んだんだ劇場2004年5月号 vol.65
No15
母がやってきた!

11月x日
日本の母から小包が届く。娘へのクリスマスプレゼントでままごとセットやお菓子が人っている。届いたよ、と母に電話していると、ひょんなことから年末に日本に遊びに行くことになった。夫にそのことを恐る恐る言ったら「行ける時に行ってきたらいいよ。」という寛大な答え。・・・さては私と娘がいない間に羽を伸ばすつもりだな?

11月x日
後ろの家で水のタンクを作っているのだが、我が家との塀ギリギリのところにタンクを上げるやぐらみたいなものを建てている。ここにいつも2、3人男の人が上がっていて、我が家が丸見えなのと出かける時もわかってしまうので、物騒でいやだなあと思っていた。もちろん彼らは仕事をしているのだが万が一をいつも考えておかないといけないのがブラジルだ。夜、帰ってきた夫に相談すると「犬を放しておけば?」と言う。よく吠える大なので予防にはなるだろうなあと思っていると、けたたましい鳴き声。何をしているんだろうとのぞいてみると夫が犬と庭を走っている。
「ちょっと泥棒のフリをしてみて犬が追いかけてくるかどうか試してみた」
犬は遊んもらっていると思っているだけじやないの?

11月x日
日本語学校の終業式があるので今月末は忙しい。へとへとになって帰ってくると娘がお手伝いさんに抱かれてニッコリ出迎えしてくれる。疲れが取れる。晩御飯を作っていると、あるべき場所に皿がない。食器棚を見ると中が整理されているし場所も変わっている。お手伝いさんがしてくれたらしい。そう言えばガス台も向きが違っていることが何度かあった。模様替えもいいけど一言言って欲しいなあ。T先生によれば「仕事していないと思われないようにやる」のだそうだ。まあ、それならそれでいいか。

11月x日
娘に「チューして」と言うと、べろっと顔をなめてくれるようになった。先月はただ手をパチパチしていただけだが離乳食がおいしい時などパチパチするようになった。脅かしているつもりなのか「う一っ、わあ」と言ったりする。びっくりしてあげると大喜びだ。日本語学校から帰るとお手伝いさんが「日本人の女の子たちが来たよ」と言う。私が教えていたクラスの女の子3人組がブラジルの学枚が終わると「せ.んせ一い、赤ちゃん見せて」と遊びにくる。今日は日本語学校があったのに、何で遊びに来たんだろう、と思っているとなぞが解けた。「これ、赤ちゃんに」と言って小さな小さな指輪を買ってきてくれた。

11月x日
土曜日なので夫が帰ってきた。家の前のマンゴーの木の下でピクニックをする。一番暑い時間だが木の下は風があって涼しい。娘もパクパク食べている。安上がりだが楽しい。こういうのをささやかな幸せ、というのだろうか。タ方、Cの家に遊びこ行く。8月に生まれた女の子がいるのだが、髪の毛がくるくるでお人形さんみたいだ。それにしてもこの子はいつ行っても寝ている。そして側でどんなに話していても起きない。だから3ケ月にして7kgもある。

11月x日
ちょっとした事件が起きた。夫と同じ職場で働いているブラジル人のMの妹夫婦が交通事故で亡くなった。甥っ子が同乗していたのだが彼は即死、、妹夫婦の方は救急が遅く奥さんの方はベレンまで飛行機で行ったのだが問に合わなかったそうだ。そう言えば変な時間に上空を軽飛行機が飛んでいた。後日事故を起こした車を見てみると、後ろがめちやめちやだった。
相手のトラックを運転していたのは日系人だった。亡くなっただんなさんは家族が大きいというか、有力な家の人なので、事故を起こした人はリンチされないようにいったん遠くへ逃げたそうだ。彼は後日戻ってきて、日系人の防犯委員に付き添われて警察に行ったという。この時、夫も一緒にもどったので、もし巻き添えを食ったらどうしようと、とても心配だった。なんだかやりきれない話だ。

11月x日
この1過間、毎日17時ごろまで終業式の準備だった。お手伝いさんが来ている日は夫と交代で娘を迎えに行き、そうでない日は職場につれていった。おもちゃさえ渡しておけばおとなしく遊んでいるので同僚の先生たちにもすっかり慣れてしまった。
終業式の前日は最後の授業がある日なのだが、問題が持ち上がった。この日に製材所が抗議集会を開くというのだ。自然保護の面から役所が木を切る許可を出さないと言うのだが、それでは製材所で働いている人の生活は成り立たない。そこで抗議の意味で文化協会のある十字路一帯から製材所の並ぶトメアスーまでを封鎖するという。この封鎮の時問がはっきりしない。これは困った。先生たちだって来られない人が出てくるかもしれない。

