んだんだ劇場2004年11月号 vol.71
No19
おばあちゃんの昔話

日本語学校の子供たち
 私が日本人じゃなかったらきっと日本語は話せないだろうなあと思う理由の一つに日本語の活用の難しさがある。例えば英語だったら時制とか人称で動詞が変わる。でも日本語は時制以外にも使い方で変化する。その一つに「て形(てけい、と読みます。)」がある。これが一筋縄では行かなくて「食べます→食べて」「書きます→書いて」「買います→買って」「泳ぎます→泳いで」と動詞ごとに違う。(法則はあるのですが)これを教えている時、ひととおり動詞を出して説明し、次に移ろうと思い、つい「さて!」と言ったら、何人かの子どもがノートからぱっと顔をあげて「『さて』は何のて形なの?!」とうんざりした顔で聞いた。私はよく聞いているなあと感心するのと同時に、なるほどなと思って一人で大笑いしてしまった。子どもはぽかんとした顔をしていたけれど。
 子どもにはこんな風に驚かされたり笑わせられたりする事が多い。音楽を教えていて、ずっと手拍子して歌っていたら歌の終わりにみんな手が痛くなってしまった。そうしたら「手がこしょうみたいにぴりぴりする…」と言った男の子がいて子どもって詩人だなと思った。
 ボランティアとしてここに来た当時は、「日本から来た先生」に子供たちもドキドキしていたと思う。女の子たちには服装チエックをよくされた。「先生のピアス、小さくてかわいい!日本のはそういうのなの?」「そのTシャツ先週と同じだよ!」に始まって夜、ドレスアップした時に会い、その次の授業で私がすっぴんにGパンで授業に行ったらとてもがっかりした顔で「どうしていつもあの時みたいにきれいにしないの?」と言われたり。髪を切った日にはどんなチビの男の子でも「長い方がよかったのに!」ホントに先生のことを良く見ているし(授業以外では)よく聞いている。私がちょっとでもポルトガル語の発音を間違おうものなら日ごろの恨み(?)とばかりに「そうじゃないよ、何で言えないの?」とえんえんと発音指導が続く。diとjiは日本人には両方「じ」と聞こえるのだが、実は違っていてそれを授業そっちのけで教えられた時があった。その熱意を日本語を覚える方に使ってくれればいいのに…。それだけにのせてしまえば、授業が楽しくなってしまう時もある。形容詞の勉強をしていて「どんな人と結婚したいですか。」という質問があった。いったんそれを聞いたら、みんな止まらない!ハンサムでお金持ちで・・・と高望みの限りを尽くしている。自分で話したいという気持ちがあるから覚えるのも早い。
 外見は日本人でも中身はブラジル人の彼ら。日本語学校の休みあけなんか、ぱーっと走ってきて、がばーっと抱きついてきて「先生、会いたかった!」なんて言ったりする。夫と恋人同士だった時だってこんなに熱くなかったというほどだ。これが行き過ぎるのだ。人懐こいのはいいけど、やり過ぎる。もっと悪く言うとけじめがつかなくてだらしない時がある。例えば教室の時計をいたずらして早送りし、私が直してもいつまでもそのことにこだわって授業が進まない。これじゃいけない。そう思ってダメな事はダメだとがっちり怒った。時には「邪魔するなら出て行きなさい!」と言った。それまで私が注意したりしなかったりだったのでルールがわからなくなった。そして見逃してもらうことに甘えたのだ。今まで年齢的にも上からものを言うのができなかったし、するべきではないと思っていた。でもこの仕事をしていると、時には自分は子どもよりも上にいる、ということを見せなければいけないこともある。
 だけど、日本語の勉強は義務ではないから、楽しくしたい。私だってやっぱり高圧的に子どもを押さえつけるのはイヤだ。だからある程度のけじめをつけてやってほしいというのが私の正直な気持ち。でも現実は、子どもがリミットを越えてぎゃーっと騒いで、私がガミガミ怒る。そんなにうまくはいかない。でも、まあ子どもも怒られることがコミュニケーションだと思っている節もあるので当分はこれでいいことにする。ゆっくりわかってくれればいいや。ここの子供たちは怒られてもcabalheiro(紳士)なところがあって、こうやって私がガミガミ怒ってもその直後に荷物を持ってくれたりドアを開けてくれたりする。気分転換が上手というか、気にしないというか、でも後に残らないのはいいなと思う。
 今でも信用されていると自信は持てないけれど、少なくとも前よりは子どものことがちょっとわかってきたと思う。3年も通っていて「あ」と「お」を間違える子でも私が掃除していると、すぐ手伝ってくれる。ウソをついてまで早く教室から出て遊びたい子が折り紙の時だけは居残っていくつもいくつも作っている。その子の個性があって、それはいろんな形で出てくる。そんな当たり前のことがわかってきた分の自信はついてきた。

