んだんだ劇場2005年1月号 vol.73
No8
次郎長と愚庵(中)

文倉平次郎の偉業
 江戸・日本橋の魚問屋に生まれた文倉平次郎は、明治の初めに東京で初めて開業した洋服屋の養子となった。明治十年代、アメリカへ渡ったのは、洋服づくりを学ぶためだったようだ。そして明治三十年、サンフランシスコのローレルヒル墓地で、偶然に、咸臨丸乗員だった富蔵と峯吉の墓を発見した。
 ところが、平次郎が咸臨丸のことを調べてみると、もう一人、サンフランシスコで他界した人のいることがわかった。その墓を探し当てたのは、翌明治三十一年五月二十七日である。それが塩飽(しわく)諸島(香川県)出身の源之助だ。塩飽本島の勤番所に展示されている石川政太郎の「咸臨丸航海日記」に描かれている、二基の墓の一つである。しかしそれから四十年が過ぎ、訪れる人もない墓は、ほとんど土に埋もれていた。平次郎は付近にあった木片で土を取り除き、碑面の「源」という字を発見したのである。それがきっかけで、文倉平次郎は咸臨丸の研究に生涯をかけることになる。
 その成果が、『幕末軍艦咸臨丸』(中公文庫)だ。文庫本でも上・下二冊に及ぶ、大作の研究書である。発行は昭和十三年だった。
 最初に著者は、「幕府時代の海軍関係資料は、殆(ほとん)ど散逸もしくは焼失して今日僅(わず)かに内閣文庫にその一部分が保蔵さるるに過ぎない」と書き記している。ところが文倉平次郎は、「二度の天災にて蒐集(しゅうしゅう)した資料を失」う不幸に見舞われた。天災の一つは、関東大震災だと思われる。だが平次郎は屈せず、また資料を集めて、とうとう著作を完成させた。よけいな憶測をはさまず、資料を忠実に採録し、事実だけを積み重ねた研究書である。だから今読んでも、中身はちっとも古びていない。咸臨丸の「根本史料」と言って間違いない名著である。
 しかも文倉平次郎は生涯、ただの市井人に過ぎなかった。
 平次郎が帰国したのは、明治三十四年である。洋服屋は継がず、古河鉱業会社の社員となった。その後二十八年間をサラリーマンとして過ごすかたわら、咸臨丸の研究を続け、退職後も継続した。咸臨丸関係者の遺族を訪ね、逸話を採集することまでやった。
 例えば昭和八年、平次郎は「長崎の西泊り」を訪ねた。私には正確な場所はわからないが、「西泊りは三菱の立神工場の発展で、昔の村は今は軒続きの町になった」と書いているから、たぶん、今は長崎市内だと思われる。西泊り村出身で、咸臨丸に乗った何人かの水夫の遺族を探しに行ったのだった。
 そこの「井出」という旧家を訪ね、七十歳以上の年配の主人に「遺族がいるなら話を聞きたい」と来意を説明すると、「沈黙のまま聴いて居た主人は『居ります』と太い息をしながら答えたが、やがてワット許(ばか)りに泣(なき)伏した」という。その老人こそが、水夫の一人「辰蔵」の遺子、嘉吉だった。咸臨丸に乗り組んだ辰蔵は、その後、故郷に帰らなかった。嘉吉が三歳の時に、ほんの少し家へ戻ったが、すぐにどこかへ行ってしまい、母親も嘉吉を捨てて姿を消してしまった。孤児となったその後の苦労がよみがえり、この時七十五歳の嘉吉老人は泣き出したのである。
 塩飽本島の勤番所に記念写真が展示されている松尾延(信)次郎についても、「明治二十七年二月二十九日七十四歳で」亡くなったことが、文倉平次郎の調査でわかるのである。
 『幕末軍艦咸臨丸』の上巻に、司馬遼太郎が「ある情熱」という文章を寄せている。
 「私は幕末の海軍関係を知ろうと思い、一時期、書かれたものをあさったことがあるが、幕府関係の艦船を知ろうとするについてはこの書物を読む以外には方法がないということがわかった。これほど精緻ないわば原典にちかい名著が、専門家でもなんでもないひとによって書かれたということについて、人間の情熱というもののふしぎさを、書棚でこの本の背文字を見るたびに考えこまされる」
