一番槍の少年
六十里越えの戦火
私が育った福島市からは、西に奥羽山脈が望まれる。そびえたつ山の端に美しい夕日が沈むその方向に、会津があった。しかし子供のころ、磐梯吾妻スカイラインという観光有料道路ができ、子供会のバス旅行で猪苗代湖まで行くようになっても、私にとって会津は、山の向こうの遠い土地だった。
それは逆に、会津に住む人々も同じ思いだっただろう。福島県がいくつもの藩に分かれていた江戸時代は、なおさらのことだ。屹立(きつりつ)する山岳に四方を囲まれた会津には、他国人が容易に近づけない天地が広がっていた。
わずかに他国との往来があった幾筋かの細道の一つに、「六十里越え」がある。福島県の南西端、只見町から新潟県小出町へ通じる道である。昭和四十六年(1971)に全通したJR只見線が、峡谷にへばりつくように走っているルートだ。その後、鉄道よりかなり高い場所を切り開いた国道252号も、車がつんのめりそうな急坂が連続している。
一里が十里にも思えるほど急峻なために、「六十里越え」と呼ばれたのである。
当時の小出町は会津藩領で、中心部の小出島には、周辺の二万七千石を治める陣屋があった。そこから魚野川を下り、信濃川に合流してすぐ下流にある小千谷は天領だったが、幕末は会津藩の預かり地になっていて、ここにも陣屋があった。所領の詳しい変遷は省くが、幕末までの百四十年間、越後のこの一角は、「六十里越え」という、細いが、しっかりした糸で会津若松と結びついていた。
小出島陣屋に、代官に代わって藩の郡奉行、町野源之助(主水)が派遣されて来たのは、慶応四年(1868)二月十五日だった。
藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を務めていた会津藩は、この年一月四日の鳥羽・伏見の戦いに敗れ、容保は会津若松の鶴ヶ城に戻って謹慎していた。孝明天皇の信任が厚かった容保は、天朝に敵対する気などなかった。が、薩長を中心とする新政府は、会津を朝敵と見なした。このため会津藩は、和平の道を探る一方で開戦に備えた。
新任奉行町野主水は、まず農兵を徴募した。たぶん、半強制ではあっただろうが、小出島から四十人、周辺の村々からは百人が応じた。三月二十二日には、魚野川に近い四日町(現小出町)の諏訪神社で、武運長久を祈願した。だが、その祈りも虚しく、閏四月二十七日、早朝からわずか二時間ほどの戦闘で、小出は陥落してしまうのである。
この時、町野主水は、小千谷陣屋に派遣されていた井深宅右衛門隊百五十人、山内大学隊五十人に来援を求め、小出に会津軍の総力を結集していた。その人数には諸説があるが、町野隊を合わせても、三百人に満たなかったのは間違いない。これに対し、来襲した征討軍は、薩摩、長州、尾張、越後高田(現上越市)、それに信州諸藩の兵で、少なくとも七百人、一説には千人に達する大軍だった。
井深宅右衛門は、五百五十石の上級藩士で、藩校「日新館」学頭を務め、戊辰戦争時は、第二遊撃隊の隊長に任じられていた。この時十五歳だった子息の梶之助も、従軍していた。井深梶之助は、後に苦学して英語を学び、キリスト教に改宗、明治学院大学の第二代総理となった。さらに、ソニーの創設者、井深大も一族だが、井深宅右衛門・梶之助父子とどういうつながりになるのかは、まだ調べていない。
また、山内大学は、鎌倉時代から戦国時代末まで、金山町(福島県大沼郡)を本拠地に、只見川流域を支配した豪族の末裔だ。『図説 会津只見の歴史』(只見町史出版会編)には、山内大学が「旧家臣を指揮して」と記され、さらに、会津藩が彼ら「旧家臣」を下士として召し抱えた書状の写真が掲載されている。危機感を深めた会津藩が、戦闘能力のある人々を大急ぎで集めた状況がうかがえる。
小出の戦闘で、会津軍は十五人が戦死し(征討軍は戦死十六人)、町は焼かれ、残兵は「六十里越え」を目指して敗走した。これが、会津領内に戦火が及んだ最初だった。その痕跡は、小出町内に残る石碑などによってたどることができる。詳しくは、『戊辰戦争とうほく紀行』(無明舎出版)を参照していただきたい。