8月x日
ベレンに行く。ショッピングセンターで来週Kくんの1歳のお誕生日会に呼ばれているのでプレゼントを買う。絵本にする。ブラジルは他のものに比べて絵本の値段が高い。CMでも読書を勧めているものがあるけれど、環境を整えなければ言っているだけになってしまう。もともと植民地だったので文化的なものは低所得層に必要ない、という考えだったからという説を聞いたことがあるが、だとしてももっと本が身近なものになるといいんだけれどなと思う。そういう願いを込めてできる時は、子どものプレゼントは絵本にしている。日本語学校でも日本からの絵本を子供たちに読み聞かせしている。(2世の先生の"声の字幕付き"だけど)絵本が嫌いな子どもなんていない。

8月x日
Kくんのお誕生日。Kくんのお家は川のプールがあるのでそこでパーティー。Kくんのところは兄弟やらイトコやらで子どもがたくさんいる。Kくんのママに「家に帰ってきても幼稚園なんだね。」と言って笑った事があった。でも勝手に子供たちで遊んでいてくれるから楽なところは楽、と言っていた。娘は人見知りが激しい方だけどGさんのところのLちゃんにはくっついて歩く。Lちゃんとは握手したり、なでてあげたりしていた。こんなに小さくても相性がいいっていうのがあるのかな。

8月x日
ふと思い立ってTOEICの勉強をする。ベレンに行った時、問題集を探したのだがなぜかどこにもない!そしてTOEICの会場になる英語教室に詳細を聞き、問題集を買いたいのだがと言うとここでもないと言われる。ここらへんの人たちはどうやって勉強するんだ?!という話をシニアボランティアの先生にしたら、問題集をくださった。私も自分の本棚を探したら1冊あった。夜、娘が寝た後ばりばり勉強していたのだがやっぱり難しい。忘れているのも多いし、語彙がとても難しい。勉強するとぐったり疲れるが、使っていなかった筋肉を動かしたというか、すがすがしい疲れ。でももう8月も下旬だと言うのに、9月末の試験の日程などがまだ決まらないそうだ。ここらへんがブラジルらしいなあ…。これはゆっくり勉強して11月に受けるかな・・・。

8月x日
日本語学校のピクニック。みんなでトラックの荷台に乗って、川へ行く。前の日、雨が降ったのであまり土ぼこりをかぶらずに済んだ。ちょっとお尻が痛いけど、風が気持ちがいいので荷台に乗るのは大好きだ。娘も一緒に川で泳いだり、魚を捕まえたり(子供たちはコップやザルで捕まえられる!)、肉を食べたりスイカを食べたり、典型的アマゾンの休日。久しぶりに食べた羊の肉がおいしかった。案の定、娘は帰るとき大泣き。水から出たくなくて「あぐあ〜(ポルトガル語で水、の意味)」を連呼していた。典型的アマゾンの子。

8月x日
私が日本語を教えているS君が彼女を連れて遊びに来る。娘はこのお兄ちゃんが大好きで、いつもべたべたまとわりついている。彼のお母さんが「おばちゃんにチュってして。」と言うとなぜか彼にチュっとしてしまうくらい大好きだ。その彼が彼女を連れてきたものだから娘はやきもちを焼いて、いつもべたべたするくせに私の足にしがみついて抱っこされない。もしかしたら遠慮しているのかも。
ところで彼らはベレンとここ、トメアスーで遠距離恋愛中だ。ベレンからここまでは車で4時間だから結構な距離に感じるが、あまり大したことはないようだ。日本よりも距離を感じない。これが大陸の大きさなのかな。

