飛び地領の人々(下)
戦乱を拡大した一片の指令
慶応四年(1868)一月三日の鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰の兵火が、なぜ東北地方全域と、新潟県北部(北越地方)を巻き込む大争乱に発展したのだろうか。その根本的な理由について、少し触れておきたい。そこから始めなければ、これから書く山形県内陸部の飛び地陣屋の右往左往が、理解し難いと思われるからだ。
鳥羽・伏見で勝利を得た朝廷は、一月十日、前将軍徳川慶喜(よしのぶ)、会津藩主松平容保(かたもり)らの征討令を発し、同時に徳川家の所領を没収すると宣言した。具体的には、東海道、東山道(中山道)、北陸道の三つのルートで江戸を攻略する方針を決め、翌十一日には、二人の公卿を北陸道、東山道の鎮撫総督に任命した。
東海道を進軍する東征大総督に、天皇の名代として有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王が任じられたのは、少し遅れて二月九日になった。その間、西日本の平定に時間を費やしていたからである。
同じ二月九日、朝廷は三位(さんみ)の公卿、沢為量(さわ・ためかず)を奥羽鎮撫総督に任命した。しかし二月二十六日になって、沢より位の高い左大臣九条道隆が総督に任命され、沢為量は副総督に降格となった。この人事の理由は、よくわからない。
だが、問題は、この間に起きた。
沢は、二月十六日付の書面で、大総督府に「奥羽を鎮撫するに際し、会津藩と庄内藩はどう処置すればよいか」と尋ねた。その返答は、庄内藩については「謹慎」だが、「会津は実々死謝を以ての外(ほか)に之(こ)れなく」、つまり、「会津藩主松平容保は、死罪にするしかない」という激越なものだった。
『戊辰役戦史』の中で、大山柏は、この返答を作成したのは大総督府の参謀、林通顕(みちあき)だと断定している。
このころ、有栖川宮は大津にいた。実際に大総督府を動かす参謀はもう一人いて、それは西郷隆盛なのだが、西郷はすでに名古屋まで進軍していた。だから沢からの書状が届いた時、有栖川宮総督の傍には林しかいなかったのである。大山柏は、「寛典論者西郷が合議していないために『会津は死謝』と強硬な回答をしたのである。これが奥羽総督府の根本方針になるのだから、その後現地でいくら謝罪しても承知できず」と述べている。
これは、非常に重要な指摘だ。
奥羽の戦乱の直接的なきっかけは、奥羽鎮撫総督府の参謀だった長州藩士、世良修蔵の粗暴な言動にあったと、多くの人が述べている。確かに、世良という男の個人的資質に大きな欠陥があったのは間違いない。しかし、彼が強硬な態度を取り続けることができたのは、天皇の名代である東征大総督府からの、一片の指令があったからなのだ。そして、それを金科玉条とした世良の心情の底辺には、蛤御門の変をはじめとするさまざまな事件を経過した長州人の、会津藩に対する怨念が横たわっていたのだろう。
ところで、「会津は死謝」という指令を発した林通顕は、宇和島藩士(愛媛県宇和島市、伊達氏、十万石)である。この時、三十一歳。藩主伊達宗城(むねなり)の小姓として、幕末、藩主の外交に関わったことから見出され、大総督府参謀に抜擢された人だ。
だが、『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)には、得能亜斯登(とくのう・あすと)という名前で掲載されている。いつ、どんな理由で変名したかは記されていない。そして、明治二年から四年まで箱館(後に函館)府判事を務めたが、病気のために退官したという以外、六十歳で没するまでの後半生についても記述がない。私にとって林は不詳の人物だが、そんな経歴しか後世に残さなかった人に、偶然に与えられた独断の行為が、東北地方の人々にとってはあまりにも大きな波紋を広げることになったのである。