11月x日
心配したが終業式の前日も授業はちやんとでき、終業式も無事終わった。終わると達成感があるし、必ず終わりが来る日本語学校の仕事は私にあっている。来年も働けますように・・・。

12月x日
母から荷物が届く。レトルトの離乳食、赤ちゃん用のおやつがはいっている。今時の日本の離乳食はすごい。お湯を注ぐだけで鶏ささみと野菜のあんかけになったり、鮭のクリームソースが出来たりする。これがブラジルにもあったらなあ・・・。こんな便利なものの存在を知らなかったので全部手作りしていたのだ私は。ブラジルでは貧乏な人であまりおっぱいが出ないお母さんだと1ケ月くらいの赤ちゃんにミンガウという甘いおかゆをあげるそうだ。それでも育つんだから子供はたくましい。
我が娘はおいしいものを食べたときにパチパチ手をたたく。レトルトの鶏ささみもお気に召したようで何度もパチパチ、すぐに食べてしまった。レトルトと併用して手作りも続けているが、お義父さんからムラサキイモをもらったので娘にあげたら次の日紫色のウンチが出た。娘は最近名前を呼ぶと「アーイ」とお返事をするし、テレビを見て歌ったり踊ったりしている。段々赤ちゃんから幼児らしくなってきた。

12月x日
娘の予防注射。今回は三種混合(だと思われる注射)。何度か来ているので娘も危険を察知したのかイスに座っただけで大泣きする。お医者さんと「いろんなことがわかるようになったんだね一」と感心する。夜、寝ている娘をふと見たら体が赤いような気がしたが、その前まで元気だったのであまり気にしなかった。娘をベッドに寝かせようと抱き上げた夫が「なんか体が熱いような気がする」と言うので熱をはかると38度。初めての熱だ。「乳幼児の病気」という本を見ながらわきの下や足の付け根を冷やす。大丈夫、大丈夫と言いながら結構ドキドキして眠れなかった。娘はもともと健康で予防注射の副作用だったのだろう、次の日の朝には元通り、よく遊び.よく食べたのでホッとした。

12月x日
日本に娘と私の二人で旅行するためには夫の了解を取った、という書類が必要なんだそうだ。これは例えば離婚して親権がないのに子供を連れていってしまうとか誘拐などのトラブルを防ぐためらしい。裁判所はトメアスーにあるのでその書類を取りにいく。あらかじめ必要な書類を聞くのにも電話ではダメで直接聞きにいった。今日が2回目で裁判官のサインさえもらえればいいのだが、その裁判官が、「ちょっと散歩」に行って2時間も帰ってこない。12時半頃やっと書類がもらえる。昼食を作る時間がなくなってしまったので外で食べることにした。これはケガの功名。

12月x日
日本に帰る日を指折り数えて楽しみにしている。もう日本語学校も休みになったし、暇になるなあと思っていたらとんでもない! クリスマスにあっちこっちからプレゼントをもらって(しかも大きなものをドン!ともらうのではなく心づくしという感じのものをちょこちょこもらう)そのお返しにお菓子を焼いたり日本に行く準備、クリスマスカードを作ったりとてんてこまいだった。夫が「今年くらいはクリスマスを一人で過ごしたくない」と言うで日本行きを12月末にしたのに肝心の夫は仕事で全然家にいない。私は疲れたのと夫が家にいないので少々機嫌が悪かった。
トメアスーのクリスマスは静かだった。ブラジル人は家族で食事をしたり、夜遅くなってから教会のミサに行くようだが日系人でクリスチャンでなければ普段より少し豪華な食事をするくらいだ。我が家は私が作ったクリスマスリースを飾り、JAMlCのお義父さんたちのところへ行って一緒に食事をした。クリスマスケーキでも作るかと思って夫に聞いたら「なんでクリスマスにケーキ食べるの?」
と聞かれた。ここではクリスマスケーキの代わりにパネトーネというパンとケーキの中間のようなお菓子があったのを忘れていた。ブラジルにはクリスマスケーキはないのか・・・と思っていたらお義母さんはクリームで飾ってはいないけれどケーキを2つも焼いていた。なんだ、ケーキ食べるんじやないか・・・。

