んだんだ劇場2004年7月号 vol.67
No1
たらふく食べよう、ホワイトアスパラ

 3月に、東京の小さなフレンチレストランで、長年の友人7人で食事をした。女性雑誌の編集者、新聞の生活部記者、テレビの料理番組のプロデューサーといった人たちで、私も所属する「食生活ジャーナリストの会」のメンバーである。
 前菜が出て来たら、「あら、これトリュフの香りがするわ」などと、私など太刀打ちできない「グルメ発言」が飛び出した。「へえっ、どれがトリュフの匂いなの」と、鼻を突き出したら、「そんなの、これよ、って言えるわけないでしょ」と笑われたが、その香りがわからなかったのは私だけではないらしかった。まあ、それはいい。私としては食べる機会の少ないものだから、香りがわからなくたってしかたないことさ。
 しかし問題は、その前菜である。
 メニューには「ホワイトアスパラガス」とだけ書いてあった。その日のお勧め料理のようで、店の女性サービススタッフが「本日のアスパラガスは、フランスから飛行機で運んだものでございます」と、自慢げに講釈した。「なるほど、そりゃあすごい」(どこがすごいかは、後で説明する)とは思ったが、私は別の前菜を注文した。
 しばらくして、「あら、トリュフ」の彼女の前に出て来たアスパラガスは、大きな皿の上に身を横たえていた。かなり太く、大きいアスパラガスだ。それに、トリュフの香りがする(らしい)白いソースがかけてある。立派な前菜だ。
 しかし……しかしながら……、たった一本じゃないか。
 コース料理なので単品の値段はわからないが、「おいおい、これでいくら取るんだよ」と、思ってしまう(家族的な雰囲気の店で、東京のフランス料理店としては安かった)。「あら、トリュフ」の彼女が切り分けてくれて、一口賞味した「フランスのアスパラガス」は、確かに美味だったが、「でも、たった一本じゃあねぇ……」。
 実は私は、毎年4月半ばから5月末まで、飽きるほどホワイトアスパラガスを食べているのである。
 私は今、太平洋に面した外房(房総半島のうち、太平洋岸を外房、東京湾に面した地域を内房という)の千葉県大原町に住んでいる。母親は一昨年に亡くなってしまったが、両親と住むために土地を買い、家を建てた。「老後は畑を耕して暮らしたい」と言う父親の希望を実現するために探した土地で、敷地のうち120坪ほどを菜園にしている。
 年間に60種類ほどの野菜を作っていて、アスパラガスもその一つだ。
 アスパラガスはユリ科の宿根草。初夏に、地上に出て来た若い茎の部分を食べる。放置すれば1m以上になり、松のような細かい葉を広げる。南ヨーロッパから西アジアにかけてが原産地で、日本には明治になって渡来したが、最初に栽培した青森県では「松葉ウド」と呼んでいたそうだ。なかなか優美なネーミングだと思う。
 家庭菜園に、お勧めしたい野菜の一つでもある。と言うのは、一度植えれば10年以上、うまくやれば20年近くも収穫できるからだ。