しかし町野隊には、それ以前に征討軍との遭遇戦があった。そして町野主水は、弟の久吉を失った。それが「三国峠の戦い」である。『戊辰戦争とうほく紀行』では、簡単にしか触れることができず、私にはそれが、心残りでもあった。
会津戦線最初の戦死者
会津領防衛の最前線を、町野主水は三国峠(1244メートル)と考えていた。現在は、群馬県利根郡新治村から新潟県南魚沼郡湯沢町へ通じる国道17号が、三国トンネルで山塊をくぐり抜けている峠道だ。新潟県に入った所に苗場スキー場がある、と言えばわかりやすいかもしれない。三国山(1636メートル)の南側を通過する三国街道は江戸時代、関東から越後へ通じる最も重要な往還だった。
町野主水は、三国峠を上州側に一キロほどに下った、「大般若塚」という辺りに陣を築いた。実は、私は、取材で小出を訪ねた1998年当時、場所がよくわからず、いまだに現地を見ていない。後から入手した資料によると、古戦場の跡に「大般若塔」という石碑があるようだ。
上州から峠を目指したのは前橋、高崎、沼田、安中、佐野、伊勢崎、吉井、七日市(現在の富岡市)の諸藩兵で、総勢千二百人という記録がある。そのうち三十人ほどが、閏四月二十一日の夜明け、会津陣に迫った。が、鉄砲を数発撃ち、会津側が応射すると、さっさと引き上げた。斥候だったらしい。本格的な戦いは、三日後の二十四日に起こった。
この日は、夜明け前から濃霧だったという。このため、上州諸藩軍はなかなか進軍できなかったし、会津軍も動けなかった。それに、会津軍はこの時、百人もいなかったと思われる。それ以前に、偵察の報告では上州諸軍の動きがにぶかったので、農作業が忙しくなる時期を考慮して、農兵の大半を一時的に帰していたからだ。二十一日の前哨戦の後、帰郷した農兵を呼び戻す使者を発したが、彼らはまだ帰陣していなかった。両軍とも、おおよその見当で大砲を発射したりもしたが、前線は膠着した。
町野主水の末弟、久吉が敵陣へ突撃したのは、午前九時ごろのようだ。満年齢では十六歳の少年だった。若者四人が後に続いた。兄である町野奉行の静止を聞かず、血気にはやって飛び出したのである。町野久吉は宝蔵院流槍術に秀で、「蒲生家伝来の大身槍(おおみやり)」を振るって突進したという。
この時、前橋藩の砲兵指南役で、後に陸軍少将となった亀岡泰辰が、大正十年(もしくは九年)に発売された『武侠世界』という雑誌に、目撃談を載せている。それによると、この突撃に驚いた前橋藩兵が道の両側に逃げ、久吉少年は、亀岡のいた砲兵陣地を飛び越え、最も奥にいた前橋藩の指揮官、八木始(はじめ)へ迫った。しかし、そこまで数歩のところで短銃の弾丸を胸に受け、「尻餅をついて打ち倒れた」。しかも久吉は、すでにこの時、背中に三発の銃弾を浴びていたという。
亀岡は、久吉と同い年でもあり、最も近距離での目撃者だったから、強く印象に残ったのだろう。談話は、驚くほど具体的に久吉の最期を語っている。
町野久吉は、会津戦線での「一番槍」という武名を残したが、同時に、最初の戦死者でもあった。
「蒲生家伝来の大身槍」については、少し補足しておきたい。
直木賞作家、中村彰彦氏の小説『その名は町野主水』(角川文庫)によると、町野家の祖は、蒲生氏郷の家臣だったという。
蒲生氏郷が、豊臣秀吉から会津九十二万石を与えられたのは天正十八年(1590)で、その子、秀行の代に蒲生氏は宇都宮へ移った。次いで会津百二十万石の領主となった上杉景勝は、関ヶ原の戦いの時、徳川家康に敵対したために米沢三十万石へ移封となり、蒲生秀行が再び六十万石で会津へ戻った。だが、三代目の忠郷の没後、跡継ぎがいなかったために蒲生氏は領地を没収され、加藤嘉明・明成父子の治世を経て、寛永二十年(1643)、山形藩主だった保科正之が会津二十三万石を拝領した。これが、戊辰戦争の悲劇に遭遇する会津松平家の創始である。