8月x日
夫が昼、いなかったので娘と二人でパステウを食べに行く。まだまだ赤ん坊なのだが、最近こうやって二人でおでかけできるようになったというか、相手になるようになってきた。
そんな娘だが、いたずらがパワーアップしてきた。静かだなあと思っていると床に色鉛筆で何かを書き(タイルだからふけば取れるのだが)シールまで貼って作品を作っていた。私が「あー!」と言うと床を指差して「にゃーにゃーみ!」と言う。自分の名前を書いたのだと言っているのだった。犬がご飯を食べていれば近くまで行って「おいしい?おいしい?」と聞き、私がくしゃみをすれば「ママ、くしゅん!」2語の言葉を話せるようになった。アメときゅうりが好きで、何でもつまようじで食べようとする。次は何ができるようになって、どんないたずらをしてくれるんだろう・・・。

インターネットと電話と電気
 先日、実家に電話をしたら祖母が出た。何度名前を名乗ってもわかってもらえない。最後に「ブラジルの・・・」と言ったらやっとわかってくれ、必要以上にびっくりしていた。祖母の頭の中ではブラジルは想像を絶する遠さで電話が通じるとは思わなかったようだ。祖母のイメージほどではないが、それでもやっぱり電話事情は良くない。大雨が降ったりすると使えなくなるし、夫の実家JAMIC(つまりもっと山奥のほう)からかけてくると取ったとたんに切れたり、話せてもバリバリ雑音だらけで何を言っているのかわからない。ボランティアだった頃はちょっと遠い街からボランティア仲間が電話してくると「トミヤさん?」で一回切れて「あのね、教えて欲しいことがあるんだけど・・・。」で一回切れたりして何度もかけ直さないとマトモに話ができないこともあった。
 却って日本から電話が来た方がきれいに聞こえた。つい最近まで無線電話だったところもあって、そういうところは時間制限がある。15分話すと切れてしまうのだ。長電話防止にはいいけど、込み入った話をしていると大変だろうなあと思う。今でこそ猫も杓子も携帯電話を持っていて、日本語学校の子供ですらピロピロ鳴らしているが、1993年まで電話が全ての地域に通っていなかった。それまでは何か連絡事項があると、車で走りまわっていたという。
 一方電気は1975年、ディーゼルオイルの火力発電所が開設。続いて79年にはトゥクルイ(トメアスーから約300kmの街)水力発電所から電力が供給されるようになった。コロニア全域に電気が行き渡ったのは1989年。それまでは冷蔵庫を石油で動かしていたそうだ。今、私が日本語を教えているMさんの奥さんはフォルタレーザ(セアラ州の州都。都会です)からお嫁に来た人だ。だから新婚当初はこの使い慣れない石油冷蔵庫の石油を切らして失敗したそうだ。冷やしているのに、冷蔵庫の下では火が燃えているという不思議な家電だったらしい。家の夫も子どもの頃は電気がなく、自家発電は夜だけだった。だから午前中やっている子ども番組をテレビで見られなかった。そのせいなのか何なのか、今食事の時に口を開けっぱなしにしてテレビを見惚けていて私に怒られている。(こっちは自分の分も食べないで娘に食べさせてるのに…)
 今は電気があって便利な生活だけれども、しばしば停電する。特に雨季はろうそくは常備品だ。この間、日本語学校の子どもが宿題をしてこなかったので「何でしてこなかったの?」と聞いたら「だって昨日停電で6時ごろから夜中まで電気なかったんだもん。」よくあることだ。
 インターネットのプロバイダーはトメアスーには2002年ごろから、ベレンでは95年ごろからできた。私は最初ベレンのプロバイダーを使っていたのだが何しろ、電話がこんな状態なので何もかも時間がかかる。だから結構バカにならない金額の電話料金がかかっていた。しかも電話の調子が悪い日はメールチェックもできなかった。だからトメアスーにプロバイダーができた時は大喜びだったのだが、3ヶ月位したら調子が悪くなり問い合わせたら「今、ケーブルにして24時間いつでも使えるようにするから。」と言ったまま消えてしまった。いなくなってしまったのだ。(この間、そのプロバイダーがあったところを見たらまた戻ってきていたけど。)今、使っているプロバイダーはトメアスーので、ケーブルを使っているので電話代がかかることはない。通信速度も結構(前よりは)速い。使い初めのころはしょっちゅう雷でケーブルが焼けていたので、今では用心のために雨が降ると元の電源を切っているらしい。つまり雨が降ると使えないインターネットなのだ。インターネットが普及しだしたのは、本当にここ4,5年の間で10代後半くらいでもコンピューターが家にある若い世代は普通に使っている。おじさんでも頑張って使っている人もいる。調べものをしたり(夫も農業系の情報をよく調べている)、買い物をしたり(私たち夫婦は洋楽ファンなのだがベレンにも置いていないようなCDを買うことがある)、日本に出稼ぎに行っている家族と連絡を取るために使っている人もいる。もちろんトメアスー農協のように国際的に商売をしているところもある。
 私が便利だなあと思うのはメールももちろんだが、急に某ドーナツショップのドーナツが食べたくなった時、インターネットで調べたら作り方がでてきたことだ。世界はせまくなった。