土の中で育ったホワイトアスパラ
 市販されているアスパラには、グリーンとホワイトの2種類がある。今は生鮮野菜として流通しているのはグリーンばかりで、ホワイトは缶詰用……と、私も思いこんでいた。生のホワイトアスパラのうまさを教えてくれたのは、東京・築地の青果大卸会社のEさんだった。新聞記者時代のある時期、3年ほど、週に1度、築地市場に通っていた私に、野菜のさまざまな知識を与えてくれたのがEさんである。
 北海道出身(北海道のどこかは忘れたが)のEさんは、中学、高校のころ、学校帰りに腹がすいていると、道路からひょいと畑に下りてアスパラを掘り出し、生のまま食べていたのだそうだ。「生のホワイトを食べさせたいねぇ。グリーンよりよっぽどうまいよ」というのが、Eさんの口ぐせだった。しかも、舌なめずりせんばかりに、いかにもおいしそうに語るのである。
 生のホワイトアスパラが流通しないのは、姿も味も劣化しやすいからだ。掘り取って数時間すると、表面が酸化して茶色になって来る。そうなると苦味が出て、とても食べられなくなる。だから、国内最大の生産地、北海道でも、ホワイトアスパラの畑は缶詰工場の近くにあって、収穫したらすぐに工場に運び、さっさと缶詰にしてしまうのだ。国産アスパラガスの半分以上を生産する北海道では、栽培が始まった大正時代から戦前までは、缶詰用のホワイトばかりだった。
 ビタミンなどの栄養を考えると、グリーンの方がずっと栄養価は高い。昭和30年代から生食用のグリーンが出回り始め、現在ホワイトの生産量は1%程度に落ち込んでいる。生産量が少ない上に、生ではほとんど出回らない。迅速に、しかも保冷技術を駆使してフランスから飛行機で運ぶ(この手間ひまがすごい)高級食材であり、庶民には「幻の野菜」なのである。
 しかし、ホワイトは糖分が多く、「生はシャキシャキして、グリーンよりうまい」というEさんの話は魅力的だった。
 「それなら、自分で栽培しよう!」
 作り方は、意外に簡単だ。ホワイトにするには、太陽光が当たらないよう土盛りをするだけなのだ。私は現物を見たことはないが、ヨーロッパでは上部が緑で下は白と、1本で2色のアスパラも作っているそうだ。
 「それだって、自分で作れるじゃないか!」
 大原町で両親と同居する前は、千葉県佐倉市に住んでいた。そのころすでに、私は近所の農家から60坪ほどの畑を借りて野菜を作っていたから、「ホワイトアスパラなんて、簡単、簡単」と思っていた。春に定植用の苗を買って植え、1年待って、翌年の初夏に待望の生のホワイトアスパラを収穫した。さっと塩ゆでし、少々マヨネーズをつけただけだが、確かにうまかった。食生活ジャーナリスト仲間にも、得意になって話し、「わあっ、うらやましい」などと言われた。
 しかしである……佐倉ではそれが最初で、最後だった。
 アスパラガスが極端に移植を嫌う、ということを知らなかった私はその年、株を掘り起こして植え替え、枯らしてしまったのだ。そのころ福島県に住み、定年退職後に菜園を始めた父親も、同じ失敗をしたらしい。
 今、我が家の畑では、土を掘り起こすと、手の親指より太い、真っ白なアスパラガスが次々に姿を現す。5月に入ってからは、一度に20本くらいは収穫でき、4、5日たつとまたそれくらいとれる。その旺盛な生命力、成長の早さには驚くばかりだ。しかしこれも、父親がしっかり世話をしているからなのだ。

苗を植えて6年目の今年のアスパラは、太いものばかりだ
 父親は6年前、「ヒョロヒョロっと芽生えた苗を5本買った。1本250円だった」と、今でも値段まで覚えている。最初の年は、たっぷり肥料を施した土に苗を植え、じっくりと株を育てた。アスパラガスは夏の間、葉を茂らせ、光合成で作り出した栄養を地下に蓄える。株が育てば、次ぎの年に出る新芽の数も増えるし、次第に太い芽にもなるのだ。肥料はやり過ぎるということはない。冬の間に、直接根に触れないよう周囲を掘り、堆肥などの有機肥料を「これでもか」というほど放りこんでおくのだ。
 2年目に、2、3本試食したそうだ(その時はまだ、私は同居していなかった)。3年目は、気温が23度以上になって急速に育ち始めたアスパラを、2周間だけ収穫した。このころは、とにかく株を育てなければならないから、土はかぶせず、グリーンアスパラで収穫した。4年目は3週間と収穫期間を延ばし、昨年、初めて、最初のちょっとした間だけ土をかぶせてホワイトアスパラを育てた。
 そして、今年は5月末まで土をかぶせたままで、たらふくホワイトアスパラをいただいている。アスパラガスの株は、5年くらいで「大人になる」のだそうで、こうなれば15年は採り続けられる。もちろん毎年、肥料は欠かせない。
 「あら、トリュフ」の前菜を思い出した私は、トリュフも無いし、そんな料理の腕もないが、私なりの「ホワイトアスパラの前菜」を作ってみた。ゼラチンで固めたコンソメスープを刻んで皿に敷き、ゆでたホワイトアスパラを「何本も」載せ、ソースをかけた。今回はたまたまあった紫タマネギを刻んだタルタルソースに、少々レモン果汁を加えたソースにした。
 実を言うと、この時はレモン果汁が多すぎた(私はちょうどいいと思ったのだが、父親とかみさんには酸っぱいと言われた)。それにタマネギやゆで卵に、アスパラの風味が負けてしまったようにも思う。どうしたらいいかと悩んでいたら、先日、よく行くスーパーで、中国から輸入した、真空パック入りのホワイトアスパラを見つけた。値段は国産のグリーンアスパラの2倍もするし、我が家のアスパラに比べて細く、貧弱なそれを買う気はなかったが、パックの裏に「マヨネーズ、生クリーム、レモン果汁」というソースの作り方が書いてあった。もちろん、さっそく試した。生クリームが入ると、味がまろやかになり、アスパラの味が引き立つようで、かみさんにも好評だった。今後は、これにする。

