少年鼓手
十一歳の戦死者
戊辰戦争の跡をたどって、やりきれなくなるのは、驚くほどたくさんの少年が戦死していることだ。「十代の墓碑銘は数え切れない」というのが、『戊辰戦争とうほく紀行』(無明舎出版)の取材で戦跡を訪ね歩いた実感である。
最も年少の戦死者は、二本松少年隊(福島県二本松市)の久保豊三郎だろう。数え年で十二歳。満年齢では十一歳だから、今なら小学五年生である。豊三郎は、兄の鉄三郎(15歳)が出陣したのをうらやんで、自分も戦いたいと母親にせがんだという。母親は「銃声を聞けば、おびえて帰って来るだろう」と、下僕をつけて送り出したのだが、銃撃戦の中で兄弟ともに負傷し、病院で息を引き取った。
二本松藩(丹羽氏、十万石)は、福島県の南端、白河城(小峰城)の奪還攻撃に主力を送っていた。そのため、慶応四年(1868)七月二十九日、南と東の二方向から征討軍が迫った時、二本松城下には農兵も含めて五百人ほどしか守備兵が残されていなかった。そのために、正規の軍役年齢である十八歳に満たない少年たちが、刀や銃を手にしたのである。
少年兵と言うと、会津の白虎隊を思い起こす人が多いだろう。会津藩(松平氏、戊辰戦争当時二十七万石)でも軍役は十八歳以上だったが、この年の三月、十六歳と十七歳の少年たちを部隊編成して「白虎隊」と命名した。今なら、高校一、二年生の少年たちを「正規兵」に組み入れたのである。大人の将校も含めて、会津白虎隊は三百四十三人いた。
二本松藩の場合は、「少年隊」という名前の部隊を編成したわけではない。敵が迫ったと聞いた少年たちが、各自の判断で戦火に飛び込んだのである。だから、戦死した少年がいたことさえ、長い間忘れられていた。それが人々の注目を集めたのは、大正六年(1917)に「戊辰戦没者追悼五十回忌」が催された際、当時の二本松町助役、水野好之が『二本松少年隊記』を出版したからである。戊辰の時、水野は十四歳で出陣し、二本松の落城後は会津との国境である山岳地帯をさまよった末に生還した。戦争の実体験者として、当時の追想記を書いたのだった。
これがきっかけで調査が始まり、出陣した六十二人の少年の名前が判明した。昭和十五年、二本松藩の城跡である霞ヶ城公園の頂上に建てられた「二本松少年隊顕彰碑」に、全員の名が刻まれている。そのうち、戦死したのは十六人で、藩主の菩提寺である大隣寺に彼らの墓標(建てられたのは昭和七年)が並んでいる。
少年たちはさまざまな場所で、さまざまな状況で死んだ。銃弾に倒れた者もいるし、斬り殺された者もいる。十四歳の成田才次郎は、長州藩の小隊長白井小四郎を見事に刺し殺したが、自分も長州兵に撃ち殺された。『戊辰戦争とうほく紀行』では、その一人ひとりを記録することに努めたが、書いていて目頭が熱くなった。
ただし少年たちは、すべてがバラバラに行動したわけではない。その中に、統率された一群があった。西洋流砲術師範、木村銃太郎(22歳)の門下生たちである。
「木村隊」は、城から一キロメートルほど南の大壇台地に大砲を据えた。この砲撃で、薩摩藩の小隊長、日高郷左衛門が吹き飛ばされた。しかし少年たちの陣地は、畳を胸壁にしただけの粗末なもので、征討軍の猛烈な銃撃には無力だった。重傷を負った木村隊長を副隊長が介錯し、少年たちは素手で土を掘って隊長の遺体を埋め、城を目指して撤退した。久保兄弟が負傷したのも、この大壇台地だ。
戊辰戦争でたくさんの少年が戦死した要因の一つは、この「木村隊」の奮戦が物語っていると、私は思う。戦力が足りないから少年たちまで動員されたということが、もちろん少年兵が多かった第一の理由だが、二本松藩の木村銃太郎が「西洋流砲術師範」だったことに注目したい。
