遠田耕平
初めての北京
WHOの西太平洋地域の予防接種計画総会が北京で開かれるので、カンボジアの保健省の先生達と一緒に、ついでに女房も連れて北京に向かった。わが愛犬はお手伝いさんに任せて一週間お留守番である。 北京までカンボジアのプノンペンから直行便が飛んでいる、乗り換えなしで5時間余りで行くというので喜んだが、実はそんなに簡単ではなかった。中国南方航空の小さなジェットに乗り込んで無愛想な中国人スチュワーデスの出すプラスチックのケースの味気ない機内食を食べると、2時間余りで香港の北の広州(Guangzhou)で降りてしまった。 トランジットかなと思い、飛行機の中で待とうと思っていると、降りろと言う。導かれるままに新しい巨大な飛行場の中を散々歩かされたあげく、結局入国審査に辿り着いた。つまり、ここで入国しろ言うのである。慌てて入国審査の申請書に書き込んで、少し緊張気味に日本のパスポートを見せた。というのも実は2日前にベトナムで厚生労働省からWHOに出向している日本人の同僚が、広州から入国しようとして、入国を拒否されベトナムに戻されたというのである。 彼は日本人だからビザが要らないと思い、WHOと日本の公用パスポートをみせて、そのあげく、追い返されたのである。中国は日本人の観光と商用目的には2週間までならビザ無しの渡航を認めている。ところが公用は認めていないのである。妙な話だが、役人が公用で来るならビザを取って来いというのである。 僕は、普段海外ではWHOの公用パスポート(レッサーパッセー)を使うが、今回は入国申請書に観光目的と書いて、日本の通常パスポートをそろりと見せた。ビザがない!といわれたらどうしようと、女房も僕もハラハラしたが、何とか通過。通常パスポートは有難い。 それからまた空港内をぐるりと歩かされて、またもとの飛行機に押し込まれた。2時間半余りで北京に降り立つ。ひとまず100ドルを元(ユアン)に換金し、タクシーでホテルに向う。僕が中国人に見えるのかみんな必ず中国語で話し掛けてくるが、こっちが英語で話すと全く通じていない。漢字で書いたホテルの住所を指で示すと、太った不愛想な運転手が頷く。運転席を防犯用の鉄格子で囲んであるのでどうも息苦しい。 外は天気なのだが、霞みがかかっているようで白っぽい。風景はぼんやりして、なにやら蒸し暑い。高速道路を走って市街に入ると、高層ビルやアパート、立体道路ばかりが目に付いて、中国らしい瓦の民家がひとつもないし、どうも庶民の生活が見えないのが何か不自然に感じる。 観光目的と入国申請に書いたからという訳でもないが、会議の前のミーティングを早めに切り上げて、天安門と紫禁城のある故宮を見て来ることにした。ホテルの前が都合よく地下鉄の駅だったので飛び乗った。切符は40円、これがなかなか便利なのである。ひと駅で乗り換えると15分程で天安門前まで行く。 広場には外国人もまばらにいるが大部分は中国人の観光客でごった返してる。人民大会堂の前を通って、15分も歩いてテレビでおなじみの天安門の毛沢東の写真の所まできた。故宮博物院の入場券を買おうかなと思っていたら後ろから「入場券はあちらですよ。」と日本語で話しかかる声がある。顔を見ると意外に純朴な顔をした35歳くらいの中国人だ。 ガイドをするのかと聞くと、日本人観光客が例のデモのあとほとんど来ないので暇だから安くしておくという。ガイドはいなくてもいいと思ってはいたが、800円まで値切って、まあ、お願いしようという事になった。 この人、賀さんという。時折分からない日本語になるがとにかくよく説明してくれる。僕は団体旅行をした事もないし、ガイドを頼むこともほとんどないが、やはり中国の歴史を知るにはガイドは助かる。 明、清の24の皇帝が491年間(1420年〜1911年)居住した紫禁城のある故宮である。似たような形の壮大な宮殿が幾層にも幾層にも続いていて、自分がどの辺を歩いているのか分からなくなる。何度も焼けて修復されたらしいが、大理石の橋、階段、テラス、黄色い瓦屋根と魔よけの飾り、全て同じ様式だ。 