私流の「前菜」。この時のソースは、レモン果汁を加えたタルタルソースだった
 と、まあ、ぜいたくに生のホワイトアスパラを食べている我が菜園の様子を、Eさんにも報告したいのだが、それができないでいる。私が築地の取材に行かなくなってから2年ほどして、Eさんは体をこわし、退社した。それを知ったのは、さらに3年ほどたってからだった。
 実は、Eさんはアル中だったと、彼の同僚から聞かされた。
 築地の朝は早い。Eさんは遅れずに出社するのだが、常に酒臭かった。上司に注意されても、服にポケット壜を隠していて、仕事中も飲んでいたという。強制入院させられたりもしたが、改まらず、そのうち体調を崩して辞表を出さざるをえなくなったというのだ。
 私にはわからなかったが、私が取材に通っていたころからその兆候はあり、次第にひどくなっていったようだ。以来、Eさんとは音信不通である。
 立派に収穫できるようになった我が家のホワイトアスパラを見ると、「生のホワイトは甘くて、シャキシャキしてうまいよ」といつもうれしそうに語っていたEさんの、笑顔が思い出されてならない。



最初の候補地は三芳村だった

 私は今、房総半島の太平洋岸、千葉県夷隅(いすみ)郡大原町に住んでいる。東京駅からJR外房線の特急で1時間10分。ちょっと居眠りしている間に着いてしまうが、東京へ行って「大原町」と言うと、たいてい「それはそれは、遠くから」と言われてしまう。東京の人たちにとって、房総半島は観光地であり、リゾート地というイメージが強いせいらしい。実際、2月末からの菜の花の季節や、夏休みの週末になると、海沿いの国道は大渋滞するし、真冬でもサーファーの姿が消えることはない。
 しかし我が家は、海辺ではない。海岸から直線距離で5q離れている。大原駅からは、車で10分ほどかかる。なぜここに住んでいるか、を話す前に……

