んだんだ劇場2005年8月号 vol.80
No15
ある農民の墓(下)

理不尽な死
 『戊辰白河口戦争記』には、征討軍の理不尽な行為がいくつか記録されている。
 たとえば、奥州街道の宿場でもある白坂村の大庄屋、白坂市之助が殺されたことだ。
 大庄屋というのは、藩の任命を受けてその地域の村々の庄屋を束ねる役目で、名字帯刀を許されていた。
 慶応四年(1868)閏四月二十日に白河を占領した会津藩は、二十二日、市之助のほか、宿場役人を「境の明神」まで連行した。そして、そこにあった「従是(これより)北白川領」(白河という表記ではない)という藩境の標柱を倒して、「従是北会津領」という新しい標柱を立てさせた。これは木柱だった。
 今、栃木県那須町から国道294号で白河へ向かうと、県境直前の左側に玉津神社があり、県境を越えてすぐ右側の山の斜面に、「従是北白川領」という石柱がある。雑木や笹で道路からは見えにくいが、斜面を二メートルほど登れば、すぐわかる。石柱の、向かって左側の面には、白坂宿まで「二十九町四十五間」、つまり約三キロだと刻まれている。石柱から十メートルほど先の左側にあるのが、「境の明神」だ。
 閏四月二十五日、白河攻略を目指した征討軍は、「会津領」の木柱を見つけて、すぐに倒した。それは当時、「境の明神」の真向かいにあったという。史料には「標柱」としか書かれていないが、あるいは現在の「白川領」の石柱が元々あった標柱かもしれない。戊辰戦争後に誰かが立て直し、さらにこの道路が国道となって舗装する時に、拡幅工事もして、じゃまになる石柱を人目につかない場所に移動したのではないだろうか。
 『戊辰白河口戦争記』には、「会津領」の木柱を見て、「ここから敵地だ」と、征討軍が緊張した様子が記されている。そして白坂宿に到着した征討軍は、「宿場の北の入り口」、つまり白河寄りの町外れで、市之助を斬殺したのである。
 市之助は、会津兵と間違われて殺された、という説がある。この人は、もともとは「江戸の御家人」、つまり徳川家直属の下級武士だった。それが縁あって白河の町年寄の養子となり、その後白坂家を継いだという。だから、市之助には武士らしき挙動があったのかもしれないが、それですぐ「会津兵と間違われた」とも思えない。
 「西軍のために呼び出され白坂宿の町はづれで殺された」と、『戊辰白河口戦争記』に記されていることから推測すると、宿場の責任者として大庄屋の市之助が喚問され、藩境の標柱を「会津領」に取り替えた罪を問われたのではなかろうか。
 そう考えないと、市之助の殺害には理由が見つからない。しかし、そういう「勝てば官軍の勝手な理屈」が通ったとしても、現代の我々から見れば、理不尽な仕打ちであることに変わりはない。武士の刀に脅されてやらされたことにまで、責任をとらされたのでは、たまったものではない。

 白河城下の商人、常盤(ときわ)彦之助の殺害は、もっと理不尽だ。
 常盤家は、代々の回米問屋だった。回米問屋というのは、地域の米を買い集めて江戸や大坂の米市場へ運び、売ってもうけるのが商売である。時には、藩の年貢米を買い受けたり、年貢米売り払いの代行をしたりもする。よく、江戸時代の農民は、作った米をすべて取り上げられていたようなことを言う人がいる。確かに凶作の年などは、そういうこともあった。詳しい説明は省くが、それは年貢米の徴収方法によることで、通常は、年貢米を出したあとにも、農家に米は残っていたのである。それを買い集めた「商人米」はかなりの量があって、それはそれで、商品として流通していた。
 そういう商人が、どこの地域でも金持ちだったことは共通している。白河の常盤家は奥州街道を整備し、天保(1830〜44)の飢饉の時には、難民に食べ物を支給するなど、地域のために私財を投じて来た。白河の人々から尊敬されていた人物だ。
 常盤家は、前年まで白河藩主だった阿部家(当時は棚倉藩主)の御用商人でもあり、財政難に苦しむ「殿様」を助け続けて来た。その功によって、白河藩・阿部家は常盤彦之助に文久年間(1861〜64)、二百七十石の知行を与え、武士として遇した。まあ、「その功によって」というのは都合のよい言い方で、実態は、借りた金が返せないので、「武士身分」という名誉を与えただけのことだ。そういう詐術は江戸時代も後半になると、全国どこの藩でも行われていて、珍しいことではない。
 しかし、阿部家との密接な関係を、征討軍はすべて「利敵行為」とみなした。
 「常盤の旦那が殺された」(『戊辰白河口戦争記』)のは、同盟軍が大敗北を喫した後の五月六日である。この日の真夜中、薩摩藩士が二人来て、「用事があるから」と言って連れ出し、歩いている途中で二人が両側から彦之助をはさみつけ、別の一人が後ろから斬り殺したというのである。そして、その首を小峰城の大手前にさらした。
 これは、「暗殺」としか言いようがない。天保の飢饉の時の善行が紹介されているから、戊辰の年の彦之助は、かなりの年配だったと思われる。そういう老人を、なぜ殺さなければならなかったのか、しかも罪状も告げずに……。こういう卑劣な行為に対しては、理由を推測する気にもなれない。「利敵行為」というのも、「勝てば官軍」があとから貼り付けた「言い訳」でしかないと思っている。
 「理由なく殺した」と思うのには、根拠がある。彦之助の親しい友人が、首をすぐに持ち去り、胴体とともに火葬して埋葬したが、それには罪が問われなかったことだ。常盤彦之助の殺害に大義名分があれば、勝手に遺体を運ぶことも許されないはずではないか。

