んだんだ劇場2005年9月号 vol.81
No16
武士の実像

切腹した広島藩士
 今回は、「白河の攻防戦」の続きから始める。
 福島県白河市に、萬持寺という寺がある。私は訪ねたことがないが、佐久間律堂さんの『戊辰白河口戦争記』(同書刊行会)によると、そこに広島(浅野家、四十二万六千石)藩士加藤善三郎という人の墓があるという。会津征討軍の一兵である。だが、それは「不名誉の死」だったと紹介されている。
 加藤がこの寺の本堂で切腹したのは、会津藩が降伏した後の、明治元年(1868)十一月四日のことだ。二十五歳だった。
 広島藩は最初から倒幕派だった。「鳥羽・伏見」から二か月前の慶応三年十月には薩摩、長州とともに倒幕を目指す三藩同盟の密約を結び、さらに十一月二十六日には、瀬戸内海に浮かぶ小島、大崎下島の港町、御手洗(みたらい、広島県豊町)で、長州と挙兵の約定(御手洗条約)を結んでいるほどだ。北前船で栄えた港でもある御手洗は、現在、国の伝統的建造物群(町並み)保存地区に指定されていて、御手洗条約締結の舞台となった「金子邸」も残っている。条約締結の翌日、広島藩兵は、長州兵と合流して京へ進発した。広島藩の兵力は千五百人ぐらいだったと推測されている。
 ところが、『戊辰役戦史』(大山柏、時事通信社)によると、鳥羽・伏見の戦いが起きた慶応四年一月三日、広島藩は京から大坂方面への「出兵を辞退」したという。戊辰戦争の引き金となったこの戦いには全く参加せず、その後の江戸開城までの足跡にも、広島藩の姿は見えない。このために、せっかく薩摩、長州と密約まで交わしていながら、開戦後は、薩長の風下に立たざるを得なかった。
 会津征討についても、派遣したのは四百十九人である。京での兵力の三分の一もない。しかも、『新編 物語藩史 第九巻』(新人物往来社)には、「東北遠征軍には(略)民間志願の農兵隊(神機隊)三百人が最初から参加していたし、のちには広島藩へも錦旗が授けられ、応援のための正規藩兵が東北に派遣された」と書いてある。と言うことは、確認していないが、この四百十九人のうち三百人は農兵なのだろうか。
 なぜか広島藩は、いざという時になって、非常に消極的になってしまったのだ。
 さて、四百十九人の広島藩将兵は、佐賀藩(佐賀県)、中津藩(大分県)、宇都宮藩(栃木県)などとともに、日光(栃木県)から北へ向かい、会津西街道(現在は第三セクターの「野岩鉄道−会津鉄道」の通るルート)で広大な福島県南会津郡の山間地を踏破し、会津若松を目指す軍団の一翼となった。この方面の征討軍指揮者は、薩摩の中村半次郎(後の桐野利秋)である。
 中村軍団は、九月五日、会津若松市街地に入り、鶴ヶ城西側の地域に陣を敷いた。その三日後の八日に慶応から明治と改元され、二十二日に会津藩が降伏した。その際、中村半次郎は、会津藩の降伏書を受け取る役を務めた。つまり、会津征討軍の代表となったのだ。それ以前は「人斬り半次郎」とも言われ、明治十年の西南戦争では西郷隆盛を引っ張り出し、その戦いの中で死ぬことになる中村半次郎の、一世一代の晴れ姿だったと思う。
 会津若松到着までの間、広島藩兵は、宇都宮藩兵と連携して行動していた。『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』(小林友雄、宇都宮観光協会)によると、各地の戦闘で、広島藩も何人かの戦死者を出している。会津若松にようやく到着した九月五日にも、鶴ヶ城西側に陣を敷いて休憩しているところを、猛将佐川官兵衛(後に、警視庁一等大警部として西南戦争で戦死)率いる会津軍の急襲を受け、一人が戦死した。
 佐川官兵衛は会津落城後も、南会津の山岳地帯でゲリラ戦を続けていたが、九月二十九日にようやく降伏した。それで戦火は完全に終息し、翌十月一日、会津攻撃の各藩兵に帰国命令が出た。しかし、広島藩兵は、すぐには腰を上げなかったようだ。
 そう考えるのは、加藤善三郎が白河の近くで事件を起こしたのが、十一月になってのことだからだ。日付は明らかではないが、帰国の途上、白河を目前にした奥州街道矢吹宿(西白河郡矢吹町)まで来たところで、農民を斬殺したのである。
