぐしゃにしながら記事を書いたのは、後にも先にもこの時だけだったように思う。
 東北の山間地にある、ごく普通の家に悲劇が訪れたのは1969年。星三枝子さんが20歳のときだった。
 会津若松市の呉服店で働いていた三枝子さんは、母親のイチヨさんによれば「おとなしくて、ちょっと地味」なお嬢さんだった。6月に会社の慰安旅行から帰った後、体調を崩した三枝子さんは、会津若松市内の病院で整腸剤のキノホルムをもらって飲んだ。しかし、いっこうに良くならない。吐き気や下痢が止まらず、体は衰弱する一方だった。そのうち、だんだん下半身が麻痺して歩けなくなり、トイレにさえ行けなくなってしまった。全身に激痛が走る。まるで、鉄板の上で焼かれるような痛みだった。「痛い、痛い。お母さん、死のう。猪苗代湖さ行って一緒に死んでけろ。死ねば、楽になる」と母親に訴えた。
 光も奪われ、その年の10月には、ついに失明してしまう。後に点字で書いた『春は残酷である』の中で、三枝子さんはこんな望みを書いている。
 「一日でいいから人並みに生きてみたい。ちょっとでいいから、二本の足で歩きたい。母の顔をもう一度、この目で見てみたい」
 入院中も飲み続けたキノホルムが原因と分かったのは、発病からなんと1年2カ月も後のことだった。取材のとき、イチヨさんは声を震わせて言った。
 「その間、病院は毎日、毎日、三枝子に毒をくれていたんです」
 "毒"といったイチヨさんの声の響きが、今でも耳に残る。

(2)春は残酷である・下
 医薬品のキノホルムは、約100年前に開発された。本来はアミーバ赤痢の薬として用いられたが、日本では一般の下痢止めにも使用された。それが悲劇を生む。次第に、用量や期間がずるずると拡大され、スモン病の原因となったのだ。スモンは手足が麻痺し、失明に至る難病である。星三枝子さんらは1971年、国と製薬会社を相手どり東京地裁に提訴した。79年に全面和解が成立。スモン患者は約1万1000人にも上った。
 和解が成立しても、病気が治るわけではない。長い闘病生活の末、三枝子さんは1992年、43歳の若さでひっそりと亡くなった。
 20歳で発病し、23年に及んだスモンとの闘い。母親のイチヨさんは、付きっきりで看病した。夜は病院のコンクリートの床に布団を敷いて寝泊まりした。目は見えないし、足はロウソクのようになって動けない。トイレの世話や着替え、それに透析が続いた。「毎日、ご飯もゆっくり食べらんねほどの忙しさだった」とイチヨさんは回想した。
 主治医が三枝子さんに尋ねたことがある。
 「もし、目と足のどちらかが治るとの願いがかなうとしたら、どっちを取りますか」
 残酷な質問である。三枝子さんはこう答えたという。
 「私は足を取ります。母が病気になっても、自分で用足しができますから」
 星三枝子さんの兄・輝夫さんはこう語った。「年頃の恥ずかしい時期でしたからね。芯の強い子で、家族や親戚に迷惑を掛けたくないと、いつも思っていたんです」
 発病の翌年、星家をまたもや不幸が襲う。高血圧だった父親が亡くなってしまったのだ。『春は残酷である』の中で、三枝子さんはこう叫ぶ。「親不孝者の私が生きていて、家族みんなの頼みの綱だった父が死んでしまった。…ひどい。残酷すぎる。どうして自分のうちだけ不幸が続くの」
 三枝子さんはおしゃれに気を使った。よくシャンプーしたり、パーマをかけた。「私だって女ですもの。みんなと同じようにおしゃれもしたい。夢でもいいから、さっそうと歩いてみたい」「私の一番の望みは、健康で平凡に生きられる女の幸せ」(『春は残酷である』から)
 会津若松市の呉服店に勤め、将来は洋服屋さんになるのが夢だった三枝子さん。編み物が得意で、目は見えなくてもセーターなどを編んでいた。取材に訪れたとき、仏壇の遺影の前に、三枝子さんが編んだキューピーの洋服が飾ってあったのが印象的だった。
 母親のイチヨさんは、涙ながらにこう語っていた。
 「考えれば、考えるほど、三枝子はかわいそうだった。自分の身から出た病気なら、あきらめもつくが…。薬の恐ろしさは、いつまでも頭から離れない。娘の命を取らったんだから」
 1992年9月8日。三枝子さんは風邪から肺炎を起こし、ついに帰らぬ人となった。
 死の一週間前、三枝子さんは「お母さん、私、結婚するわ」と言ったという。「天国さ、お嫁に行くと思ったんでしょうね。最後は眠るように逝きました。それが、せめてもの慰めだった」(イチヨさん)
 葬儀の日。三枝子さんは、純白のウエディングドレスを着せてもらい、天国へと旅立った。
 三枝子さんとは一度もお会いしたことはない。それでも、目のぱっちりした三枝子さんが花嫁姿で微笑む顔が、今でも時折、目に浮かぶ。
 30年以上も前の1971年に始まったスモン訴訟。星三枝子さんは東京地裁の証言台に立った。彼女はこう訴えた。