12月x日
ベレンヘクリスマスプレゼントを買いに行く。娘にはブラジルの子供のアイドル、シュシヤのビデオとCDを買ってやった。ショツピングセンターのツリーは大きくてとてもキレイ。外国にいるぞという気になる。ツリーの前で写真を取る。娘は人が多いのとツリーが大きくてピカピカしているので大興奮だった。
夜、夫のおじいちゃんたちと港のしゃれたレストランで食事。パラー州でとれたもので作ったパラー料理を出すところだった。上品な味付けで色々なものが少しずつ出てくる女性には嬉しいメニューだった。外でカリンボというダンスのショーがあり娘は一緒に踊りたがって前に出て行こうとするので抱っこするのが大変だった。その夜は案の定、娘は興奮しすぎて寝ない、寝ない・・・。

12月x日
動物園へ行く。雨が降っていたので最初は水族館へ。涼しくてつい長居してしまう。ピラニアなどアマゾンでおなじみの魚がいる。日本の動物園に比べると小さいし動物の種類も少ないが一つ一つをじっくり見られる。娘はカラフルなオウムの前で大喜び。オウムの前ではみんなが「アララ(ポルトガル語でオウム)」と呼ぶらしく、オウムが自分で「アラーラ、アラーラ」と言っているのがおかしい。

12月x日
いよいよ日本へ娘と二人旅。ベレンの空港で娘は荷物を検査するX線の機械に驚いたのか大泣き。そこで別れることになる夫はうるうるしながら「早く帰っておいでね〜」。私は娘と手荷物でいっぱいいっぱい、夫に声をかける余裕がなかった。
幸い旅行会社のTさんが見送りに来てくれ、荷物を持ってくれた。「サンパウロで迎えが来ているから乗り換えも大丈夫だからね」と言ってくれる。娘は飛行機に乗るといい子に変身。以外に楽な旅だった。ただ、サンパウロには21時頃着いて24時出発なのだが、娘は興奮して眠いのに眠れずグズグズしだした。子連れだったので航空会社のサポートに付いてもらったのだが(お年寄りとか体の不自由な人、子供だけの旅など乗り換えの時に案内が必要な人をサポートしてくれる)ちょうど出国審査の時にグズグズしたのでおっぱいを飲ませながら抱っこひもで抱っこして移動するはめになった。さすがの私も少し恥ずかしかった。

12月x日
日本に着いた! 長旅もいつかは終わるのだ! 半年ぶりに母と会う。母が一生懸命娘に話しかけているのに、娘は疲れたのか時差ぼけかぼ一っとしていた。私もぼ一っとしていてタクシーに乗る時、娘の頭をごっちりドアにぶつけてしまった。ごめん、娘よ。寒いということも久しぶりで、私も娘も厚着をしたらモコモコしてしまって、どうやって抱っこしたらいいのかわからなかった。娘も困っていた。

12月x日
秋田へ行く。久しぶりに会った伯母も祖母も父もものすごく娘をかわいがってくれるのだが、娘は場所見知りと人見知りで私にべったり。トイレにも行けない。そういう時期だし仕方がないけど私も疲れるし、できればみんなに抱っこしてもらいたいのに、この子ときたら私から離されると本当にギヤー!という感じで泣く。それなのに2歳になる甥っ子(娘にとってはイトコ)にはツカツカ寄って行ってベンペンしたりしている。娘のおてんばぶりにおとなしい甥っ子は「この子乱暴・・・」と段々声が小さくなって怒っていた。

1月x日
お正月。娘に風邪を引かせないようにしようとがんばった甲斐があって娘は元気。だがあまりにも娘がべったりで疲れたのと時差ぼけと気温の差で私が風邪をひく。何しろ保険証がないのでもし病院に行く羽目になったら実費なのだ。気合で治した。

1月x日
お正月も終わって秋田から青森に行く。去年の6月にこのアパートからブラジルヘ行く時はもうここに来ることもないんだな一と思っていたが(3月で父が退職したら秋田に帰るため)こんなにあっさり帰ってきてしまって案外近いもんだなあと思う。日本に来て、娘はなんと11ヶ月にして今までしなかったハイハイをするようになった。左ひざをつかない変形ハイハイだが速い!ハイハイ初心者とは思えない速さだ。と思っていたらその2、3日後、母と一緒にいて私のほうに来たくて泣いていた時、母が手を離したらトトトっと3歩歩いたのだ!本人は泣いていたので気がつかなかったけど私と母は大喜びした。

1月x日
温泉に行く。結構山奥にある宿でどんなひなびた宿かと思ったらとても落ち着いた感じのシャレた宿で温泉もよかった。檜のお風呂で広くて暖かかった。娘も入ったのだが泣きもせず、ご機嫌でばしやばしやしていた。娘がおもちゃのあひるを持って入ったのだが落とすたびに誰かに「あひる落ちてますよ」と教えてもらい、ちょと恥ずかしかった。夜になると森の中に雪が積もっていてキレイだった。住んでいる時はあまり雪がキレイなんて思えなかったが、久しぶりに見ると寒い空気の中で見る雪は美しいと思った。