町野久吉が手にした大身槍は、家祖が蒲生氏郷から下賜された名品だという。蒲生家が改易された後も、町野氏は会津にとどまっていたのだろう。そして、保科氏の新規召し抱えとなった家なのである。
この家宝の槍で名を上げたのは、実は、久吉より、兄の主水の方が先だった。元治元年(1864)七月の「蛤御門の変」で、押し寄せる長州軍に飛びこみ、町野主水は「三番槍」の功名を得た。主水は、三国峠、小出、そして会津若松の攻防戦を戦い抜き、戦後は荒廃した会津の復興に生涯をささげた。大正十二年六月に、満八十三歳で亡くなるまでの一生は、中村氏の『その名は町野主水』に詳しい。史料を精査し、史実を丹念に追う手法で、中村氏は、町野主水に、古武士らしい見事な風格を与えている。
と、ここまで読んで、それから中村氏の小説を読めば、「歴史のお勉強」としては十分なのだが、歴史を調べていると、思いがけない挿話に出くわすものだということを、今回は書いておきたい。それが、前々から心残りになっていたことなのである。
人を食った余話
地元紙の記者だった磯部定治氏の『魚沼の明治維新』(恒文社)を読んでいたら、戦死した町野久吉の体をたくさんの人々が食った、という記述があって驚愕した。その根拠となった『小出町歴史資料集 第六集・明治維新編』(昭和六十三年、小出町教育委員会)を開くと、群馬県側の古老の談話として、そういうことが記録されていた。
「首より下の胴・四肢は官兵及び村びとが肉をそぎ取って食べたという。その理由は全く英雄崇拝の迷信からで、斯くの如き勇者の肉を喰う時は、角力が強くなり、腕力が増し、健康な子孫が生まれるということからで……」
この時、肉を食べた一人に、永井村(現在の群馬県新治村)の猟師がいた。彼が昭和三年四月に死去する直前、病床で「久吉が来る、おそろしい」と絶叫したという話に続いて、引用部分が記載されている。猟師は、久吉を銃撃した一人でもあった。
これを読んで、私は、西南戦争の時、薩摩兵が敵の生き肝を食ったという話を思い出した。たしか司馬遼太郎の『翔ぶが如く』(文春文庫)にあったのではないかと思う。読み返したが、その部分を見つけられないので、記憶をたどると、生け捕りにした捕虜を立ち木に縛りつけ、腹を割いて肝を取り出して食べた、という話ではなかったか。これも、一種の英雄崇拝による行為だと説明されていたようだ。司馬氏がこの逸話を挿入したのは、薩摩武士が剽悍であり、当時、初めて実戦に投入された政府軍の庶民兵が、「生き肝を取られる」ことに極度の恐怖を抱いた、ということを書くためだったと思う。
人間が人間を食うという行為は、歴史を調べると、実は、それほど稀有なことではない。
日本でも、例えば天明の飢饉、天保の飢饉の時、最も被害の大きかった東北地方で、自分の子供を食うのは忍びないので、お互いに子供を交換して食べた、などという記録が残っている。近年でも、アンデス山中に墜落した飛行機の生存者が、亡くなった人の肉を食って命をつなぎ、救助されたという事例を覚えている方も多いだろう。
こうした例の大半は、飢えをしのぐ行為である。それは、多分に罪悪感を伴う所業だった。
しかし、町野久吉にしても、西南戦争にしても、次元はまったく異なり、しかも、それが、明治という近代国家の創始期だったことに、私は非常に驚いたのである。
戊辰戦争では、私が調べた限り、人肉を食った話がもう一つある。栃木県と境を接する福島県南会津郡田島町の『田島町史第六巻・下 近世史料U』に記載されている事例だ。
「水無の田無沢の□□□□□□出生の者にして、□□に来りムコになる、それが砲で殺すや直様(すぐさま)腹をさき肝を食った」
[田島組粟生沢村西軍敗残兵始末]という章の、「粟生沢村名主湯田久右衛門聞書」の一節である。日付は、明治元年九月十一日(八日に、慶応四年が明治元年と改元された)となっている。
