飛び地領の人々(上)
笠間藩神谷陣屋の二十三日間
福島県の太平洋岸、いわき市平(たいら)のJRいわき駅(旧平駅)から東の方へ四キロほどの田園地帯に、市立平第六小学校がある。住所は、いわき市平中神谷(かべや)字石脇という。この辺りは幕末、笠間藩(牧野氏、八万石)の飛び地領で、小学校の場所に陣屋があった。
江戸時代の大名の領地を調べると、「飛び地」がやたらと多いことに驚かされる。あとで触れるが、山形県の中央部、東根市長瀞(ながとろ)に陣屋のあった米津(よねきつ)氏は、一万一千石余の大名で、一般には「長瀞藩」と呼ばれているが、実は、長瀞には六千四百二十一石の領地しかなく、残りは関東地方の四か所に分散していた。つまり、領地を積算したら一万石を超えた、という大名である。「飛び地の寄せ集め」と言ってもいい。
江戸幕府が、なぜこういう政策をとったのか、よくわからないが、「藩政」という行政を考えれば、何かと不便だったに違いない。
今は「陶芸の里」として知られる茨城県笠間市に居城のあった笠間藩は、大部分の領地は周辺にまとまっていた。いわき市の「神谷陣屋」にどれほどの分領をがあったのかは、はっきりしない。陣屋には、家族を含めて五十人ほどの人が起居し、隣接する平藩(安藤氏、三万石)の人々と、仲良く交流していた。平藩領を通らなければ笠間と行き来できないのだから、友好関係を保つのは、陣屋の人々にとっては当然のことでもある。
しかし、戊辰戦争が勃発して、それが一変した。
戊辰戦争で、笠間藩は新政府に従った。慶応四年(1868)四月十六、十七日の二日間にわたった小山(栃木県小山市)付近の戦闘には、百人ほどが出撃した。大鳥圭介(後に箱館戦争にも参加)を大将とした旧幕府軍が、宇都宮城(戸田氏、七万七千石)を目指して進軍していたのを、新政府の命を受けた近隣諸藩が阻止しようとして起きた衝突である。新政府軍の方は、笠間藩兵を加えて二百人ほどの部隊編成だったという。
四月十六日、笠間藩兵は勇戦した。だが、結果は惨憺(さんたん)たるものだった。銃砲を主体とした近代戦を、まったく知らなかったからだ。
大山柏の『戊辰役戦史』(時事通信社)には、「館林藩一番隊奥羽戦記」という記録を引用して、笠間藩兵が全く旧式の軍隊だったと紹介されている。例えば鉄砲は、もちろん火縄銃で、しかもそれは足軽しか持っていなかった。士分以上の武士は「陣羽織、野袴(のばかま)に、あるいは鎖帷子(くさりかたびら)に身を固め、手槍(やり)を持ちて」というから、その三百年前の戦国時代さながらの姿だった。
これに対して、旧幕府軍の方は、フランス人教官に軍事教練を受けた(幕府はフランスから軍人を招いて、西洋式の軍事訓練を受けさせた部隊を編成していた。その隊長が大鳥圭介だった)大鳥の本隊ではなく、薩長主導の新政府に反発する人々が集まって編成した別働隊だったが、連発銃を持つ人もいて、「新しい戦争」ができる軍隊だった。
そこへ、笠間藩の「槍隊」が突撃したのである。
この無謀な突撃で、笠間藩兵は十人が戦死し、五人が負傷した。銃砲を持った彦根藩(井伊氏、二十三万石)兵が救援に駆けつけて、笠間藩兵は死地を脱することができたが、後から見れば、「戦死者が、よく十人で済んだ」と評してもいい完敗だった。
翌十七日には大鳥軍の本隊が到着して、新政府軍諸藩隊はさんざんに叩きのめされた。
笠間藩兵も再び出撃し、先鋒となったが、敵の姿が見える所まで来ると止まってしまった。ほかの部隊が戦闘状態に入ってもぐずぐずしていて、そのうちに、小山からは東の方にある結城藩(水野氏、一万八千石、茨城県結城市)領へ勝手に後退し、さらに、形勢が新政府側の敗色に傾いて「どこに引き揚げてもかまわない」という連絡が入ったのを幸いに、笠間藩領の真壁陣屋(茨城県真壁町)まで退却してしまった。