1月x日
母は娘がいちごを食べる度に踊るので面白くて、いくつもいくつも食べさせている。最近娘は芸ができるようになってきて「いいお顔」(目をシパシパさせる)や歌を歌ったり踊ったりする。スーパーに行った時、母がレジで並んでいる時、娘が飽きて騒いだので奥のほうにある遊戯コーナーでアンパンマンの乗り物に乗せたら怖がりもせず、しかも乗り物の色々なところをいじっていた。

1月x日
水族館に行く。ベレンと違って大きい。熱帯魚や海がめ、ラッコやベンギンの水槽を娘は黙って見ている。イルカショーがあったので飽きたらすぐ出られるようにと後ろのほうに座っていたのだが、娘は大興奮。司会のお姉さんが「イルカにボールを投げてくれるお友達、手を上げて」と言うとハーイと手を上げていた。この水族館は冬場はお客さんが少ないので半額の入場券をくれる。

1月x日
来月は娘の1歳の誕生日、忙しいからお母さんも一緒にブラジルに行かない? と言うと「全部手続きしてくれるなら行ってもいいかなあ」と言う。これで母も一緒に行くことになった。ブラジルへ帰る日、羽田で友達4人(夫婦2組だった)と会ったら女性軍は二人ともお腹が大きかった。去年は私が言われた「元気な子を生むんだよ。」というセリフを残し、母と娘と3人でブラジルへ帰る。

1月x日
2人になったので行く時よりはかなり楽だが、遠いことには変わりがない。へろへろになりながらベレンへ着くと夫が迎えに来てくれていた。すごい鼻声。この人は寂しいと病気になるらしい。ウサギみたいな人だ。今回は母も一緒なので少しベレンのキレイな所をみせる。以前母が来た時、空港まで一緒に迎えに行ってくれた人が母に「ベレンは危ない所か、とっても危ない所しかないですからねえ」なんて言ったもんだから母のブラジルのイメージはそういう感じで固まっているの。そのイメージを壊すためだ。ちよっと小じゃれたレストランで食事をし、地ビールを飲み、川の風にあたりながらアイスクリームを食べる。もうすぐカーニバルが近いので小さなバンドが賑やかに通る。いい夜だった。

1月x日
トメアスーに帰ってくる。自慢の我が家を母に見せると「へえ一」という薄い反応。もっと感激するかと思っていたのでちょっとガッカリ。1ヶ月留守にしている間に雨季になっていて庭が草ぼうぼう。やっぱり雨季は植物の成長が早い。親子三代で時差ぼけ、明け方4時ごろ目が覚める。雨が降っているようなサーっという音がするので外を見てみるとカゲロウのような 虫の大群がいる。虫で柱が立っているようり気持ちが悪いので烏肌を立てながら見ていたが30分くらいすると音がしなくなり、虫柱もなくなった。朝になってドアを開けてみると羽が取れてアリのようになった大量の虫が群っている。羽も地面を覆うほどびっしり落ちている。最初にアリもどきを掃いて庭の方に落とし、羽は掃くと飛んでしまうので水で洗い流す。半泣きになりながら掃除をする。母も文句を言いながら手伝ってくれる。雨季は涼しいけれど虫が多いのが難点だ。

