遠田耕平
ついに雨が降った。刺すような激しい熱帯の暑い日差しを黒い雲が覆う。大粒の雨が小一時間程、乾ききったプノンペンの町に叩きつけるように降り注ぐ。忙しくバイクで行き交っていた人たちが黒く固まってあちこちで雨宿り。大きな雨音が生活の音を掻き消して、熱帯にひと時の静寂運んでくるような瞬間。道にはあっという間に大きな水たまりができていく。不意に雨を浴びた人たちの表情は少し嬉しそうだ。
季節が巡ってくるという感覚は日本ほどにハッキリとした四季の無い熱帯でも人の心に落ち着きをもたらすらしい。一見つまらない季節の繰り返しだが、人の身体も心もそのつまらない繰り返しを心待ちにしているようである。 原点 ベトナムへの回帰 この雨の始まる直前の暑さのピークの頃がクメール正月である。カンボジア国内の職場はいっせいに週末を挟んで一週間ほど休みになってしまう。僕と女房はかねてから考えていたベトナムを旅する事にした。 ベトナムは僕ら家族には印象の深い国である。1992年の終わりから1996年初めまで3年余り、僕は初めてWHOの医務官として今のホーチミン市に家族と共に赴任した。その後、一度1997年に仕事で行って以来8年も行っていない。 「原点」というと少し大袈裟であるが、人の人生にはそれぞれに、その人のその先の生き方をある程度決定付けてくれる「節」のような出来事が何度かあるように思われる。 僕には今の所3つの節があったように感じているひとつは僕の心を形作った子供の頃のあまり幸せとは言えない家庭の環境。二つ目は、大学3年でカンボジアの難民キャンプに行った時のこと。そして三つ目がこのベトナムでの生活である。 もしこの節が無ければ僕は多分全く異なる人生を歩いていただろうと思うのである。 ベトナムに赴任した頃、僕はすでに36歳になっていた。3人の小学生の子供達を抱えながらも、熱帯の途上国に住んで、その国のために仕事をしたいという気持ちはすでに自分の心の中で飽和状態に達していた。つまり何でもやらしてくださいという感覚である。 ロンドンでの留学を終えて、やっとたどり着いたのがベトナムだったのである。保健省パスツール研究所の予防接種計画のスタッフたちに混じってベトナムのポリオ根絶のために朝から夜まで共に仕事をした。 僕は仕事を心から楽しんだ。下手なベトナム語を必死で覚え、毎週のように地方のメコン川の村々をポリオの患者を追いかけて渡り歩いたのである。 プノンペンからホーチミン(サイゴン)までは飛行機で30分余りで着いてしまう。時差も無い。サイゴンの飛行場は拡張され、驚くほどきれいになっている。 ベトナム戦争時代に使われた半円形の屋根の格納庫はいまだに飛行場の端にずらりと残っているが、今は古いロシア製イリューシンなどの飛行機の墓場のようになっている。僕らの貸家も当時この近くにあった。 飛行場にはパスツール研究所の実験室の責任者であるトゥー先生がわざわざ迎えに来てくれていた。少し頭は薄くなったけど、小柄で相変わらず南部の人らしい優しい表情のままである。 道路を走っていて驚いたのは大量のバイクに混じって、きれいなタクシーがいっぱい走っている事と以前は我が物顔で走っていたシクロが全く見えないことである。もちろん僕らがいた頃はタクシー会社ができ始めた頃でタクシーはほとんど無く、シクロは車を蹴っ飛ばしながら、道を埋め尽くすほど走っていた。シクロは車社会への移行と共に街から締め出されたのである。