おばあちゃんの昔話
 ふと思いついてIちゃんの昔話ふと思いついてIさんのお家でおばあちゃんに昔の話を聞いてみた。
 「福岡の大牟田から出てきました。実家も農家なんですよ。兄は国鉄の機関士だったんだけど戦死してしまってね。でも死んだ後も国鉄のパスがあったから熱海に信仰していた本部があったのでお参りに行ったんですよ。娘の頃行った一番遠いところはこの熱海。お見合いをして主人と知り合ったんだけど私は結婚するつもりはなくてね、お茶運んで引っ込んでた。でもどうしてもって言われて婚約したんだ。今思えば断ってもよかったんだけど、私の祖母が「あまり望まれて嫁かないと、相手の人の想いが来て死んでしまうよ。」なんて言う。純情な田舎娘だったからそれを信じて結婚したのよ。
 ここに来た時、一番上の子が1歳4ヶ月くらいでね。2番目の子がお腹に入ってた。12月にベレンに着いて4月に生まれたのよ。船の中ではつわりがひどくてカレーしか食べられなかったんですよ。でもそれも口に入れたらすぐ吐いてしまった。梅とごま塩しか食べられなかったですよ。ここに来てからも、つわりがあまり辛くて井戸からの水汲みをウチの人に頼んだのよ。そしたらやってくれたんだけど舅に「男の癖に女に使われて!」とか怒られてね。それから手伝ってくれなくなっちゃった。でも舅がいない時に隣の人が子供たちに言って水汲みを手伝ってくれました。出産の時はいつもギリギリまで仕事してたなあ。いつも産婆さんが間に合わなかった。生んでからすぐに処置しないと後産がなかなか進まないのよ。産婆さんにお腹押されて胎盤出した。生む時はふとんに寝て、つかまるところなんてないから側にいる人の手を握って生んだっけなあ。一番下の子を生んだ時はもうベッドがあったからベッドにつかまって生んだんだけど。そうそう、一番下の子の時はトラクターに乗っていて、今よりももっと道がガタガタでこんなに揺れて赤ちゃん大丈夫かなと思った。そのうち何だかわき腹が痛いなあと思って見てもらったら赤ちゃんが横になってた。その時はベレンから毎週木曜日に来るお医者さんにお腹もんでもらって元に戻してもらったのよ。産後は腫れがひどくて、でも舅が厳しい人でね、そうそう寝てもいられなかったんだけど、あまり直らないからサンパウロからの巡回医さんに診てもらった。そうして薬を買って毎日人に頼んで注射を打ってもらったのよ。産後の腫れは命取りになると言われていたけど、パトロンさんのお世話で命拾いしたの。
 家族が多かったから4時半に起きてお弁当やら食事やら作ってた。夫の妹たちはまだ学生だったから私が持ってきた和服をほどいて普段着を作ってあげたし、みんなの作業着から制服、帽子まで作ったんですよ。昔は肥料の袋が丈夫な白い布だったから、それを使ったの。」
 ホントよく働いたんですね、と半ばあきれる私に「日曜日だってウチの人たちは釣りに行っちゃうけど、女は仕事よ。トラクターいっぱいに肥料の袋を積んでウチの人たちが帰るまで水の中にお腹までつかってその袋を洗ったよ」と言う。昔話にでも出てきそうな働き者の話はまだ続く。
