んだんだ劇場2005年2月号 vol.74
遠田耕平

No44  リエップのおたふくかぜ

おたふくリエップ
 リエップは我が家のお手伝いさんである。普段は小柄な身体に似合わずテキパキと動いて要領よく仕事をする彼女であるが、今日は元気がない。顔が腫れているようだから見てやってくれと女房に言われた。
 見ると確かに普段もあまり整っているとはいえない顔であるが、なにやらさらに微妙に崩れている。しっかり正面から見ると左の耳の前が大きく腫れていることがわかった。熱も少しあって、自分で買ってきた薬を飲んで吐いてしまったという。これは唾液腺の一つの耳下腺にばい菌が入ったなと思った。虫歯はないし、喉も腫れていないが、唾液腺炎だなと思って、抗生物質と痛み止めを薬局で買わせて、その日は早く家に返した。
 翌朝リエップはなかなかやってこない。僕が出勤する直前になってやっと家に現われたリエップの顔を見て驚いた。左の耳下腺の腫れが昨日の倍もあるかと思わせるほど大きく腫れ上がって、しかもシクシク泣いているのである。腫れがはなはだしい上に涙まで流しているので顔がぐちゃぐちゃである。よほど痛いのだろう。
 リエップには8歳になる男の子が一人居るが、その子は腫れていないかと聞いてみると「2日前から腫れていた。」という。まだ家族に居ないかと聞くと同居している妹と、姪っ子がやっぱり腫れてきたという。これは流行性耳下腺炎、いわゆるおたふく風邪である。
 稀に髄膜炎や脳炎を併発することがあり、さらに男性では稀に睾丸炎になって不妊になる事があるが、風邪と言われる位に、ウイルスの感染症の中では比較的軽いものである。日本でも普通は5−10歳の低学年児童に多く流行し、丁度今ごろの冬の乾期にはやる。
 最近の日本では予防接種を任意で受けられるようになって、以前のような大きな流行は影をひそめ、典型的なおたふくを見る事は比較的少なくなったのかもしれないが、途上国ではおたふくさんがたくさん出る時期がある。
 不思議な事はリエップのような大人が罹っていることである。ポルポトの時代に人口が一次激減し、田舎で強制労働させられ、人口密度が分散していた事もあって、しばらく大きな流行がなかったのかもしれない。自然に罹って免疫を持つはずの人達が、罹らないまま大きくなって、かなりの人口が残っているのかもしれない。
 リエップには子供を学校から連れ帰って、外に出さないで家で安静にしていること、おたふくには抗生物質は効かないので、痛み止めだけにして、後は患部を冷やすこと、3日間はしっかり安静にしているようにと言って、家に返した。
 返してから「ところで、僕らは子供の頃におたふくに罹ったよなー。」と女房と顔を見合わせて、思わず肩をすくめた。お互いのなんとも不確かな記憶に不安になったのである。

 この話を保健省の仲間にすると、皆おたふくを知っていた。一人の男が「カンボジアには有名なおたふくの治療法があるんだよ、トーダ。」と、誇らしげに言う。聞くと、虎年生まれの男が、その患部に虎の絵を描いてやると、治るんだ、という。実はその彼自身が虎年生まれで、村ではよく頼まれて虎の絵を描いたんだ。とこれまた誇らしげに言う。
 そう言えばリエップの頬に消えかかったマジックのような黒い線の跡があったのを思い出した。「そうか、リエップも描いてもらっていたんだ。でも、待てよ、ということは、すでに自分で診断をつけていたのかな?」一本やられたらしい。
 ところで何で虎の絵を描くんだろう。皆に聞くと、少し首をかしげながら、「虎の顔は前から見るとほっぺたが腫れているだろ。」とゲラゲラ笑いながら答えた。
 どうも虎の絵のことが気になって眠れない。僕の尊敬するクメール語の教授セタ先生に聞いてみてすっきりした。クメールではおたふくのように腫れる症状の別名を「ネズミのこども」というのだという。実は病気でも、怪我でも、脇の下や首の周りのリンパ節が腫れて豆のようにクリクリと触るようになることの総称らしい。
 ネズミが嫌いな動物はネコと決まっている。ネコをそこに描いてネズミを食べさせる。でもネコは十二支にいないので虎という事になったと言うのである。なるほど。
 プノンペンには虎の絵のスタンプも売っていて、患部にペタンとできるという。リエップの家族中がほっぺたに虎の絵を描いているのかな?と想像して少しおかしくなった。虎がうまくネズミを食べてくれるといいのだが。どうやら、リエップに休まれて一番弱っている女房がそれを一番願っているようである。

