んだんだ劇場2004年8月号 vol.68
No2
房総の海の幸

必ず買うオアカムロ
 こんな魚、千葉県に住むまで知らなかった。
 尾ビレがオレンジ色をしたアジである。「オアカムロ」という。アジ科ムロアジ属の魚だ。尾の赤いムロアジという意味だが、「アジ」を省略して「オアカムロ」が正式名である。
 初めて食べたのは、習志野市の公団住宅に住んでいた頃だった。団地の入り口にある魚屋が努力家で、いろいろと面白い魚を仕入れていた。「刺身にできるよ」と言うので、自分でおろして食べた。身は軟らかいが、噛むうちに、とんでもなく奥深い味が口の中に広がった。アジ科の魚はグルタミン酸やイノシン酸、その他各種のアミノ酸を豊富に含んでいて、旨みの濃い魚種なのだが、オアカムロはその中でも別格だと感じた。
 伊豆諸島付近が漁場だから、暖流系の魚だろう。鹿児島市のJR西鹿児島駅前にある市場で、こいつを大量に売っているのを見たことがある。伊豆諸島では、ムロアジ同様、クサヤの原料になるらしい(が、クサヤは苦手なので調べたことはない)。
 しかし、その後の数年を暮らした佐倉市では、この魚を見かけなかった。習志野市は、隣の船橋市に大きな卸売市場があり、魚種も豊富だったが、佐倉市は魚の流通ルートが違っていたのだろう。
 それが……外房の大原町に移住して、オアカムロに再会した。場所は、我が家から10qほどの大多喜町にあるショッピングセンターだ。いつも魚売り場の店頭にいる浅野さんは「勝浦に揚がったもんだよ」と言う。
 大原町には、立派な漁港がある。ところが、そこに揚がる魚はほとんど、大原町民の口には入らない。近場で獲れる「大原の魚」は、そっくり東京へ行ってしまう。東京で「高く売れるブランド」なのだそうだ。だから、我々が食べる地場の魚は、主として勝浦港から運ばれて来る。
 我が家から大原港までは車で10分、勝浦港までは山の中の近道で30分だが、その間の海岸線には岩船(大原町)、御宿(御宿町)、川津(勝浦市)、その他の漁港がある。きちんと調べてはいないが、そうした小さい漁港の魚も「勝浦の魚」として流通経路に乗っているようだ。ただし、伊豆諸島辺りまで出かける大型漁船の大半は、勝浦港を基地にしている。「オアカムロ」も、「勝浦の船」が獲って来たものだろう。
 「オアカムロ」は夏の魚だ。回遊魚なので、間違ってとんでもない時期に揚がることもあるが、やはりこの時期が、脂ものってうまい。
 それにしても、30p以上あって、腹がプクプクとふくれたこの「オアカムロ」が、1匹100円である。見かけたら、必ず買うことにしている。