焼き討ちされた長瀞藩陣屋
薩摩や長州の兵を伴った九条道隆奥羽鎮撫総督らは大坂で汽船に乗り、三月十八日に松島湾に到着、二十三日、仙台に入った。九条総督が手始めにやったのは、天童藩主織田信学(のぶみち)に、先導を命じたことである。先導というのは、「これから奥羽を平定するから、その案内をせよ」ということだ。
天童藩は、わずか二万石の小藩である。にもかかわらず、そう命じたのは、「格別の家柄だから」という理由だった。幕末まで大名として存続した織田家は、四藩あるが、信長の二男信雄(のぶかつ)の四男、織田信良(のぶよし)を祖とする天童の織田家は江戸時代、織田の宗家とされていた。だからと言って奥羽の諸藩が、織田家の言う通りに動くはずもない。
そういう非現実的な命令を平気で出しているあたりに、東北地方の実状を知らない西国の人々と、それにも増して京の都しか知らない堂上人の権威主義がうかがえる。
命令を拒否する理由も見つからない天童藩では、中老吉田大八に、藩主の名代を命じた。実は大八は、大坂から九条総督に随行している。その事情は不明だが、大八が勤皇思想に傾倒していたことは間違いないので、「奥羽総督府の先導」は、大八の発案かもしれない。王政復古を宣言した直後だから、小藩にとってそれは、名誉なことには違いなかった。
しかし、現実問題として、東北地方は広すぎる。そこで、『天童市史』には、先導すべき地域を「村山郡の二城十三陣屋に限ることとした」と記されている。山形県内陸部の最上川中流域は、それほど領地が入り組んでいた。
山形市は山形藩(水野氏、五万石)、上山市は上山藩(藤井=松平氏、三万石)の城下町で、陣屋のうち長瀞は、前に書いたように、米津(よねきつ)氏(一万一千石)の主たる領地だが、ほかはすべて飛び地である。しかしその中に、七万四千石の天領を支配する柴橋と寒河江の陣屋があったことが、この地域に戦乱を招くことになった。
寒河江も柴橋も、現在は寒河江市で、柴橋は市役所から西に四キロメートルほどの、最上川に近い場所だ。今は道端に跡を示す石碑があるだけだが、当時は柴橋が格上で、寒河江はその出張陣屋だった。この両陣屋に三月の初め、庄内藩兵が押しかけ、保管してあった前年の幕府年貢米(城米)二万三千石を押収するという事件が起きた。
庄内藩に言わせれば、これは略奪ではない。その前に、村山地方の天領を庄内藩の預かり地(実質的な領地)とする通知を、幕府から受けとっていたからだ。前年、庄内藩は江戸市中警備を命じられ、江戸・三田の薩摩藩邸焼き討ちの主力軍となったことは、この「余話」でも前に触れた。実質的な加増は、その経費を補填する意味があったと言われる。
旧幕府がそれを決めたのは二月七日である。ところがそれは、朝廷が一月十日に「旧幕府領を没収する」と宣言した後のことだ。だから「保管米は、朝廷のもの」、という理屈が成り立つ。
実は、戊辰戦争で、「なぜ庄内藩が朝敵とされたのか」については、理由がはっきりしていない。ただ、沢為量が、会津とともに庄内の処置を尋ねていることから見ても、「庄内討つべし」という気分が新政府側(おそらく薩摩藩)に強かったと思われる。そういう状況の中で、庄内藩の行動は、奥羽鎮撫総督府に庄内征討の口実を与える結果となった。
仙台に到着した奥羽総督府は、すぐに天童まで兵を派遣し、四月三日には寒河江へ進出した。すでに庄内軍は引き揚げていて、この時は衝突を免れた。と、表面上はそうなるが、その裏では、天童藩の吉田大八が、長瀞陣屋領代官の根本策馬を仲介に、庄内藩との和平工作を進めていた。庄内軍を事前に撤退させ、武力衝突を未然に防いだのである。