飛行機の中
 ブラジルから日本への旅は長い。長いだけに色々な人と会い色々な話ができる。日本へ行く時、ロスで給油のために1時間ほど待合室に入る。その時に「一人で子供を連れて日本へ行くの?」と話しかけてきた中国系ブラジル人の女の人がいた。話しかけてきた人はちょうど私と同じくらいでお母さんと2歳くらいの娘さんを連れていた。我が娘のおもちゃが気になって仕方がないおちびさんの名前を聞くと「ジュリアナ」だと言う。娘の名前も聞かれたのでポルトガル語の名前を教える。二人とも純粋にアジア人の顔をしているのに名前が名前なのでおかしい。「中国語の名前もあるんでしょ?」と聞くと「あ るけど難しいし、みんなはジュリアナって呼ぶから」という。中国語の名前も教えてもらったがよくわからなかった。ブラジル人が日本語の名前を聞いてもすぐわからないのと同じなのだろうなと思う。
 この中国系の3人を見ているとルーツが日本人か中国人かという違いだけで日系人とそっくり同じなんだなあと思った。3世のジュリアナは完全にボルトガル語でおしやべりする。2世のアマは中国語もポルトガル語も話し、1世のおばあちゃんはほとんど中国語。おばあちゃんが私に話しかける時はもちろんポルトガル語なのだが、日系人の1世もこのくらいだなあ、というくらいの片言だった。ロスの待合室は日本から帰る時しか売店が開いていない。なぜか1ドル札をたくさん持っている私はついこういう時、ムダ遣いがしたくなってジュースやコーヒーを買ってしまう。ちゃんとしたコーヒーが飲みたくなる、というのもあるけれど。このコーヒーショップにスペイン語を話すおばさんがいる。英語もスペイン語っぽいのだがこのおばさんがヒマなのか娘の相手をしてくれる。カウンターから出てきて娘の手を引いて歩かせてくれたりする。娘は相変わらずママ〜とこっちに戻ろうとするのだが、その間は私も熱いコーヒーが飲めるわけだ。
 飛行機の中では暇なのか、みんなが娘と遊んでくれる。ベレンに近いほど(つまり地方に行くほど)声をかけてくれる。日本に行く時は隣が10代前半の姉弟だったのだが二人とも実によく娘と遊んでくれた。初めは人見知りだった娘も段々お姉ちやんの方に行くようになったし、後ろの席にいた若い男の人も愛想をする娘の相手をしてくれていた。(娘の好みの男性がわかってきた気がする。黒い髪のがっちり系の男の人には愛想をするのだ・・・。)
 これは知らない人同士でも会話が始まるブラジルの面白さだ。日本人はどうしても恥ずかしがってしまってなかなかこうはいかないだろうなあと思う。そう言えば、日本へ行く時は私一人だったのでトイレに行く時に娘が寝たりしていると「座席から落ちないように見ていてもらえますか」と当然のようにスチュワーデスに頼んでいた。(若いスチュワーデスで娘を抱っこしようとして「私、赤ちゃん抱っこするの初めてなんです。どうやって抱っこしたらいいんでしよう?」と聞かれてしまった。結局おばさんのスチュワーデスを呼んできて抱いてもらっていたが・・・)2列くらい前に娘よりももっと小さい赤ちゃんを導れた日本人と思われる女の人がいたのだが、この人も私と同じように赤ちゃんと二人だった。ねんねの赤ちゃんには座席の前のテーブルに簡易ベッドを付けてくれるのだが、ここに赤ちゃんを入れていた。その女の人は赤ちゃんを気にしながらも席を立った。誰にも何も言わずに。でも赤ちゃんは寝ていなかったのだと思う。おててがパタパタしているのが見えたからだ。簡易ベッドと言えども金具ひとつで簡単に留めてあるだけだ。コロンと落ちたりはしないだろうけど、私はちょづとドキドキしながらそれを見ていて「わ一、私は何とも思わないで人に頼んだけど、そうじやない人もいるんだなあ」と思った。それは私が田舎のトメアスーで暮らしているからなのか、図々しくなったのか、ブラジル式なのかちょっと考えてしまった。飛行機の中だったらさらわれる心配もないし・・・と思ったのだが。

 帰りの飛行機の中では「私って日本人だなあ」と思うことがあった。確かサンパウロからベレンまでの飛行機だったと思う。とても混んでいて前のちょっと広い座席にしてもらえなかった。子供がいるとその席を優先的に取ってもらえるのだが「狭いけどまあ仕方がないか。」と思ってそのまま座っていた。
 すると後ろの席のおばさんが「まあアナタ、こんな大きな赤ちゃんを連れているのにこの狭い席に座っているの」と言う。私は狭いことに文句を言われているのかと思って「ごめんなさい」と言うと「そうじやないのよ、前の広い席に座ることはアナタの権利なのよ。アナタだって広いほうがいいでしょう」と言う。思わず「そうですね…」と言ったが「スチュワーデスにそう言いなさい。イヤ、私が言ってあげるわ」。すると横に座っていた男の人も「そうだ、そうだ! まったく何を考えているんだ! こんな狭いところに」。こんなに他人のことで世話を焼いてくれるの・・・? とびっくりするくらいすごい追力なのだ。
 確かに前のほうの広い席に座っているのは子供連れでも何でもなく、健康な普通の旅行者だった。おばさんと男の人(この人たちはまったく他人なのだ)はスチュワーデスに私と娘を前に座らせてくれるようにと言っている。でももう離陸直前でしかもせっかく広い座席に座っている人がそう簡単に席を譲ってくれるとは思えなかった。ついにスチュワ一デスが私に「できる限り言ってみるけどここの席でも構わないでしょ?」と聞いた。私は無理だろうなと思っていたから「うん、大丈夫」と言ってしまった。するとおばさんも男の人もため息をついてこう言うのだ。「大丈夫じやないでしょう」あ一、どうしたらいいんだ! とオロオロしていたら私の隣に座っていた男の人がクスリと笑って「自分はどうでもいいと思ってるのに、みんなが一生懸命してくれると困るよね」と言う。結局、私はその狭い席にブラジリアまで座り、ブラジリアからは空いていたので二つの席を使えた。
 