つまり戊辰戦争は、日本の戦史上、槍や刀での闘争から、銃砲による戦いへと大変革が起きた戦争だったことだ。ところが多くの武士は、刀にプライドを持っていた。戦国末期に鉄砲は急速に普及したが、江戸時代の二百六十年間、「鉄砲は足軽が持つ物」という観念が固定していた。戊辰戦争の初期、各藩の部隊の中には、身分の高い人の子供が出陣した場合、鉄砲を持つ従者がいた例がたくさんある。戦闘になると「若殿さま、どうぞ」と、弾丸を詰めた鉄砲を渡すのである。大山柏の『戊辰役戦史』(時事通信社)には、この員数外の人間が多くて食糧が不足するから、本人だけが従軍するようにという命令がかなり多かったと記されている。
二本松藩の場合も、たぶん、木村銃太郎に大人の武士の入門者はいなかったのだろう。こだわりのない子供たちだけが、鉄砲や大砲の撃ち方を喜んで学んだに違いない。
戦死者の一人、現在の二本松市歴史資料館の道路向かいに慰霊碑がある小沢幾弥(17歳)は、城の大手門へ通じる坂道を見下ろす山の上から、征討軍を狙い撃った。射撃の上手な少年で、弾が命中するたびに、バンザイして喜んだという。銃身を支えて引き金を引く体力さえあれば、少年が、刀をさした大人以上の活躍ができる戦争だったのだ。
そういう状況は、その後もあまり変わっていない。予科練などに十代の少年が志願し、特攻などに送り込まれた太平洋戦争は、わずか六十年ほど前のことだ。そして今でも、内戦など、世界各地の紛争地域で、子供たちが「使い捨ての兵隊」にされている現実を、平和な日本に住む私たちも見逃してはいけない。
ところで、戊辰戦争の時、少年たちが果たした、もう一つの大きな役割があった。
大村藩の浜田謹吾少年
平成十六年(2004年)十月二十三日の新潟県中越地震では、長岡市、小千谷市、旧山古志村などが大きな被害を受けた。偶然だが、被災地には戊辰戦争の激戦地を重ね合わせることができる。私も、何度も走り回った地域だ。だから、テレビのニュースで映し出された被災地には、見覚えのある場所も多かった。
中越地方が激戦地になったのは、長岡藩(牧野氏、七万四千石)が征討軍と戦ったからだ。司馬遼太郎の小説『峠』の主人公、長岡藩家老河井継之助(つぎのすけ)が戦争を指導し、一度は落城した長岡城を奪還するという大勝利も挙げた。
河井継之助があまりにも名高いため、この周辺の戦いは長岡藩の独壇場と誤解している人が多いようだが、実際は、会津藩、米沢藩(上杉氏、十五万石)が大部隊を送り込み、桑名藩(松平氏、十一万石)柏崎陣屋(新潟県柏崎市)の兵、旧幕府軍の衝鋒隊(しょうほうたい)が奮戦し、水戸藩諸生党(守旧門閥派)も各地で戦っている。奥羽越列藩同盟の旗頭である仙台藩(伊達氏、六十二万五千石)も、もちろん越後へ軍を派遣した。
仙台藩戦死者の墓が栃尾市にあることを知り、長岡市から東の栃尾市を訪ねた。両市の境界は森立(もったて)峠と言い、戦いに敗れた長岡藩士とその家族が泣きながら越えて行った旧道が、今も残っている。栃尾市は峠を下って、すり鉢の底のような所にある。その市街地を見下ろす善昌寺の墓地に、列藩同盟軍の墓が八基あり、そのうち五基が仙台藩士のものだ。
この墓は、新潟日報事業社が出版した『にいがた歴史紀行I栃尾市・見附市・南蒲原郡』によって存在を知った。その本の中に、こんなことが書いてあった。
「はるばる仙台から友軍として掛けつけた黒沢俊親(としちか)率いる少年楽士隊(軍楽隊)の姿があった。彼らは朝な夕なに軍歌を吹奏し、将兵の心を慰め、士気を鼓舞したという。また、同僚の五人が戦死したときには『悲しみの極み』を演奏して最後の別れを告げたともいわれる」
この記述がどんな史料によるのかが示されていないし、私も、仙台藩の側からこれを裏付けることができないでいる。「悲しみの極み」というのも、どんな曲かわからない。