だが、奥羽鎮撫総督府では、沢副総督が、参謀の大山格之助(薩摩藩)とわずかの兵を連れて最上川沿いに北上し、新庄藩(戸沢氏、六万八千石)に出兵を命じた。そして四月二十四日早朝、庄内藩領清川村(山形県立川町)の庄内藩関所を奇襲した。
これが、東北地方で最初の戦火となった。
清川村は、幕末の志士、清河八郎の出身地でもあり、この戦いのことも改めて触れたいと思っているが、今回は、庄内軍が奥羽総督府軍を撃退したことだけを記しておく。
この攻撃を受けて、庄内藩士は激昂した。特に強硬派だった中村次郎兵衛は、配下の部隊(人数は不明)を率い、二日後の二十六日に柴橋陣屋の手代らを連行し、その翌日には、新庄藩の北口陣屋を焼き払った。清川攻撃の片棒を担いだ新庄藩に報復したのだ。北口陣屋ではその前に、代官の楢岡准蔵をはじめ、全員が逃げ出していた。
「北口陣屋」というのは、現在の河北町谷地北口にあった。町役場の近くで、今は開業医の駐車場になっている。
そして閏四月四日、千人を超える庄内軍が天童に攻めこんだ。城下は焼かれ、藩主織田信学とその家族らは、奥羽山脈を越えて仙台藩領へ逃げた。その途中、藩主一行は「山奥の炭焼き小屋で一夜を明かした」と、『天童市史』には記されている。
吉田大八の和平への裏面工作は、清川の戦闘を境に暗転した。しかも当時、大八の行動を知る人は少なく、大八は、庄内藩の怨嗟を一身に浴びることになった。吉田大八が庄内征討に本気で動きはじめたのも、天童城下を焼かれた後はやむをえないことだった。
ただし、天童を落城させた庄内軍は、すぐに兵を引いた。奥羽総督府の先導となった天童藩は許せなかったが、戦線を拡大する意思はなかった。攻撃軍の最高責任者だった庄内藩家老、酒井兵部の部隊はその夜、長瀞陣屋で宿陣し、翌日、鶴岡へ凱旋した。
一方の吉田大八は、新庄から南下して来た総督府軍を迎え、天童落城の三日後、長瀞陣屋を襲撃した。
当時の長瀞藩主、米津政敏は江戸にいたが、前藩主政明は、その三年前に隠居してからは、長瀞の陣屋で起居していた。政明は、庄内藩九代藩主酒井忠器(ただかた)の十一男で、米津家の養子となった人だ。戊辰戦争時の庄内藩主、酒井忠篤(ただずみ)には叔父にあたる。そういう関係があったので、陣屋代官の根本策馬が、吉田大八と庄内藩の仲介に立つこともできたのである。
長瀞陣屋は、現在の東根市長瀞にあった。国道一三号から東側の東根温泉へ向かう十字路があるが、それを逆に西に入った所だ。私は二〇〇三年の夏に初めて訪ねたが、小さいながら、掘割を巡らせたほぼ正方形の敷地が残っていて、大手門があった辺りに「長瀞城址」という大きな石碑が立っていた。
吉田大八と総督府軍が長瀞に到着した時には、門番一人のほかは、すでに鶴岡へ難を避けた後だった。大八は、長瀞陣屋を焼き払った。しかし、米蔵までは焼かなかった。『東村山郡史 巻之一』に引用された「長瀞郷土史」には、住民が「この蔵は村民の共用物で、これを失っては村民の生きる道がない。どうか寛大な処置を」と、大八に懇願した結果だと記録されている。
漆山陣屋の苦悶
庄内軍が天童を攻撃した閏四月四日には、まだ奥羽列藩同盟は結成されておらず、この地域の諸藩、諸陣屋は、奥羽総督府の指示に従って天童防衛線を敷いていた。
例えば山形藩兵は、今は山形自動車道が最上川を越える辺りに布陣していた。そして、川岸の長崎(中山町)にいた最前線守備隊は、庄内軍の攻撃を受けて戦死者を出した。だがこの戦闘は、実は連絡の不手際による手違いだったという。少し内陸に入った達磨寺(同町)に本陣を置いた山形藩家老、水野元宣はこの日の早朝、庄内藩の部隊長中村次郎兵衛と会って、交戦を避ける「密約」を交わしていたのである。
その少し上流には、佐倉藩(堀田氏、十一万石、千葉県佐倉市)柏倉陣屋(山形市柏倉で、市の中心部から南西に約六キロ)の兵が陣を構えていた。飛び地柏倉には四万石もの所領があり、藩の大目付、郡奉行など七十人もの藩士が家族とともに在勤していた。彼らの戦いぶりはよくわからないが、防衛ラインを簡単に突破されたのは事実だ。