 この本が中公文庫として復刻されたのは、一九九三年六月のことだ。そのおかげで、私もこの名著を読むことができる。しかし、この本には、文倉平次郎自身のことは、ほとんど書かれていない。それどころか、文庫本の最後には、「文倉平次郎並びにご家族の消息をご存じの方は」知らせてくれ、という「お願い」まで印刷されている。
 司馬遼太郎が「生涯でただ一冊の本を書いたひと」と評した文倉平次郎もまた、歴史の必然のように登場し、役目を終えると、さっさと舞台から消えてしまった一人なのである。

その後の咸臨丸
 太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の「その後」が、学校の歴史教科書の中で語られることはほとんどない。巌流島で佐々木小次郎を倒した宮本武蔵の、その後の人生に似ている。だが、いま我々が宮本武蔵を単なる剣術屋ではなく、ひとつの道を究めた人格者と評価できるのは、その後の武蔵が、剣ばかりでなく人生についても洞察を深め、常人ではなし得ない境地に達したからだろう。
それと全く同じではないが、「その後の咸臨丸」にも、もっと知られるべき歴史がある。幕末から明治にかけて、これほどさまざまな「人生」を乗せた船はない。そのことによって、咸臨丸自体が一個の人格を持ち、波乱に富んだ人生を歩んだようにさえ、錯覚させられるのである。
 その一例が、尊攘派浪士を乗せて江戸を脱出した薩摩藩軍艦、翔鳳丸との一幕なのだが、その前に咸臨丸は、小笠原諸島への航跡を残している。
 小笠原諸島は、古くから存在を知られていた。四代将軍家綱の時代に探検隊が送られたことはあったが、ずっと無人島だった。ところが幕末、外国人が居住し始め、黒船のペリーも小笠原の父島と兄島を探検した。ペリーの報告によって別の船が来航し、アメリカは小笠原の領有を宣言した。
 そのままになっていれば、現在の日本にとっても大変なことだったのだが、幸いアメリカは、嘉永七年(1854)三月三日、幕府が開国(日米和親条約)に応じたために、小笠原の領有権を放棄した。とは言え、幕府は、小笠原を日本の領土として確定させる必要に迫られた。それで、島々の正確な位置を測量し、八丈島から島民を移住させることにした。実はアメリカからの帰途、咸臨丸がハワイ経由にしたのは、小笠原諸島に寄って、島を探検する目的もあったのである。だがこの時は、石炭の残りが少なく、ハワイからまっすぐ帰国せざるを得なかった。
 改めて咸臨丸が小笠原諸島へ向かったのは、文久元年(1861)十一月だった。父島や母島を調査して、咸臨丸が江戸・品川沖へ戻ったのは、翌年三月である。この時の咸臨丸については、『幕末の小笠原』(田中弘之、中公新書)に詳しい。
 咸臨丸は休む間もなく、文久二年六月には、長崎へ向かった。オランダへ派遣する幕府留学生を、長崎からオランダ商船カリップス号に乗せるためだった。この留学生の中に、後の箱館戦争のリーダー榎本武揚(当時は釜次郎)と、彼の腹心とも言うべき沢太郎左衛門がいた。二人とも、幕府長崎海軍伝習所の出身者だ。
 その後、慶応三年の暮れに、薩摩藩軍艦翔鳳丸との一幕があり、そして翌年、咸臨丸は遭難する。

榎本艦隊の脱走
 榎本武揚ら幕府留学生がオランダから戻ったのは、慶応三年(1867)五月だった。彼らは、幕府がオランダに注文して建造した新鋭艦「開陽」に乗船していた。操船実習をかねて、日本へ回航する開陽に乗り組んだのである。そして開陽は幕府海軍の旗艦となり、海軍副総裁に就任した榎本が艦長となった。
 だがその年の十一月、将軍徳川慶喜は大政を奉還し、幕府はなくなってしまう。さらに翌年一月三日の鳥羽・伏見の戦いを契機に、戊辰戦争が勃発した。