深い味わいの「オアカムロ」。これで1匹100円。

カツオ三昧
 勝浦は、日本有数の「カツオの港」でもある。今はかなり遠くまで出漁し、春の初めから魚屋の店頭に並ぶので、「初ガツオ」の季節感は薄れたが、晩秋の「戻りガツオ」まで、魚体の大きさ、脂の乗りに時期ごとの差があって、食べるのが楽しい。福島から移り住んだ父親などは、「マグロみたいに大きなカツオがいるとは、ここに来るまで知らなかった」と驚いていた。私はその場に居合わせなかったが、たぶん、北の海でたっぷり餌を食べ、脂ギンギンになった戻りガツオだろう。
 実は、福島県いわき市の小名浜も、カツオの水揚げで知られる。それも戻りガツオの時期には、港がカツオであふれかえる。小名浜で単に「刺身」と言えば、黙ってカツオが出て来るほどだ。だから福島県民には、カツオは身近な魚である。ところが、私も育った福島市の昔を思い起こすと、1匹まるごとのカツオは見た記憶がない。魚屋にあったのは、大根のツマなどをあしらって皿に盛った刺身か、せいぜい、「さく」だったのだろう。だから父親が、巨大なカツオを見て驚いたのも無理はない。
 少々脱線するが、「さく」は、漢字でどう書くのだろう。刺身に切り分けるために形を整えた魚の身を、「さく」と言う。私は「冊」と思いこんでいた。しかし『広辞苑』を見ると、「冊」を「さく」と読む場合は、「昔、中国で天子が諸侯に封禄・爵位を授ける時に賜ったみことのり」と書いてあった。「書きつけ」という意味もあって、「短冊」はそこから来た言葉だ。しかし、魚の「さく」とは、どう考えても結びつかない。
 それで、社団法人全国調理師養成施設協会が編集・発行した『調理用語辞典』を開いてみた。「さく」には「冊」と、大きく印刷されていた。「やっぱりそうか」と思った……のだが、同じページにある「さくどり」、つまり「魚からさくを切り取ること」の方には、「作取」という漢字が書いてあるじゃないか。同じ辞典で「なんだ、こりゃぁ?」である。
 考えてみると、関西では刺身を「おつくり」と言う。料理店のメニューには、「お造り」と書かれることが多い。「造」は、「作」と書いてもいい。まるのままの魚を「料理につくる」ことが語源ではないだろうか。魚の「さく」も、漢字の「作」から来ているように思われた。
 さて先日、隣の夷隅町にあるス―パーで、カツオが1匹400円だった。
 我が家は大原町役場からは8qあるが、夷隅町役場へは3qしかない。地元資本のそのスーパーも、ほぼ同じ距離にある。いつでも1リットルパックの牛乳が「2本で315円」(ブランドは日によって違う)で、モヤシは「1袋19円」。ほかにも何かしら目玉商品があるので、毎日のように行っている。「オアカムロ」がある大多喜町のショッピングセンターまで行くのは、週に1、2度だ。
 大きな桶に張った氷水の中に、頭から突っ込まれていた「400円のカツオ」は、50pに満たない大きさだった。まだまだ子供である。実は前日、それよりちょっと大きいカツオがあった。しかし、1匹1600円もした。値段がそれほど違うのは、「港直送」なので、その日の水揚げ量に大きく左右されるためだ。
 「1600円」は見送ったが、「400円」には、すぐ飛びついた。カツオの「皮付きの刺身」が、父親の大好物だからだ。50pほどのカツオでは、脂はほとんど乗っていない。しかし、俗に言う「皮と身の間」には、しっかり脂がある。これを「皮下脂肪」と言ってしまえば、自分の体型を思い知らされるようで身もふたもないが、この時期のカツオを皮付きで食べれば、そのわずかな脂がほどよく、しこたま「うまい!」のである。ところが魚屋では「さく」にする時、皮は取ってしまうのが普通だ(夷隅町のスーパーには、まれに皮付きの「さく」もある)。だからカツオは、まるごと1匹買うのがいい。
 この程度のことは、「魚好き」には常識で、『かつおは皮がおいしい』(晶文社)という本を書いた人(林のり子さん)さえいる。林さんは、皮だけを炙(あぶ)って食べるのが好きなようだ。皮付きの身を炙れば「土佐づくり」、通称「カツオのたたき」になる。
 それもおいしいが、強火で皮を焦がしてすぐに冷水に入れる、という手間がかかる。それは面倒なので、我が家では、生のまま切って盛りつけるだけだ。
 「400円のカツオ」は、かみさんにさばいてもらった。
 「腹身の方は、皮付きで刺身にしてくれよ」と、私は言った。
 「大名おろしで、いいのね」と、かみさんが言う。
 「大名おろし」は、魚の頭を落とし、内臓を取って、骨に沿って身を切りはずす、最も一般的なおろし方だ。もちろん、それでいい。
 背身は皮を取り、腹身は皮付きで、その夜は家族3人、カツオの刺身で酒盃を傾けたのだが、「おまけ」があった。
 「ほんとに、大名おろしになっちゃった」
 下手な人がおろすと、包丁をうまく骨に沿って滑らせられないので、骨の方に肉が残りやすい。もったいないことだ。それを、経済観念のない「お殿さま」が魚をさばいたようだ、という皮肉を込めて「大名おろし」とも言うのだが、かみさんがおろしたカツオの骨には、2万石や3万石の「こっぱ大名」は足元にも及ばない、「50万石の大藩」級の肉が付いていた。
 しかたないので、塩を振って焼かせた。そちらもかなり、食べごたえがあった。