家の裏手の竹林。家の北側を落合川が流れている
 実は、私は以前、「将来、住むなら三芳村」と考えていた。房総半島の先端、館山市の内陸側に隣接する、人口4000人ほどの小さな村である。しかしそこには、すばらしい有機農業グループがいる。その人たちから野菜づくりを学びたいと思っていた。
 三芳村を訪ねるきっかけは1995年、農水省の外郭団体が主催したシンポジウムに、パネリストとして招かれたことだった。同じパネリストの一人に、三芳村役場のKさんがいた。三芳村には完全無農薬で野菜を作る生産組合があり、当時、「32戸の農家が東京の契約家庭に野菜を届けている」というKさんの話は、とてもすばらしかった。それに三芳村の名前は、あることで、ちょっと前から注目していた。
 そのころ私は、読売新聞生活情報部の記者で、食べものの記事ばかり書いていた。住んでいたのは千葉県佐倉市で、大原町からは車で1時間半ほどかかる。佐倉市でも農家から60坪ほどの畑を借り、自分で野菜を作っていた。農家を取材する時に、「経験がないと、話が通じにくい」と感じることがあったからだ。
 それに何より、とりたての野菜は、うまい!
 かみさんを助手席に乗せて、三芳村生産組合のリーダー、和田さんを訪ねたのは、シンポジウムが終わって間もなくだったと思う。
 和田さんらのグループの基本は「米と鶏と野菜」だ。鶏にくず米や米ぬか、野菜くずなどを食べさせ、鶏糞と稲藁で堆肥を作り、それで野菜を育てる、という「三位一体」の農業なのである。書けば簡単だが、実際は容易なことではない。たとえば、全国どこででも見られる水田への農薬の空中散布などしたら、その「三位一体」の一角が崩れてしまうから、地域全体で力を合わせなければできないことなのだ。
 それは、土づくりを最も大切にする農業でもある。
 たまたま私は、NHK教育テレビで、和田さんたちの農業を科学的に紹介した番組を、シンポジウムの少し前に見ていた。土の中で、カビなどの微生物がどのように育つか、というようなことを顕微鏡レベルで撮影し、分析した番組だった。和田さんたちの畑の土は、有用微生物が盛んに繁殖する「健全な土」だった。
 一緒にテレビを見ていたかみさんも、「ここは、すごいわね。野菜がおいしそう」と、目を輝かせていた。
 その話をすると、和田さんは笑顔を見せた。
 化学肥料ばかり使い、農薬をガンガン撒き散らした農地は、そのうちに土がガチガチになり、作物が育たないばかりか、雨が降ると急激に地盤がゆるんで、時には土砂崩れを起こすこともある。そういう事例は、世界中にある。耕作する前に有機肥料を施して、活力のある土をつくることが大事で、そういう土には、まずミミズが繁殖し始める。
 「しかし、それだけで、いい土とは言えない」と、和田さんは言った。ミミズも生きられない土は論外だが、「太いミミズじゃだめなんですよ」と言う。
 今、手元にある中村方子(まさこ)著『ミミズのいる地球』(中公新書)を見ると、これは「フトミミズ科」のミミズらしい。ついでに、この本を再読したら、オーストラリアにいる巨大ミミズは、3・6mもの長さに成長するそうだ。私も一度テレビで見たことがある。ただしこの巨大ミミズは、生息に適した森林が人間に開発されて、絶滅の危機に瀕しているという。
 和田さんの話に戻る。
 よく堆肥の中などに太いミミズがいるが、「それはまだ、発酵が完全ではない堆肥で、完熟すると目に見えないような、小さなミミズばかりになります。土も同じ。私の畑の土を顕微鏡でみると、そういうミミズがたくさんいますよ」と、和田さんは言うのである。
 再び『ミミズのいる地球』を開くと、これは「ヒメミミズ科」のミミズのようだ。「日本のヒメミミズはふつう体長1ミリメートルほどのものが多」く、「牧草地、畑などに高密度に生息している」と書いてあった。しかしそんなミミズは普通、だれも気づかない。
 和田さんは私に、自分で作った肥料をみやげにくれた。袋の中からひとつかみ取ってみると、それは手のひらの上でサラサラと崩れ、「まるで土」だった。匂いもない。
 堆肥を最後まで熟成させるとこうなるのかと、私は目を見張った。「よく効くから、少し使うだけでいいよ」と言う和田さんの言葉を、私は感激して聞いた。
 1997年の正月を、佐倉市の私のマンションで迎えた両親に、三芳村の話をした。そして「体力のあるうちに会社を辞めて、畑を耕して暮らしたい。住みたいのは三芳村」と、お屠蘇を飲みながら夢を語った。だから今、私は52歳だが、そのころの予定ではちょうど今ごろ、会社を辞めようかどうかと悩んでいたはずなのだ。
 ところが、最初は「勤め人は、最後まで勤め通した方がいいぞ」と言っていた父親が、そのうちに黙り込んでしまい、しばらくして、「よし、わかった。おまえがその気なら、オレが先に行って畑をつくっておいてやる。おまえは後から来い」と言い出したのだ。
 私の人生の中でも、この時ほど驚いたことはない。
 「老後は、雪の降らない土地で暮らしたいと思っていたんだ」とも、父親は言った。
 「それに、今の畑は遠くてなあ」
 役所勤めを定年で退職した父親は、それから趣味で菜園を始めた。住んでいたのは、福島市から車で30分ほどの、伊達郡霊山町だ。果樹栽培が盛んな所で、桃の花が咲くころは「桃源郷」を思わせる風景になる。そこで父親は、450坪もの原野を借りて耕し始めた。石を取り除き、木の株を掘り起こし、1年で見事な畑に変えた。
 こうと決めたら、しゃにむにやってしまわなければ気が済まない人なのである。
 ところが畑まで、車で5分ほどかかる。それが不満だったらしい。つまり、朝目覚めたらすぐに畑に出て、野菜に虫がついていないか、病気にはなっていないかを見て回りたいのにできない、というもどかしさである。
 だから、畑が作れるだけの広さの土地に住みたい、というのが父親の夢だったのだ。