そのころ、会津若松は陥落寸前だった。しかし、後に西南戦争で戦死することになる猛将佐川官兵衛に率いられた一隊は、城外を転戦、九月九日には、南会津郡を統括する陣屋があった田島を奪還した。征討軍の主力は会津若松に集結し、田島にはわずかの物資補給部隊しか残っていなかった。田島奪還では、佐川の呼びかけに応じて、農兵隊が組織された。田島を追われた征討軍兵士は、現在の栃木県を目指して逃走したが、那須連山につながるこの辺りの山は深く、さまよった末に、何人もが農兵隊につかまり、殺された。湯田久右衛門の「聞書」には、それが毎日のように記されている。
肝を食われたのは、大田原(栃木県大田原市)藩士、江連半之助という人だった。この人は強そうに見えたらしく、農兵たちもすぐには手を出せなかったようで、名主の家で酒を飲ませ、「酔うた所をしばりあげ、くどつ沢口で」射殺したという。
肝を食った理由は、書かれていない。
調べれば、こうした事例は、もっとたくさんあるのかもしれない。だがそれらは、どこまで信用できるのだろうか。現代人には「迷信」でも、その時代の人々にとっては「真実」ということはあるから、英雄にあやかるためにその肉体を食う、という信仰があっても不思議ではない。だからと言って、「事実だ」と、速断するわけにもいかないのである。
ひっかかるのは、これらが伝聞に拠っていることだ。談話者が直接手を下したわけでもなく、目撃したことでもないのである。
戦争という極限状態では、「英雄の肉を食う」行為は、「ありそうなこと」だ。だからこそ逆に、史料を読むときには、眉につばをつけなければならないのである。
例えば『平家物語』で、京に入った木曽義仲が、鎌倉からの追討軍が迫っているのに女と遊びほうけて腰を上げないので、家臣が切腹して主君の奮起を促した、という下りがある。『平家物語』の名場面の一つに揚げてもいいだろう。だが、中国の書にまったく同じ話があって、『平家物語』はそれをそっくり借用したという指摘がある。いわゆる「軍記物」には、こういう挿話が多いのである。それで物語は面白くなるのだが、史実と距離ができてしまうのは仕方ない。
戊辰戦争の時代になっても、「語り部」から、そういう気分が抜けきっていたとは思えない。「英雄の肉を食う」ことは、過去のどこかで、事実としてあったのかもしれないが、そういう話は繰り返され、さらに脚色されて伝わるのではないだろうか。例示した逸話を完全に否定はしないが、私は大いに疑いを持っている。
さて、町野久吉の首は晒された末に、永井村の駒利山に葬られた。それが、昭和五年三月二十七日付の「越佐新報」に、葬地が発見され、分骨して会津若松の祖先の墓所に埋葬することになった、という記事が載っている。古老の記憶を頼りに、桜の木の下から「むくろと首を掘り出した」というから、首と胴は一緒に葬られていたのである。
今、昭和三十五年に建立された久吉の墓碑があるが、道路工事のために、本来の場所からは少し移されているという。
ところで、「蒲生家伝来の大身槍」は久吉の死後、北陸道征討軍を指揮していた山県有朋の手に渡ったと言われている。三十年ほど後になって、家宝の槍を町野家に返却してはどうか、と仲介する人があった。これに対して、元気だった町野主水は、こう答えた。
「戦場で失った物を、武士たる者が畳の上でもらうわけにはいかぬ」
相手は絶句したに違いない。
「頑固な会津武士には、ありそうな話」ではなく、この発言が事実だからこそ、町野主水は「頑固な会津武士の典型」と言われるのだ。
史料を読むとき、私はその辺の見極めを心がけている。
[参考文献]
戊辰役戦史(大山柏=時事通信社)
図説 会津只見の歴史(只見町史出版会編=只見町)
戊辰戦争とうほく紀行(加藤貞仁=無明舎出版)
にいがた歴史紀行11 小千谷市・北魚沼郡(新潟日報事業社)
福島県民百科(福島民友新聞社)
会津の英学(松野良寅=歴史春秋社)
その名は町野主水(中村彰彦=角川文庫)
魚沼の明治維新(磯部定治=恒文社)
田島町史第六巻・下 近世史料U(田島町)
戊辰戦側面史考−町野久吉士建碑記念(松尾荒七編=自治評論社)
小出町歴史資料集 第六集・明治維新編(小出町教育委員会)
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