んだんだ劇場2005年7月号 vol.79
No14
ある農民の墓(上)

城主が不在だった白河・小峰城
 奥羽と北越を巻き込んだ戊辰戦争は、突きつめれば、会津藩の戦争だと言っていい。
 京都守護職を務め、その功に対して孝明天皇から御宸翰(しんかん=天皇直筆の文書)までたまわった会津藩主松平容保(かたもり)に、朝廷へ敵対する意思などあるはずもなかった。だから、奥羽鎮撫総督に対しては降伏するつもりだったし、実際、仲介に立った仙台藩を通じて、その意思を伝えようとした。
 それを突っぱね、奥羽諸藩に会津攻撃を命じたのは、鎮撫総督府下参謀の長州藩士、世良(せら)修蔵である。世良の強硬な姿勢が、東征大総督府からの「会津藩主は死罪」という指令に基づいていたことは、前回の「余話」に書いた。それだけでなく、世良の傲慢な態度が東北諸藩の人々を怒らせ、奥羽越列藩同盟を結成させるきっかけとなったことは、東北地方の人間にとっては「常識的な」事実である。
 世良は慶応四年(1868)閏四月二十日未明、福島市北町にあった妓楼「金沢屋」で就寝中を襲われ、阿武隈川の河原に引き出されて首を斬られた。世良を襲ったのは、仙台藩軍監姉歯(あねは)武之進をリーダーとする一隊である。それには、福島藩士らも加担していた。
 朝廷の使者である世良を殺したことによって、奥羽諸藩は新政府と全面対決せざるを得なくなったと言える。
 そして八月二十一日に、征討軍が会津盆地に侵攻してからは、会津藩の死命を制する戦いが展開された。それから一か月の篭城戦の末に、会津藩は降伏することになる。戊辰戦争を語る時、多くの人が、この攻防戦に言葉をついやすのは当然だろう。そこには、白虎隊の悲劇ばかりでなく、数多くの藩士の家族が自刃したこと、翌年の春まで遺体が放置されたことなど、語りつくせないほど多くの悲話が残されている。
 だが、戊辰戦争を見渡した時、会津より長期間、戦闘が集中した場所がある。
 それは奥州の関門、白河の戦いだ。五月一日には、七百人もの同盟軍兵士が戦死した。たった一日で、これほど多くの人が死んだ例は、ほかにはない。しかも、征討軍が占領した白河・小峰城の攻防戦は、それから二か月以上続いたのである。
 古来、みちのくへの関門である白河には、江戸時代、寛政の改革を行った老中松平定信に代表されるように、十万石級の親藩、譜代大名が配置された。ところが戊辰の年、小峰城には主がいなかった。前年まで白河藩十万石の城主だった阿部氏が、外交問題で朝廷ににらまれて白河の東に位置する棚倉(福島県棚倉町)へ移り、小峰城は二本松藩(丹羽氏、十万石)が管理していた。
 会津藩が小峰城を奇襲、奪取したのは、福島で世良修蔵が殺されたのと同じ、閏四月二十日の明け方だった。会津軍は、山口二郎率いる新撰組も含めて三百人ほどだった。山口というのは、新撰組でも一、二を争う剣客として京都で活躍した斎藤一の変名である。余談だが、彼は明治になってからは藤田五郎と、また名を変え、天寿をまっとうした。
 城外には平藩(安藤氏、三万石)、泉藩(本多氏、二万石)、三春藩(秋田氏、五万石)の守備隊がいたが、簡単に突破された。城内では、世良の配下である長州藩士野村十郎が、約二百人の二本松藩兵を指揮して防戦しようとしたが、ほどなく二本松藩兵は城外へ撤退し、野村もかろうじて逃げることができた。この日の戦死者は、二本松藩に一人あっただけだから、本気で会津軍と戦うつもりなどなかったのだろう。「奇襲」と書いたのは、新政府の残した公式記録がそうなっているからで、小峰城守備の諸藩軍は、会津軍の動きをそれとなく察知していたようだ。全く知らなかったのは野村十郎だけで、野村は世良に報告するため福島城下へ入った途端に捕らえられ、斬首された。
