んだんだ劇場2005年2月号 vol.74
No9
次郎長と愚庵(下)

次郎長の養子になった平藩士
 尻込みする子分を励ましながら、次郎長親分が咸臨丸戦死者の遺体を収容した時には、みんな腐臭を放っていたというから、新政府軍が咸臨丸を持ち去って、だいぶ時間がたっていたのだろう。次郎長自身、後に「気持ちが悪かった」と本音を語っている。
 次郎長一家は、収容した遺体を「清水向島」に葬った。現在の住所は「築地町」と言い、市街地の一角のようになっているが、その当時は川の中州で、人家などない荒地だったという。次郎長は墓も建て、遺体の中で名前が判明した七人には、自分の菩提寺(梅蔭寺)の住職に頼んで戒名をもらった。三回忌にあたる明治三年の命日には、向島と清水町を隔てる巴川に自費で橋を架けた。墓参者の便宜を図ったのである。
 現在、次郎長が営んでいた船宿「末廣」が復元されて、「清水港船宿記念館」になっているが、墓所はそこから、歩いて五分もかからない所にある。いや、記念館の場所に次郎長が宿を開いたのは明治十四年だから、墓所の近くに次郎長の方から引っ越して来た、と言った方が正しいのだろう。角地が整地された墓所には、「壮士墓」と刻まれた墓石があり、その後ろの、ごく普通の民家の一室が、次郎長の記念館のようになっていた。屋内の壁に、むしろで包んだ遺体を運ぶ子分たちを指示する次郎長の絵を掛けてあるのが、ガラス窓越しに見てとれた。
 さて、墓石の「壮士墓」は、山岡鉄舟の書である。
 慶応三年三月、江戸攻撃を目指して東海道を進軍して来た東征軍の中を、堂々と通りぬけ、駿府にいた西郷隆盛に、「江戸開城を話し合おう」という勝海舟の手紙を届けたのが山岡鉄舟だった。この時、道案内を務めたのは、前年暮れの三田・薩摩屋敷焼き討ちで捕らえられていた薩摩藩士、益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)である。しかし江戸を出た山岡は、多摩川(当時、河口付近は六郷川と言った)を越えたところで、東征軍に遭遇した時、「朝敵徳川慶喜(よしのぶ)家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかりとおる」と、大声で言い放ったという豪胆な人だったから、たぶん、駿府までは一人でも行くことができただろう(ただし、西郷に会うには、益満の顔が必要だった)。そのおかげで、西郷と勝の直接会談が実現した。
 余談だが、六郷川で山岡に「朝敵徳川慶喜家来」と言われ、一瞬ポカンとして山岡を通してしまった東征軍の隊長は、後の西南戦争で、西郷軍幹部となった篠原国幹(くにもと)だったと言われている。
 鉄舟は後に、明治天皇の侍従となり、また、「無刀流」を創始した剣客でもある。
 清水で咸臨丸の事件があった時、鉄舟は駿府にいた。「天朝に敵対した賊徒の死体を葬るのは、罪である」というのが、その時の駿府藩の判断だった。それを糾問するために、鉄舟は清水へ出かけた。しかし、次郎長の言い分はこうである。
 「敵も味方も死んだ後は同じ仏です。(略)死骸で海を塞がれては第一、港の者が困るのです。港のためと仏のためと両方思って致したことがもしも悪いという仰せなら、どのような御咎めでも受けます」(『幕末軍艦咸臨丸』)
 その言葉に感激した鉄舟は、次郎長を賞し、以後、二人の交際は生涯続いた。
 これは二人についての最も有名なエピソードだが、いささか、できすぎた感もある。この時次郎長を糾問したのは別人だという話もあるし、嵐に遭遇した咸臨丸が清水へたどりついた時から、鉄舟がひそかに乗員の潜伏を援助し、遺体の収容を次郎長に頼んだ、という説も伝えられている。そのあたりのことを、私は何とも言えないが、次郎長が鉄舟を師と仰ぎ、終生その気持ちを崩さなかったのは事実である。