実は僕も女房も現在クメール語を習っているのだが、話そうとするとどうしてもベトナム語が先に出てきて邪魔をする。頑張るほど頭が混乱し、ベトナム語とクメール語を混ぜたような変な言葉ができてきたりして、赤面するのである。 不思議なもので、忘れたいたはずのベトナム語がベトナム語に囲まれていると堰を切ったように蘇ってくる。すると、いろんな記憶も相乗的に思い出してくるのである。 手の行き届いたパスツール研究所の小さな中庭は昔のままである。よく3人の子供達を連れてきては遊ばせた。この中庭を見ながら僕はあの頃どれだけいろんな事を考えただろうと思うと、又ぼんやりした。 庭を朝から暗くなるまで掃除をしていたお爺さんは10年後の今も元気で庭を掃除していた。パスツール研究所の前のフォー屋(ベトナムうどん屋)で新聞を売っている両腕のないおじさんが僕を見つけて駆け寄ってきた。彼の鉄製の義手と久しぶりに握手をする。僕はこのおじさんからよく新聞を買ったのである。 所長のキエム教授と再会する。73歳になるというのに以前と変わらない元気さ、そして変わらず優しく、品のいい方である。僕のいる時に心筋梗塞を起こしてとても心配したが、子供の頃からフランス、アメリカとの戦争を乗り越えてきた北の人だけに、身体の作りが違うらしい。 そのキエム先生も来月には退官されるという。 もう一人忘れられない人がいる。僕の助手のように毎日仕事を手伝ってくれた女医さんのビン先生である。一年半前に乳がんで無くなった。まだ、40歳になるかならないかだった。 乳がんは僕がベトナムを離れてからわかったのだが、長い闘病生活を二人の子供のために明るく頑張ったとみんなが教えてくれた。旦那も医者であったが他の女性と一緒になってしまい、葬式にもこなかったという。葬式はパスツール研究所が出してくれたらしい。 70歳近くなるお母様が、二人の残された子供達を育てている。ご自宅を訪ねた。以前にもお会いした事があったが、ビン先生と似て細い体に品の良さをたたえた方である。 僕の顔を見るなり涙された。少女のようなビン先生の写真の前に線香を供えた。お母様がたくさんの写真を持ってきてくれた。見ると、どれもみんな僕と地方を回りながら仕事をしたときの写真である。 若いときの僕がいて、元気な時のビン先生がいる。その瞬間、我慢していたものが噴出して目の前がかすんだ。二人の子供は今17歳と9歳になって、ビンさんに似てとてもいい成績で勉強していると教えてくれた。よかったと、もう一度お祈りをして、お母様に暇乞いをした。噴出してくる気持ちは止められない。 女房と街をぶらぶらした。レックスホテルやベンタン市場の周りは随分ときれいになっている。昔あった店はほとんど新しくなっている。 とても洒落たファッションの店が並んでいる。女房がぶつぶつ言っている。一番気に入らなかったのは何でも高くなっていることらしい。ドンの価値も10年前と比べて50%ほどインフレになっているが、10万ドン(700円程度)、100万ドン(7000円程度)という紙幣が使われて、小奇麗な所でお茶でもすると10万ドンなどすぐなくなってしまうのである。以前は1万ドンでフォーを食べてコーヒーも飲めたのであるが。 タクシーの運転手さんと話しをすると、生活は前より大変だという。「タイドイ、マ、コン タイドイ、(変わったようだけど変わっていないんだね。)」というと本当にそうだと相槌を打った。一般の人たちの生活は決して楽ではなさそうだ。 女房は、仲のよかったお手伝いさんのユンさんと会いたがったが、うまく探し当てられず悔しがった。僕も仲のよかったプロジェクトのドライバーのチューさんに会いたかったがダメだった。どちらも南の人である。 ところが思いがけない人が僕らの来るのを聞きつけて会いに来た。以前ここでも紹介したかもしれないが、保健省から派遣され、家族のドライバーとして働いたトンさんである。