だが、これを読んで、私はすぐ、秋田戦線で死んだ少年のことが思い出された。大村藩(現在の長崎県大村市)から、はるばると秋田藩の応援に来た部隊の一員、浜田謹吾という十五歳の少年である。浜田少年は鼓手(こしゅ)、つまり太鼓の奏者として従軍していた。少年の戦死には、秋田県ではよく知られた逸話があった。
雄物川中流域の右岸に、刈和野という羽州街道の宿場町があった。合併して現在の大仙市になる前は、西仙北町役場があった所だ。列藩同盟軍の一関藩(田村氏、三万石)兵が守っていた刈和野を、慶応四年九月十五日昼過ぎ、征討軍が襲い、白兵戦の末に占領した。しかし、夕刻になって庄内藩(酒井氏、戊辰戦争当時は十七万石)や仙台藩など列藩同盟軍が反撃に転じ、激戦は夜を徹して続いた。
夜の明けるころ、征討軍は弾丸が尽き、庄内軍の突撃を受けて東方の城下町、角館(現仙北市)へ撤退した。この戦いの中に大村藩兵がいて、浜田少年は戦死した。
角館に撤退後、少年の襟の中から、「二葉より手くれ水くれ待つ花の君が為にぞ咲けやこのとき」という和歌を書き記した紙片が見つかった。出征するわが子のために、母親が書いたものだった。年少者の戦死ということに加え、この歌が人々の涙を誘った。
角館の常光院にある「官軍墓地」には、征討軍戦死者の墓石が立ち並ぶ奥に、浜田少年の碑がある。また、市街地の南端、天神山の上に昭和六十二年、浜田少年の銅像が建てられた。浜田謹吾は写真が残っていて、それとは似ても似つかない山の上の銅像は、感心できるものではないが、近年、そういう像が建てられたのも、浜田少年の死が、地域の人々に今も語り継がれている証拠だとは言える。
秋田県内で新聞記者生活を送った私は、浜田少年のことはよく知っていたから、新潟県栃尾市のエピソードとして仙台藩の「少年楽士隊」のことを知り、驚いたのである。
何に驚いたのかと言うと、「同盟軍の方にも少年鼓手がいた」ことだった。テレビドラマなどで、東海道を進軍してくる朝廷の大総督府軍が、「チーターカ・ラッタッタ」という鼓笛に歩調を合わせて行進する光景が、しばしば登場する。あれは「官軍マーチ」というのだそうだが、鼓笛は西の方の諸藩がいちはやく取り入れたが、東北地方にはなかったと思い込んでいたのである。
「思い込み」の原因は、たぶん、司馬遼太郎の小説で、薩英戦争の時に、イギリス艦隊の船上で軍楽隊が演奏するのを聞いた薩摩の人々が、「あれはいいもんだ」というので、すぐに軍楽隊をまねた、ということを読んだ印象が深かったためだと思う。それがどの小説なのか、心当たりを読み直しても見つからないので困っているが、確かにそういう記憶がある。
薩英戦争というのは、文久三年(1863)七月、その前年に起きた「生麦事件」の賠償金をめぐってイギリスと薩摩藩が紛争になり、イギリス艦隊が鹿児島湾に入って鹿児島城下を砲撃し、薩摩藩も応戦してイギリスの艦船に損害を与えた事件だ。そのために城下町は焼け野原になったが、薩摩藩の尊皇攘夷派藩士らも、実力では外国人を追い払うことなどできないことを実感し、西洋のすぐれた科学技術を導入しなければいけないと、路線変更するきっかけになったと言われている。
司馬遼太郎が根拠とした史料はわからないが、初めて聞いた西洋の勇壮な音楽に、当時の日本人が強い印象を受けたのは、大いにありそうなことに思われた。だから、新式銃の導入が早かった長州や薩摩など、西の諸藩では「軍楽」の普及も早かったのだろうと思っていたのである。
これに対して仙台藩では、西洋流の軍事教練は、戊辰戦争の直前に慌てて編成した額兵隊(がくへいたい)という一部隊(額兵隊はその後、脱出して箱館戦争に参加した)でしか行われなかったはずだ。ところが、越後派遣軍に少年楽士隊がいたというのだ。
『戊辰戦争とうほく紀行』発刊後にも、何かの史料で、米沢藩にも少年鼓兵がいたという記述を読んだ記憶がある。その史料も、今は見つけられないでいるのだが、天童藩(織田氏、二万石)には間違いなく、鼓笛隊があったようだ。