 「胡椒を植える時はね穴掘りは男性の仕事、穴に支柱を植えて穴を埋めるのは女性の仕事。40本やったら好きな仕事していい、って言われたからその後は針仕事と洗濯をしたよ。私は実家が百姓だから、穴埋めは早くできた。野菜もね、畑に少しきゅうりを植えたら上手にできた。1日20kgくらい売ったかなあ。この家を建てる時、台所の左官の分はきゅうりの売上だけで払えたのよ。自転車で餅、油揚げ、野菜を売りにも行っていました。野菜が少し売れ残った時にあるパトロンさんに持っていったら全部買ってくれてごちそうしてくださった時は嬉しかったなあ。餅はね、あんこを包むんだけどウチのはあんこがはみ出ちゃう。後から出ない作り方を聞いたよ。色々工夫があるもんだよね。油揚げは大豆をサンパウロから買って作っていました。にがりはここにサウ・アマルゴっていうのがあってね、それを薄めて使っていました。豆乳の3分の2を沸かして、そこに沸かしていない3分の1を入れて豆腐を作るとやわらかい油揚げができるの。その炊き加減がわからなくて苦労しました。豆腐でも味噌でも醤油でも戦前移民さんは何でも作り方、知っていたなあ。材料はパトロンさんが用意してくれて、作るところもあった。それから私が労働者の給料の計算から買い物まで全部していたとですよ。50kgの袋に豆やらファリーニャやらたくさん積んで、トラクターで行くんです。ポルトガル語はね、女学校で勉強したローマ字で大体読めるでしょう。だから大丈夫だった。入植して6年経ってから夫のいとこもこっちに呼んでそういう仕事もしてもらったけど、1年したら独立してしまうでしょう。だからまた私の仕事になった。舅は家では厳しかったけど、よそでは「ウチの嫁は針仕事でも畑でも何でもできる」ってほめてくれたみたい。私にはそんなこと全然言わなかったけど。」
 ここでウチの娘、まなみがファリーニャの容器を見て「にゃ!にゃ!」と騒いだのでIさんの娘さんに少しファリーニャをもらいながら入ってきた。「まなみちゃんはファリーニャが好きなの。ファリーニャは栄養価があるからと言われて食べたよ。シャルキもフェジョアーダもイヤじゃなかった。私はフェジョアーダ食べてから丈夫になったのよ。ここでは梅干は梅がないから小さいレモンで作るよね。ゴボウの代わりにパパイヤの根っこを食べたこともあった。あとバナナの芯はレンコンの代わりになるって言われたけどアクが強くてあまりおいしくなかった。昔はマパラの塩漬けでご飯を食べたよ。脂っこくて生くさいんだけど。」
 おばあちゃんは、ここまで話して今まで苦労したけど今は幸せだと笑っていた。途中でIさんの娘さんは「もうこんなに我慢してママイ(ポルトガル語で「お母さん」)はバカなんだから。」と言っていた。私も途中で「こんなに苦労されて途中で出てってやる!とか思わなかったんですか。」と聞いた。「だって行く所がなかったもの。」私とIさんの娘さんは二人で「きゅうり売ったお金を少しちょろまかしてベレンに行っちゃえば良かったのに。」とか「家出して誰かの家にいればよかったのに。」とか好き勝手なことを言ったが、たぶんIさんには"我慢する"ことしか思い浮かばなかったのだろう。それが"昔話の働き者"なのだ。軽い気持ちで聞いた話だったが、私は自分が妊娠中にキャラメルコーンが食べたくて泣いた事を思い出して情けなくなるのと同時に、何でだかIさんに申し訳ない気になった。

