んだんだ劇場2005年5月号 vol.77
No12
飛び地領の人々(中)

烏組が根城にした足守藩瀬上陣屋
 現在の福島市内には戊辰戦争当時、福島藩(板倉氏、三万石)のほか、二本松藩(丹羽氏、十万石)、関宿(せきやど)藩(久世氏、五万八千石)、新発田(しばた)藩(溝口氏、十万石)、刈谷(かりや)藩(土井氏、二万三千石)、足守(あしもり)藩(木下氏、二万五千石)の飛び地領、それに幕府領(天領)があった。
 こうして羅列するだけでも、領地の錯綜した地域だったことがわかるだろう。そこへ戦争が起きたのだから、混乱をきわめたことは想像がつく。
 このうち、二本松藩は「少年隊」の悲劇で知られるように、落城するまで戦ったし、関宿(現在の千葉県野田市関宿)の久世氏は、佐幕派だった。奥羽列藩同盟の中で苦労したのは、ほかの飛び地領の人々である。
 ただ、刈谷藩湯野陣屋(福島市飯坂町湯野)の人たちがどう行動したかについては、史料が散逸し、『福島市史 通史編3 近世U』(福島市教育委員会)にも詳しいことは記されていない。
 刈谷は、知多湾に注ぐ境川をほんの少しさかのぼった愛知県刈谷市で、旧国名では三河国に含まれる。湯野陣屋が支配した領地は一万一千七百石もあったから、刈谷藩領の半分強が飛び地だったことになる。しかし、湯野陣屋に詰めていた役人は十人程度である。本藩からあまりにも遠隔地であり、財政難もあって、それほどの人数を派遣できなかったようだ。刈谷藩は慶応四年二月、佐幕派の三人の家老を勤皇派藩士が斬殺し、藩論を勤皇に統一するという経過を経て、戊辰戦争を迎えた。奥羽列藩同盟ができて、湯野陣屋の人々は困ったはずだが、それでどうしたということがわからない。
 あるいは、戦火が及ぶ前に陣屋を引き払ったのかもしれない。
 福島市から刈谷藩は遠いが、足守藩はもっと遠かった。足守というのは、現在の岡山市の一部なのである。
 しかも一時期、足守藩二万五千石のうち、二万二千石の領地が福島県北部にあった。
 それは寛政十二年(1800)のことで、幕府が突然、備中の藩領四十村のうち三十七村を取り上げてしまったのである。そして、同じ石高の領地を奥州信夫郡(今は全域が福島市)と伊達郡で与えた。こういう領地の移動を「村替え」と言うが、これほどむちゃくちゃな村替えは珍しい。四十村のうち残ったのは三つの村だけなのである。それで、かろうじて「足守藩」が存続した。それくらいなら、いっそ移封した方がすっきりして、殿様にも領民にも都合がよさそうに私には思えるのだが、そうしなかったところに、江戸幕府政治の奇妙さがある。
 江戸時代史を調べてみると、村替えには理由を明記した例もある。しかし足守藩の場合は、その理由が伝えられていない。江戸時代を通じて、村替えは頻繁に行われ、その結果、飛び地が全国各所に発生したが、その統一基準のようなものは見出せない。
 ともあれ、この村替えは、足守藩にとっては大打撃だった。農業生産性の高い瀬戸内地方に比べて、当時の福島市周辺は単位面積あたりの米の収量が少なく、見かけ上は同じ石高でも、実質では七千石の減収になったという。それで足守藩は懸命に幕府に働きかけ、三十一年後の天保二年、半分の一万一千石を元の領地へ戻してもらうことに成功した。奥州に残った分は、幕末まで飛び地として統治する歴史をたどる。
 さて、その陣屋があったのは、福島市瀬上(せのうえ)である。福島市の中心部からは北に位置する。福島駅から第三セクターの「阿武隈急行」に乗って、二つ目が瀬上駅だ。ここはその昔、奥州街道の宿場として栄えた町でもある。
 戊辰戦争では、『福島市史 近世U』に、「仙台藩を脱藩した細谷十太夫にひきいられた烏(カラス)組は、瀬上宿を根拠にして徹底抗戦を叫び、暴行の限りをつくした」と記されている。
 細谷十太夫は、仙台藩の下級藩士で、諜報活動にあたっていた。「烏組」は、諜報活動の中で知り合った博徒などを集めて、細谷が独自に組織したゲリラ隊である。仙台藩の正規軍ではない。細谷がそうしたのは、五月一日に、福島県中通りの南端、白河城の攻防戦で同盟軍(まだこの時には、奥羽列藩同盟は正式には発足していない)が大敗した時、その中でも仙台軍のふがいなさにあきれたからだという。
 正式の名前は「衝撃隊」という。だが彼らは黒装束に身を包み、夜に出没して新政府軍を襲撃した。それで「烏組」と呼ばれるようになった。新政府軍にとっては、かなり恐怖の存在だったようだ。