 加藤は、矢吹の茶店で休んでいた農民を見つけて、自分の荷物を白河まで運ぶよう命じた。そこにいたのは、矢吹からは東に位置する、現在の石川郡玉川村の農民、真弓作左衛門である。作左衛門は、征討軍に徴発されて荷物運びをやらされていたのが、ようやく勤めを終えて帰郷するところだった。一刻も早く我が家へ帰りたいから、よけいな仕事は引き受けたくなかった。それに、加藤善三郎の命令がひどく高圧的だったという。作左衛門は、それを断って、その場から逃げ出した。『戊辰白河口戦争記』には、加藤が追いかけ、「武士の命に背くか」と言って、後ろから斬り殺したと記されている。
 これは、完全に加藤善三郎が悪い。広島藩では、金で示談にしようとしたが、作左衛門の息子は絶対に承知しなかった。それで、加藤に切腹を命じたのである。加藤は、白河市民の前で、見事に腹を切ったという。
 『戊辰白河口戦争記』では、「見るもの、武士の最後の壮烈を嘆賞してやまなかった」と書いているが、私にはそこに、この本が出版された太平洋戦争勃発直前(昭和十六年九月)の、時代の雰囲気を感じている。日中戦争が泥沼化し、軍部が政権を握ったその当時の日本には、戦意高揚の気分があふれていただろうと想像できる。だから、加藤善三郎のような「明らかな人殺し」に対して、著者の佐久間律堂さんも「武士の最後の壮烈」と書きたくなったのではないだろうか。それは、勇ましさを賛美する、旧日本帝国陸軍の精神構造に通じるものだ。

会津の農民一揆
 敗戦国会津は、二十八万石の領地を没収された。会津松平家に家名再興が許されたのは明治二年十一月、箱館戦争も終結してからである。だが、領地として与えられたのは、青森県下北半島を中心に三戸郡(青森県)、二戸郡(岩手県)の各一部、合わせて三万石に過ぎなかった。しかも寒冷の地で、米の実収は七千石しかなかったという。
 そこに、二千八百戸、一万七千三百人が移住した。その悲惨な生活については、後に陸軍大将となった柴五郎が晩年に著した『ある明治人の記録』(石井真人編著、中公新書)で、「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」と述べているほどだ。
 この会津藩の後身を、斗南(となみ)藩という。藩庁は、現在のむつ市田名部にあった。その惨状について、そして旧南部領の一部と津軽領が一緒になって誕生した青森県の発展に、旧斗南藩士とその子孫がいかに尽力したかについては、明治百年記念として昭和四十六年に刊行された『斗南藩史』(葛西富夫、斗南会津会)に詳しい。それらのことは、いずれ触れる機会があると思うが、この本を読んでいて、私は、ある一節に注目した。
 それは、明治元年十月三日から十二月一日まで、会津地方を吹き荒れた農民一揆のことだ。集まった群衆が「ヤーヤー」と叫びながら打ち壊しをしたので、「ヤーヤー一揆」とも呼ばれている騒動である。 
 『斗南藩史』には、「飼い犬に足を噛まれるとはこのこと……会津戦争に追いうちをかけられたようなこの一揆は、敗戦にうちひしがれた会津藩士にとって、大きなショックであったろう」と記されている。
 この一節で、農民を「飼い犬」にたとえていることに、私は、武士階級の抜き差しならない傲慢さを感じたのだ。
 著者の葛西氏は、斗南藩士の子孫だが、昭和八年の生まれだ。決して戊辰戦争の体験者ではない。それで「ショックであったろう」と推測しているのだが、「武士の命に背くか」と言って農民を斬殺した広島藩士を引き合いに出すまでもなく、この当時、現代人には理解しがたい身分意識が厳然としてあったことは間違いない。
 ついでに言うと、広島藩兵が日光から北上し、栃木県藤原町から福島県田島町へ入る山王峠の直前で、会津藩がしかけた地雷火(すでに、そういう爆弾が使われていたことにも驚く)が爆発した時、地元民の一人を斬り殺している。『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』には、宇都宮藩兵は「幸いに死傷なくホッとした」のに、広島藩兵が「土民たちの中でだれもこのことを告げなかったと怒り出し」と書いてあるから、これは八つ当たりである。そして武士が、庶民の命をいかに軽く見ていたかが、この逸話でもわかるのである。
 『斗南藩史』での葛西氏の意図は別の問題として、農民を「飼い犬」と表現したことは、当時の会津藩士の心情を想像すれば、最も適切かもしれない。江戸時代を通じて、大半の武士が農民を虫けらのようにしか見ていなかったことからすれば、「犬でも、まだましだ」という皮肉を込めて、私はそう言うのである。