野菜がぐんぐん育ち始めた、6月の菜園。父親が見ているのは、スイカだ
 母親はのんきなもので、「私はどこでもいいよ」などと言っていた。
 改めて日程を決め、Kさんに頼んで何か所か候補地を探しておいてもらい、両親と一緒に三芳村へ行った。しかし、三芳村には適地がなかった。どれも山あいで、傾斜があり、木々の日陰になるような場所ばかりだった。家は建つが、畑まで作るのは無理と思われた。三芳村は平地が少なく、そういう土地はなかなか売りに出ないのである。
 それから、本格的な土地探しが始まった。たしか4月の初めだったと思う。休みで朝寝していた私を、「ねぇ、ねぇ、900坪で550万円って土地があるわよ」と、かみさんが起こした。その日発売の『田舎暮らしの本』という雑誌を、私の目の前に広げている。
 この手の雑誌には時々、もっと安い値段の土地が出て来る。しかし、「詳細」をよく読むと、山の北側斜面だったり、電気も水道もなかったり、ひどい時には自分で道路を造らないとたどりつけない場合さえある。極端に安い土地は要注意なのだ。だがそこは平坦な田んぼの続きで、ただし、植林した杉林だった。つまり550万円は、立ち木も含めてという、べらぼうな物件だったのだ。その土地は大原町にあった。
 すぐにかみさんに、広告主のS不動産へ電話させたが、すでに「朝一番で」買い手がついていた。めざとい人はいるものだ。「でも、安い土地はほかにもあるって言ってたわよ」と、かみさんは言う。それで、別の2軒の不動産屋にも声をかけ、再び福島から両親に来てもらい、外房方面で土地を探すことにした。
 その日は、1日に7か所の土地を見た。最後に案内された場所は、広く、平坦だった。東側を幅10mほどの川が流れ、川は土地の北側に回りこんでいる。西側は、幅6mの町道だ。土地の広さは2000坪あるという。それを分割して販売するのだそうだ。
 「どういう区画で売るの?」と私が尋ねると、S不動産は「それは、もう、お客さんの好きなところを、好きなだけお買い下さい」と、面食らうような答が返ってきた。ただし「100坪未満はだめです」と言った。
 その夜泊まった九十九里海岸の国民宿舎で、「気に入った土地があったら、もう一度見に行こう」と私が言うと、父親はボソッと「やっぱり、最後の所かなぁ」と答えた。で、翌朝行ってみると、すでにS不動産がいて、別に赤い乗用車もあった。客の車に違いない。ぐずぐずしていると「好きなところを、好きなだけ」買えなくなる。私たちは、S不動産の車を追いかけるように事務所へ行き、「買うよ」と言ったのである。
 「好きなところ」は、父親の意見に従った。「一番北寄りの場所にしよう。そこの北側に家を建てて、南側を畑にする」という意見だ。
 「好きなだけ」は、300坪にした。昔風の言い方だと、1反歩だ。私と親の両方の蓄えで、なんとか買える広さだった。
 S不動産は、話を聞くと、いきなり図面に定規で直線を引いた。「後からきちんと計算しますが、まあ、こんな見当ですよ」と言う。それで決まった。
 しかし、家の建築費用はどうしようか?
 親の方は、福島の土地と家を売って、費用に充てるという。が、私には、もう金の出所がなかった。父親は「こうと決まって」がぜんやる気になっているから、いつまでも待たせるわけには行かない。
 「退職金しか、ないか」
 私は45歳だった。読売新聞社では、45歳以上の社員には、早期退職優遇制度があった。退職金が割増になるのである。それに私は、前々から、幕末・明治維新史を研究したいと思っていた(その理由は、今年3月に無明舎から出した『箱館戦争』のあとがきに書いたので、興味のある方はお読みください)。そのためには、猛勉強しなければならない。体力もあり、頭がなるべく軟らかいうちに始めたかった。
 「会社……辞めてもいいかな」と、かみさんに言ったのは、夏だった。
 「あら、いいわよ」
 かみさんの答えは、簡単だった。
 「今度はわたしが働いて、あんたを食わせてあげる。ヒモって男の願望なんでしょ?」
 あっけらかんとしたものだ。その言葉に、私は大いに救われた。
 そんなこんながあって、その年末、ほぼ23年間勤めた新聞社を辞めた。
 翌春、現場で工事を始めて4週間でできた家(これはかなり速い工事)については、父親と建築家と私の3人で工務店に出向いて交渉し、最初の見積もりより1000万円も安くさせたとか、2階の私とかみさんの居住空間は、自分で大工仕事をして作った(それで同居まで時間がかかった)とか、これだけで1冊の本ができるくらいの話があるが、それは、まあ、おいおい語ることにする。
 退職後、私はなんとか毎年1冊のペースで本を出しているが、おかげで、畑の方はほとんど父親に任せっきり。かみさんが昼間は仕事に出ているので、父親が育てた野菜と、房総半島のおいしい魚で私が料理を作る、という役割分担ができあがっている。
 これに、「おふくろの知恵」を役立たせてくれていた母親がいれば、申し分ないのだが、母親は一昨年、胃がんで逝ってしまった。
 その「知恵」を織り交ぜながら、「スローフード日記」を書いて行こうと思う。前回の「ホワイトアスパラ」より、もっとおいしい話も出てくるので、後期待を!