 征討軍が、陳謝した事件もある。
 同盟軍が大敗北した五月一日の夕方、棚倉街道寄りの白河市夏梨の原野で、繁三郎という農民が征討軍に殺された。その時刻にうろついていた人影を、征討軍は、同盟軍の諜報活動と勘違いしたのである。が、実は繁三郎は、原野に放していた馬を迎えに行くところだったのだ。この誤認は、さすがに謝るしかなかった。
 で、どうしたかと言うと、「官軍大竹繁三郎之墓」を建てたのである。縁もゆかりもない白河の農民を、征討軍の一員に仕立ててしまったのだ。私はまだ、その墓を見ていないが、ペテンのような後始末である。
 戊辰戦争を詳細に見ていくと、こうした理不尽な行為が、新政府の側に頻繁に出て来ることは確かだ。では、同盟軍の方に、こうしたことは全くなかったのだろうか。

ある農民の墓
 『戊辰白河口戦争記』は、太平洋戦争直前の昭和十六年九月に出版された。白河で長年教鞭をとられ、昭和二十六年に六十八歳で亡くなられた佐久間律堂さんの労作である。刊行された資料を引用するばかりでなく、当時存命だった戊辰戦争の直接体験者からも「常盤の旦那が殺された」など、実感のこもった談話を集めていて、白河の攻防戦を生々しく伝えてくれる。
 私が持っているのは、昭和六十三年刊の復刻版である。復刻する際に、「田辺軍次君之墓」や大平八郎の墓など、新たに多数の写真が収録された。私が『戊辰戦争とうほく紀行』(無明舎出版)を書くに際しては、この写真が大いに現地取材の助けになった。
 その写真の中に、「遊女志げ女の碑」があった。場所は白河市女石(おんないし)となっているから、白河の市街地を通り抜けた国道294号が、郊外を通る国道4号につながる辺りだ。このルートが、その昔の奥州街道になる。ここには仙台藩戦死者の慰霊碑があり、その写真は撮って『戊辰戦争とうほく紀行』にも掲載したが、こちらの女性の墓は取材当時、あまり気に留めていなかった。それで、所在を確認していない。だが、改めて『戊辰白河口戦争記』を読んで、この女性も理不尽な死を与えられていたことに気づいた。
 「閏四月、白河城にて会津攻撃を指揮する西軍参謀世良修蔵と情を結ぶ。このため、東軍兵士に殺害された、と伝える」
 キャプションには、そう書いてある。
 彼女については、本文には記載がなく、この写真とキャプションだけが、唯一の「伝」である。もう少し紹介すると、この女性は、「越後三条の生まれ。幼くして白河の妓楼に身を売られ」たという。
 世良修蔵は、閏四月初旬に白河に来て、十九日に、仙台にあった奥羽鎮撫総督府へ行くために馬で発ち、その夜に宿泊した福島で殺された。彼女が「西軍参謀世良修蔵と情を結」んだのは、世良の白河滞在中のことである。
 しかし「志げ女」は、そういうことを生業(なりわい)としている、社会の最下層の女性ではないか。枕を交わした相手が、たまたま世良であったというだけのことだ。彼女に何の罪があるのだろう。
 彼女が作った「まつ間なく人の出入りや花盛り」という俳句が伝えられている。相手が朝廷の使者というのでは、妓楼の主人も、最も美しく、気の利いた女性を出したのかもしれない。世良も気に入って、他の女性には声をかけなかったとも思われる。決まって相手になったから「情を結んだ」、というのでは、酷な話だ。
 東軍の兵士というのが、会津藩なのか、それとも当時、最も世良に憎悪を抱いていた仙台藩なのか、それはわからないが、どう考えても、彼女の死は理不尽である。
 そして、間違いなく、会津藩が殺した農民がいる。