 実際、いろいろな史料に目を通すと、会津藩領の農民が、藩士らの戦いに対して意外に冷ややかだったことが感じられる。会津藩にすれば、戊辰戦争は「国が滅ぶか否か」という問題だったが、農民にすれば「それは、侍たちの勝手な言い分」なのである。もちろん、義勇兵として会津藩士とともに戦った領民も数多い。だからと言って、領民のすべてが「忠犬のように、とのさまや、お侍さまたちに付き従うのが当然」と思うのは、当時の会津藩士だけでなく、今、判官びいきで戊辰戦争を見る人々にもよくある誤解だろう。本来、戦争は武士の領分であって、農民が戦うべき相手は大地なのだから。
 それに、会津藩士も、「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
 たとえば、慶応四年八月二十一日、会津直撃を目指して、三千人の征討軍が殺到した母成(ぼなり)峠(福島県郡山市と猪苗代町の境界)の戦いのことだ。
 今は母成グリーンラインという観光有料道路が通るこの峠道に、会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を構築し、頑強に抵抗した。会津藩、新撰組、旧幕府軍などの連合守備隊は八百人ほどだったが、新撰組は土方歳三、旧幕府軍は大鳥圭介と、最後には箱館戦争まで戦い抜く歴戦の士が指揮し、激戦は七時間に及んだ。
 勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。彼らは、道なき深山を迂回し、会津守備隊の側面を奇襲したのだ。この奇襲部隊の道案内をしたのは、峠のふもとの石筵(いしむしろ)集落(郡山市熱海町石筵の)農民たちだった。その前日、会津藩兵は、敵が隠れる所をなくすために、放火して集落を焼き払ってしまった。家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすために、道案内を買って出たのである。
 会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流、新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という集落を焼き払った。その翌日の八月一日、会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を守っていた二十四人のうち、二十三人が戦死したのだが、六野瀬集落の人々は、「会津のやつらは……」と言いながら、遺体を阿賀野川に投げ捨てた。
 「ヤーヤー一揆」の直接の引き金は、新政府の会津占領軍、そしてそれを引き継いだ新政府民生局の厳しい統治政策だった。しかし、それ以前に、戊辰戦争時の不満がつのっていたことを、『斗南藩史』は指摘している。
 「会津領内では、町人や農民の徴兵や米をはじめとする兵糧の徴発……おまけに好みもしない戦争の渦中に巻き込まれて家族の生命や財産まで失った領民にしてみれば、長い間の施政に対する領主への恩義以上に、むしろ、憎しみの方が先立ったとしても不思議なことではない。こうした会津領民の封建制度に対するつもりつもった感情は、民生局の政治に対する反発とからみ合って」爆発した、というのである。
 戦場となった地域では、多かれ少なかれ、庶民にはこうした気持ちがあったのだろう。しかし、その後の維新政府に、「戊辰戦争は、武士の勝手」という庶民感情が顧みられたとは、とても思えないのである。

侍に変じた農民たち
 白河市から東へ向かう国道289号を車で三十分ほど走ると、棚倉町に至る。さらに山間の曲がりくねった道を一時間走り続けると、古代の奥羽三関門の一つ「勿来の関」があるいわき市勿来へ出る。慶応四年六月十七日に、新たな征討軍が上陸した平潟港(茨城県北茨城市)は、勿来から県境を越えてすぐの所だ。
 阿部氏六万石の城下町だった棚倉が、征討軍の攻撃で陥落したのは、六月二十四日だった。この攻撃を指揮したのは、土佐藩(高知県)の板垣退助である。
 そのころ、棚倉藩は主力を白河奪還攻撃に送っていた。棚倉には、棚倉藩兵のほか、仙台藩、相馬藩の応援部隊もいたが、征討軍増援部隊が上陸した平潟方面へも兵力を割かなければならなかった。同盟軍の兵力不足のために、棚倉はたった一日で落城した。
 ここで書いておきたいのは、その戦闘のことではない。戦後のエピソードの一つだ。