大山柏は「笠間領真壁までは結城から三十キロ(七里)もある。よくも逃げたものだ」と、あきれたように書いている。前日の負け戦が、よほどこたえたのだろう。
本藩がこの程度だから、いわき市の神谷陣屋にも、「戦力」があったはずがない。それなのに五月、奥羽列藩同盟の結成には平藩も加わって、神谷陣屋は孤立してしまった。笠間へ逃げることもできなくなったのである。
平藩の実権は、前藩主の安藤信正が握っていた。文久二年(1862)一月、江戸城坂下門外で尊皇攘夷派浪士に襲われ、負傷した後、老中を罷免された上に隠居を命じられた人だ。その憤懣(ふんまん)があるから、藩士には徹底抗戦を命じた。
六月十六日、いわき市に隣接する茨城県北茨城市の平潟港に、浜通り(福島県太平洋岸)沿いに奥羽征討を目指す新政府軍の第一陣が上陸した。
平藩兵が神谷陣屋を包囲したのは、その三日後の十九日である。平潟の新政府軍を正面の敵とすれば、背後にあたる神谷陣屋の人々が動き出すのを警戒したからだろう。しかし、いきなり攻撃することはしなかった。もともと、平藩と神谷陣屋の関係は良好だったからだ。陣屋の人々は立ち退き、陣屋は平藩が接収した。陣屋の五十人は、北へ六キロほど離れた薬王寺村(いわき市四倉町薬王寺)に引きこもった。
現在のいわき市内には当時、平藩のほかに、泉藩(本多氏、二万石)、湯長谷(ゆながや)藩(内藤氏、一万五千石)の二つの藩があった。どちらも、平からは平潟寄りに位置していた。新政府軍は二十八日に泉藩、二十九日には湯長谷藩を攻略し、平へ迫った。
決戦を前に、平藩は七月三日、薬王寺村へ攻撃隊を送った。よほど神谷陣屋の人々の動きが気がかりだったのだろう。それを察知した神谷陣屋の人々は、さらに北へ三キロの山間の地、八茎村(いわき市四倉町八茎)へ避難した。この辺りが「神谷陣屋領」の北端だったのかもしれない。そこから北は、人家のない山々が広がっている。
その十日後、平城は新政府軍の総攻撃を受けて落城した。この激戦の中に、後に清水次郎長の伝記『東海遊侠伝』を書くことになる十五歳の平藩士、甘田五郎(天田愚庵)もいたことは、前に「余話」で触れた。
平藩を掌握した新政府軍は、浜通りを北上し始めた。それでようやく、神谷陣屋の人々は逃避行から解放された。陣屋を接収されて二十三日後のことである。
神谷陣屋の人々の右往左往を知ったのは、福島県安達町の郷土史家であり、小説も書いていた安斎宗司さんの『福島の戊辰戦争』(歴史春秋社)によってである。この本には、「神谷陣屋記念碑」という石碑の写真が載っていた。
その所在を確認するために、私は一九九八年十二月、平第六小学校を訪ねた。安斎さんの本の写真では、石碑は広い場所に立っていて、背景に校舎らしい建物が写っている。
ところが行ってみると、それらしいものが見当たらない。近くにあった公民館で尋ねたが、知らないという。近所の家でも質問してみたが、だれも知らなかった。
ようやく見つけたのは、体育館の裏だった。あまり日もささないような場所に、しかもいくつかの石碑と並んで立っていた。何かの都合で、周辺の石碑とともに移転されたのかもしれない。
碑面には、ここに陣屋があったこと、戊辰の動乱に巻き込まれたことなどが刻まれていた。これはこれで、「歴史の証言者」なのだが、現在の人々にとっては、もはや「よくわからない過去の遺物」でしかないのだろう。
しかし、神谷陣屋と同じように、戊辰の戦乱に翻弄された飛び地領の人たちは、意外に多いのである。
焼き討ちされた下手渡藩陣屋