 五月一日の白河攻撃で、征討軍主力部隊である左翼隊は、現在の国道4号に重なる「原方街道」を進軍した。奥州街道の脇街道である。現代の道路事情と当時とでは比較にならないから、「街道」とは言え、まともな道ではなかったのだろう。それで、こちらでも案内役が求められた。
 それを引き受けたのは、上黒川村(現西郷=にしごう=村)の庄屋、内山忠之右衛門(ちゅうえもん)だった。内山のおかげで、征討軍左翼隊は同盟軍に気づかれずに戦場へ接近し、最も効果的な攻撃ができたのである。
 黒川地区は、国道4号で栃木県から福島県に入り、すぐ右手(東側)に入る道を下った辺りだ。
 東北新幹線の新白河駅も、東北自動車道白河インターチェンジも名前は「白河」だが、実は西郷村にある。白河市の西部地域と西郷村は、かなり境界が入り組んでいてわかりにくい。しかも戊辰戦争当時、黒川地区は白河藩領ではなく、幕府領だったから、歴史的にはさらに複雑な地域だ。
 福島県最大の河川である阿武隈川が、南の白河市から北の福島市へ流れ、さらに宮城県を通過して太平洋に出ていることからもわかるように、白河は標高が高く、北の福島よりかえって平均気温は低い。那須連山の裾野と思った方が、その地勢や気候を想像しやすいだろう。黒川地区は、白河の市街地より高地にあり、地味もやせていた。それに、奥州街道白坂宿の助郷村になっていて、その負担も重く、非常に貧しい村だった。
 助郷というのは、宿駅で提供する馬が足りない時に、近隣の村から人馬を提供する制度だ。実際には、強制的に人馬を徴発することが多く、幕末のころは、その数や賃金をめぐってトラブルが頻発した。それで一揆が起きた例もある。
 そういう村の庄屋だった内山忠之右衛門が、征討軍に協力する気になったのは、「年貢を半分にする」と言われたからだ。内山はそれを信じ、新政府が創る新しい世の中に期待し、村の将来のために行動した。そして、成功した。
 しかし、同じように道案内を務めた大平八郎がいた白坂は、征討軍の進撃方向からすれば白河の真後ろになり、五月一日以降、ほぼ完全に征討軍の制圧下に置かれた(一度だけ白坂が同盟軍に攻撃されたことがある)が、黒川地区はそうならなかった。順次増強された同盟軍は、白河を北、東、西の三方向から包み込むように圧迫して行った。結果的には同盟軍の白河奪還攻撃はすべて失敗したが、地域的に見れば、征討軍は白河市街地と、その南に延びる奥州街道沿いの地域だけを二か月以上守り通した、とも言える。
 それには、五月十五日に江戸・上野の山の彰義隊が壊滅するまで、江戸にあった大軍団を動かせなかったことや、西日本でも彰義隊の動静を日和見していた諸藩があって、白河へ増援軍を送ることができなかったという事情がある。海路、新たな奥羽征討軍が太平洋岸の平潟港(茨城県北茨城市)に上陸したのは六月十七日で、それまで白河の征討軍は、守勢に徹するしかなかったのだ。
 だから、西の会津からは進出しやすい西郷村黒川地区は、かなりの期間、同盟軍に支配されていた。
 征討軍主力部隊を内山が道案内したことを、どうやって突き止めたのかはわからないが、五月十八日、会津兵が内山宅を襲い、忠之右衛門を捕らえた。内山は会津若松まで連行され、牢に入れられた。
 ここで、前に書いた「赤報隊」(せきほうたい)のことを思い出していただきたい。この年の三月三日、長野県下諏訪町で処刑された相良総三(さがら・そうぞう)らのことだ。彼らは、「偽官軍」という汚名を着せられて斬首された。「偽官軍」とされた理由は、「勝手に年貢を半分にすると言いふらした」からだという。
 事実は違う。
 相良は、京都でそういう約束を得て、「年貢半減」を公約しながら、中山道を先駆していたのである。それは、現実として新しい世の中が来ることを、農民に知らしめることでもあった。しかし、実際に年貢を半分にすると新政府の財政がまかなえなくなることに、たぶん、岩倉具視あたりが気づいて、「赤報隊の言っていることはウソだ」ということにしてしまったのだ。
