んだんだ劇場2005年6月号 vol.78
遠田耕平

No48  イスラムの村の百日咳

悪夢か、寝室を襲う洪水
 カンボジアは正月も過ぎて、雨期が始まると喜んでいたのだが、なかなか、まとまった雨が降らない。カンボジアの広い空には立派な雨雲が連日漂っている。立ち昇る見事な入道雲と絡まりながら今日こそは降るぞと言う顔つきをしている。日中の暑い日ざしが夕方には掻き曇り、薄暗くなり、さあ、雨が降るぞと思いきや、これが降らない。夜も蒸し暑く、寝苦しい。冷房をつけたり消したり、どうも寝心地が悪い。
 変な夢をいくつもみる。よく覚えていないが、どうも気が付くと気分が悪いから悪い夢なのだろう。首筋にじっとりと汗が流れるのに気が付いて、薄目を開けると回りは暗いからまだ朝ではないらしい。また寝てしまう。夢だと思うが、ボタボタボタ、バチャバチャバチャ、と水の音がする。音は僕が寝ている2階の寝室のトイレのあたりから聞こえてくる。おしっこがしたいからこんな夢を見ているのかなと思ったりしている。それにしても随分大きな音である。
 音はどんどん大きくなる。変だナーと思っていると、突然体をゆすぶらされた。「パパ起きて、大変よ。」と女房が耳元で叫んだ。どうやら夢ではなかったらしい。まだ、外は薄暗がりで、夜が明けていない。本当にトイレの中からゴーゴーとすごい音がしている。ドアを開けるとなんと床は水浸し、天井から床に向って何本も水の柱が立っているのである。まだ何が起こっているのかわからない。いや、わかった。このトイレの天井裏、つまり屋根裏に大きな水タンクがあるのである。これがどうかなったのである。
 途上国の都市では水タンクを天井裏や屋上に置くのは常である。断水が多いということもあるが、最大の問題は水圧が低い事である。そのまま水道をひねっても水はチョロチョロとしか出てこない。そこで、屋根裏に水タンクを設け、ポンプで一旦汲み上げてから家全体に水を回すのである。
 つまりその水タンクが破裂したらしいのである。水は屋根裏に溜まっている泥も洗い流して頭の上から降り注いでくる。目を凝らして見ると、水は天井に取り付けてある電球の脇から大量に落ちてくるのである。感電するとまずいと思い電気を消したから、余計に何も見えない。そうこうしているうちに、バタバタという水音と共に寝室の天井からも水柱が立ち始めた。手当たり次第にゴミ箱やバケツを集めて水柱の下においたが、どうも大して役にたたない。
 その内、隣の客用の寝室からもバタバタと音がして、行って見ると水柱が立っている。考えれば屋根裏は全て繋がっているのであるから二階の部屋中が水浸しになるのかな?と嫌な予感が脳裏をよぎる。僕も女房も寝巻きのままで気がつくと、頭からびしょ濡れだ。タオルや布でジャブジャブと水を吸い込ませては、バケツに搾り取るのがこれもあまり役に立たない。なぜか我が家の愛犬だけは水の中をバシャバシャと興奮して走り回っている。
 やっと外が明るくなってきて、水の落ちる勢いがおさまってきた。どうやら水が落ちきったらしい。寝ぼけた大家さんとやっと電話で連絡が取れて、きてもらう。ホッとしたのか、濡れネズミになっている女房が水たまりの中に座り込んでニヤニヤ笑っている。どうしたんだと聞くと、女房もさっきは寝ぼけていたという。寝ぼけながらジョージョーという水の音を聞いて、僕がトイレで小便をしていると思ったらしい。それにしても、変だわと、いつもはしみったれた音で、閉め損ねた蛇口のように、チョロチョロとしか出ない亭主なのに今日は随分と勢いがいいわ。でもヤッパリ変よ、と思って目が覚めたという。なるほど女の想像はすごい。
 カンボジアの雨期はたまに豪雨となり、下水や排水が悪いのでアッという間に浸水する家もある。僕の貸家は土台が高いので大丈夫だと確信していたのだが、まさか2階の寝室の天井から水が滝のように落ちてくるとは思わなかった。幸いにもベッドへの直撃はぎりぎりで避けられた。屋根裏にも仕切りがあって、水の広がりをある程度防いだらしい。
 カンボジアは今年に入って日照りが続いて、作物への被害が大きかったのだが、我が家だけはお願いもしていないのに家の中にまで少し過剰な水の恵をくれたのである。