お米の話
 ベレンに行った時、夫が「米、買っていったほうがいいんじゃないの」というので、米なんてトメアスーでも売っているのに何を言っとるか! と一蹴したのだが、これにはわけがある。最近トメアスーの店で米が消えたのだ。消えたのは水稲米でブラジル米(と我が家では言っているが陸稲米、タイ米のような長粒米です)はどこの店にもいろいろな種類があった。ちょうど我が家では米が切れてしまい、どの店を探してもなかったので2、3日ブラジル米を食べていたのだ。何がなくてもご飯! の夫はそれがとても不満だったらしく、米がないことに危機感を抱いているのだ。私は実家にいた時は夕食には米を食べないでおかずだけだったので、夫と恋愛中も一緒に夕食を食べる時、ご飯を炊かないでいると「あなたは本当に日本人ですか」と言われたりした。そういう意味では2世の夫のほうがよっぽど日本文化を大事にしているのかもしれない。単に好みの問題という気もするが。
 トメアスーの米については入植初期は苦労した人がたくさんいる。入植初期は米を借金して買って後で自分で作ったものを売ったそうだが、買った時は現地で「日本人がたくさん来るから米がなくなる」という噂があり米の値段が上がった。が、いざ売る段になると米の供給と需要のバランスが取れて値段が下落してしまった。
 意外に思う人もたくさんいるだろうがブラジル人の主食は米だ。ただしブラジル人が食べるのは陸稲米でパサパサしている。ブラジルの料理はシチューのような汁物が多くそれを米と混ぜて食べるのでパサパサでも食べられる。ただ日本人には食べにくい。おはしでは食べられないし、おにぎりも作れない。だから水稲米は陸稲米の4倍の値段でも買わないわけにはいかない。もち米も作っている人がいるのだがもち米はもっと高級品だ。何かお祝い事があるとお赤飯を炊いたり、和菓子を作ってスーパーに出している人もいるのでもち米も日常的に出回っている。
 我が家では「米食い」の夫がいるので高級品の水稲米に少しだけブラジル米を混ぜて炊く。夫には内緒なのだがバレたらきっと小声で「ケチ・・・」と言われるだろう。夫は正面切って私に文句を言うと3倍にして返されるので聞こえるか聞こえないかくらいの声で文句を言うのだ。水稲米にもいろいろ種類があって「銀米」「やなぎ」が主なところだが最近「弥勘米」というのを見つけた。これが値段も少しだけお徳でおいしい。が、評判がよかったらしくあっという間に売れてしまうようになり、トメアスーには入ってこなくなってしまった。
 こだわりのない私にはよくわからないが、みんな「やなぎより銀米の方がおいしい」とか「やっぱりやなぎが一番だ。」とか言うところをみると各家庭でこだわりがあるらしい。弥勘米が来なくなってからは我が家では銀米なのだが、銀米の袋を見るたびにちょっと笑ってしまう。漢字で「銀米」と書いてある横にポルトガル語で「ArrozGui」とある。これは英語で言ったら「ライス・ギン」と同じだ。Arroz(アホース)は米という意味だがどうして銀だけ日本語なのだろう。銀にはprataというボルトガル語があるのだからarrozprataになるはずではないだろうか、といつも思ってしまうのだ。
 