 しかし、現在の栃木県大田原市に陣を敷いていた東山道(中山道)鎮撫総督府軍の薩摩、長州、大垣(岐阜県)各藩兵は、白河が会津藩に奪われたことを知り、閏四月二十五日の早朝、奪還を目指して白河に迫った。しかし彼らは、十三人の戦死者を残して敗走した。最初の衝突で快勝した会津軍は、十三人の首を白河城下にさらした。
 
同盟軍の大敗北
 現在、東北新幹線も、主要道である国道4号も、白河の市街地の西側を通っている。しかし当時、こちらのルートは「原方街道」と言って、脇街道だった。本道である奥州街道は、ずっと東側にあって、おおよそ、今の国道294号に重なる。
 栃木県那須町からこの道筋で白河へ向かうと、県境の「境の明神」辺りは山の中だが、奥州街道の宿場町でもあった白坂集落(旧白坂村)を過ぎると水田が広がる平野部に出て、その向こうに長々と横たわる丘陵が見える。奥州街道は、その中央部の少し低い所を通過して城下に出る。
 当時、北関東地方には、京都から中山道を通って江戸制圧を目指す、東山道鎮撫総督府が進出していた。その指令に従う諸藩軍が、そのまま白河から会津征討に遠征することになった。だから今回は、この諸藩軍を便宜上「征討軍」と呼ぶことにする。
 閏四月二十五日、白河占領を目指した征討軍は、奥州街道を進軍して、しゃにむに中央突破を図り、撃退されたのである。
 この時の征討軍参謀は、薩摩藩の伊地知正治(いじち・まさはる)だった。伊地知は目と足が不自由だったが、兵学を学び、文久三年(1863)の「蛤御門(はまぐりごもん)の変」や、慶応四年一月の鳥羽・伏見の戦いでは、実際に薩摩軍を指揮して手腕を認められた。東山道鎮撫総督府参謀に任じられた時は、四十歳だった。白河の戦いの後は、二本松攻略、さらに会津直撃を立案し、会津藩を早期降伏に追い込んだ戦略家でもある。しかし、明治になってからは、宮中顧問官などを務めたものの、政府の中枢には入らず、西南戦争で荒廃した、故郷鹿児島の復興に努力した。実務家であり、名誉欲は薄い人だったのだろう。
 白河での緒戦敗退についても、伊地知は冷静に分析した。そして敗因は、兵力が二百五十人しかなかったのに、敵地の状勢も探索しないまま突撃したことと結論した。そこで伊地知は、東京へ増援軍を要請する一方で、奥州街道のほかに、西の原方街道、東の棚倉街道の三方向から白河に迫る作戦を立てた。
 この作戦が実行されたのは、五月一日の朝だった。征討軍は七百人に増強されていたが、白河にも会津からの応援部隊が到着していたほかに、仙台藩、棚倉藩の兵も入城して二千五百人に達し、征討軍に対して圧倒的な軍容になっていた。奥羽列藩同盟が成立するのは五月三日だが、仙台領内の白石(宮城県白石市)では閏四月十一日以来、奥羽諸藩の代表者が集まって、会津救済のための「列藩会議」を重ねていたから、同盟は実質的に動き始めていたのである。
 前回と同じ奥州街道を進んだ征討軍中央隊が、会津軍の斥候と接触したのは、午前九時ごろと推定される。それが、この日の戦いの幕開けだった。
 伊地知正治は、中央隊に大砲を集めていた。また、急いでたくさんの旗を作って中央隊に持たせ、広く散開しながら進むよう指示していた。この中央隊が主力部隊だと、敵に思わせるためである。実際の主力は、西の原方街道、つまり現在の国道4号方面を迂回する左翼隊だった。また、東の棚倉街道方面から進む右翼隊は、街道は通らず、山間の小道をたどって迫る奇襲攻撃が役割だった。正確な人数はわからないが、左翼、中央、右翼の順に人数を配分したのだろう。この作戦は、見事に当たった。