実り豊かな6月の木々

さて、何の花?
 美しい花だ。たくさんの雄シベがピンと立ち、ちょっとだけ高く、とんがった雌シベが真ん中に頭を出している。周囲のやや厚めの花びらは、裏は白、表はあざやかな赤に彩られている。私は、なんだかトランプの、ダイヤのクイーンを連想した。
 でも、これは、いったい、何の花だろう?

小さいが豪華なフェイジョアの花
 即座に「フェイジョア」と答えられたら、よほどの園芸通に違いない。
 南米原産のフトモモ科の常緑樹だ。日本に紹介されて、まだ20年ほどしか経っていないという。花づくりが大好きで、園芸店にしょっちゅう行っているかみさんが、6年前に見つけて苗木を買って来た。うれしそうに「実が食べられるのよ」と言って、畑の東の隅に植えた。私はそれまで、全く知らなかった木だ。
 直径4pほどの花が咲き始めたのは、昨年からだ。今年はたくさん咲いたので、写真を撮り、種苗会社「サカタのタネ」の月刊誌『園芸通信』編集部へメールで送った。すると、入社6年目のカヨコさんから「フェイジョアでしょ」と、すぐに返信が来た。
 しかも、「花も食べられるんですよ」と書いてある。
 私もかみさんも驚いた。食べられるのは、花びらだ。これが意外に水分をたくさん含んでいて、それが、とても甘いのだ。これはもう、ビックリ!
 カヨコさんの隣の席にいるタカユキさんからは翌日、「フェイジョアは、異株受粉でしか結実しない品種もあるようですよ」というメールが届いた。つまり、もう1本フェイジョアの木があって、そちらの花粉がつかないと実がならない品種もある、ということだ。わざわざ調べてくれたらしい。その後に「本物を見たことがないので、食べに行きたい」とメッセージがついていた。
 今年から私は、『園芸通信』に「菜食健美」と題して、家庭菜園主向けに「とれすぎた野菜をどんどん食べられる料理」を連載している。その「編集打ち合わせ」という名目で、ほどなくタカユキさんがやって来た。カヨコさんも、レイアウトなどを担当しているカズコさんも一緒だ。タカユキさんが、すぐにフェイジョアの花を食べたのはもちろんである。我が家のフェイジョアはまだ人の背丈ほどだが、3〜4mの高さに育つという。まず、それより、自家受粉で結実してほしいのだが……秋にならなければわからない。

今年は食べられるか? アーモンド
 カズコさんが、だいぶ大きくふくらんで来たアーモンドを撮影して行った。資料写真としてストックしておくのだそうだ。

大きくふくらんだアーモンドの実
 アーモンドも、かみさんが植えた木だ。
 千葉県大原町に両親と住む家を建てた時、敷地が広いものだから、かみさんはいろいろな花木を植えたがった。だが私は「食べられる実がなる木ならOK」と条件をつけた。やたらと木を植えて、それが育って来たら、いくら土地があっても間に合わないからだ。
 アーモンドはバラ科の植物。4月の初めに桜そっくりの花が咲く。ソメイヨシノより大きく、やや濃い色だ。花はその翌年から咲いたが、実ができたのは3年前からだ。だが、びっしりとウブ毛を生やした実は、ある程度まで育つと黒ずみ始め、やがて落ちた。今年は、すでにずいぶん大きく育っている。熟すかもしれない。
 食べるのは、種の固い核の中にある「仁」。梅干の種を割ると出て来る、いわゆる「天神様」の部分……のはずだ。が、まあ、どうやって食べるかは、食べられる状況になったら調べることにする。