 烏組はそのうちに、仙台軍の別働隊のような扱いになり、相馬藩境への出撃も命令されているから、細谷が「仙台藩を脱藩した」とは断言できないだろう。また「暴行の限りをつくした」というのも、具体的にはよくわからない。これは、もしかしたら、烏組が福島城下の馬喰(ばくろう)町に放火し、検断の佐藤柳太郎を瀬上まで拉致したことを指しているのだろうか。
 馬喰町は、福島競馬場に近い現在の福島市豊田町で、当時は城下を通過する奥州街道の北の関門にあたっていた。「検断」というのは、ほかの地域では司法権、つまり警察の役目を果たす場合もあったが、福島市教育委員会が編集した『ふくしまの歴史 3近世』には、「町年寄や本陣のしたで城下の商人や市の世話、人足や馬の手配などをおこなった」と注釈がある。
 日付を特定できないが、それは「ついに福島も開城となった。このころ」(『福島市史』)というから、八月の初めだったと推測される。
 それは、福島城下が、一時的に無政府状態だったころだ。
 福島藩の板倉氏は譜代大名だが、積極的に列藩同盟に加わったわけではない。戊辰戦争を通じて、常に及び腰だった。新政府軍が二本松へ迫った七月二十五日には、藩主板倉勝尚(かつひさ)とその家族、奥女中らが戦火を避けて、米沢藩領板谷宿(山形県米沢市)へ移った。そして残った藩士たちは、福島藩だけで新政府軍を迎え撃つのは不可能と判断し、二本松が落城したら、福島城(現在の福島県庁)を開城すると決めた。
 「その日」は、七月二十九日だった。
 二本松落城の知らせが入ると、藩は町年寄ら城下の役職者を城に集め、「開城」を宣言した。「後のことは割元(わりもと)曳地(ひきち)宇右衛門の指示に従うように」、と申し渡した上で、藩士らは午後五時ごろ、米沢街道庭坂宿(福島市庭坂)を目指して歩き始めたという。
 「割元」というのは、城下外の農村地帯を統括する役職だが、民間人である。つまり福島藩は、「あとはよろしく」と言い捨てて、藩士全員が逃げ出したのである。
 情けない話だ。
 福島から米沢への峠道はその昔、奥羽本線が蒸気機関車だったころは、汽車が一気に登れないのでリフトバック方式(線路をジグザグに敷いて、列車が前進・後退を繰り返して登る方法)を採用していたほど、傾斜がきつかった。翌八月一日(『福島市史』では「翌七月三十日」となっているが、慶応四年七月は二十九日までしかなかったので、間違いと思われる)、福島藩士たちは、藩主が滞在していた板谷宿に到着した。
 しかしそこで彼らは、米沢藩に「我々が福島まで急いで出て、一戦するから、福島藩の方々は、その先鋒をつとめよ」と言われてしまった。つまり、ていよく追い返されることになったのである。藩主一行が米沢領に残ったのは、列藩同盟の一方の旗頭である米沢藩にすれば、福島藩を裏切らせないための「人質」だったのかもしれない。
 福島藩士たちは仕方なく、翌二日の朝、整列して藩主の閲兵を受けた後、再び山道を下った。閲兵は、大雨の中だったと記録されている。
 その時の彼らの心情を想像すると、戊辰戦争の中で、これほどみじめな光景を、私は知らない。
 福島藩士が城下に戻ったのは、その日の夜になってからだった。
 が、彼らの留守中、福島城下は暴徒に蹂躙(じゅうりん)されていた。阿武隈川に沿った藩の米蔵からは、蔵米が盗み出された。打ちこわしも発生した。周辺の村々からは、鍬や鎌、中には槍を持った千人もの農民が集まり、一揆のような様相を見せていた。
 どういう名目かわからないが、その混乱の中で、少数の仙台藩兵が福島城下に進駐した。彼らは農民に取り囲まれ、抜刀して戦ったが、二人が殺され、残りは瀬上方面へ逃げた。それは、八月三日のことだ。
 細谷十太夫の烏組が馬喰町に放火したのは、そのころのことだ。ただし、火はすぐに消しとめられた。火事が起きては困ると、城下の混乱の中、各町の年寄りが集まって協議し、それぞれに消防隊を組織していたのである。
 烏組に拉致された検断の佐藤柳太郎は、「城下は我々自身が守っているから、助けは要らない」と主張し、なんとか解放されたという。
 福島藩のさむらいたちが頼りにならないとは言え、住民にとっては、今まで関係なかった他藩の人間が入りこむのも迷惑なのである。特に、仙台藩士には、大藩の威をかさにきた粗暴な言動があったのではないだろうか。当時の福島城下の記録を読むと、住民の間にそうした雰囲気が感じられる。