 明治二十年、清水・興津の清見寺に「咸臨丸乗組員殉難碑」を建立したのも、次郎長親分である。当時、清国全権大使だった榎本武揚が、碑に「食人之食者死人之事」と揮毫した。「人の食を食(は)む者は人の事に死す」と読む。「恩義を受けた人のために死ぬ」という意味で、中国の歴史書『史記』にある言葉だ。
 ところで、子母沢寛の『游侠奇談』(旺文社文庫)に、「次郎長の剣法」という一節がある。何度も修羅場をくぐり抜けて来た次郎長に、「どういう心得で敵を倒すのだ」と、剣客山岡鉄舟が尋ねた話である。
 次郎長は、こう答えた。
 刃先を合わせた時、ススキが風になびくように「自然に次郎長のするがままに任せているようならば、こちらは素早く刀を退いて逃げてしまう」と言う。逆に、反発して来るような敵なら、「間髪を容れず突き進んで斬った」。弱いやつには余裕がないからすぐ反発する、ということなのだろう。
 それを聞いて鉄舟は、「お前は自然に剣法の極意に達している」と誉めた。そして「度胸免許」を与えたというのである。
 次郎長の家には後年、榎本武揚の紹介で広瀬武夫もやって来て、喧嘩(けんか)出入りに明け暮れた次郎長の昔話を聞いた。この広瀬は、日露戦争での「軍神 広瀬中佐」である。その前から山岡鉄舟の紹介で、いろいろな人が次郎長の話を聞きに来ていた。
 その一人に、鉄舟が直接引き合わせた青年がいる。明治十一年のことだ。
 青年の名は天田五郎といい、陸奥平(たいら)藩(福島県いわき市)の藩士だった。「事情のある青年で、しばらくあずかってほしい」と鉄舟に頼まれて、即座に引き受けた次郎長は、この青年が気に入って、ついには明治十五年、彼を養子にしてしまった。
 「山本長五郎」が次郎長の本名なので、五郎は山本五郎を名乗ることになる。

天田愚庵の次郎長伝
 戊辰戦争の時、現在の福島県いわき市には平藩(三万石、安藤氏)、泉藩(二万石、本多氏)、湯長谷(ゆながや)藩(一万五千石、内藤氏)の三藩があった。いずれも小藩だが、奥羽列藩同盟の一翼をになって戦った。特に平藩は、前藩主(当時は隠居)が、「坂下門外の変」で傷つき、罷免された前老中安藤信正であり、徹底抗戦を演じた。
 しかし慶応四年七月十三日、征討軍の総攻撃が始まると、米沢藩、仙台藩の応援軍はいつの間にか姿を消し、孤軍となった平藩は、砲撃で破壊された城の西門を米俵で塞いで防戦したが、その夜、落城した。
 天田五郎は、平藩で勘定奉行を務めた甘田平太夫の二男である。戊辰戦争の時、平太夫はすでに隠居していて、戦火が及ぶ前に、妻と娘(五郎の妹)を伴って郊外へ避難した。五郎は十五歳だったが、平の落城後は兄の善蔵とともに各地で戦った。しかし九月に会津藩が降伏して戊辰戦争が終わり、翌明治二年に兄弟が故郷へ戻ってみると、父母と妹の行方がわからなくなっていた。兄弟は手分けして家族を探し求めた。翌年、二人は「天田」と改姓しているが、その理由はわからない。その後、五郎は東京で山岡鉄舟の知遇を得て、清水の次郎長を紹介されたのである。次郎長のところなら、いろいろな人が立ち寄るから、五郎の両親の行方もつかめるかもしれないと、鉄舟は考えた。
 還暦一歩手前の五十九歳になっていた次郎長はそのころ、富士の裾野の開墾事業に取り組んでいた。その仕事を五郎に手伝わせてみると、率先して力仕事もやるし、人を束ねるのもうまかった。次郎長は、天田五郎という青年を大いに気に入った。
 現在の福島市に居を構えた兄に呼ばれて、五郎は一年ほど清水から離れたこともあったが、また清水に戻った。五郎もまた、次郎長の魅力に惹かれていたのである。それに五郎は、次郎長の世話になってすぐのころから、「次郎長物語」を書き始めていた。