神谷陣屋が平藩に接収された六月十九日の夕刻、平潟港に新政府軍の第二陣を乗せた二隻の汽船が到着し、翌日、全員が上陸した。その中に、はるばる九州からやって来た柳川(当時は柳河)藩(立花氏、十万九千六百石)の三百十七人がいた。彼らは、新政府軍の一翼として戦うほかに、奥羽列藩同盟の中で孤立している支藩、下手渡(しもてど)藩(一万石)を救援する使命を帯びていた。
さて、立花氏の分家である下手渡藩とは、どこにあったのだろうか。
「それは、福島県伊達郡月舘町にあった」と言っても、たぶん、現在の福島県民の千人に一人も知らないのではないだろうか。文化三年(1806)に三池(福岡県)から移封を命じられてわずか三代、六十二年間しか存続せず、戊辰戦争後は、再び三池へ戻ってしまったために、関係者もほとんどいなくなり、福島県民には非常に印象が薄いのである。
伊達郡は、福島県中通り地方(新幹線が通っている福島県の中央部)の、最も北寄りの一帯である。そのうち月舘町は、東寄りの阿武隈山地の中にあり、東側は相馬郡に接している。現在の月舘町全域が下手渡藩だったわけではなく、陣屋があった「下手渡字天平(てんだいら)」は、月舘町の南端に近く、車で五分も走れば伊達郡川俣町に入ってしまう所で、領有する村は、現在の川俣町などあちこちに散らばっていた。独立した大名ではあるが、筑後柳川藩の飛び地のようでもあった。
しかし、幕末の藩主、立花種恭(たねゆき)は英明で、外様の小藩主にもかかわらず、幕府の若年寄となり、一時的ではあるが老中格・幕府会計総裁に任じられた。そして、旧領三池に飛び地領を得ることにも成功した。
鳥羽・伏見の戦いの後、幕閣であった種恭は、三月に下手渡へ戻って謹慎していたが、今後は新政府側に付くべきだと考えた。そこで、自身は三池の飛び地に移り、宗家柳川藩と行動をともにすることにした。
殿様はそれでいいが、下手渡に残った家臣たちは、苦境に立たされることになった。五月の奥羽列藩同盟成立に際しては、家老の屋山外記が藩主名代として調印した。そうしなければ、四方から攻めこまれてしまうからだ。だが、戦火が近づいても、下手渡藩は沈黙していた。藩主の意に反して、同盟軍として戦うわけにもいかなかった。
平潟に上陸した柳川藩兵は、そういう状況下にあった下手渡救援を急いでいたのである。
一方、列藩同盟の盟主である仙台藩は、藩主不在の下手渡藩の加盟を、最初から疑っていた。その疑惑は、まったく動こうとしない下手渡藩を見ているうちに、確信に変わって行ったに違いない。八月に入って、相馬中村藩(相馬氏、六万石)が新政府側に旗色を変え、仙台領へ攻めこんで来たことから、相馬領に隣接する下手戸藩を放置できないと、仙台藩は判断したのだろう。八月十六日、二百人ほどの仙台藩兵が下手渡の陣屋を襲った。
『藩史大事典』(雄山閣)には、天保二年(1831)の下手渡藩の家臣数は、足軽も含めて二百七十四人との記録がある。戊辰戦争時は、藩主とともに三池へ居を移していた人もいただろうから、もっと少なかったと想像されるが、仙台軍に比べて極端に少なかったはずはない。下手渡藩士は、屋山家老を先頭にして応戦した。だが、陣屋は焼失し、城下も焼かれた。私の手元にはその史料がないが、死傷者も出たに違いない。
救援の柳川藩兵が下手渡に到着したのは、その翌日、十七日だった。タッチの差で間に合わなかったのである。
だが、援軍を得た下手渡藩兵は、仙台軍を追い返した。その後は、新政府軍の一員として、周辺に出没する同盟軍ゲリラ隊の掃討に参加したという。
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