雑草ぎみのラズベリー
 畑の南東の角には、父親が植えた甘柿の木がある。その隣はイチジク。その2本の木の根元をうずめるように今、真っ赤なラズベリーが実っている。フランス語ではフランボワーズ。バラ科キイチゴ属の落葉低木だ。赤を通り越して、紫色に近くなったころが、熟して甘い。
 1995年の秋に1週間ほど、取材でフランスに行った時、ほとんど毎日、スーパーや街の市場でこれを買って食べていた。それまで、ケーキの上にちょこんと載っているラズベリーは知っていたが、フランスではこんなに安いものだとは知らなかった。時には、パックの底の方にカビが生えている不良品をつかまされたりしたが、甘酸っぱい味が気に入って、飽きるほど食べた。
 この苗木は、千葉県四街道市に住むTさんからいただいた。会社員時代の私が3日に1度は通っていた、東京・新橋の居酒屋「和作」の常連、つまり「酒友」である。フランスの取材から戻って、ラズベリーの話をしていたら、「そんなの、いっぱいあるよ。はびこって困るから、根を掘ってあげるよ」と、隣にいたTさんが言った。当時私は佐倉市に住んでいたので、四街道なら車で30分もかからない。葉が落ちるのを待って、初冬にTさんを訪ね、私の菜園にラズベリーの根を植えた。
 大原町に移る際、また掘り起こして移植したのが、今、見事に実っているわけだ。しかし佐倉市と大原町では、ちょっと違うところがある。それは、佐倉市では6月にしか実らなかったのが、大原町では9月に、また実る。年に2度食べられるのだ。同じ千葉県でも、大原町の方が暖かいからだろうか。フランスで食べたのも9月だった。
 「サカタのタネ」の皆さんには、ヴァニラアイスクリームに載せ、ミントの葉を添えて出した。ラズベリーのわずかな酸味が、ヴァニラアイスの甘さを引き立たせてくれて、これが、うまい!

ラズベリーとミントを載せたアイスクリーム
 しかし……Tさんが「はびこって困る」と言っていたのは、事実だった。ラズベリーは地中で根を広げ、思わぬ所に顔を出すのである。いつの間にかだいぶ畑へ侵入して来ている。今年の冬には、「出過ぎたまねをするやつ」を植え替えなければいけない。

暑さに向かって梅シロップ
 「つゆ」を「梅雨」と書くのは、梅の実がなるころに降り続く雨だからだ。我が家では今年初めて、梅を収穫した。梅シロップを作るためなので、未熟の青梅である。品種は南高(ナンコウ)梅。熟すと一部に赤みがさす美しい梅だ。これは、かみさんと種苗店を回って苗木を探した。実梅を買おうとすると、他の品種より5割以上高い梅だ。それが今年は800gも収穫できた(ニンマリ!)。
 梅干にするなら黄色に熟してからとればいいのだが、梅干を作ったことはない。手間がかかることもあるが、梅干名人の叔母が毎年、大量に送ってくれるから、自分で作らなくてもいいのだ。
 ついでに書いておくが……最近、「減塩梅干」や、いろいろに味付けした梅干が出まわっている。だが、私は「あんな気味の悪い食品はない」と思っている。
 読売新聞の「食べもの記者」だったころ、日本一の梅干の産地、和歌山県南部川(みなべがわ)村を訪ねたことがある。山の斜面に広がる梅林では南高梅が色づき、美しい風景だった。この梅を漬けるのなら、何の問題もない。ところが、梅の収穫は年に一度だ。それ以外の時期に工場を遊ばせておくわけにはいかないから、中国から輸入した塩漬の実梅を原材料にして、さまざまなタイプの梅干を作っている。まず水に入れて塩を抜き、それから食品メーカーが製造した調味液に、改めて漬け込むのである。
 だが私は、村を流れる川(川の名は忘れた)の流域では、小・中学校が子供たちの川遊びを禁止している、という話も聞いた。流域の工場から排出される使用済みの調味液のために、その川には魚がいないのだという。そんな川で子供たちを遊ばせるわけにはいかない、というのはもっともだ。恐ろしい話である。
 それはずいぶん前のことだから、今は廃水処理をして、川はきれいになっているかもしれないが、「気味の悪い梅干」は今でも大量に売られている。梅干は、梅と塩と赤ジソがあればできるはずなのに、スーパーの棚に並ぶ梅干のパックをひっくり返して見ると、それ以外のいろいろな材料の名が印刷されている。クエン酸を添加した商品さえある。
 体の疲れを取り、カルシウムの吸収を助ける効果のあるクエン酸は、もともと梅の実に大量に含まれている。それをわざわざ添加するのは、塩抜きと同時に、クエン酸も失われてしまうからだ。梅干には、ほかにリンゴ酸、琥珀(こはく)酸、酒石酸などの有機酸があって、あの独特の酸っぱさを構成している。それも流失しているから、「酸味料」を添加する。そういう梅干は、形はどうあれ、中身は別物なのである。
 それに、「減塩梅干」にはカビが生えたりする。「梅干を入れといたから、悪くならないよ」と言って、遠足へ行く孫に渡したおばあちゃんのお握りで、孫は腹をこわすことになる。伝統的な梅干の塩分濃度は20%もあるが、中には5%と極端な「減塩梅干」もある。梅干は本来、一年中、有機酸を摂取するための保存食と考えた方がいい。同時に昔は、山国などでは大事な塩を、上手に保存する知恵でもあった。伝統食品には、そういう側面もある。塩分の摂り過ぎに注意するなら、1日1個にすればいいだけだ。それで、必要な有機酸は十分に摂取できる。
 さて、梅シロップを作ろうと思っていたら、大きな梅の木がある2軒隣の原田さんが「梅がほしいって、去年言っていたよね」と、大量の梅を持って来てくれた。それで、我が家の分と合わせて12sにもなった。
 よく洗った広口ビンに、氷砂糖と梅の実を交互に入れて行く。一杯になったら、雑菌を防ぐために、ビンの口とふたの内側に35度の焼酎を少量ふりかけ、きっちりふたをすればいい。3週間もすれば、透明なシロップがビンに半分ほど溜まる。今回は、氷砂糖を10s使った。名古屋市にある専業メーカー、中日本氷糖で私は、「梅1sに、氷砂糖は1s以上」と教えられたが、それだと甘すぎる感じがした。氷砂糖は、なるべく大粒がいい。大粒の氷砂糖ほど、どんどん溶けて行く。白砂糖やザラメを使うと、いつまでも溶けないし、シロップが濁る。