お手伝いさん
 全てにおいて適当なブラジル人だが掃除だけは別らしい。時間がかかるが丁寧にきっちりやる。が、何事にも例外はあってうちのお手伝いさんは掃除があまり上手ではない。四角いところを丸く掃き、床に置いてあるものはよけて掃く。たまによけて掃いても、ものはそのまま元に戻さない。ベッドの上に足ふき用のタベストリーが、トイレのふたの上にトイレの敷物が置いてあったりする。私も掃除は適当なほうだが、この人よりはマシかもと思ってしまう。仮にもお手伝いさんというのは家事のプロではないか?
 しかし、そんな彼女を私はいいお手伝いさんだと思う。それはこんな話をしてからそう思うようになったのだ。彼女が来るのは、私が日本語学校に行く時と、もう一日だけ掃除をしに来る日がある。私はその日は日本語学校のたまっている仕事を片付け、娘がいるとできないことを片付ける。だからあまりゆっくり彼女と話をしたことがなかった。ところがある日、クリスマスプレゼントのお返しのお菓子を作りながらゆっくり話をした。娘も寝ていたのでお菓子作りを手伝ってもらったのだ。すると出てくる、出てくる、質問の数々。
 日本人に対して疑問がたくさんあったらしい。日本人の生活は彼女たちブラジル人とまったく違うので、「日本人の赤ちゃんの面倒なんて見られるんだろうか…」
と不安に思っていたそうだ。が、家に来るようになって日本人もブラジル人もそんなに変わらないと思うようになった。もちろん子供の扱い方も自分の子供と同じでいいんだ、ということがわかってきた。最初の頃はただただ東洋人の赤ん坊が珍しかったそうだが、慣れてくると「オーリョプッシヤード」(つり目。東洋人の細い目のことをポルトガル語でこんな風に言う)もかわいいなあと思うようになったそうだ。娘と私が1月、日本に行ってしまうのがとても寂しいから、早く帰ってきてほしい、とまで言う。ところで、と彼女のおしゃべりは続く。
 「あなたと、あなたのダンナさんは同じ日本人でもちょっと違うように思うんだけど」と言うので「私は本当の(というのもおかしな表現だがポルトガル語でも〈日本人そのものと言うので〉日本人なの。日本で生まれて日本で育って、ここに来て夫と知り含って結婚したんだよ。夫はここの人、ニセイ(2世)なのよ。と答えた。すると、それでわかった、という顔をして「だから彼はポルトガル語が私たちと同じように話せるのね。ニセイ、ってどういう意味なの?」と聞く。ニセイというのはブラジル人がよく知っている日本語だと思っていたから、知らない人もいるんだなあ、とちょっと驚いた。彼女にしても聞いたことはあるが、意味がわからなかったのだろう。
 ニセイは2番目の世代。つまり移民してきた次の世代でここで生まれて育った人がニセイだよ、と教えると、娘をさして、じやぁこの子は? と聞く。ニセイの夫の子供だからサンセイ(3世)なんだろうけど私から見たらニセイだ。でも娘はここで生まれたわけではないし、と一人で考えていると「難しいわね、いいわ、この子はこの子だから」。
 その後も手が動いている間はずっと口も動いている。彼女の年を取ったお母さんの話や今まで住んだことがある街の話が続いた。私は話のついでにこれからのことを頼んでおこうと思った。親が忙しくてお手伝いさんに育てられた子がいる。何でもお手伝いさんがやってくれるのでかなり大きくなってからでも自分の靴の紐を結べない子がいる。お手伝いさんは叱らないので、大人をなめていて全く大人の言うことをきかない子がいる。全部が全部、そうなるわけではないが中にはそういう子もいる。私は娘をそんな風にしたくないので自分のことはなるべく自分でさせてほしいこと、いけないことをしたらきちんと教えてほしいと言ったら「あなたがそういう考えでよかったわ。なかにはやっぱり自分の子供は怒らないでくれっていう人もいるから…」と言っていた。
 人を信用するのは難しいけれど、この人は私の見る限り、娘の面倒をきちんと見てくれている。私が日本語学校から帰ってくると何時ごろお昼寝して、何時ごろ起きて何をどのくらい食べて機嫌はどうだったか教えてくれる。これはこちらが頼んでもいないのに初めからしてくれる。歌を歌ったり、遊んでくれたり、話しかけたり、とてもかわいがってくれているのがよくわかる。娘も一番人見知りが激しかった頃も、彼女には抱っこされたり一緒に遊んだりしていた。家事も大事だが、娘を預けていく以上、こっちのはうが大事なことだと思う。