 一月三日の夜、兵庫(神戸市)沖に停泊していた幕府海軍の艦船からも、大坂方面に火の手が見えたという。この時、すぐ近くに、薩摩藩の軍艦「春日」、「翔鳳丸」、それに輸送船「平運丸」も碇泊していた。当時は日本最大の軍艦だった「開陽」をはじめとする五隻の幕府海軍と正面から戦う不利を避け、薩摩藩の三隻は四日未明、錨を上げて逃走した。すぐに幕府艦隊が追撃し、いわゆる「阿波沖の海戦」が起きた。江戸から相楽総三らを乗せて来たばかりの翔鳳丸は、横須賀沖で被弾した修理が完全でなかったこともあって逃げ切れず、途中で座礁し、自ら船体に火を放った。逃げ切った春日には、若き日の東郷平八郎が乗っていた。
 この強力な幕府海軍は、薩長を中心とする東征軍にとって最大の脅威だった。だから西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城交渉の中でも、幕府艦船の引き渡しは大きな懸案となった。だが、榎本は引き渡しを拒否した。四月十一日に江戸城が新政府軍に引き渡されて、江戸から戦火が遠のいた翌日、榎本は開陽など八隻の軍艦を房総半島先端の館山に移動させてしまう。あわてて館山へ行った勝の説得で、榎本も「富士山」など四隻を新政府に渡すことにした。しかし開陽など、主力艦は手元に残した。
 そして八月十九日の深夜、軍艦四隻、輸送船四隻で編成した榎本艦隊が、松島湾(宮城県)を目指し、品川沖から脱走した。
 実はそれまで何度も、榎本のもとには、庄内藩などから来援を求める使者が来ていた。戊辰の戦火は、五月には福島県に及び、七月に秋田藩が奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方全域に広がっていた。榎本艦隊が列藩同盟のために動き出せば、戊辰戦争は別の様相を見せただろう。少なくとも七月に、薩摩の黒田清隆率いる新政府軍が、松ヶ崎、太夫浜(どちらも新潟市)海岸にやすやすとは上陸できなかったはずだ。
 しかし榎本は、奥羽の戦乱を静観していた。
 「幕臣」榎本にとってこのころ、最も気がかりなのは「徳川家の命運」だったに違いない。徳川家が、御三卿のひとつ田安家の家達(いえさと)に継承され、駿府(静岡市)で七十万石を与えられることが決まったのは、五月である。が、この領地では、家族も含めて三十万人の徳川家臣団は暮らして行けない。榎本の行動については、さまざまな観測があるが、「旧徳川家臣による蝦夷地開拓」を標榜したのは本心だろうと、私は思っている。「徳川脱藩家臣団」というのが、艦隊に乗り組んだ二千五百人の将兵の自称だった。
 品川沖から脱走したうちの一隻が咸臨丸だった。軍艦ではなく、輸送船だった。
 榎本艦隊の八隻のうち咸臨丸など四隻は帆船で、速度が遅いため、それぞれ蒸気船が曳航することになった。咸臨丸は「回天」に引っ張られて外海へ向かった。だが、三浦半島観音崎で座礁し、回天の助力で離礁したものの、大きく時間をロスした。そのため、太平洋へ出たとたんに嵐に遭遇してしまう。
 この嵐では、僚艦の一隻、美嘉保丸が銚子港(千葉県)近くの海岸に吹き寄せられ、沈没した。咸臨丸は、沈没は免れたものの、漂流し、ようやく伊豆の下田へたどりついた。そして、船体を修理するため、新しい徳川家の領地、駿府藩の清水港(旧清水市、合併で現在は静岡市)を目指した。

侠客 清水の次郎長
 私が清水を訪ねたのは、二〇〇一年八月二十日である。「北前船・第三次取材」の初日だった。前夜、千葉県大原町の我が家に泊まった無明舎出版の編集長、鐙啓記さんが運転する車で東京湾アクアラインを通り、東名高速で清水を目指した。走行距離二万キロに及んだ北前船の取材では、最初から「箱館戦争も取材する」ことにしていた。その夜は、敦賀−松前航路を往来した近江商人のふるさと、滋賀県彦根市で宿泊する予定だった。