 『たなぐら史談抄』(星亮一監修、ヨークベニマル)という本に、昭和二十年に九十一歳で亡くなったお婆さんの体験談を、娘が聞いていて、それを書きとめた話があった。このお婆さんは、戊辰の年には十四歳だった。
 「喜一屋の主人も官軍をおそれ、塙(はなわ)村の近くの親戚に逃げた家族のところにしばらく行っていた。数日後に帰ってみると、置き放しにしていた蚕が繭をかけて、室の中が繭でまっ白になっていた。この家に泊まりこんでいた官軍のさむらい達が退屈しのぎに近くの畑から桑を採って来て蚕に食わせて置いたのである」
 娘さんからのまた聞きなので、「喜一屋」がどんな商売をしていたのかということも、よくわからないが、要するに、戦争だというので城下の人々は皆逃げ出したが、戻ってみたら、蚕が元気に繭をつむいでいたという話だ。
 旧暦の慶応四年六月二十四日は、現在の暦では一八六八年八月十二日に当たる。明治以降、養蚕技術が発達してからは、春から秋まで四回にわけて蚕を飼えるようになったが、江戸時代は夏蚕(ナツゴ)が主体だっただろう。私が育った福島市周辺は一大養蚕地帯で、私が子供のころも養蚕農家は多かった。記憶をたどると、新暦八月なら、蚕が最も旺盛な食欲を見せる時期である。「官軍のさむらい達」が、その世話をしていたというのだ。
 当時十四歳の少女の目には、そう映ったのだろうが、私はたぶん、彼らは本来の武士ではなく、農民だったと思っている。でなければ、「退屈しのぎ」とは言え、蚕に適切な量とタイミングで桑の葉を与えられるものではない。
 板垣退助率いる棚倉攻撃軍の中核は、薩摩、長州、土佐の兵だった。このうち、少なくとも長州には、農民に鉄砲を持たせて訓練した「奇兵隊」があった。もっとも、高杉晋作が有志を募って結成した「奇兵隊」は半数が武士だったし、「奇兵隊」以外にも庶民が参加した部隊は数多く生まれた。藩の正規兵でないこれらの部隊は、「諸隊」と呼ばれ、兵員数は五千人にも達した。その中で、どの部隊が白河に赴き、そして棚倉攻撃軍に組み入れられたかは、私の手許の史料では判然としない。その詮議はともかく、蚕に桑の葉を与えた「さむらい」が、彼らのだれかである可能性は、すこぶる高い。
 戦場となった東北地方と新潟県北部各地の農民は、大変な迷惑をこうむったが、戊辰戦争には、自らの意志で銃や刀を持った農民、庶民も数多い。その中には、社会のアウトローである博徒も少なくない。この「余話」でもこれまで、「偽官軍」の汚名をきせられて斬首された赤報隊の相良総三が農民出身であったことなど、そういう階層の人々が時代の変革の渦に飛び込んで行ったことを紹介して来た。島崎藤村が『夜明け前』で描いた信州木曾谷の人々に象徴されるように、新しい世の中を渇望する気運は、全国にあふれていた。明治維新は、武士の力だけでなし得たことではないのである。
 だが、ことが成就してみると、「ともに戦った庶民」は簡単に排除された。長州にしても、箱館戦争後は五千人もの「諸隊」兵士を養っておく余裕はなく、明治二年十一月、藩の常備軍を編成する際に「精選」と称して兵を選抜した。常備軍の兵力は二千二百五十人で、採用されたのは武士階級ばかり、しかも身分の高い者を優先したのが実態だった。
 同年十二月一日の夜から、「精選」に漏れた「諸隊」兵士の脱走が始まった。その数は千二百人とも、千八百人とも言われる。たまたまその直後から、現在の山口県内各地で、庄屋や村役人の不正を糾弾する農民一揆が起きた。脱走兵と一揆の農民は歩調を合わせ、内乱の様相を見せた。結局、翌年二月、彼らは武力で鎮圧されたが、『高杉晋作と奇兵隊』(田中彰、岩波新書)によると、「脱走兵士は農民出身が半数を占め、町人や社寺出身者を合わせると六一%、陪臣まで含めると、約七八%に達する」という。
 この数字から見えて来るのは、旧態依然とした身分差別が、そのまま踏襲された姿である。

武士と武士道
 旧日本軍の「精神」とされた「軍人勅諭」が、天皇から下賜されるという形で発表されたのは、明治十五年一月だが、その四年前、その前身とも言うべき「軍人訓戒」を、当時陸軍卿だった山県有朋が起草し、軍内部に配布した。草創期の陸軍に軍紀を徹底させるために書いた「訓戒」である。
 その中で山県は、「軍人ノ精神ヲ維持シ徳義ヲ成立スルハ(略)我ガ国古来ヨリ武士ノ忠勇ヲ主トスル(略)今ノ軍人タル者ハ、タトヒ(たとえ)世襲ナラズトモ武士タルニ相違ナシ」(『日本近代思想体系4 軍隊 兵士』岩波書店)と述べている。つまり、「軍人は武士である」と言っているのだ。