 同盟軍は、最初に砲声がとどろいた丘陵中央部に兵力を集中した。そのうちに、最も手薄だった東側の高地を征討軍の右翼奇襲部隊に占領され、銃弾を撃ち下ろされる格好になった。さらに、遅れて到着した征討軍主力部隊が西側の山に現れ、挟撃された同盟軍は銃火の的となった。仙台藩では、陣将の坂本大炊(おおい)までが死に、その十日前に世良修蔵を襲撃した軍監姉歯武之進も戦死した。会津藩では、副総督横山主悦(ちから)、軍事奉行海老名衛門など指揮官が次々に倒れた。
 この時二十一歳の横山主悦は、写真が残っている。美青年だった。前年には、フランスへ行った経験もある。将軍の名代としてパリ万博に出席した徳川昭武(後に水戸藩主)に、会津藩の留学生として随行したのである。生きていれば、明治の日本に何かしら貢献しただろうと思われる英才だった。
 この日、同盟軍は、負傷したり、捕虜になったりして斬首された者も含め、七百人が戦死した。たった一日で、しかも一か所で、これほど多くの人命が失われた戦いは、戊辰戦争では、ほかに見当たらない。
 これに対して、新政府軍の戦死者は、わずか十二人だった。これほどあざやかな勝利も、また例がない。
 大山柏の『戊辰役戦史』(時事通信社)によると、この後、同盟軍は七月十五日まで、七回の奪還攻撃を試みた。六月十二日の第四次攻撃では、二本松、福島、相馬などの藩兵も加わって四千五百人もの大軍にふくれあがっていたにもかかわらず、白河の市街地へ侵入することはできなかった。
 銃の優劣など、同盟軍敗退の理由は個々に分析できるが、大局的に見ると、各藩兵はそれぞれの持ち場から勝手に進軍しただけで、征討軍の伊地知正治のような、全軍を統括する指導者がいなかったことが最も大きな要因だと、私は思っている。そして戦略的に見れば、列藩同盟にとっては、五月一日に大敗北を喫したことが、会津防衛ラインに取り返しのつかない穴を開けてしまったと言える。二か月以上に及ぶ奪還攻撃も功を奏せず、同盟諸藩には、次第に厭戦気分が広がって行った。

田辺軍次の復讐
 旧奥州街道(国道294号)が、白河市街地の南に横たわる丘陵地帯にぶつかった白河市松並所に、会津藩の墓域がある。明治十七年に建立された「招魂碑」には、五月一日の戦いで落命した会津藩士三百四人の名が刻まれている。
 墓域に入って右側には、巨大な「戦死墓」があって、その陰に隠れるように、「田辺軍次君之墓」と大書された石碑がある。
 田辺は会津藩士である。彼が死んだのは、戊辰戦争から二年も過ぎた明治三年八月十一日になってからだ。この日、田辺は、白坂村(現白河市)の大平八郎という人を殺し、自分も腹を切った。享年二十一歳の青年だった。
 この事件については、まず、大平八郎のことから語り始めなければならない。
 五月一日の攻撃を前に、右翼隊の主将となった薩摩四番隊の隊長、川村純義(すみよし、後に海軍卿)は、奇襲攻撃を成功させるために、間道の案内役を探した。それに応じたのが、白坂村の大平八郎だった。地理不案内の征討軍にとっては当然のことで、大平の道案内で右翼隊は暗いうちに敵陣に近づき、中央地域の戦闘に同盟軍の耳目が集まった間隙を突いて、一気に肉薄した。
 この日の征討軍の大勝利は、大平の道案内があったからだと言っても、過言ではないだろう。
 『戊辰役戦史』には、大平を「白坂の郷士」と書いてあるが、『戊辰白河口戦争記』(同書復刻刊行会)には、「一農民」とある。先祖を戦国時代までさかのぼれば武士だったのかもしれないが、戊辰当時は農民だった、ということだろう。しかし、維新後の大平八郎は大変な羽振りだった。大平は、新政府から感状(功績に対する感謝状)をもらい、白坂の「人馬継立(つぎたて)取締役」に任じられた。宿場の責任者のような地位である。この感状は、政府の公的記録である「鎮台日誌」にも記載され、何かあると大平は、「鎮台日誌を見ろ」と自慢していたという。