母に食べさせたもの
 母が帰る問際に「何が一番おいしかった?」と聞くと間髪入れずに「レモネード」という答えが返ってきた。あんなに色々食べさせてあげたのにレモネード? という気持ちと、確かにちょっとした研究を重ねてたどりついたものなのでそうだろう、と言う気持ちでちよっと複雑だった。よく行くレストランのレモネードがとてもおいしくて作り方を色々試してみたのだ。ここのレモンはどちらかというとライムのような香りと色なのだが、ライムよりも酸味が強い。これを皮ごとミキサーにかけ、ためらわずに砂糖を入れるといい香りのレモネードのできあがり。コップ2、3杯は軽く飲めるくらいおいしい。いくらおいしくてもレモネードだけではちょっと不服なので実際に何を食べさせたかちよっと振り返ってみよう。
 まずベレンに着いて泊まったホテルだが、特に朝ご飯がおいしかった。まずのどが乾いているので果物のジュースを飲む。アセロラかオレンジのジュースだ。すっぱくて目が覚める。それからメロン、すいか、パパイャ、りんごなどのたっぷりの果物。そして色々な種類のパンやケーキ。とうもろこしのケーキやチーズのパン、タビオカのもちもちしたパンなど目移りしてしまう。食堂の入り口にはタビオキーニャというタビオカの粉で作ったクレープのようなお菓子を焼いてくれる人がいる。道端でも売っているのだが、大体マーガリンを塗ったものだ。ここのはマーガリンだけでなく、ココナツミルクの甘いのもあるので、いつもそれを頼んでしまう。
 甘いのの後はハムやチーズで口直しをする。最後に熱いコーヒーでお腹はすっかり満足だ。確か母は日本で飲むのとは違う濃いアセロラのジュースをおいしいと言った。7年前に胃の手術をして胃が小さくなったのだが今では「本当に胃の手術をした人だろうか?」と思うほど食べる。このホテルの朝食も少ししか食べられないから」と言いながら、私の取ったものも少しずつ食べていた気がする。
 トメアスーに帰ってきてからは我が家の朝食に文句をつけていた。確かに母は「食事は朝が一番大事なんだから」と言ってパンと飲み物の他にヨーグルトと果物、それに卵を焼いたり野菜妙めをつけたりしていた。でも我が家はパンと飲み物と果物だけ。ある時は自家製ヨーグルトを出す。たまたま母が来ていた時、朝は牛乳をいつものところ以外のところから買っていたので、ヨ一グルトがうまくできなかった。だからやたらシンプルな朝食だった。「質素な朝ご飯ねえ」。こう言いながら日本では食べないパンを食べる。何でもおかずを食べるとパンが食べられないそうだ。それを食べているから「ブラジルのパン、おいしいでしょう。だから食べられるんでしよ」と言うと「何言ってるの、パン食べなきゃ他に食べるものないじゃないの」と言う。ここのパン屋は6時にはもう開いていて毎朝買いに行く人もいる。フランスパンやコッベパン、パステランというバタ一っけの少ないクロワッサンのようなパンもある。カリカリ、ふわふわがおいしいパンでさすがの母も「でも確かにブラジルのパンはおいしい気がする。余計な味がついてないところがいいわね」
 ご飯はシュハスコ(バーベキュー)を始めとしてツクビー(鶏肉、ジヤンプーと言うぴりぴり舌がしびれる草をツクピーという調味料で煮たもの〉フェジョン(豆とシヤルキという干し肉をトマト、玉ねぎ、にんにくなどと煮たもの)モケツカ(魚のフライをトマトソースで煮こんだ料理)などアマゾン料理を食べさせたが割合何でも食べていた。ジヤンブーのぴりぴり感が気に入ったようだった。ただしフェジョンのシヤルキは匂いがきつくて試しに少し食べた後おかわりはしなかった。そして母がお気に入りだったのがピメンタシェロという黄色い唐辛子なのだが、これは名前の通り匂いがよくて何にでも入れて食べていた。が、「あれ、おいしいけど食べた後胃が痛い」と言い出した。ピメンタシェロは胃にはよくない。少し控えていたがやっぱり食べたかったらしく後からは私の出がらしを使っていた。
 果物は日本ではお目にかかれないようなものをたくさん食べさせた。私は食べる度にアマゾンにお嫁に来てよかったなあと思うマンゴスチンは、あまりお気に召さなかったらしく、だらだら汁をたらしながら食べている私に「そんなにおいしい?」と冷めた視線を送っていた。ランプータンは「ライチに似てるけど種に果肉がくっついて全部きれいに取れないのがダメ」だし、ププーニヤ(椰子の実の種で見た目は小さ目の柿のようなもの}は「クリみたいだけど、ぽくぽくし過ぎてのどが乾くからダメ」。ウシく卵形の茶色いつるんとした実。皮が少し苦く種の周りのねっとりとした果実を食べる)に至っては「これの何がおいしいのか」と言う始末。1歳の娘も好きで食べるのに・・・。比較的お気に入りだったのがマンゴーで「もっとないの」と 言っていた。バナナも日本で食べるのと違って少し酸味があるのでおいしかったらしい。
 おやつにはカンジッカを作った。カンジッカはとうもろこしの実をそいで牛乳と砂糖と一緒にミキサーにかける。ざるで漉した汁を(つまり廿いコーンスープの方を)なべでゆっくり暖める。とうもろこしが若い時はコーンスターチを使う。カスタードクリームのようになってきたら、もう少しだけ火を通し器にあけて冷やすとプリンのようになる。3回作ったのだが2回はクリ一ム状のままで固まらなかった。これはこれでおいしいのだが、最後の1回でやっと固まったものができた。母が食べ終わって「どうやって作るの?」と驚いていた。文句が多かった母だが私はしてやったりと思った。


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