1匹400円のカツオ。まだ子供の大きさだ

腹身は皮付きにした、カツオの刺身

時にはイナダも安い
 夏を迎えた房総半島の沖合いには、ブリの子供「イナダ」も群れをなして泳いでいる。ブリの仲間の「カンパチ」や「ヒラマサ」も、夏が旬の魚だが、「高級魚」で、ちょっと手を出しかねる値段の時が多い。真上から見ると、頭に、漢数字の「八」のような模様があるので名がついた「カンパチ」は最近、養殖ものが出まわっている。それにしても、やはり「大衆魚」の値段ではない。
 その点、先日買った40p級のイナダは、680円だった。3人の酒の肴には、十分な量の刺身ができた。
 ブリは出世魚で、関東では小さい方からワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ、関西ではツバス→ハマチ→メジロ→ブリと呼ぶ。この2系統の呼び方が「全国区」だが、地方名もいろいろある。
 「たしか、富山で食べた時は、フクラギと言ったっけかなあ?」と思ったので、食生活ジャーナリストの会の仲間、野村祐三さんの『旬のうまい魚を知る本』(東京書籍)を開いてみたら、「主産地の能登地方では」ツバイソ→コヅクラ→フクラギ→ガンド→ブリという順が書いてあった。40pまでを「フクラギ」と言うのだそうで、こちらの「イナダ」に相当する。関東、関西より区分けが細かいのは、能登から富山湾にかけての地域の人々にとって、ブリが非常に身近な魚であるからだろう。
 野村さんの本によると、「10キロまでを小ブリ、それ以上を大ブリに分けることもある」という。「大ブリ」とは、聞いただけでもたいしたもんだとは思うが、最大級に成長した「ブリ」は、切り身でしか買ったことのない私などには、無縁の呼び名だ。
 ところで最近、「天然ハマチ」という表示をしばしば目にする。もちろん「養殖ハマチ」に対する言葉だ。この表示の登場には、過去の経緯がある。
 ブリの養殖が始まったのは西日本で、「ブリ」になる手前の「ハマチ」まで育てたところで出荷した。それ以上育てて「ブリ」にしても、餌代がかかるばかりでもうからないからである。つまり「経済分岐点」が、ハマチの大きさだったのだ。それを「養殖ブリ」ではなく、「ハマチ」という名前で市場に流通させた。次第に、「ハマチ」と言えば、養殖のブリを指すようにさえなった。そのうちに、「餌のイワシの味がする」とか、狭い生簀のなかで飼育するので「病気を防ぐために抗生物質を与えている」とか、いろいろ問題点が指摘され始めた。消費者には「ハマチは、まずくて、危険な魚」というイメージまでできあがった。「高度経済成長」の最後の頃の話である。それは、生産者側の「経営効率最優先」の結果でもあると言える。
 今は、過去の問題点はほとんど解消されている。これからまた新たな問題が発生するかもしれないが、少なくとも「ハマチ=まずい魚」ではなくなっている。だが、そうした過去のイメージを払拭するのはなかなか難しく、それで漁船が沖合いで獲ったハマチを「天然ハマチ」と、わざわざ断っているのだ。
 消費者の中には「養殖」と聞いただけで、顔をしかめるような人もいる。それもまた、困ったことだ。漁獲技術の進歩はめざましく、天然の漁業資源を回復不能にするほど獲り尽くす危険は増大している。それにこれ以上、地球に人間が増えれば、資源が枯渇するまで魚を獲らなければ養えなくなるかもしれない。そういうことに備えて、魚の養殖は大事な技術だ。消費者から見て問題があれば、そのつど指摘して改善させればいいことだ。
 しかし……今は東京で一人暮しをしている娘が高校生の時に、天然ブリより養殖のハマチの方が「おいしい」と言うので驚いたことがある。確かに、一口噛んだ瞬間に脂のうまさが伝わる「養殖ハマチ」には、強い印象がある。それは、ハンバーガーやフライドチキンなどの、ファーストフードにも共通するインパクトではないだろうか。「噛むうちに、うまさが広がる」という類の味覚ではない。レストランで働いて、「ソムリエ試験を目指している」と言う娘は、幸い、「味」に注意深くなっているが、「天然ものには味がない」と言うような「ファーストフード世代」が大勢を占め、日本人の味覚がおかしくなるような時代が来るのではないか。そういう心配はある。