 傷ついた咸臨丸が船体を浮かべたのは、清水でも最も奥の「折戸浜」である。今、立派な岸壁に立つと、右手に美保の松原の細長い半島が延び、湾の向こうには、正面に大きな富士山が見える。しかし、この美しい場所で多くの血が流れた。
 九月八日に年号が慶応から明治と変わって間もなくの十八日、新政府の軍艦「富士山」など三隻の船が清水に現れた。咸臨丸の所在を知った新政府が、拿捕(だほ)するために派遣したのである。
 この日、咸臨丸船長小林文次郎は、駿府の藩庁へ出かけていた。船体を修理するので大砲はすべて取りはずし、品川沖を出る時に乗り組んだ人々も、大半は上陸していた。船に残っていたのは、副将の春山弁蔵、その弟の鉱平ら二十人ほどだった。
 「富士山」は大砲を撃って来た。抗戦する能力のない咸臨丸では白旗を振ったが、新政府軍はかまわずに小銃を発射しながら近づき、抜刀して咸臨丸に乗船した。春山らは敵対する気はなかったが、乗り込んで来た新政府軍兵士の暴言に怒った春山鉱平が斬りつけたことから、甲板で乱闘となった。鉱平も、兄の春山弁蔵も殺された。
 新政府軍艦の一隻だった飛龍丸(柳川藩)の報告書には「討取 二十人余」と記されているが、十数人という記録もあり、三十六人との記録もある。いずれにせよ、咸臨丸にいた士官はことごとく斬られ、遺体は海へ捨てられた。小田原藩士が書き残した「私記」に「降人を屠殺し」、つまり「降伏した無抵抗の人を殺した」とあるのを読んでも、その時の無残な仕打ちが想像できる。
 副将春山弁蔵は、幕府長崎海軍伝習所の第一期生だった。もともとは浦賀奉行所の同心で、与力の中島三郎助(後に箱館戦争で戦死)とともに造船技術を学び、文久二年(1862)五月に石川島(現東京都江東区)で、幕府が軍艦「千代田形」(蒸気船、138トン)建造に着手した際には、船体の設計を担当した。当時の日本では、トップレベルの技術者だった。生きていれば、明治の日本で業績を残せたはずの一人である。
 海上には、首のない遺体もあった。
 『幕末軍艦咸臨丸』の文倉平次郎は、春山弁蔵の遺子、春山知安も訪ねている。知安は父親の遺業を継ぎ、明治の日本海軍で技術畑を歩んだ人だ。その談話の中に、首のない遺体は春山鉱平だったという話が出て来る。新政府軍は鉱平を船長と勘違いして斬首した。ところが首を自分の船(三隻のどれかは不明)に持ちかえって艦長に見せると、どうも違うようなので、すぐに海へ捨てたというのである。
 戊辰戦争の跡をたどると、新政府軍には「死者をはずかしめて何とも思わない」所業が頻発する。春山鉱平の首もそうだ。そして、折戸浜の海面を赤く染めた咸臨丸戦死者の遺体は、そのまま放置された。彼らは脱走者であり、朝廷の命に従うことになった駿府藩の徳川家でも、手を出しかねたという事情がある。
 見かねて、遺体を収容し、埋葬したのは清水の次郎長親分だった。


[参考文献]
『相楽総三とその同志』(長谷川伸=中公文庫)
『長崎海軍伝習所−十九世紀東西文化の接点』(藤井哲博=中公新書)
『北前船 寄港地と交易の物語』(文・加藤貞仁、写真・鐙啓記=無明舎出版)
『箱館戦争』(加藤貞仁=無明舎出版)
『戊辰戦争とうほう紀行』(加藤貞仁=無明舎出版)
『日本の海軍・上』(池田清=学研M文庫)
『幕府軍艦咸臨丸 上・下』(文倉平次郎=中公文庫)
『夜明けを駆ける』(綱淵謙錠=文春文庫)
『幕臣列伝』(綱淵謙錠=中公文庫)
『幕末の三舟−海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』(松本健一=講談社選書メチエ)
『幕末の小笠原』(田中弘之=中公新書)
『游侠奇談』(子母沢寛=旺文社文庫)
『次郎長三国志』(村上元三=文春文庫)


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