んだんだ劇場2005年10月号 vol.82
遠田耕平

No52  愛すべき保健師たちへ

再び水の中の村へ
 今年の9月のプノンペンはよく雨が降る。午後に降る日が多いのだが、夜中から明け方にかけて降る日もある。もちろん半日も降り続くようなことはなくて、必ず熱帯の蒸し暑さが日中のどこかに戻るのであるが、それでも今年は雨が多い。通いつけのホテルのプールの裏を流れるメコン川とトンレサップ川の合流点の中州はもうすっぽりと水没し、中洲に生えている木のテッペンの枝が数本見えるだけだ。もうあと1メートルくらいで水が土手を越えてこちらに流れ込んできそうである。
 再び数日かけて先月号でお話したベトナム人やイスラム教徒(チャム)の多く住むメコン川沿いとトンレサップ湖の集落を訪ね、3県を旅した。今回は、これも先月号で紹介したクメール語にベトナム語の対訳をつけた予防接種キャンペーンのメッセージを印刷した試作のビラを携えて、村の人に読んでもらい、意見を聞くのが大きな目的である。
 プノンペンをメコンの上流に向って2時間車を走らせるとコンポンチャム県の「きずな橋」に着く。この橋は日本の援助で2年前に完成したメコン川にかかる全長数キロに及ぶ立派な橋である。そのたもとには今や赤茶色のメコンの水が膨れ上がり、今にも堤防を越えようとしている。メコン川の膨れ上がる水量と赤茶褐色のその鮮烈な水の色は、メコン川の中を走っている僕の頭上に広がる360度の空の紺碧の青さと、周囲に立ち上がる雲の白さとに強烈なコントラストを見せて心を魅了する。その橋のたもとから小さなスピードボートに乗り込み1時間以上さらにメコンの上流に遡ると川沿いに人口十万人程度の郡がある。その70%以上はイスラム教徒だという。郡の予防接種の担当者とキャンペーンのやり方を話し合ってから一緒にイマム(長老)に会いに行った。

赤褐色の水で膨れ上がるメコン川ときずな橋

イスラムのお母さんと赤ちゃん
 イマムは高床の家の下にある床机台で昼寝をしていた。思ったよりも若い人で、突然の来訪者にも嫌な顔をせず、協力的だ。クメール語のメッセージを丁寧に読んでくれて、20人近くいる他のリーダーたちにも知らせてくれると言ってくれた。
 翌朝コンポントム県に走る。ここを流れる川は大きく蛇行してトンレサップ湖に流れ込む。この川沿いに未登録の集落がたくさんあるというので舟に乗った。県の衛生部の人たちが昼の弁当やら果物をたくさん舟に持ち込むので変だなと思っていたら、なんと保健所に辿り着くまで1時間半、人っ子一人いない荒野の湿地帯を回りに見ながらさらに一時間半、川を下って出会ったのは数軒の掘っ立て小屋と数えるほどの人だけである。確かにワクチンを受けてない子供、保健所の場所も知らない人たちであるが、今回のキャンペーンの対象ではない。これ以上行くと夕暮れまでに戻れないというのでまた3時間かけて引き返した。
 ボートで川を行き来していれば、同じカンボジア人の間ではもう少し情報がよく伝わっていてもよさそうな気がするが、そうでもない。とにかく動いて商売をして儲けようという考えよりも、ガソリン代がないのでなるべく動かないでいようという考え方なのかもしれない。病気の発生という点から見ると人が動かないのは助かるが、集落や地域住民の中での情報の伝達が少ない点がカンボジアの弱点にみえる。
 夕方からの激しい雷雨の中を車で走りシエムリエップ県まで辿り着いた。この町はアンコールワットの観光で有名だが、最近は来るたびに街の感じが変わっている。ここ1,2年で洒落た新しい店やホテルが急速に増え、周辺の村からも人が流入して、街はどうも埃っぽく、以前のような落ち着きがない。