夏の海を泳ぎまわっていたイナダ

指に吸い付くイカ
 秋田市にある出版社「無明舎」の舎主、「あんばい・こう」さんが、ひょいと遊びにやって来た。無明舎出版の東京事務所(というマンションの一室)に数日滞在していたあんばいさんは、「1日中クーラーをつけておかなければならない、東京の夏に耐えがたくなった」と言い、「海が見たくなった」と、なんだか文学青年のようなセリフを吐いた。
 それならと、大原から勝浦まで車を走らせた。途中で3か所、「私のような地元民」しか知らない「絶景ポイント」に案内した。そのたびに、あんばいさんは「いいなあ、海は、空気が違う」と言う。まるっきり「東京人」である。1週間もすれば秋田、しかも道路向かいは田んぼという家へ帰るのに、と思うと、なんともおかしかった。
 勝浦から大多喜までは、国道で10q。例のショッピングセンターで、浅野さんが「今日はモノがいいよ」と言う、30pもある大きなアジを2匹500円で買い、帰路の途中にある夷隅町のスーパーにも寄った。こちらではタイミングよく、イカのワゴンセールをやっていた。トレイに入れてラップフィルムで包装、という通常スタイルではなく、キャスター付きのワゴンの上に、むき出しのイカを並べているだけだ。
 吸盤に指を押し付けたら、吸い付いて来た。「ほら、ネ」と、私の指に吸い付いた吸盤ごとイカの足を持ち上げて見せたら、あんばいさんは、びっくりしていた。秋田でもイカは獲れる。私も秋田で8年半暮らしたが、これほどのイカは買ったことがなかった。それがここでは、1匹200円。安いじゃないか!
 実は、写真は、その前日のイカだ。この時はまな板の上に置くと、「えんぺら」がまだヒクヒクと動いていた。そういう「超新鮮」なイカを、「1袋19円」のモヤシも置いているスーパーで買えるのが、うれしい。
 ところで、私が読売新聞の「食べもの記者」時代、イカの記事を書いたら、「えんぺら、という言葉がわからない。こういう特殊な言葉には注釈をつけるべきだ」と、大学の国語学の教授にしかられたことがある。読売新聞のモニターを務めてくれていた方である。
 教授は「広辞苑、その他何冊もの国語辞典を調べた」のだが、しかし、とうとう「えんぺら」の意味がわからなかったらしい。
 「えんぺら」など、私は母親に教わって、子供のころから知っていた。決して福島の方言ではないし、主婦ならたいてい知っている言葉ではないかと思う。「教授も、辞書でわからなかったら、奥さんに聞けばいいのに」と、私の記事をチェックしたHデスクと笑いながら話した覚えがある。Hデスクも、もちろん知っていて、「一般的な言葉」だと判断したから、私の記事にOKを出したのである。
 そんなことを思い出したので、『広辞苑』を開いてみた。確かに「えんぺら」という言葉は載っていない。しかしこれは、私が高校を卒業する時(1970年)にもらった「第三版」である。使い慣れたこちらではなく、試みに、あまり使っていない『第四版 広辞苑』(1991年1刷)を見ると、「えんぺら 烏賊(いか)のひれ。耳ともいう」と書いてあった。
 私にとって身近な言葉が辞書に「新規採用」されたのも、なんだかうれしいことだった。