山形県天童市立旧東村山郡役所資料館が、平成五年三月に発行した『織田藩と天童』という冊子に、「維新軍楽隊の伝承」という一節があった。「江戸時代末に、天童織田藩がフランス式の幕府兵制を採用し、藩兵の軍事教練をしたと伝えられている。藩兵の士気を鼓舞するため、大太鼓、小太鼓、笛を使用し、和洋折衷の軍楽隊を編成して演奏したという」。しかも、その音楽を、天童市立天童南部小学校の子供が、今も演奏しているという。冊子には、その笛のパートの楽譜も掲載されていた。
こうしてみると、調べれば、もっと多くの場所で、この時期に、「鼓笛」という西洋流の音楽が取り入れられていた可能性は高い。しかも、その担い手は少年だったに違いない。と考える根拠は、天童市の冊子に書かれている「フランス式の幕府兵制」にある。
走れなかった日本人
幕府が、フランス式の兵制を導入したのは、文久二年だとされている。当時のフランスの軍隊にならって、重歩兵、軽歩兵、騎兵、砲兵に分類し、それぞれ小隊→大隊→連隊という組織にする計画だった。「重歩兵」は、現在の歩兵と同じようだが、「軽歩兵」というのが、軍事にあまり詳しくない私には、よくわからない。ただ、身分の違いはあって、軽歩兵は御家人、旗本など徳川直参の武士階級で編成したが、重歩兵は募集した。内実は、旗本の知行地の農民などが、半強制的に組み込まれたようだ。
この計画が実際に動き出すのは先の話で、まず、慶応元年(1865)二月、横浜にフランス語の伝習所が開校した。言葉がわからなければ、訓練もできないからだ。そして、フランスから彼らの教官となる軍事顧問団の十九人が来日したのは、慶応三年一月になってからだ。
軍事調練が始まってみると、トラブルが続出した。歩兵には当たり前の匍匐(ほふく)前進をさせようとすると、「武士が、地べたにはいつくばれるか」と怒り出す人が多かったという。そして何より、日本人は「イッチ、ニー、イッチ、ニー」というリズムで歩けないので、隊列を作って行進させることにさえ苦労したのだという。
信じられないかもしれないが、当時の日本人の大部分は、右足と右手を一緒に動かす歩き方をしていた。もう少し詳しく言うと、手はほとんど動かさず、肩をわずかに足に連動させて歩くのである。現在のように、右足が前に出る時は左手が前、左足を前に出す時は右手が前という、我々には当たり前のリズミカルな歩き方ができなかったのである。
上半身をほとんど動かさない、むしろ右半身、左半身が同時に動く歩き方を、「ナンバ歩き」という。
ずいぶん昔に読んだ、作曲家小倉朗の『日本の耳』(岩波新書)に、日本人古来のリズム感の話としてそういうことが書いてあったのが、強く印象に残っていた。それは農作業、特に泥の中で足を動かす水田作業に由来するのだという。田植えをする時は、右足を前に出してその先に苗を持った右手を下ろす。畑を耕す時も、右足を前にすれば、鍬を持った両手のうち、右手が前になる。この本では、歌舞伎や日本舞踊などを前衛的に取り入れたことで知られる演出家、武智鉄二の著作を引用して「その半身の姿勢が、そのまま歩行体様にうつしかえられている」と説明している。
能の鼓(つづみ)しても、新内や都都逸のような俗曲にしても、民謡にしても、メトロノームのようなリズムの刻み方ではなく、そこからは微妙にずれた「間」(ま)の良し悪しを、日本人は評価していた。それは、今でも演歌の歌い方によく表れている。私はある時期、民族音楽が持っている美意識に興味を持って調べたことがあった。いわゆるクラシック音楽にしても、それはヨーロッパの一部の人々の民族音楽ではないかと考えていたからだ。その時期に、『日本の耳』も読んだ。