 同じことを、今度は征討軍が内山に伝えたのである。それは「太政官布告」によるものだという。「太政官布告」というのは、現代なら政府が出す法令のようなものだ。この布告がいつ発せられたのか、手許に史料がないが、いずれにしても、内山が「年貢半減」を告げられたのは、赤報隊の処刑から二か月ほどしか経っていない(慶応四年は、普通の四月の次に閏四月があった)。そのころは「新政府」と呼べるほどの組織が確立していなかったから、多分に混乱はあったと思うが、「赤報隊」から「内山忠之右衛門」までの時間を考えると、新政府は「二枚舌」と言われても仕方ないのではないか。
 ただし、『戊辰白河口戦争記』には、「富山氏記録」(この記録の出所は不明)として、「御年貢の儀は半納に相成候(あいなりそうろう)」、つまり、本当に年貢が半分になったと書かれている。戦火で家が焼かれた人は年貢を出さなくてもいい、とも言っているから、これは九月二十二日に会津が落城してから後の通達だろう。
 だが、約束が果たされたことを、内山忠之右衛門は知らずに終わった。八月二十二日、会津若松で斬首されたのである。
 前日の二十一日、藩境の母成(ぼなり)峠(現在は福島県郡山市と猪苗代町の境界)に陣を敷いていた会津藩、それに新撰組や旧幕府軍など八百人の守備隊は、七時間に及ぶ激戦の末、三千人の征討軍に敗北した。母成峠陥落という知らせが、会津若松に届いたのが、翌二十二日だ。この日、薩摩の川村純義の部隊は猪苗代城(猪苗代町)を突破し、休みもせずに、若松を目指して猪苗代湖の北岸を行軍した。それを迎え撃つために、白虎隊の少年たちが出陣した日でもある。
 その喧騒(けんそう)の中で、内山忠之右衛門は命を絶たれた。四十二歳だった。
 彼の墓は、西郷村黒川の、高速道路橋をほぼ真上に見上げる場所にある。村の墓地の一画に内山家の墓域があり、その隅に古びた忠之右衛門の墓石が残っていた。
 しかし、見つけにくい場所だった。それで、白坂の観音寺に行った次の日、黒川の内山家を訪ねた。
 内山さんは「その人から、私が五代目です」と、もの静かに語りながら、墓地への道も、「内山家の右奥にあるのが、その墓です」ということも、ていねいに教えてくれた。
 会津藩から見れば、内山忠之右衛門は戦犯である。だから、彼を捕らえ、処刑したことは、必ずしも理不尽とは言えないだろう。
 だが、貧しい村を救おうとした農民の心情を察すると、そして、会津若松でそれから三か月も入牢していたことも思い合わせると、会津盆地への征討軍侵攻のどさくさに殺されたのは、哀れである。そこまで生かしておいたのなら、会津藩は内山をそのままにしておけなかったのだろうか。相手は民間人ではないか。
 ……ただ、それは、現代人の想念かもしれない。
 たぶん、内山忠之右衛門は、道案内を引き受けた時から、「その日」のあることを覚悟していたのではないだろうか。それでなくては、できないことだ。
 後日、新政府は遺族に百五十両の「祭祀料」を贈った。今なら、一千万円くらいになるだろうか。昔も今も、大金である。会津征討に果たした内山の役割は、それほど大きかったということだ。それを新政府も正当に評価した、ということだろう。
 だが、本人が、そんな個人的な利得を望んでいたはずはない。命と引き換えにできるような金は、どこにもないからだ。彼が命と引き換えたのは、村人の暮らしである。
 今は、そのことで墓に詣でる人はいないようだが、現当主の内山さんの語り口からは、そういう先祖がいることを誇りに思う気持ちが、私には伝わって来た。

[参考文献]
ふくしま散歩(小林金次郎=西沢書店)
戊辰戦争とうほく紀行(加藤貞仁=無明舎出版)
戊辰役戦史・上巻(大山柏=時事通信社)
戊辰白河口戦争記(佐久間律堂=戊辰白河口戦争記復刻刊行会)
斗南藩史(葛西富夫=斗南会津会)
宇都宮藩を中心とする戊辰戦争(小林友雄=宇都宮観光協会)


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