 戊辰戦争を「判官びいき」で見る人は多く、そういう視点からは、細谷十太夫と烏組はヒーローである。私の書棚に、直木賞作家で、大長編『会津士魂』などを書いた早乙女貢の小説『からす組』(講談社文庫)があるが、その中でも細谷十太夫は「反骨のヒーロー」のように描かれている。だが、現実には、列藩同盟域内のだれでもが細谷の烏組を支援していたわけではないのだ。
 福島城下の混乱状態について、この小説では、いろいろとつじつまを合わせて、烏組に横暴がなかったように描かれている。それでなければ、読者の共感は得られない。しかし、烏組に参じたのは、アウトローの人々である。動乱の中で、細谷の心意気に感じた人たちなのだろうが、「紳士の集団」だったとは、とうてい思えない。『福島市史』に具体例は示されていないが、住民との軋轢(あつれき)はさまざまあったのだろうと、想像できるのである。
 烏組については、「鞍馬天狗」の大仏次郎も小説にしているが、まだ入手していない。ただ、多かれ少なかれ、史実とのギャップはあるだろうと思っている。
 さて、その時、足守藩瀬上陣屋の人々はどうしていたのだろうか。残念ながら、これも史料が散逸してしまったようだ。
 だが、陣屋の人々がそこにいたのは確かだ。なぜなら、足守藩の瀬上陣屋奉行、塩見浜右衛門は戦後もここにとどまり、明治二十四年に五十八歳で亡くなると、瀬上のお寺に葬られているからだ。足守藩の場合は、陣屋詰の役人を世襲としたから、地元とのつながりも強くなったためだろう。
 これに対して、刈谷藩湯野陣屋の役人は当初、奉行などの幹部は一年任期の交代制だった。後に五年任期となったが、身軽な単身赴任者の職場だったのではないだろうか。「戦火が及ぶ前に引き払ったのではないか」と私が推測するのには、そういう根拠もある。

連行された新発田藩八島田陣屋の人々
 福島藩士に「先鋒をつとめよ」と言った米沢藩は、実際にすぐさま福島へ兵を送った。日付は不明確だが、彼らが越後新発田藩の飛び地領、八島田陣屋を占領し、陣屋の人々を米沢に連行したのは、その途上だったと推測できる。
 新発田藩は、阿賀野川河口に近い新潟県新発田市に居城があった。阿賀野川をさかのぼれば、会津若松に至り、会津藩とも交流のあった藩だ。今も残る城の表門などは、国の重要文化財に指定されている。
 その飛び地、六千七百石の領地が福島市にあった。陣屋が置かれた八島田は、福島から米沢へ向かう奥羽本線の最初の駅、笹木野駅の北側に位置する。八月初めの時点で、陣屋の人々を米沢藩が捕らえたのには理由があった。その直前に、新発田藩が列藩同盟を裏切ったからだ。
 しかし、「裏切った」というのは米沢藩の見方であって、新発田藩にすれば「予定の行動だった」というところに、奥羽越列藩同盟(五月三日に成立した奥羽列藩同盟には、その後、越後の六藩が加盟し、奥羽越列藩同盟に発展した)の複雑な内部事情がうかがえる。
 新発田藩は、列藩同盟軍として戦う意思など、最初からなかったのである。
 幕末の新発田藩には、名分論を強く主張する山崎闇斎(あんさい)学派(一般には崎門派と呼ばれる)の儒学(朱子学)が浸透していた。安政五年(1858)に没した十代藩主、溝口直諒(なおあき)自身が、健斎と号した崎門派の学者だった。名分論に従えば、日本は天皇を頂点とした国家である。溝口健斎は、尊皇論を展開する著述を何冊も残した。しかも、当時の世界情勢をよく分析し、欧米諸国と戦えば必ず負けると明言して安易な攘夷論をいましめている。視野の広い人だった。藩校では、この健斎の著述によって子弟を教育した。
 話が飛ぶようだが、戊辰戦争が起きた慶応四年の三月十九日、日本海に浮かぶ隠岐諸島の島後(どうご、島根県隠岐郡隠岐の島町)で、島を支配していた松江藩の西郷(さいごう)郡代陣屋(同町西郷)に三千人を超える人々が押しかけ、郡代を追放する事件が起きた。松江藩の出兵によって解散させられるまで、その後の五十一日間、隠岐では島民による自治政治が行われた。これは「隠岐騒動」と呼ばれ、西郷港に上陸してすぐのスーパーマーケットの角に、「隠岐騒動勃発地」という石碑が立っている。