悲惨だったのは、山形藩の受け持ち地区から二キロほど下流の、天童市蔵増(くらぞう)に陣を置いた館林藩(秋元氏、六万石、群馬県館林市)漆山陣屋の人々である。漆山というのは、天童市に近い山形市北部で、JR奥羽本線の漆山駅がある辺りだ。飛び地領の広さは不明だが、出陣したのはたった三十人である。
蔵増は、天童市街地からまっすぐ西へ向かう県道の村山橋がかかる辺りで、当時は最上川の渡し場があった。漆山陣屋兵は、真正面の庄内軍に加えて、上流部で山形藩が素通りさせた¥ッ内軍にも側面から攻撃された。漆山陣屋の大砲隊長、梶塚勇之進は砲弾に吹き飛ばされ、荷役に狩り出されていた農民も二人が銃弾に倒れた。「漆山問答」という記録によると、そのほかの人々は蔵増村の民家にかくまわれたり、水田のあぜの陰に身を潜めたりして、日が暮れるころ、なんとか陣屋まで逃げ帰ったという。
館林の前藩主で、その時は隠居していた秋元志朝(ゆきとも)は、長州の支藩である徳山藩毛利家から養子に来た人だった。だから漆山陣屋の人々も、この時、本気で戦ったのだろう。
その後、奥羽列藩同盟が成立すると、本藩が新政府の旗色を明らかにしている漆山陣屋の人々は、さらに苦しい立場に追い込まれた。
すでに会津征討軍が若松城下へ侵攻していた八月二十四日、漆山陣屋の郡宰(責任者)妹尾義行は、白石城(宮城県白石市)に置かれた奥羽越公議府(列藩同盟の本部)に呼び出された。そして、「戦乱が鎮静化するまで、漆山の飛び地は米沢藩が預る」と、一方的に通告されたのだ。陣屋の人々は、「本国へ帰っても、米沢藩内にとどまっても、どちらでもかまわない」と言うのである。
『東村山郡史 巻之二』に収録されている「館林藩事跡」には、妹尾が戻った漆山陣屋では「進退ここに究(きわ)まり衆議一決せず」と記されている。そのころは道路がふさがれて、窮状を館林に連絡することもできなかった。『東村山郡史』には、「大いに苦慮す」というところまで引用されているが、その後のことはわからない。
越後高田藩の奥州釜子陣屋
漆山陣屋と同じように、本藩と連絡が取れなかったために、戊辰戦争に巻き込まれ、しかも、ほぼ全期間を通して戦うことになってしまった人々がいる。福島県の南端、白河市に隣接する東(ひがし)村釜子(かまのこ)に三万石の飛び地陣屋があった、越後高田藩(榊原氏、十五万石、新潟県上越市)の人々である。
高田藩には一時、北陸道征討軍の本営が置かれ、長岡や新潟での戦いでは後衛基地の役割を果たした。しかし、そういうことは、あまりにも遠い釜子陣屋にはいっさい伝わらなかった。そのため、八木操利(くりとし、役職は不明)を隊長として二十人の陣屋詰藩士は、列藩同盟軍に加わることに決めたのである。
釜子陣屋は、白河と、その東方にある棚倉(棚倉藩、阿部氏、十万石)のほぼ中間に位置していた。五月一日に白河城を奪われた列藩同盟軍は、その後何度も奪還攻撃をこころみ、六月十六日に新政府軍が太平洋岸の北茨城市平潟港に上陸して以後は、白河から棚倉に至る地域のすべてが戦場と化した。そういう戦況の中で、釜子陣屋は同盟軍にとって、臨機応変に部隊を出撃させられる絶好の中継基地となった。
高田藩の人々が釜子陣屋を引き払ったのは、六月二十四日に棚倉が落城して、その翌日である。新政府軍は、無人の陣屋を焼き払った。大山柏は『戊辰役戦史』で、「これで長い間白河攻撃の一拠点として敵が駐留した釜ノ子を打ち払ったので、白河−棚倉間の連絡は、益々強固、安全となった」と、新政府軍側の見方を述べている。