9月x日
娘が私をたたいたりした時、「ダメでしょ!」と手をペンとするとまたぶち返してくる。「そうじゃなくてなでなでして。」と言うとなでてくれる。1歳の赤ん坊にぺしっとされるだけでも結構ムッと来るのだから、深刻な暴力をふるわれたらそう簡単にはいかないことはわかる。わかるけど、こういうことが平和の基本なんじゃないかなあとテロのニュースを見ながら思った。でもロシアのテロのニュースは見るたびに、腹が立つ。どうして大人のけんかに子どもを巻き込むんだよ!遠い国の知らない人たちに起きた事件でもこれだけ怒れるんだから当事者だったらもっと怒りが激しいんだろうな。やっぱりキレイごとなのか・・・。

9月x日
選挙が近いので、ガンガン宣伝カーが通る。はやりの歌を替え歌にして、候補者の名前を連呼する。大きな車に何人かが乗って、候補者の名前と投票ナンバーの旗を振りながら通りすぎて行く。娘なんか一緒に踊っている。この国は投票が義務なので、どうせやるなら楽しんじゃえという感じ。ものすごく即物的だが、穴ぼこだらけの道路もアスファルトが引かれ出した。頭に来るのは夜10時ごろから政治集会みたいなのを公園でやるのだが、その時演説が絶叫に変わるのと花火がバンバンあがるのでせっかく寝た娘が起きてしまう。もっと早くやるか静かにしろよー!

9月x日
12月に日本語能力試験がある。これは日本語の「英検」みたいなもの。この告知ポスターを夫が無くしたようなのだ。学校でその話を聞いて「ちょっと、ちょっとポスターどこにやったのよ?!」と夫に問い詰めると「机に置いておいたんだけど、古いのもあったからそっちを捨ててって頼んだんだよね。そしたら新しい方捨てたみたい。」とさらり。誰も文句言わない。それはそれでストレスが無くていいけど、やっぱり怒られないと進歩がないんじゃないのかなあ。その証拠に夫はまだ色々なものを無くしている。

9月x日
夫の幼馴染の結婚式。夫は司会。ダンナさんが日本人で奥さんがブラジル人なので日ポ語両方で司会している。私もちょっとがんばってキーボードの演奏を引き受ける。新郎の友人という人がスピーチをしていたけど、ブラジル人はお喋りが上手。理路整然と(?)話せるし、テレビを見ていても素人が割と慣れた調子ですらすら話す。「自分は恥ずかしがり屋だ」と言っている人でもそれほどでもない。日本人の恥ずかしがり屋を見せてやりたい。これが本当の恥ずかしがり屋だ!って。恥ずかしがりと言うか、相変わらず人見知りの娘だったが、大好きなLちゃんにはまたもや自分から寄っていき、手を引いて遊ぼうとしている。そんなことをするなんて、ものすごくびっくりした。後日、スーパーでLちゃんに会ったときも「るー!るー!」と嬉しそうに寄っていったので娘の"Lちゃん好き"は本物だ。

9月x日
テレビを見ていたら、しゃれたカフェテリアを経営している女の人のインタビューがあった。驚いた事に、何年か前まではその人は職が無く、どうやって子どもを育てようか途方に暮れていた、という。自分に何ができるか考えたらそれは料理だった。お菓子やバースディパーティや結婚式の時のケーキを作って売っているうちに評判になり、店を持つまでになったのだそうだ。ああ、すごくブラジルらしいなあ思った。どん底になっても「死のう」じゃなくて「何をして生きていこう」と思うバイタリティ。そう思える背景には、ここでは比較的簡単に商売ができる。手芸や料理の本を見ても「この作品は**レアルで売れます」と書いてあるし、このインタビューの番組でもそういうコーナーがある。日本でも自分の作品をインターネットで売ったりフリーマーケットに出したりするのに似てるかも。
私もお菓子を作るたびに「これ、売れるかな・・・。」と考えるけれど、料理上手な人が多いのと、私のお菓子は夫に「味はいいけど形がね。」と言われるものばかりなので実際には売れそうもない。

9月x日
夫の同僚Cのお家でお昼ご飯をごちそうになる。シュハスコとフェジョン、マニソバ(マンジョカイモの若芽を豚の内臓などと1週間炭火でことこと煮込んだ料理)。マニソバは自分で作れないので、こう言う時思いっきり食べる。
Cの下の女の子は1歳になったばかり。ここにダンナさんの友達が遊びにきてこの子と遊んであげている。でも良く見ているとその子の手を取って自分をぶたせて「悪い子だね!おじさんをぶつなんて!」と言って(軽くだけど)ぺしぺしとおしりを叩いている。呼びかける時も「おいで、ひどいもの(coisa ruin)」だし「ママはイヤだろうなあー。」と思ったけど夫は「あれは普通だよ。」と言う。親しいとちょっときつい事をいうのはわかるけど(私の母方の伯母も口が悪くて3ヶ月ごろの娘を見て「この子はハゲだ!」って言っていたし)その子がちょっと何かさわったりすると「おしおきだ!」とか言って壁にきゅーっとくっつけたりしている。でも別に変な雰囲気とかになっていないから、ホントに何とも思ってないんだろう。