 しかし、ここで言う「武士」とは、どういう存在を想定しているのだろうか。
 日本人の道徳観を欧米人に知らしめるために、明治三十九年、アメリカ滞在中の新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』(矢内原忠雄訳、岩波文庫)に見られるような武士像ではあるまい。そこに描かれた武士は、ストイックなまでに自分を律する人間像である。だが、それは、『武士道の逆襲』(講談社現代新書)で、東大助教授の菅野覚明(かくみょう)氏が「新渡戸の論が、文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていないというのは、専門に研究する人の間では当たり前のことなのである」と評しているように、武士の実像とはほど遠い、理想化され、観念的に美化されたものだと、私も考えている。
 新渡戸稲造の『武士道』は、道徳の書として、今もその価値は非常に高いのだが、それで戊辰戦争時の武士を連想するのは、大間違いなのだ。
 では、「武士道といふは死ぬこととみつけたり」という、武士の生き方のすさまじさを象徴するような一節だけが一人歩きしている、『葉隠』(はがくれ、和辻哲郎・古川哲史校訂、岩波文庫)の武士なのか。
 「生きるか死ぬかという時には、死ぬ方を選べ」という主張は、いかにも戦国武士の姿を思わせるが、実は『葉隠』は、江戸時代になって百年もたってから書かれた。
 戦国の世を体験した軍学者、小笠原昨雲という人が江戸初期に書いた『諸家評定』(しょけのひょうじょう、未刊)などを読むと、「生きようと思えば死に、死のうと思えば生きる」などと、戦場での心得が書かれている。だが、この書に描かれた戦国武士は「葉隠武士」より、はるかにしたたかだ。他人が取った首を奪い取り、味方を討った敵が疲れているのに乗じて襲いかかる……むしろ、手柄を立てるために必死に生き抜く姿なのである。
 東大史料編纂所教授の山本博文氏などは、『「葉隠」の武士道』(PHP新書)で、『葉隠』を「処世術の書」と断定している。しかし戦前の軍国主義の時代、『葉隠』は非常によく読まれていた。「死ぬこととみつけたり」の一節が、もてはやされたからだ。
 二百年以上も太平の世を経過して、戊辰戦争を迎えた時に、武士がどんな精神構造になっていたかについては、もっと論考しなければならないが、私は案外、「銭形平次」を書いた野村胡堂の、次の一言が最も端的に表現しているのではないかと思っている。
 「先祖が人を殺した手柄で、三百年の後までも無駄飯をくっている階級が、どうも、私は好きになれないのだ」(『胡堂百話』中公文庫)。
 「軍人は武士である」と訓戒した山県有朋の頭の中に、そういう自省はなかったはずだ。だから、暴力を肯定し、庶民を下に見る「武士の実像」が、その後の軍人精神の中で増幅されて行ったのではないだろうか。
 そう考えないと、太平洋戦争末期に、サイパン島で一万人以上の民間人が巻き添えになり、その多くが自決したことなどは説明がつかない。新渡戸稲造の『武士道』が武士の実相であるなら、サイパン島守備隊の軍人は、自分たちが死ぬ前に、民間人の助命をアメリカ軍に嘆願したはずではないか。
 しかし……彼らは、民間人に「お前らも死ね」と言ったのである。

[参考文献]
戊辰白河口戦争記=佐久間律堂、同書刊行会
戊辰役戦史=大山柏、時事通信社
新編 物語藩史 第九巻=新人物往来社
戊辰戦争とうほく紀行=加藤貞仁、無明舎出版
宇都宮藩を中心とする戊辰戦史=小林友雄、宇都宮観光協会
ある明治人の記録=石井真人編著、中公新書
斗南藩史=葛西富夫、斗南会津会
安田町史=新潟県安田町教育委員会
たなぐら史談抄=星亮一監修、ヨークベニマル
夜明け前=島崎藤村、新潮文庫
高杉晋作と奇兵隊=田中彰、岩波新書
日本近代思想体系4 軍隊 兵士=岩波書店
武士道=新渡戸稲造(矢内原忠雄訳)岩波文庫)
武士道の逆襲=菅野覚明、講談社現代新書
葉隠=和辻哲郎・古川哲史校訂、岩波文庫
諸家評定=古川哲史監修で、出版準備中
『葉隠』の武士道=山本博文、PHP新書


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