ここは映画「ラストエンペラー」で使われたと何度も説明するので、カンボジアに帰ってもう一度ゆっくりDVDで見直した。清王朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)の話である。見ると紫禁城が本当によく使われているのが分かった。それにしてもあまりに宮殿の形も部屋の形も似ているので、ここに住んでいた人はさぞかし退屈だっただろうと思う。 2時間以上歩いてやっと故宮の裏門に辿り着いた。そこには皇帝たちが作らせた人工の山、景山公園がある。まだ時間があったので登ってみた。登ると胡宮が一望できる。ここのお茶屋で一服、売り子さんの見事な講釈でお茶の試飲をして、少しお茶を買った。見事な日本語の講釈に驚くと、「みんな公務員で、観光専門の学校の卒業生たちですよ。」と賀さんが冷静に説明してくれた。彼もその一人らしい。
中国といえば食だが、初日の夜、ホテルの近くで本場の四川料理を食べて大失敗をした。唐辛子の一杯入った油の鍋に真っ赤に焼けた石を入れて油を沸騰させ、それに牛肉をしゃぶしゃぶのように入れて食べる。思ったほど脂っこくなく唐辛子もあまり気にならずによく食べた。 しかしそれからが悪かった。自分が唐辛子は苦手だと言うことを忘れていた。適当に食べる量を調整していた女房はすぐにグーグーいびきをかいて寝てしまったが、僕はお腹の中が火山のように火を噴いている。お尻まで何やらむずむずして、仰向けになっても、横を向いても、うつ伏せになっても眠れない。結局朝方トイレで出る物が出るまで安らかな時間はなかった。 会議の話はさておき、保健副大臣の招待の晩餐会で出た中華料理はひどかった。なんだかいろいろ出てはきたが、おいしくない。後で聞くと随分と予算の節約をされたらしい。 楽しかったのはそのあとの夜食だった。深夜11時近くなって、日本から厚生労働省にいる親友の牛尾さんと感染症研究所の岡部先生が到着したので、久しぶりの再会を祝そうということになった。ホテルの店も閉まっているので、ホテルの近くの店を探してみると、赤提灯が並んでいるのを見つけた。結構客もいる。店の外でイスラム教徒の中国人が羊の串刺しを炭焼きしているので頼んでみた。これが、スパイスは少しきついが、青島(チンタオ)ビールを片手に、実に美味い。久しぶりの友人達との再会がさらに味をましてくれたのかもしれない。 朝食にも発見があった。ホテルの朝食が一人20ドル以上もして、毎晩食べ過ぎの二人は、朝ごはんのことを考えるのが少し憂鬱だった。するとマニラの事務局にいる同僚の佐藤先生が、近くに美味しい所があるよと連れて行ってくれたのである。 ホテルのすぐ裏にある大衆食堂だ。店の前では雑巾のような形のパンを揚げている。中には簡単なテーブルと椅子が並んでいて、入り口でお姉さんが豆腐のあんかけ、ワンタンスープ、肉まんの限られた品を手早く手渡している。手振り身振りで注文するとどんぶりに入れてくれた。どれも10円から15円程度である。それから豆腐のあんかけは僕らの最高の朝食になった。 横を見ると背のスラリと高いモデルのような容姿の中国人女性がその雑巾のような揚げパンを大根の漬物と一緒に箸でちぎりながらそそと食べている。僕と女房には北京に来てから共通の疑問があった。それは背が高くスタイルの極めていい中国の若い女性達がとにかく目立つ事である。こんなに脂っこいものを食べているのに…、横で揚げパンを食べている女性もしかり。「きっとお茶がいいんだわ。」とお茶をしっかり買い込んだ女房はそう結論付けてしまったが、僕は今でもまだピンと来ない。 食いしん坊の女房は中国でないと食べられない果物はなんだろうと考えていた。そして気が付いたのが「桃」である。ホテルの近くを歩いて、道端に行商のくだもの屋を見つけた。一個40円弱くらい、二つ買ってみた。カンボジアには持って帰れないので早速かぶりついてみた。さすがにうまい。さすがに桃源郷である。 スーパーマーケットにも入ってみた。いろんなお菓子を売っている。おいしそうなお饅頭のように見えるが、どうも味が想像できない。ところが女房が見つけた蒸しパンがうまかった。一切れ10円くらい、クルミやナツメが入って日本でも味わった事がないくらい美味しいのである。あまり美味しいので、帰る直前に少し買ってカンボジアに持ち帰り、しばらく食後の楽しみとなった。