 「隠岐騒動」については、まだきちんと調べていないので詳細は省くが、島民を指導したのは、島後の旧五箇村(現隠岐の島町)にある水若酢(みずわかす)神社の宮司、忌部(いんべ)正弘ら、崎門派の儒学を学んだ人たちだった。
 彼らの師は、京にいた儒学者、中沼了三である。中沼は西郷の出身者だった。島に戻った忌部らは、私塾を開いて島民に崎門派の思想を伝えたのである。ただし、松江藩郡代との対立に至る経緯は、よくわからない。
 中沼はその後、桜の名所の吉野からさらに奥へ入った奈良県十津川(とつがわ)村に移って塾を開き、子弟を教育した。その教え子の多くが、この「余話」の三回目に書いた「天誅組の挙兵」に参加した。
 崎門派は尊皇攘夷運動の源流の一つとなり、その門からは幕末、過激で、行動的な人々がたくさん現れている。
 隠岐や十津川の人々に比べると、越後新発田藩の前藩主、溝口健斎の考えは穏やかだった。その薫陶を受けた新発田藩士が、戊辰戦争に際し、新政府の実態が薩長主導だとしても、そこから発せられる「朝廷の命」に従うのは当然だった。慶応四年二月、新発田藩は新政府の求めに応じて、越後から二百人、江戸藩邸から二百人を京へ送った。彼ら四百人はその後、東征軍の一員として東海道を下り、江戸に入った。戦火が奥羽、越後に及ぶ前に、新発田藩は新政府側に立って動き出していたのである。
 この出兵は、前年の暮れから京に滞在していた家老、窪田平兵衛が、鳥羽・伏見の戦い以後の情勢を分析し、極秘情報として新発田へ送った書状に基づいて取った行動だった。窪田家老は戊辰戦争の全期間を通じて、ひそかに京と新発田の連絡役を務めた。
 ところが五月、朝敵とされた会津、庄内の両藩を救済するために、仙台、米沢という強大な二つの藩が奥羽列藩同盟の結成を提唱した。すぐに長岡藩(牧野氏、七万四千石)が同調し、北越の六藩が加盟して奥羽越列藩同盟が成立した・
 そこに、新発田藩も名を連ねている。
 しかしその裏で新発田藩は、江戸藩邸にいた家老、速水八弥を通して「加盟を断れば攻撃すると、仙台藩、米沢藩に脅されたからで、これは本心ではない」と新政府に弁明し、新政府もそれを了解していたのである。
 長岡は五月に陥落したが、七月二十五日、河井継之助(つぎのすけ)に率いられた長岡藩兵が、奇襲攻撃によって長岡を奪還した。越後戦線での同盟軍最大の勝利である。だが同じ日、新発田藩領の太夫浜(現新潟市)に、後に首相となる黒田清隆(薩摩藩)が指揮する新政府軍の新潟攻撃部隊が上陸した。新発田藩の手引きによって成功した上陸作戦である。黒田部隊は、すぐに進撃を始めた。
 四日後の二十九日、新潟に陣を敷いていた米沢藩守備隊は、総督の色部長門までが抜刀して突撃し、戦死するという奮戦を演じた末に壊滅した。同じ日、長岡も再び新政府軍に奪われた。以後、越後平野から、同盟軍は急速に姿を消して行くことになる。
 そして、福島藩士が住民を見捨てて米沢へ逃げ出したのも、同じ七月二十九日だった。
 この時点で、新発田藩は、米沢藩にとって憎んでも余りある敵と化していたのである。だから、福島への道筋にある新発田藩飛び地領の八島田陣屋の前を、米沢藩兵が黙って通過するはずはなかったのだ。
 当時の八島田村庄屋の記録によると、陣屋の「御諸役様ならびに小物(者)に至る迄(まで)壱(一)人も残りなく米沢様へ御召連(おめしつ)れに相成候(あいなりそうろう)」(『福島市史』、ふりがなは加藤)、つまり派遣された役人から召使まで、新発田藩の人間は全員が連行されたという。
 連行された人々が、その後どうなったかについては、『米沢市史 近世編2』(米沢市)には記述が見あたらない。
 それから、およそ一か月後に米沢藩は降伏した。米沢藩の指導者である千坂太郎左衛門高雅(家老で軍事総裁、後に貴族院議員)は、すでに新政府軍が太夫浜に上陸したころに敗戦を予測し、戦後処理を画策し始めていたような人だから、新発田藩八島田陣屋の人々を処刑するようなことはなかったと、私は思っている。
 いずれにせよ、戊辰戦争に関係した藩には、それぞれの主義主張と立場があったのだから、どんな事象でも、その当事者にとって「それは正しいこと」なのである。
 そのせめぎあいの中で、たまたま米沢と福島の往還にある飛び地領を預っていた八島田陣屋の人々は、気の毒としか言いようがない。


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