 「私は捨てられる卵の殻でもいい。中身を守るために頑張るのが私の使命です。国や製薬会社の人が、一人の人間として、薬害の犠牲者をこれ以上出さないよう深く反省して欲しい」
 しかし、彼女の願いもむなしく、その後も薬害エイズ、ソリブジン事件、MMRワクチン被害など、薬害事件は後を絶たない。2月23日には、薬害エイズ事件の安部英被告(元帝京大副学長)が心神喪失状態だとして、東京高裁が公判中止の決定をした。これで事実上、安部被告の刑事責任はうやむやのまま、裁判は終わることになった。
 何ともやり切れない結末。薬害エイズの被害者たちにとっても、残酷な春である。

(3)必要無駄
 宮城県大和町出身の彫刻家、佐藤忠良さんの米寿の誕生日に合わせ、東京・杉並のアトリエにお邪魔したことがある。4年前のことだ。
 約束の時間よりほんの少し早く着いて玄関先で待っていると、忠良さんは自転車に乗ってやって来た。
 「洗濯屋に行って来たんですよ」と言って、息を弾ませた。90歳近くになってなお自転車を乗り回し、自らクリーニング屋に行くとは驚きだった。それ以上に恐れ入ったのは、自分の半分にも年齢が満たない記者のために、自転車を飛ばしてきたことである。日本を代表する彫刻家といえども、約束の時間はきっちり守ろうとする姿勢に、頭の下がる思いがしたものだ。
 東北人らしい謙虚さと厳格さを併せ持った態度は、70年にわたる創作活動にも通じている。自らを「粘土職人」と呼び、毎朝6時に起きて8時にはアトリエに入る。92歳の今でも、それは変わらない。一つの作品に何カ月もかけ、納得がいくまで制作に打ち込む。「いつも失敗作。だから、やり直しているだけ。東北の人間らしく、コツコツと着実に。そんな積み上げが私の裏づけになっている」と語っている。
 忠良さんは明治時代最後の年の45年(1912年)7月に生まれた。6歳で父親の実家がある丸森町に移ったが、父の死に伴い、間もなく北海道夕張市に転居した。
 小さい頃から絵が好きで、中学時代は歯科医の家に住み込みで働きながら、絵を描いた。母の「好きなことをやりなさい」の一言で画家になることを決意。上京して川端画学校で学んだが、次第に限界を感じるようになる。
 そんな折、美術雑誌に紹介されていたロダンやマイヨールの彫刻を見て、深く感動する。それが、彫刻家を目指す転機となった。22歳で東京美術学校(現東京芸大)彫刻家に入学。同級に岩手県一戸町出身の舟越保武(2002年死去)がいた。舟越とは以来、良きライバルとして生涯にわたり友情を深めた。舟越が1987年に脳梗塞で倒れたとき、葉書に身近な花などを描いて送り続けたエピソードは、テレビでも紹介された。
 忠良さんというと、「帽子シリーズ」に見られるような、都会の風を感じさせる洗練された女性像が特色である。だが、その原点にあるのは「穢(きたな)づくり」と揶揄された頭像群である。その代表作「群馬の人」(1952年)は、タイトルからも分かるように、モデルは普通の男性だ。素朴な表情の中に、人間の内面がにじみ出た秀作。「ロダン以来の西欧近代彫刻の様式を、日本の風土に根付かせた」として高く評価され、戦後の彫刻界に新たなページを開いた象徴的な作品だ。
 忠良さんは戦争後、シベリアに3年間、抑留された経験を持つ。捕虜の中には、大学教授や社長などもいたが、むしろ農民や職人の中に立派な人が多かったという。「ただの人の中にも生きている素晴らしさ、美しさがある」。そのときの思いが結実したのが、「群馬の人」だった。
 この作品について、忠良さんはこう解説してくれた。「人間の顔には、過去の履歴がしわやゆがみになって出てくる。内面までえぐり取って、過去と現在、未来までをも一つの顔に語らせようと、彫刻家は試みているのです」
 「芸術は人生の必要無駄です」というのが、忠良さんの口癖だ。色紙にも好んでこの"造語"を書く。絵や音楽がなくとも人間は生きていける。「でも、飯は食わなくてもいい。俺はこれと対決したい。それが芸術だと思う」と語る。
 このことは、作り手だけに限らない。芸術を享受する側にとっても言えることだ。本を読んだり、音楽を聴いたり、絵や彫刻を鑑賞したり…。本や絵がなくとも、生きていくのに困ることはない。無駄と言えば、無駄なものだ。でも、小説の世界にどっぷりと入り込み、休みの日に美術館に足を運ぶことで、生活に余裕が生まれ、人生が豊かになる。こうした楽しみがなかったとしたら、何て人生は味気ないものになることだろう。
 私が担当する文化面でもささやかではあるが、そんな「必要無駄」を読者の皆さんに提供していきたい、と常々考えている。