梅の実と氷砂糖で作る梅シロップ
 一昨年に亡くなった母親は、1滴も酒が飲めないくせに、果実酒づくりが趣味で、母親が作った梅酒もまだ少し残っている。しかし私が梅酒を作らないのは、おいしくなるまで1年もかかるからだ。梅シロップならその夏に、しかも子供でも飲める。暑い盛りに、冷たい水で割ったシロップは、生き返るような心地がする。
 
隣の家のビックリグミ
 「実りの秋」という言葉があるが、こうしてみると、6月の「木々の実り」は意外に豊かだ。ほかにも、我が家の周辺には野生の桑の木が何本もあって、今年も5月末から6月にかけて、濃い紫色に熟した桑の実を食べた。
 ついでに、「ビックリグミ」の写真を見せたい。

たわわに実ったビックリグミ
 グミ科グミ属の植物は、日本に40種ほどあるという。これは、その中でも特に大きい実をつける園芸品種だ。正式名は「ダイオウグミ」と言うのだが、あまりにも果実が大きいので、みんな「ビックリグミ」と呼んでいる。写真を撮ったのは6月3日で、手の指先ほどもあるグミが、無数にぶら下がっていた。
 この木は、西側の町道をはさんだ隣家の敷地にある。偶然だが、隣家も加藤さんだ。神奈川県の人で、今、自分で家を建てている。と言っても、建て始めたのは5年前で、いまだに完成していない。1か月か2か月に1度、東京湾横断道路でやって来て、2、3日工事をしては帰る。留守の時の方が多いから、「勝手に食べていいよ」と言うので、私は喜んでビックリグミをいただいている。
 偶然はあるもので、実は、東隣の地主も加藤さんだ。こちらは車で30分ほどの茂原市の人。家は建てず、休日に来て、植えた庭木の世話をしている。
 親戚でもなんでもないのに、S不動産から土地を買った3人の加藤が並んだのだ。我が家では「西の加藤さん」、「東の加藤さん」と二人を呼んでいる。よき隣人である。
梅を持って来てくれた原田さんもいるし、その2軒向こうの渡辺さんは先日、種をつけたミモザの木の枝を、何本も持ってきてくれた。去年、私が「ミモザの花が好きだ」と言ったのを、覚えていてくれたのである。
 新しく住んだ土地で、こういう人たちに出会えたのはありがたい。
 いずれ、よき隣人たちのことも話したい。


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次