吸盤が指に吸い付くイカ。「えんぺら」も動いていた



モモの足型

初めの名前はウメだった
 ほんとに、今年の梅雨はどこに行ってしまったのだろう。天気予報では各地に雨傘マークが出ているのに、雨雲は房総半島だけを避けているようで、畑は、完全に水不足だ。
 こういう事態に備えて家の東西の端に、それぞれ1トンの雨水を溜めるタンクを置いている。我が家はとんがり屋根ではなく、南から北へ傾斜する片屋根で、雨水はすべて北側の雨どいに集まり、タンクへ流れ込むようにしている。合わせて2トンの水はかなりの量だが、屋根面積が60坪(約200u)もあるので、ちょっと雨が降ればタンクは満杯になる。その雨水で、大根やゴボウの泥を落とし、鍬やスコップなどを洗っている。家を建てる時に考えた、家庭菜園のための工夫だ。
 水タンクは、DIY店(ホームセンターという名称が多い)で売っている。しかし、DIY店の水タンクは廉価品が多い。素材のプラスチックが薄くて紫外線で劣化しやすく、日光が中まで通るので藻が発生しやすい欠点がある。それで、DIY店に置いてあったタンクのメーカーに問い合わせたら、地の厚い丈夫なタンクもあると言う。それは、我が家から8qほどの、大多喜町にある農業資材の卸会社で扱っていた。個人で購入するのは珍しいらしく、私が買いに行ったら、窓口の女性に怪訝(けげん)な顔をされた。
 その、西側のタンクを、6月に移動した。
 我が家の1階の西端は、鍬や肥料、はしご、脚立などの道具置き場、兼作業場になっている。農業をやるには、どうしてもこういう空間が必要だ。雨水タンクは、その北側の屋外に置いていたのだが、満杯になると雨水があふれ出し、しばしば作業場へ流れ込んでしまう。それで、西の壁の外側、道路際に移動することにしたのである。
 「そうしよう」と言い出したのは父親で、敷地いっぱいにコンクリートを敷き、タンクの土台をこれまでより高くする設計まで、父親がやった。費用も父親が出した。なんでも「スカッとする」ことが好きな父親は、西側の地面がじめじめしていて、ドクダミなどが繁茂しているのも気にしていたようだ。
 タンクの土台のコンクリートを打ち終わった時、我が家のもう1人(1匹)の家族、今年で3歳の「モモ」の足型を押した。誕生日の6月6日ではなかったが、記念の足跡だ。本当の誕生日は、いつなのかわからない。迷い犬で、どこからか我が家にやって来た。動物病院で検診を受けたら「4か月の女の子ですね」というので、逆算して勝手に誕生日を決めたのだ。その病院で、小さな犬を抱えて入って来た太っちょおばさんに、いきなり「あ〜ら、鼻黒ちゃん」などと呼ばれた。確かに、モモの鼻先は黒い。だが、親はわからないし、どういう系統の犬かも不明である。
誕生日記念の、モモの足型

これでいいの、おじいちゃん?てな表情のモモ
 ついでに言うと、私は最初「ウメ」という名前にしようとした。
 無明舎出版の編集長、鐙(あぶみ)啓記さんが書いた『北前船おっかけ旅日記』の表紙を開くと、真っ白い猫を抱いた鐙さんの写真がある。写真を撮ったのは私で、抱いている猫の名前が「ウメ」だった。実物大の北前船を復元した、佐渡島・小木町宿根木の「佐渡国小木民俗博物館」で、学芸員の高藤一郎平さんが「こいつも館員の1人だよ」と言った猫だ。その名前が気に入って、迷い犬の名を「ウメ」にしたら、そのころは元気だった母親が「それじゃ、おばあさんみたいでかわいそうだ」と反対した。かみさんも同調した。「モモにしよう」と言ったのは、母親だったと思う。かみさんも賛成した。
 でも、「梅」じゃだめだから「桃」だなんて、なんだか安易な名づけ方だったなぁ。

ポンプが壊れた
 さて、モモの足型を押して、土台が完成したら、雨が降って来た。それが、6月11日だった。
 それから数日して、この家を建てた「かしの木建設」(本社・千葉市)からS君に来てもらって、雨水タンクを移動した。S君は、この家を建てた時が大工の1年生で、現場を駆けずり回っていた。それが今度は、「弟子」を1人連れて来た。同期入社がほとんど辞めた中で、がんばって、今は棟梁株になっているという。結婚もしたそうだ。この家造りにかかわった人が、そうやって成長してくれるのは、こちらもうれしい。
 父親の設計では、厚さ9pの木の壁に穴を開けて雨どいのパイプを通し、壁の外側に小屋を作って雨水タンクを置くことにしていた。西日がまともに当たると、どうしてもタンクが劣化するからだ。S君は、てきぱきと仕事をこなして帰って行った。

