遠田耕平
一時帰国の年末
片の付かないカンボジアでの仕事を放りだして、一週間ほど休みをとる。秋田に帰ったのはもう年の瀬の押し迫った頃だ。大学に行っている3人の子供たちも各自バラバラに秋田の家に戻ってくる。やっと全員が揃ったと思うと、もう大晦日である。今年の秋田は年の瀬になって予想以上に冷え込んだらしく、家の回りはひとしきり降り積もった雪で真っ白になっている。 僕の大晦日は日本にいる限り「紅白」にチャンネルを合わせていることが多いが、子どもたちが爆笑バトルとか、K1とか、、チャンネルをよく変えるので、そのうち酔っ払って寝てしまった。目が覚めたら新年というわけである。どうも苦労して帰ってきたわりにはしまりがない。まあ、生きているのだから感謝しないといけない。インド洋大津波は、他人事とも思えない。もし秋田に帰らないとしたらクリスマス休暇で滞在しようかと思っていた場所である。 「ああ、正月か・・・。」と、冷たい澄んだ空気のトイレの中でつい溜息混じりに呟いた。ゆっくりと座って前の壁を見ると、日めくりカレンダーの一枚目に「いまから、ここから」とあった。相田みつおさんの言葉らしい。いい言葉だなと思う。正月の食卓に着くと女房が何か一言言えと目配せするので、「いまから、ここからだ。元気で頑張ろう。」と、相田さんの言葉を拝借して、自分に檄を飛ばした。「なんのこっちゃ。」という顔で、眠そうに大きなあくびをしている3人の子供と乾杯して、翌日また慌しくカンボジアへの帰路に着く。 ペトちゃん、シューマン、親父さん 帰国したほんの数日の間に愉快でエネルギー溢れる3人と再会した。 ぺトちゃん。 ペトラッコ神父という人がいる。84歳、目黒サレジオ教会の主任司祭神父だった人だ。17歳の時、貧しいイタリアの村から戦前の日本に来て、今日まで67年間日本にいる。マッカーサーとも東条英機とも会ったと言うから不思議だ。退職後の僕の母に信仰の楽しさを教えてくれた人でもある。その母が死んだ時、お御堂でいつまでも一人でひざまずき、お祈りをしてくれていた。 神父の世話をする人が愛嬌を込めてペトちゃんと呼んでいるので、僕も本人以外の前ではペトちゃんと呼ぶ。心臓も足も悪くて何度も入退院を繰り返していたし、その頃は弱々しく見えたので、今はもうボケてしまっているのかなと心配しながらサレジオの修道院の個室を訪ねた。 ドアを開けるなり「おお、知恵子(僕の母の名前)のこども」と、ぺトちゃんは、座っているイスから手招きをして僕を抱きすめた。凄い力だ。クマのような体、すりあう頬と、握る手、熱い温もりが僕を心地よく包む。ペトちゃんはボケているどころかぴんぴんである。 母は生前このペトちゃんに喧嘩を吹っ掛けたらしいから愉快である。そもそもは僕の結婚式の事で、母が挙式をサレジオで挙げたいと申し出ると、前の東大出の主任が、僕が真面目な信者になって、神の奇跡を信じるなら挙げさせてやると言ったらしい。信者でもない芸能人たち(例えば山口百恵とか)にはいくらでも挙げさせるのに何事だ、神様はそんなに了見が狭いのかと、母は啖呵を切った。 僕は大の教会嫌いで、以前も奇跡を信じろという神父と喧嘩をしていたので、仕方ないなと半分やけになっていたが、結局母が別の教会の神父を口説き落として、そこで挙げた。さすがに弟の時は始めから喧嘩モードで教会の門を叩いたらしい。ところがペトちゃん、誰が挙げさせないなんて言った、と、逆切れして、神様の前では誰でも皆同じだと、元の司祭から関係者まで皆を呼びつけてどやしつけ、とうとう弟の結婚式を挙げさせた。 ペトちゃんは今でも僕の顔を見ると「すみません、すみません。」という。僕は戸惑うが、どうやらその時の事を言っているらしい。そして必ず「僕は知恵子に勝ったよ。」と誇らしげに言う。余程母に勢いがあったのだろう。それからと言うもの気さくな母は死ぬまでこの飾らないペトちゃんと仲がよかったらしい。 イラクのニュースをテレビで見ながら突然「今のアメリカはダメ。日本の首相もダメ。東大出もダメ。」と気を吐く。そうかと思うと、「心臓の病気痛いよ。私、手術イヤだよ。でも看護婦さん綺麗、大好き。いいねー。」とくる。人間臭い、なぜか痛快である。孤独でも底抜けに明るく、時代をしっかりみて生きている。握る手の暖かさ、どこかでこれと同じ暖かさがあったなと感じたら、死んだおじいちゃんの手だと思い出した。 シューマン。 まさに秋田の家に辿り着いたその時だった。暗い家の中で電話が鳴っている。慌てて受話器を取ると、聞き取れない程の小さなしわがれ声が聞こえてくる。Dr.シューマンである。アメリカのペンシルバニアからいつもの、1年に一回の電話だ。 Dr.シューマンは今年も元気で生きていてくれた、と心の中で呟いた。「Dr.トーダ、メリークリスマス。家族は元気かね。」Dr.シューマンは毎年この日を忘れた事がない。僕がこの日にカンボジアから秋田に戻りつくその時間まで予想しているかのようだった。 