牛が占うカンボジアの豊作
 日照りと不作で思い出したが、最近、王宮の前でカンボジアの伝統的な耕作の儀式が厳かに開かれた。儀式は牛をひいて種をまく儀式と同時に2頭の王室の牛を王宮前の広場に放し、そこにお米、豆、とうもろこし、御酒、水、草と胡麻の入った7つの桶を用意しておく。牛がこれをどの位口にするかというのが占いである。カンボジアの人たちは朝から牛を取り囲んで、その食べるさまを何じっと見守るのである。
 今年の結果はこの王宮の牛たちは豆ととうもろこしを95%、お米を90%も食べたそうだ。これは豊作の印だという。お酒を飲まなかったのは戦争がなくて平和な印で、水を飲まなかったのは、十分な雨があって水を飲まなくてもいい、つまり十分雨が降る印だというのが占い師の結論である。今年はいい年になりそうだ、と見に来たお百姓さん達は胸をなでおろした。
 ちなみに去年はこの牛たちはご機嫌斜めで、どの桶の中身も少しも口にしなかったらしい。その結果が日照りのひどい不作となった。今年は直前に餌をやらないで牛の腹をよほど空かせて置いたんじゃないか?とか、去年は儀式の桶からは食べなかったけど、脇の草をバリバリ食っていたぞ、とか、陰口を言う人もいる。そう言えばインドの牛は何でも食べていたなと思い出した。
 まあ、カンボジアの伝統的な行事はポルポトの前後からずっと中断されていて、1993年から再開されたというから、伝統が復活し、大事にされるのを見るのは嬉しい。今年は雨に恵まれた豊作になって欲しいものである。ところで牛たちはこのあと、国王の前で悠々と大きな糞を落とされて、ゆっくりと桶の隣の草をお食べになっていたそうだ。

イスラムの村の百日咳
 ベトナム国境に近いカンダール県の村でまたしても百日咳が流行していると連絡が入った。イスラム教徒が集まっている村で、予防接種率の低い場所だという。車を飛ばして行ってみた。メコン川沿いの村の中に入ると、まず立派なモスクが目に入った。村長だという人は優しい顔をしている。女性たちはマレーシアの女性たちのようにスカーフを被っているのが特徴だが、その他は普通のクメール人と何の変わりもない。郡の担当者がイスラム教徒の村は貧乏で、非協力的で、いつも出稼ぎに出ていて、頭が痛いとぼやくが、行って見るといつも穏やかな顔つきの人たちに囲まれる。

村のモスク

村で出会った子連れのお母さん
 村中から咳が聞こえてくるかというと、そんなこともない。通りすがりのスカーフを被った3人の子連れのお母さんに子供を見せてもらうと、7歳の子供の胸からやはり痰の詰まる音が聞こえ、眼球結膜が出血している。ヤッパリ典型的な百日咳だな、と確信する。お医者さんが来て診察していると聞いて村のお母さん達が子供を連れてどんどん集まりはじめた。小さな子供が多い。あっという間に30人くらいも集まってくる。村のお産婆さんだという元気のいい女性が人ごみを整理している。僕は郡の担当者が上手に子供たちの鼻と喉から検体を採取するのを確認した後、何人かの子供たちの胸の音を聴いてみた。典型的な痰の詰まるズルズルした音が聞こえる子供は意外に少ない。
 そんなことをしていると、取り仕切っている元気のいい女性と長老格のお年寄りの女性が、次から次に子連れのお母さんを集めて、僕の前に並ばせ始める。僕もこうなったら全部診るかと、腹をくくって、汗だくになりながら慣れない聴診器を当てる。赤ちゃんが本当にたくさんいる。そして赤ちゃんは本当に可愛い。そんな赤ちゃんたちの胸に聴診器を当てていると、僕の顔が自然にニコニコしてくるのが自分でもわかる。それを見てか、お母さん達がわれもわれもと押し寄せてくる。なんだかお医者さんの美味しい所だけを貰ったような得した気分にしばし浸る。幸いな事にひどく咳き込む重症の子供はいない。赤ちゃんが一番心配なのであるが、重症の赤ちゃんもいないようである。

強い咳で起こる結膜の出血

若いお母さんと赤ちゃん。頭には薬草が貼り付けてある
 それにしてもワクチンを受けている子供が少ないのは残念だ。これほど組織立っていて、お母さんも子供のことを心配して、協力的なのにどうしてなんだろうと、どうも解せない。地元の保健所の活動に何か問題があるのかもしれないなと思ってみる。百日咳はワクチンで防げる。3種混合ワクチンを3回接種すれば小学校に入るまでは罹らないで済む。残念な事にこの村では受けている子供がほとんどいない。県の予防接種率は85%にも達するというのに現実には多くの接種漏れの問題がカンボジアに残っている事が分かる。
 気が付くとまた1人、赤ちゃんがお母さんに抱きかかえられて僕の前に差し出されていた。僕の聴診器を機嫌よくおもちゃ代わりにいじるもみじのような手をそっと触って、胸の音に耳を済ませる。「バーン(大丈夫だよ)」とお母さんに言うとお母さんはホッとした表情を一瞬見せた。空に立ち上がる熱帯の白い雲に目を向けながら、僕でもまだ役立つ事がありそうだなと、小さく呟いた。


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