僕の顔を見るなり例の笑いで駆け寄ってきた。駆け寄るなり僕の頭を触って白髪が増えたナーなんていう。自分を見てくれ、と帽子を取ると、なんと髪は黒々して白髪が一本も見えない。55歳になるという。負けた、負けたと、僕も女房も大笑いした。この人にはやはり強運がついているらしい。 早朝に2時間かけてハノイに飛んだ。飛行機の中で隣に座った73歳のおばあちゃんがずっとベトナム語で話しかけてきた。自分の旦那、子供の話から孫の話まで、女房と僕の下手なベトナム語で半分位は話が分かったので嬉しい。 ハノイに降り立って驚いた。雨が降って、なんと寒いのである。ハノイは日本のように四季があって天気が悪い。4月のハノイを覚えていた女房は「知らなかった?」と、用意したセーターを着込んだ。僕はすっかり忘れていて、女房を少し恨めしく見ながらTシャツ一枚で震えた。 新しく巨大になったハノイ空港にヒエン教授が新品のトヨタの自家用車で同僚の村上先生と一緒にわざわざ迎えに来てくれた。ヒエン先生は今ベトナムの予防接種計画の責任者になっている。 街まで小一時間、田んぼの中の高速道路を走る。10数年前にはじめてハノイに降り立っときの驚きを今も忘れない。飛行場からハノイの街までの道はまさに農道で、牛車や荷車が行き交い、ひたすら働く農民の姿はまるで日本の江戸時代にでもタイムスリップしたような不思議な錯覚を覚えたのである。
道の両側から覆い被さるハノイの街路樹は今も変わらず見事だ。街の中心にあるホアンキエム湖は今もハノイ市民の憩いの場だ。この回りをよくジョギングをして道端のフォー屋で朝ごはんのうどんをすすった12年前を思い出す。それでも新しいホテルもビルも増え、街の中心は少しずつ動いているようだ。 ハノイでも訪ねる人がいた。チャック教授である。政府の要人でもあり、ベトナムの予防接種計画を10数年政府のトップで引っ張ってきた人である。高齢とは思えないハンサムな容貌、鋭い眼光と思慮深い話し方は当時から人を惹きつけた。 ちょうど一年前、マニラで8年ぶりに再会したチャック教授が、僕を暖かく抱きすくめてくれた事を忘れない。ベトナムに早く戻っておいでと言い残してチャック教授はその一ヵ月後心筋梗塞で急逝した。 温もりがそのまま残っていた僕にはベトナムの大事な光が急に消えてしまったようで悲しかった。ヒエン先生が手配していてくれて、ハノイに着くとチャック先生の息子さんに伴われて、郊外にあるお墓をお参りした。畑の一角に作られたお墓は意外にも土盛りをされただけの簡素なものだったが、雨の止んだ郊外の鳥のさえずりを聞きながら静かに祈る事で先生と少し話ができた気がした。 雨で煙るハノイの早朝の街路樹を散歩した。雨合羽でハノイ大学に通う勤勉な学生達、三角傘を被った道端の行商のオバサンたち、小さな椅子を並べるお茶屋さん。静かな街路樹の町並みの下に静かな普段の生活がハノイにはまだしっかりあるように感じて少しホッとしたのである。 僕のベトナムの旅は慌しく終わった。僕にとってベトナムの旅が決して楽しい思いだけではないのは、やはり自分にとってのひとつの原点への回帰の旅だったからなのかもしれないと今思う。 原点の場所への回帰がいいものかどうかはわからない。街の姿は変わり、人は去り、ある人は死んで、その流れは止める事もできない。それでも変わっていないと感じるものがある。 それはそこにある根っこのような物かもしれないし、それは僕自身なのかもしれない。僕はあれからどう生きてきて、これからどうするのだろうか、あの時の気持ちは今どうなのだろうか、僕は僕らしくちゃんとしているのだろうか…と。 心の中は答えのない問いで溢れた。ベトナムの人たちが静かにそれを僕の中に見たのかもしれない。はっきりしていることは、僕は今ベトナムでは生きていないという事だ。そこでの生活がなければ、僕が心から話せることがない。その意味でベトナムの旅は、かえって苦しかったのかもしれない。プノンペンに戻って、むせ返る暑い空気を胸いっぱい吸って、わかった。僕は今カンボジアで生きている、ここで生活している。だからここの人たちのことを一生懸命考えていようと。 |