雨水タンクを西壁の外側に移し、日よけの小屋を作った
 しかし……雨らしい雨は、モモの足型を押した日が最後だった。移動するために中の水を抜いたタンクには、その後の「お湿り程度」の雨ではほとど水が溜まらなかった。畑に水をやって、東側のタンクの水もなくなった。しかたないので、風呂の残り湯を畑に流し始めた。我が家の風呂は2階にあるので、ポンプに長いホースをつないで効率よく畑に流せる。もちろん、そんなことではこの時期、いくらでも水をやりたいサトイモやショウガには間に合わない。
 しかし毎年、梅雨明け後にはこういう天候になるので、家のわきを流れる落合川から強力ポンプで水を揚げ、畑に水を流している。その「最後の手段」をとることにした。
 かみさんの仕事が休みの日に、3人で準備をし、私がポンプとスコップを持って川辺まで下りた。そこまで6mほどの高低差がある。途中の崖に梯子(はしご)をかけ、邪魔になるササを鉈(なた)で払いながら、ようやく川まで下りたら、例年になく川の水が減っていた。川底をスコップで掘ってポンプを設置し、私は梯子をかついで上へ戻った。
 ところが電源をつないでも、水がやって来ない。私はもう一度、川まで下りた。
 「動かないかー」と父親。
 「動かないよー」と私。
 「それじゃぁ、ポンプを引き上げてくれー」
 「トホホッ」。
 言う方は簡単だけど、こっちはすでに汗まみれのヘトヘトだった。
 結局、ポンプが壊れていたことがわかった。毎年1か月程度とは言え、6年も使っているうちに、内部のどこかが腐食したのだろう。ポンプを買ったDIY店に持って行ったら、「大型の強力ポンプなので在庫はなく、取り寄せになる」と言われた。注文したポンプが届くまで、今年は水不足が続く。
 自分で野菜を作っていると、こういう苦労もあるのである。

満天の星よ!
 7月10日、土曜日……午後3時ごろから曇って来た。天気予報を見ると、雨雲が近づいている。夕方のテレビのニュースでは、全国各地の豪雨被害を報じている。
 そして日暮れて、地面を叩く音が聞こえるほどの雨が降って来た。
 「やった、やった!」
 父親とかみさんはビールで、私は冷たいお茶(夜に仕事をするので、普通は酒を飲まない)で乾杯した。
 しかし……夜10時ごろ、雨の音が聞こえなくなったのに気づいて、外に出てみた。
 満天の星空になっていた。しかも、真冬の澄んだ空気にも負けないほど、星々が輝いている。雨で、空中の汚れが洗い流されたらしい。かみさんを車に乗せて、広い田んぼの真ん中まで行ってみた。空には360度、どこにも雲がなかった。
 ああ、こんなすばらしい夜空を、デジカメでは撮影できない!
 南の空の地平近くに、サソリ座の見事なS字が見える。主星のアンタレスは、不気味に赤い。サソリの尻尾の辺りから、幅広い、白い帯が立ちのぼり、天頂を通過して北の空へ流れている。
 こんなにはっきりした天の川を見たのは、本当に久方ぶりだった。
 北極星の左側に北斗七星(大熊座)、右側にカシオペア座が見える。
 織姫(琴座のヴェガ)は、真上にあった。双眼鏡を持って行ったかみさんは、琴座の、ちょっとひしゃげた四角形が「見えた、見えた」と歓声をあげた。
 そこから右の方に目を移すと、天の川の対岸に牽牛(ワシ座のアルタイル)も輝いている。そして、織姫と牽牛を隔てる銀河の中を、大きく羽を広げた白鳥が飛んでいた。白鳥座で最も明るい星、デネヴは、尾羽の辺りにある。そこから星々がつらなり、白鳥の長い首を形作っている。
 大きな天体望遠鏡だと、白鳥座の中には、薄い絹織物が輝いているような星雲が見えるはずだ。人間が初めて、太陽以外の恒星(自分で光を発している星)までの距離を測定したのは、白鳥座の「61番星」(その星座の中で61番目の明るさの星)だった。もちろん、そんな星は肉眼では見えない。見えるはずはないが、きっとあの辺りのどこかにある、と思わせてくれる天の川だった。
 「あのナ、今から10万年か2億年たつとナ……」
 (数字がずいぶんいい加減だが、天文学の本は小学生の時に読んだっきりなので、知識がだいぶおぼろげになっている)
 「織姫が、北極星になるんだぞ」
 (勢いを失ったコマが首を振るように、北極と南極を結んだ地球の回転軸も、ゆっくりと首振り運動をしていて、天の北極にある星も長い年月の間に交代する。小熊座にある現在の北極星も、正確な天の北極からは角度にして2度ほどずれているのだが、いずれ、地球の回転軸は織姫の星を指すようになると予測されている)
 私が声をかけると、かみさんは双眼鏡から目も離さずに、「知ってる。前にも聞いた」とそっけない返事だった。
 そうか、30年近くも一緒にいる間には、ずいぶんいろいろなことをしゃべっているんだな。同じことを話すのは、私の「ウッカリ」というものだ。
 それにしても、雨はどこに行った?
 翌日の日曜日、午後2時半ごろ、小雨が「30秒」ほど降った。


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