 しかしその自慢が、会津藩士に、「あの大敗北の元凶は大平八郎である」と知らしめることにもなった。田辺軍次が大平八郎への復讐を誓ったのも、そのためだ。
 田辺は、白河で戦死した横山主悦の近習だった。その後は、会津落城まで戦い抜き、戦後は斗南(となみ)藩へ移住した。
 敗戦国会津松平家は、二十八万石の領地を没収され、箱館戦争も終結した明治二年十一月、青森県下北半島を中心に、三戸郡(青森県)、二戸郡(岩手県)の一部、合わせて三万石で家名再興を許された。それが斗南藩である。藩庁はむつ市田名部に置かれた。
 しかし、稲作を視点にすれば寒冷不毛の土地で、実収は七千石しかなく、移住した人々は困窮を極めた。「挙藩流罪」と評した人もいるほどだ。
 田辺軍次が斗南を旅立ったのは、明治三年七月である。相当にうす汚れた姿だったらしい。「斗南の侍は、乞食みてぇだ」と言う人もいたそうだから、この時の田辺も、刀を差しているからかろうじて武士とわかる、そんな風体だったのだろう。
 八月十一日の夕刻、白坂村近くで、行き会った商人に道をたずねると、田辺の姿を見たその商人は、さげすんだような口をきいた。それを怒った田辺は、商人に斬りかかろうとした。謝る商人を、宿場の責任者である「大平八郎が来て、代わって謝るなら許してやる」と脅した。それで大平を誘い出すことができた田辺は、ゆっくり話しを聞こうということにして、以前は会津藩の指定宿だった鶴屋に上がり、そこで自ら名乗った上で大平に斬りつけた。だが、一刀でしとめることができずに格闘となり、最後には大平を殺したが、村民が集まって来て、そこから逃げることができないことを悟り、田辺は自決した。
 これが、「田辺軍次君之墓」に刻まれている、事件の顛末である。実際の碑文は、摩滅もあって読みにくいが、幸い、『戊辰白河口戦争記』に全文が採録されているので、それを要訳した。しかし、自決したのは、単に逃げられないという理由ではなく、田辺も傷を負っていたからだろう。八郎の弟が駆けつけて、田辺を槍(やり)で突いたという話も伝わっている。
 一方の、大平八郎の墓は、白坂の観音寺にある。
 集落の通りからは少し高い所に本堂のあるこの寺を訪ねたのは、平成十年(1998)十一月二十日だった。墓地には、会津、仙台、長州、大垣各藩の死者が葬られている。敵味方関係なく、白坂の人々は、周辺の遺体をこの寺に運んだのだろう。
 今は記憶が不鮮明になっているが、大平家の墓所は、石段を登り、本堂に向かって右手の山際にあったように思う。その墓は、右に大平八郎、左に「妻 孝子」と刻まれた夫婦墓だった。そのことは、ノートにはっきりとメモしてあった。
 ところで、白河市松並の「田辺軍次君之墓」の隣に、小さな墓石がある。これは、元は観音寺にあったものだ。それを二十七回忌にあたる明治二十九年、白河会津会が、田辺を顕彰するために「田辺軍次君之墓」を建てて改葬した際、この小さな墓石も観音寺から移したのである。
 では、この最初の墓を建てたのはだれかと言うと、それは大平八郎の子なのである。田辺軍次は父親を殺害した男ではあるが、その義勇に畏敬の念を覚えたからだという。
 会津藩の側から見れば、田辺軍次の復讐は壮挙である。だが、私は、父の仇の墓を建ててやった八郎の子の大きな度量の方に、より深い感銘を受けている。


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