それによると、日本人には3拍子もないという。3拍子は、騎馬民族が持つリズム感なのだそうだ。
歩行の話に戻ると、小説かエッセーか忘れたが、馬を歩かせる時も、日本人は、右の前足と後ろ足が同時に動くように馬を訓練したと、司馬遼太郎が書いていたことを記憶している。私は馬術もよくわからないが、そういう歩かせ方は世界の中でも非常に特殊なことだという。まあ、走り始めれば、馬も自然に足を動かすのだろうが、従者に馬を引かせて武士が乗る時は、馬にも「ナンバ歩き」を強要していたということだ。
だから「ナンバ歩き」では、ジグザクに走ることなどは、上半身と下半身のバランスが取れないので非常に難しい。これには、フランス軍人も困ったことだろう。それで、まず、歩調を合わせて行進することから教えなければならなかった。
そこで必要になったのが、鼓笛だろうと、私は思うのである。伴奏音楽があれば、少しはましに歩けただろうと想像される。
そして新しいリズム感を吸収するのは、伝統的なリズム感が体に染み込んだ大人より、脳細胞が柔軟な子供の方が、ずっと速かったに違いない。
『日本音楽の歴史』(吉川英史、創元社)に、「天保年間(1830〜43)、長崎の高島秋帆はオランダ式鼓笛隊を作りあげた。彼はオランダ式兵学を学んで歩兵の調練を行ったので、それに伴う鼓笛隊が必要になったのである。これ以来、諸藩に新しい兵学や軍楽が行われるようになった」と書いてあった。
高島秋帆は、長崎の町年寄で、独学で西洋流の砲術を研究し、「高島流砲術」を創始した人だ。幕府に洋式兵制の採用を建言し、天保十二年には、現在の東京都板橋区高島平の原野で、洋式大砲の実射を披露した。ちょうど中国ではアヘン戦争が起きていて、幕府も西洋の軍事力に注目し始めたころだ。
しかし、これで鼓笛隊が広まったというのは、ちょっと時期が早いと思う。幕府はもちろん、諸藩もまだ、全面的な兵制改革の必要性を認識してはいない時期だからだ。やはりそれは、幕末のことだろう。
幕府はフランス式の軍隊を作ろうとし、土佐、彦根、米沢などの各藩はこれに習ったが、薩摩、佐賀、尾張などはイギリス式、水戸、前橋などはオランダ式、和歌山藩に至ってはドイツ(当時はプロシャ)式と、それぞれ勝手ではあるものの、一斉に西洋式の軍事調練を始めたのである。
当然、どこでも鼓笛隊が必要になり、少年に小太鼓を学ばせたのだろう。そして間もなく、戊辰戦争が始まり、数多くの「少年鼓手」が従軍することになったのである。
蛇足だが、日本人が、右足と左手、左足と右手の組み合わせで歩き、膝を高く上げて走れるようになったのは明治以降のことで、それは純粋な都市生活者の増加に伴って広まったと推測される。
さらに蛇足を加えると、戊辰戦争で最高齢の戦死者は、山形県の新庄藩(戸沢氏、六万八千石)が庄内軍の攻撃で落城した時、城内で切腹した尾形与左衛門の八十一歳だろう。
討ち死にした例では、槍で二人を倒したものの、自分も銃弾に倒れた会津藩の佐藤与左衛門の七十四歳が最高齢だと思う。これは、会津鶴ヶ城の甲賀町口郭門(外堀の門)での戦闘だった。この時、孫の勝之助は、倒れた祖父の名を呼びながら斬り込んで戦死した。勝之助は十四歳だった。ある史料には、この少年の首をかたわらに置いて、征討軍兵士たちが酒盛りし、手柄話に興じたという、おぞましい話が伝えられている。
[参考文献]
戊辰戦争とうほく紀行=加藤貞仁(無明舎出版)
二本松藩史=歴史図書社
にいがた歴史紀行I 栃尾市・見附市・南蒲原郡=新潟日報事業社
織田藩と天童=天童市立旧東村山郡役所資料館
戊辰役戦史=大山柏(時事通信社)
荒井郁之助=原田朗(吉川弘文館人物叢書)
日本の耳=小倉朗(岩波新書)
日本音楽の歴史=吉川英史(創元社)
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