9月x日
オリンピックの男子マラソンを見ていたら、何とブラジル人、バンデレイが1位で走っているではないか!すごいことだけれど、何だか意外だと思っていた。マラソンというコツコツ地道にするスポーツはブラジル人に一番向いていないと思っていたからだ。でも残念ながら、途中でアクシデントがあり(ご存知の方も多いと思うがオランダ人神父がバンデレイを押さえつけて走行を邪魔したのだ)ずるずると後退、結局金メダルはイタリアに行ってしまった。この後、いろいろなメディアに出ているバンデレイのコメントを見ると何だか淡々としていて金を逃した悔しさよりもメダルを取れた喜びの方が大きいようだった。もちろん、このアクシデントは大した事が無い、で済まされない重大なことだけれど、私はバンデレイが後退し出したとき、ああ、この人はもう上がってこないだろうなと思った。抜かれても抜き返すという粘り強さ、あきらめないという気持ちが何だか感じられなかったのだ。ガツガツしたところがなく、自分の出した結果に満足するのは人として穏やかでいいなと思うがスポーツ選手としてはちょっと物足りない気がした。

9月x日
週に2回は日本語学校で子どもに教え、もう2回は大人の個人授業をしている。大人のほうは2世なので日本語を大体日本語で説明できる。もちろんポルトガル語も使うが。そして中級の教材が使える。大人は初級ばかりで、あまり中級に続いていく人がいないので、私も中級を教える事の勉強になっている。大人の授業は楽しい。子どもはどうやったら話を聞いてくれるか、勉強させるほうに多く労力を使うけど大人は純粋に授業内容を考えればいいから。言いかえるなら子どもは体力勝負、大人は頭脳勝負という感じ。
今、敬語をやっていてかなり苦戦しているのだが(私にお菓子をすすめてくれる時「先生、いただきますか?」とか言って、私に「"いただく"は自分に使うんだよ。」と言われたりしている。)習った言葉を使おうとするので上達も早い。でもちょっと自信がないので、全部使う時疑問形(語尾が上がってしまう)になっちゃうのだ。日本人でも間違う人は大勢いるから、ゆっくりやろう。習うより慣れろ、だ。

9月x日
1世の方でたまに「日本よりもアマゾンがいいでしょう?」と私に聞く人がいる。"今の日本はダメだ"と言わせたがっている感じがして、私は余計反発してしまう。私は別に日本がイヤでここに来たわけでなくて、たまたま夫になった人がブラジル人だっただけだ。だから「どっちもそれなりにいいところがあると思うんですけどね。」と優等生的答えでお茶を濁している。たぶん、1世でもう何十年もここにいる人は自分の選んだ道、つまりこちらに移住してよかったんだ、ということを確認したいのかなあと思ったりする。今の日本は、彼らが移住した当初と全く変わったものになってしまったから。そう思うと何だか複雑な思いがする。

9月x日
シニアボランティアの先生が任期を終了して日本に帰るので、日本語学校の送別会。一品持ちよりで昼食会を兼ねている。この日のために各クラスで歌やダンスを練習していた。日本語学校の芸能担当は私なので全クラスを走りまわって指導した。極めつけは先生たちでやった合奏で、カンやバケツを使って「おもちゃの兵隊(キューピー3分クッキングのオープニングテーマです)」をした。楽器がなかったのでカンなどを使ったのだが正におもちゃという感じがして思わぬ効果だった。結果はみんなが交代交代で止まっていったのだが、交代で止まったために合奏全体が止まる事がなかった。聞いているほうもわからなかったそうなので、まあよしとしよう。子供たちも練習の時はうるさいくらいだったくせに、意外と繊細なところを見せたクラスもあった。いつもどおりのところもあったけど。シニアの先生本人が楽しんでくれた(?)のでよしとしよう。


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