シューマンとは10数年前僕がロンドンに留学している時にロンドン大学の学生寮の食堂で出会った。それだけの知り合いである。植物学者で、皆からドクターと呼ばれていた。夏になるとロンドンへきて、空室になった学生寮に泊まって観劇を楽しむ一群のアメリカ人の退職高齢者の中のひとりだったが、どことなく風格のある品のいい人だった。たまたま出逢った熱帯病を勉強し、熱帯で仕事がしたいと言う変な日本人の医者に興味を持ったのか、よく話をした。それだけの出会いだと思っていた。 ところがその後、何度か長い丁寧な英語の手紙を貰い、僕が初志を貫徹するように何度も励まされた。そして毎年クリスマスになると彼から電話が来るようになった。結婚を何度かした事はあったらしいが僕が会った時にはすでに天涯孤独の独身となっていたシューマンは毎年僕が送る家族写真をきちんと窓際に飾り、僕の子供達の成長をまるで自分の子供のように楽しみに見ているという。 当時でも80前後の高齢に見えたが、「今年は10の2乗で100歳だよ。」と嘘とも本当とも思える冗談を言う。「本当にサンタクロースからの電話だね。」と返す。地球の裏側に、僕と僕の家族を忘れずに温かく見守ってくれている人がいると感じるのは不思議な気持ちである。シューマンはまたこれから一年間、僕との電話を楽しみに、しっかりと一人を生きていく。 親父さん。 勝次郎さんは僕の女房の親父さんである。今年で78歳になる。小学校の教頭先生までやった人で、骨格はがっちりとして、目はぎらぎらして今でも見るからに恐ろしい。 実家の古い引き戸を開けると、どてらを着て、孫の手編みのマフラーを首に巻いた親父さんがにんまりと笑って立っている。この家に来ると心が落ち着くのは不思議だ。「バカ野郎、この野郎、こん畜生。」と口が悪いので一瞬たじろぐが、子供と話す時の目はたちまち優しくなって、一人一人の子供の性格を一瞬に飲み込む。まるで野生動物の親のように、時に抱きしめるように、時に突き放すように子供達と接するから僕にはとてもまねが出来ない。 自然な子供達との付き合い方を身につけている。僕は父親の味を知らずに育ったので、父親というとこの親父さんがまず頭に浮かぶ。孫たちはみんなこの不思議な野性の包容力の世話になった。僕は今でもつい親父さんのことを先生と呼んでしまって、しまったと思う。 若い時はとにかく腕でも、口でもやたらと喧嘩をしたらしい。だから子供たちの喧嘩もじっくり見守ってから軍配を下す。昔は確かに親父さんのようなはぐれ先生がいた。女房の姉の旦那は結婚をしたいと親父さんに言うやいなや親父の物凄い一発を顔面に食らったらしい。長男が長女を嫁に貰うのは怪しからんと言う理由だったらしいが、よくわからない。僕の時は女房はなんとこっそり救急箱を用意していたらしい。幸い親父の一発は免れたけど、今思えばなにやら少し残念な気もする。 その親父さん、10年前に胃がんで胃の全摘という大手術をした。それから一回り小さくなったように見えたが、眼光の鋭さは少しも衰えない。最近はすっかり元気を取り戻して、鉢巻をして屋根を直したり、庭で野菜を作ったり、塀を直したりしている。 筋肉痛で首が回らなくなったので、これは頭の病気だと大騒ぎをしたらしいが、僕の同級生に診てもらって、「お父さん、動き過ぎだよ。つける薬はないよ。」といわれてやっと納得したらしい。 飾らない親父さんには暗い所がない。いつも自分のことをまずしっかりやっている。生きることが上手だ。「子供達の事は心配すんな、俺が見てやる。」と言わんばかりに岩のような手で握手をされて正月の女房の実家を後に再びカンボジアに戻った。 この3人はどこか似ている所がある。まず、明るい。年齢とは全く関係ない若々しさと茶目っ気がある。そして頑固。周りはあまり気にしていない。そして、自分自身が生きることをしっかりとやっている。趣味とか老後とかではなく、コツコツと生きていくそのものに真面目で落ち度がない。 3人を見ていると長く生きることは凄いと感じるのである。僕らは長く生きている人たちからいろんなことを教えられる。この3人のことはまた詳しくどこかで話をしよう。 カンボジアの新年 カンボジアの新年は何のお祝いもない。乾期はさらに涼しく、朝夕の風は心地よく乾いていている。プールの水温も下がり、秋田のプールを思い出す。目の前のメコン川の水位はさらに下がり、水没していた中洲が大きく姿をあらわしている。 水位が下がったお陰で魚の採れはよく、漁師さんがたくさん船を出している。青いマンゴも出回り始めた。青いマンゴは千切りにして干し魚を混ぜてサラダを作るととても美味しい。ブーゲンビリアが白いかわいらしい花をつけている。夾竹桃(キョウチクトウ)科のプルメリアという名前の木が甘い匂いのする白とピンクの花を一杯につけている。カンボジアはしばし爽やかな季節である。
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