 広瀬武夫と同じように、次郎長から直接昔話を聞くほかに、健在だった古い子分たちからも五郎は話を聞いた。それをまとめたのが『東海遊侠伝』である。現在、清水の次郎長について、かなり詳しいことがわかるのは、この伝記のおかげだ。
 村上元三の『次郎長三国志』(文春文庫)によると、「次郎長物語」という副題がついた『東海遊侠伝』は、明治十七年四月、「東京輿論社」から発行された。「著者兼出版人」が「静岡県平民山本五郎」となっているから、出版社の名前があるものの、実質は自費出版だったと思われる。しかし、校閲者として朝野(ちょうや)新聞社長の成島柳北(なるしま・りゅうほく)が表紙に名前を載せ、中を開くと山岡鉄舟と勝海舟が題辞を寄せているという。旧幕臣の成島は当時、文筆家として高名だった。
 だが五郎はその後、次郎長の家を辞し、大阪で新聞記者になった。それも両親と妹の行方を探すためだったと思われる。天田の姓に戻った五郎はそれから、仏門に入った。村上元三は「愚庵といった禅僧であり、歌人としても著名になった」と書いているが、私はまだ、その辺りまでは調べていない。ただ、ざっと目を通した関係資料には、「東海遊侠伝の著者は天田愚庵」と書いてあることが多いようだ。

世に知られた次郎長
 『東海遊侠伝』は漢文体の文章で、現代人には難解だろう。山岡鉄舟に会って、自分の無学を恥じた次郎長は、勉強してひらがなとカタカナは読めるようになったが、五郎の本の漢字はほとんど読めなかった。しかし養子が自分の伝記を書いてくれたのがうれしくて、次郎長は『東海遊侠伝』を二百冊も買い、訪ねて来る人に贈ったという。
 これを読んで感激した一人に、松廼家太琉(まつのや・たいりゅう)というドサ回りの講釈師がいた。博打が飯より好き、という男だった。昔から次郎長の家でごろごろしていることが多く、吉良の仁吉と法印大五郎が死んだ、いわゆる「荒神山(こうじんやま)の喧嘩」では現場にいて、その一部始終をいちはやく次郎長に知らせた。
 伊勢の笠砥山(荒神山)の賭場をめぐる縄張り争いに、次郎長は大政を名代として出してやった。大政は、太琉を伝令に使ったのである。話を聞いた次郎長はすぐに子分らを集め、三河から二艘の船で伊勢へ渡った。人数は五百人。天田愚庵の『東海遊侠伝』では「鉄砲四十挺、槍百七十本、米九十俵」を船に乗せたと記録しているから、ヤクザの「弔い合戦」とはいえ、これは実質、「戦争」と言っていい。
 昔から次郎長のそばにいて、しかも最も華々しい「荒神山の喧嘩」まで見ている自分が次郎長の半生を伝えるべきだったと、『東海遊侠伝』を読んだ太琉は反省した。そして、自分でも講釈のネタを作り始めた。それは太琉に、東京の一流寄席へ自分を復帰させる夢を見させたことだろう。
 しかし、「ダメな男は、やっぱりダメ」だった。場末を回って一席語り、小遣い銭を稼いでは、すぐに全部博打ですってしまう暮らしを続けてきた太琉には、芸人としての力が失われていたのである。昔のつてで東京の小さな寄席に上がり、自分なりの「次郎長伝」を語っても、ちっとも受けなかった。そして、寄席の下足番に落ちぶれた。
 太琉は、思いあぐねた末に、売りだし中の若手講釈師、三代目神田伯山(当時の芸名は小伯山)に、『東海遊侠伝』を添えてネタをそっくり譲った。伯山が、それから七年の歳月をかけてさらに工夫を加え、練り上げた「次郎長伝」を読み始めたのは、明治四十年五月である。翌年には、「伯山が次郎長伝を語る」とわかると、客が押し寄せ、周辺の寄席はもちろん、囲碁・将棋会所まで空っぽになったという。
 同時代に生きた文倉平次郎は、伯山を「彼が次郎長を語るや殆(ほとん)ど神技とも言うべく、聴者をして恰(あたか)も眼前に次郎長その人を見るが如くであった」(『幕末軍艦咸臨丸』)と評している。