会議が終わった後、一日休暇を取って、お決まりの万里の長城まで行った。ホテルでツアーを頼むと、ツアーは僕らを入れて8人、アメリカ、オーストラリア、インドネシアのカップルの小さなグループである。中国人ガイドの耳障りな英語と笑い方に少し辟易したが、北京に一番近い万里の長城の八達嶺には高速道路で一時間もかからないで行ける。以前は一日がかりだったらしい。 車が高速道路を登っていくと、周囲の山の稜線に沿って城壁が、途切れ途切れに見えてくる。この城壁は紀元前3世紀に秦の始皇帝が北方匈奴の侵略を防ぐために完成したといわれ、全長6000km、その後2500年間拡張、増築を繰り返し、明の時代にモンゴルの侵入を防ぐために大修築をして今の形になったらしい。 6000kmが続いているわけではなく、2−5km程度で途切れ途切れになっている。高さ7mの城壁の上には幅6mの道がある。観光客が一杯で、行列で歩くのだけは御免だと思っていたが、着いて見ると、行列するほど人はいない。が、やっぱり中国人観光客が多い。 2時間ほど歩いて一番高い所まで上り詰めた。城壁はそこで一旦終わり、その先にまた別の城壁が続いている。登ってきた城壁を振り返って見ると、反対方向に急峻な城壁がもっと長く別な峰に続いていたのが分かった。観光客はほとんどいないし、そちらを歩けばよかったな、と少し後悔。万里の城壁が好きな人は何日もかけていろいろな稜線を歩くらしい。 帰る日の午前中もまだ観光にこだわった。例の賀さんに頼んで、西大后が贅沢を極めたというサマーパレス(い和園)と北京動物園をタクシーで回る事にした。北京動物園はパンダしか見られなかったが、これが一番笑えた。 4頭を見たがどれもやたらと動き回っているのである。外で放し飼いになっているパンダはひっくり返って僕らのほうを見ながら目の前で草や笹をむしゃむしゃ食べている。時折気がついたように僕らのほうをじろりと見る顔がおかしい。そしてまたむしゃむしゃと食べる。別なパンダは木に登ったかと思うと飼育係の声で重い体を器用にお尻からそろそろと降ろしてくる。 さすが本場のパンダ、動きが違う。飼育係の人の中国語をパンダは好きらしい。大きい身体で、小さなことなんか少しも気にしていないような、そんなパンダの動きが、なんとも愛らしいのである。
北京は今、2008年のオリンピックに向けて建築ラッシュである。たまたま建築現場を通りかかると、ヘルメットを被った労働者達が群れている。何をしているのかな?と傍によって見ると、大きな蒸しパン一個とキュウリの漬物のような物を一人一人に配っている。受け取った人たちはその場にしゃがみこんで無心に食べている。 こんな粗末な食べ物で、こんな危険な重労働をしている。見ているうちに、ふと中国はこれから何処に行くのかなという気持ちが脳裏をよぎった。地方から出てきて、どんな低賃金でも働く労働者たち。10億人と言われる貧しい農村の人たちが今の中国の発展を支えているのだろう。 豊かさと貧しさのコントラストはこれからもっと鮮明になる。13億の人口が良いとか、悪いとかという考えではなく、生き残りたい、少しでも豊かになりたいという物凄い情念でうごめいている様にさえ感じる。そして、良いとか悪いとか言うことでは計れない、よく見えない未来に動き出しているように感じる。誰も止められない。中国はこれからどうなるのだろう。13億の人口が経済利益だけを追い求めたらどうなるのだろう。アメリカよりももっと合理的なもっと冷たい世界も見え隠れする。 そんな取りとめもない不安を抱きながら、また少々不快な中国南方航空に乗って僕らは小さなカンボジア、それでも問題山積のカンボジアに再び戻ったのである。 |