再び百日咳
 村中の子供たちが百日咳にかかっているという報告が飛び込んできて、コンポントム県に向った。
 百日咳は以前にもここでお話したが、バクテリアによる病気で菌の持つ毒素が気管支の上皮を壊して、2週間から6週間続く咳と多量の痰を作る。子供たちは咳がなかなか止まらず、体力を消耗し、痰がうまく外に出せずに吐いたり、失神したりする。新生児では命取りになる。
 聴診器を当てると、痰が気管支に詰まって呼吸とともに動く独特の音がする。この百日咳を治す薬はなく、ジフテリア、百日咳、破傷風を混ぜた3種混合ワクチン(DPT)を3回接種する事が今でも唯一の予防方法である。
 村に入ると、お母さん達が子供たちを連れて一杯集まってきた。想像していた程ひどい咳をしている子供たちは少ない。

集まる村の百日咳の子供たちと調査する県のスタッフ

眼球結膜に出血している百日咳の子供
 一週間前にこの村を調査したスタッフが、一週間前は村の6ヶ月から10歳位までの3−40人の子供たちみんなが吐くほど激しい咳をしていたと教えてくれた。ピークは終わったらしい。
 子供たちの胸と背中に聴診器を当てるとまだ痰の詰まる独特の音のする子供達が一杯いる。眼球の白目の部分に出血をしている子供も見かける。これは激しい咳を続ける事で、頚静脈の圧が上がって、生じる現象である。
 子供たちの予防接種歴を調べると残念なことにほとんど3種混合ワクチンDPTを3回受けている子供はいない。これはまだ他の村にも広がりそうだなと思って回りの人に聞くと、案の定、小学校の若い先生が来て、隣村から来ている子供も罹っていたと教えてくれた。
 親切な先生は自分のバイクで隣村まで行って、子供をバイクで連れに来てくれた。やっぱり百日咳だ。菌を確認するために綿棒を喉の奥にこすり付けた検体を採取して、日本の感染症研究所に送った。

隣村から百日咳の子供を連れてきてくれた学校の先生

 この一年でカンボジアの県のスタッフは少し変わった気がする。以前は報告してもしなくてもいいと適当に考えていた病気を積極的に報告してくれる県が少し増え、検体も自分達で採取する努力をしてくれるようになってきたように感じる。
 そして検体の結果も楽しみにしているらしい。この結果を自分達の予防接種の現場での問題の現われと理解して、今後の改善の為に使ってもらえれば、いいのである。少しずつ小さな変化が現場に生まれていくなら幸いなのである。本当に少しずつである。

慣れない聴診器

鼻から綿棒を入れて検体を採取する県のスタッフ

 村の患者を診て回るのは僕が一番好きな仕事である。プノンペンでの連日の会議やミーティング、地域事務局とのやり取りでうんざりしていた僕にはまさに救いのようなフィールドでの仕事であるが、運悪く食べた物に当たった。
 これはやっぱり運である。村で子供たちを診た後、お昼を食べた所が悪かった。
 お客は誰も居ない。店の人は僕らの顔を見てから、やおら市場に買出しに行き、僕らは誰も居ない竹のござの上で1時間半も待たされた。裏の小屋で鶏をさばいて、魚を焼いて、やっと出てきた怪しげな料理にとりあえずかぶりついたのが悪かったらしい。その夜はお腹がむかむかして一晩中もだえ苦しみ、翌朝になってゲロゲロとなり、結局丸一日寝込んでしまった。
 同行した保健省のスタッフに誰か当たった人はいなかったかと聞いたが、皆ゲラゲラ笑って首を振った。どうやら僕だけだったらしい。やっぱり運である。


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