 その次郎長は、すでに明治二十六年六月十二日、七十四歳で亡くなっていた。天田愚庵も父母と妹に会えぬまま、明治三十七年、五十一歳の生涯を閉じている。
 そういう時期に、神田伯山は、庶民のヒーローとも言うべき「次郎長像」を創出したのである。伯山の張り扇によって、清水の次郎長も、次郎長一家の面々も一人歩きを始めたようだ。浪曲師広沢虎造の、「江戸っ子だってねえ、酒飲みねぇ、すし食いねぇ」という名調子、「森の石松 金毘羅代参」が生まれるのはずっと後の話だが、村上元三の『次郎長三国志』によると、片方の目がないという石松の風貌は、伯山の工夫だという。そして、次郎長の子分の「美保の豚松」が、その風貌のモデルなのだそうだ。
 『次郎長三国志』は、子分を一人ずつ、一話の主人公に仕立てたオムニバスの小説である。そして、全篇を通して次郎長の生涯が語られる仕掛けになっている。
 村上元三は、文章にけれんみがなく、それでいて読者を引き込むツボをきちんと押さえた、着実な筆運びをする作家だと、私は思っている。『次郎長三国志』にしても、どれだけ多くの史料を読んだかが、文章の端々に読み取れる。それは、一人一人の人間を、しっかり描く作業でもある。
 その昔、片岡千恵蔵が次郎長、市川右太衛門が吉良の仁吉を演じた東映映画などは、私も喜んで見た。そういう面白さを取り入れながら、『次郎長三国志』はいつのまにか、「史実の次郎長一家」を浮かび上がらせてくれるのである。「次郎長伝」で大成功した神田伯山が、零落した松廼家太琉を救う後日談などは、読んで、目頭が熱くなった。
 神田伯山から後、さまざまな人が、さまざまな形で清水の次郎長をヒーローに仕立てているが、たいてい、「荒神山の喧嘩」までである。それは、慶応二年のことだ。次郎長の生涯の中でも、「東海道一の大親分」とだれもが認めた、得意満面の場面だったことは間違いないだろう。そしてそれは、宮本武蔵の「巌流島」にも似ている。
 しかし私には、その二年後に咸臨丸の戦死者を葬り、山岡鉄舟と出会ってからの次郎長の方が、輝いて見える。
 子分の小政はその後にも大喧嘩をやったが、親分の次郎長は喧嘩沙汰から遠のいた。そして清水に英語学校を設立し、富士の裾野を開墾して茶の木を植え、横浜への定期航路を開設して「静岡の茶」を横浜へ運んだ。
 次郎長にまた、もっと語られるべき「その後の人生」があるのだ。
 咸臨丸についても、「その最期」を語らなければならないのだが、それは「箱館戦争」に場を移して触れたいと思っている。
 最後に、一つだけ、村上元三が『次郎長三国志』で天田愚庵に触れた一節を、書きとめておきたい。
 「尋ねる父母や妹が、すでに戊辰戦役の最中、賊の手にかかって殺されていた、とわかったのは、愚庵の死後のことだった」

[参考文献]
『相楽総三とその同志』(長谷川伸=中公文庫)
『長崎海軍伝習所−十九世紀東西文化の接点』(藤井哲博=中公新書)
『北前船 寄港地と交易の物語』(文・加藤貞仁、写真・鐙啓記=無明舎出版)
『箱館戦争』(加藤貞仁=無明舎出版)
『戊辰戦争とうほう紀行』(加藤貞仁=無明舎出版)
『日本の海軍・上』(池田清=学研M文庫)
『幕府軍艦咸臨丸 上・下』(文倉平次郎=中公文庫)
『夜明けを駆ける』(綱淵謙錠=文春文庫)
『幕臣列伝』(綱淵謙錠=中公文庫)
『幕末の三舟−海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』(松本健一=講談社選書メチエ)
『幕末の小笠原』(田中弘之=中公新書)
『游侠奇談』(子母沢寛=旺文社文庫)
『次郎長三国志』(村上元三=文春文庫)


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