しかし八木ら、釜子陣屋の人々は戦うことをやめなかった。その後は、会津の篭城戦に加わり、二人が戦死したが、残る十八人は九月二十二日の会津落城まで戦い抜いた。私はまだ訪ねていないが、東村役場近くの長伝寺に、戦死者の慰霊碑があるという。
ところで高田藩には、釜子陣屋とは別に、新政府軍に反抗した人々がいた。江戸藩邸にいた八十六人の藩士である。彼らは脱藩し、藩主榊原氏の「榊」という字を分解して「神木隊」と名乗り、江戸・上野の山の彰義隊に加わった。「藩主の命に従って、山を下りろ」という藩の再三の説得にも耳を貸さず、上野の山では十六人が戦死した。残兵は、最後は箱館まで戦い続けた。
戊辰戦争を、「敗者の美学」というような判官びいきで見る人にとっては、神木隊の行動は賞賛にあたいするかもしれない。だが、私が、東北地方各地の飛び地領の人々のことを調べる気になったのは、神木隊の「その後」に不快に感じたからだった。
月刊誌『歴史と旅』(秋田書店)の「平成五年三月号」に、作家の玉木妙子さんが神木隊について書いている。それによると、釜子陣屋の人々も、神木隊の人々も、明治四年になって赦免され、藩への復帰が許された。しかし、釜子陣屋は元通りの禄(給与)だったが、神木隊は禄を半分に減らされた。「同じ賊軍だったのに、それは不公平だ」と、三十人ほどの旧神木隊士が藩に抗議し、同年七月の廃藩置県後、それを政府に訴えたのである。翌年、旧藩主榊原政敬(まさたか)は政府に提出した書面で、「釜子陣屋は、藩の事情を知らずに敵方に加わったが、神木隊は藩の方針を承知し、しかも再三再四の説諭にも耳を貸さなかったからだ」と、差別待遇の理由を述べているという。
この理由は正当だ。彼らも、差別待遇の理由を説明されて、納得したという。
戊辰戦争にかかわった人たちには、それぞれの主義主張があり、それぞれの立場があった。当時の情勢は、「官軍対賊軍」などと決めつけられるほど単純なものではない。戦乱の地となった東北地方の飛び地に、たまたま在勤していた人々が翻弄されたのは、しかたのないことだったと、調べてみてよくわかった。彼らは、それぞれに、その時「最善と思われる判断」を選択して行動したのである。
そういう視点で見ると、「禄半減で復職」に抗議した連中は、社長の方針が気に入らないからと依願退職したのに、状況が変わったから元通りの待遇で社員に戻せ、と言っているようなものだ。禄が全部であろうと、半分であろうと、彼らは復職の話を無視すべきだったと、私は思う。でなければ、主義主張に殉じた仲間が浮かばれないではないか。
私に、飛び地陣屋の人々を調べさせるきっかけは与えてくれたが、神木隊生き残りの人たちの言動は、情けない。
一言で評すれば……「男らしくない」のである。
[参考文献]
戊辰役戦史(大山柏=時事通信社)
福島の戊辰戦争(安斎宗司=歴史春秋社)
藩史大事典(雄山閣)
戊辰戦争とうほく紀行(加藤貞仁=無明舎出版)
新編 物語藩史第一巻、第二巻、第三巻、第五巻(新人物往来社)
福島市史 通史編3 近世U(福島市教育委員会)
ふくしまの歴史3近世(福島市教育委員会)
からす組(早乙女貢=講談社文庫)
米沢市史 近世編3(米沢市)
新発田市史 上・下巻(新発田市教育委員会)
徳川思想小史(源了圓=中公新書)
島根県の歴史散歩(山川出版社)
戊辰白河口戦争記(戊辰白河口戦争記復刻刊行会)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
明治維新人名辞典(日本歴史学会編=吉川弘文館)
月刊誌『歴史と旅』平成五年三月号(秋田書店)
東根市史 通史篇上巻(東根史教育委員会)
長瀞城「陣屋」のあらまし(東根市長瀞公民館)
天童市史 下巻(天道市教育委員会)
東村山郡史 巻之一、二(寒河江市図書館蔵)
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