 忠良さんはまた、自らの後半生を飛行機にたとえ、「低空飛行で飛び続けていきたい」と語っている。若いころは、どんどん、どんどん、高くまで上昇し、超スピードで飛行を続けた。92歳の今は、燃料がある限り、静かに、ゆっくりであっても現役で飛んでいたい。そんな気持ちの表れであろう。
 ずっとこのまま、エンジンをストップさせないでいて欲しい芸術家の一人である。

(4)無趣味が趣味
 「趣味は何ですか?」。初対面の相手と話していると、必ずそんな話題になる。でも、いつも返答に困ってしまう。これといって、誇れる趣味などないからだ。強いて挙げれば、「読書」「音楽鑑賞」ということになるが、こんなことは誰でもやっている。趣味と言うのもおこがましい。
 といっても、昔から無趣味だったわけではない。ただ単に、熱しやすく冷めやすいタイプの人間なので、挫折してしまうのである。いろんなことに関心を持ち、挑戦はしてみた。天体観測にピアノ、草野球にテニス、お茶を習ったこともあるし、英会話学校に通った経験もある。だが、一つとしてモノになったためしがない。休みの日に寝転がってSF小説を読んだり、クラシック音楽をBGMに聴いたりするという、趣味とも言えない趣味だけが、かろうじて長続きしているだけである。
 今後もこんな調子で、興味を持ってはすぐに投げ出してしまう、というパターンを繰り返すのだろう。だが、二つだけ、決してやらない、と自信を持って言える趣味がある。
 釣りとゴルフである。
 理由は簡単。殺生はやりたくない、環境破壊はしたくない。ただこれだけだ。それを言うと、釣りキチだのゴルファーだのからは、きっと反論がくるだろう。そんなのは百も承知。対抗しようとは思わない。ただ、自分の信念でやらないと決めているに過ぎない。
 小さい頃は近所の川や沼で釣りもやったし、学生時代には一度だけ、ゴルフをしたことがある。確かに、どちらも面白い。自然に囲まれた場所で釣り糸を垂れるのは精神的にいいし、広々としたゴルフ場を歩くことは最高の健康法の一つかもしれない。
 でも、自分たちの楽しみのために、魚の命をもてあそんでいいのだろうか? 貴重な森林を切り崩し、山の生態系を狂わせてしまう権利が人間にはあるのだろうか? そんな疑問がいつも頭をかすめるのだ。
 学生時代、大学の英語の教授がこんなことを言っていたのを思い出す。「僕は、殺生が大っ嫌いでね。虫も殺せないんだよ」。そう言った直後「でも、釣りは別ですよ」。その話にすごい欺瞞を感じた。「魚を釣って殺すのは、殺生とは言わないの?」。それ以来だ、釣りをパタッとやめたのは。だから、ヘミングウェーは嫌いだし、釣りキチ三平などの漫画も読む気がしない。
 釣り人間からは、こう反論されるだろう。「じゃあ、お前は魚を食べないのか?」。いや、魚は大好き。職業人(漁師さんのこと)が捕って、魚屋やスーパーに並んだ魚はおいしくいただく。それは、人間が生きていくうえで必要だからだ。でも、趣味で捕る魚は、単なる遊びである。根本的に違う。
 「俺は魚を殺さない。釣っても川に帰してやるんだ」と、のたまう御仁もいるだろう。だが、魚をもてあそび、釣り針で傷つけてしまったのだから、大同小異だ。
 以前は、社内外の人間からゴルフによく誘われた。「健康に良い」「交友関係が深まる」「仕事にもプラスだ」。でも、そのほかのスポーツだって、これらのことは可能だ。何で、わざわざ朝早くから高い料金を払って、ゴルフに行かなければいけないの? 情けないのは、新聞社の人間たちである。
 バブルの頃、ゴルフブローカーが暗躍し、日本中がゴルフ場開発に明け暮れた。その結果、山や森が荒らされ、日本の自然は壊滅状態に陥った。加えて、ゴルフ場にばら撒かれる農薬も大きな問題になった。当時、新聞各社はどこも大キャンペーンを張って、国土荒廃や農薬問題を取り上げたはずだ。そういう人間たちが、今は勤務時間中に「今度の休み、ゴルフしない?」と誘い合っているのだ。
 釣りやゴルフ好きの同僚・友人をつかまえて、その「罪」を滔滔と語ってきかせた時期がある。すると、友人たちは「お前の言うことはよく分かる」と口をそろえた。そして週末になると、いそいそと海や渓流、あるいはゴルフ場へと出掛けたのである。「あーあ、彼らには何を言っても無駄だ」とあきらめた。
 だから、釣りやゴルフをやらないのは、自分だけの信念であり、誰かを説得しようというのではない。でもね、と思う。
 釣りやゴルフに限らないが、もしこのまま人間が、自分の楽しみや欲望のためだけに、生き物の命を粗末にし、森や林の自然をめちゃめちゃにしていったらどうなるのだろう? BSE(牛海綿状脳症)や鳥インフルエンザ、新型肺炎…。これらは、人間が冒涜し続けている自然からの逆襲に思えてならないのだ。
 しかも、それはほんの序章のような気がする。


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