ビラを読むベトナムの水上生活の家族

ベトナムの水上生活の村のリーダー(左)と保健師
 ここではトンレサップ湖畔にある保健所を訪ねることにした。雨期のトンレサップ湖の様相は乾期の姿からは想像もつかない。トンレサップの湖サイズは雨期のメコン川からの逆流で2倍以上に広がり、様相を一変する。トンレサップ湖周辺の道路は全て水没し、土手だけがかろうじて道路の代わりに一部残っている。周辺にある広大なブッシュが水浸しになる。実はここがトンレサップの魚達の大切な産卵場所になるのだが、最近の開発や埋め立てなどで、この産卵場所が一気に減り、トンレサップの漁獲量が激減したという。政府はやっとブッシュの保護に乗り出したらしいが、皮肉なものだ。ほんの十年前までは取りきれないほどの魚がそこにいたというのに。
 土手が途切れるところまで車で走り、そこから舟に乗り換えて保健所に辿り着いた。人口1万人余りの地域だが、今の時期はトンレサップ湖に散らばっていたベトナムの人達が雨期で荒れる湖を避けて内陸側に集まってくるので人口は2倍近くに膨れ上がるようだ。
 保健所のスタッフを伴って水草の間を走りながらベトナムの人たちの舟を訪ねて見る。たくさんの赤ちゃん達に出会うが、残念な事に1人としてワクチンを受けた子供たちがいない。保健所はどこにあるか知っているし、お産を保健所でしている人も多いのにワクチンのことは知らない。保健師はいったい何をしているんだろうと疑問が湧く。
 ベトナムのお母さん達にベトナム語のメッセージを見せたが読める人は思ったよりも少ない。若い連中を呼んで読ませると、たまにちゃんと読める子がいたりする。しかしリーダー格の男性はしっかりとベトナム語を読んでくれた。ワクチンの意味や、ただで保健所でいつでも受けられる事など、納得して、「こういうことは前もってしっかり伝えるのがいい。」という。別のベトナムの集落で350家族ほどを管轄するリーダーは、ベトナム語もクメール語も実に流暢で、「すぐにこのメッセージのビラをくれたら全家族に配って周知させよう。」と約束してくれた。
 保健所の近くに住むクメール人の水上家族達も訪ねてみた。クメール語のメッセージを見せたが、クメール語を読める人が意外に少ない。一度もワクチンを受けていないという子供は少ないが、どの子も定期接種のスケジュールを完了していない、いわゆる落ちこぼれである。母親達にメッセージの内容を話すと始めてわかったという。近くに保健所があるのに保健師たちはやっぱり何をしているのだろう。

保健所を殺すな
 先日ある県の会議に招かれた時に、地域のリーダーが「保健所からの情報がないし、アプローチが悪い。」と非難したことを思い出した。その時は保健師の苦労も知らないで、勝手な事を言うなと感じた。でも、本当のことかもしれない。保健所は一体誰の物だろうと考えてみる。
 保健所は確かに国が建てたもので、公的機関ではあるが、その役割もサービスも実はその地域の住民に帰属する物なのである。その地域の住民が保健所を利用しなければ保健所は自然に消滅するし、地域住民がより多く活用すれば保健所は息を吹き返す。保健所の存在価値を決めるのは100%地域住民だろうと言いたいのであるが、果たしてそうだろうか。予防保健のことをあまり知らない地域の人達がどのくらい自分達で理解できるかは、やはりよほど優れたリーダーがいない限り限界がある。では保健所のスタッフがどのくらい地域住民にその役割と意味を分かってもらおうという努力をしているかと言うと、この辺が実に疑問になってくる。
 以前耳にした日本の保健所の歴史を思い出した。戦後の日本の保健師の戦いは結核対策だった。当時村に派遣された保健師たちが直面するのは村人の結核に対する諦めとよそ者に対する警戒心。保健師達は村人が田んぼから家に戻る夕暮れを狙って毎日夜遅くまで家への訪問を繰り返したという。結核の早期発見、早期治療を少しずつ根付かせていった。そして予防接種事業、出産の介助と地域の健康を守る大事な存在となっていった。
 僕がカンボジアの保健師だったらどうするだろうかと思ってみた。地域住民が悪いんだと居直るだろうか。それとも保健所のサービスを分かって貰うために自分の足で出向くだろうか。僕は水上の村を回り、しっかりと話を聞いてくれるリーダー達に出会えば出会うほどに、今のカンボジアの保健所の側に足りない所があると考えずにはいられなくなってきたのである。
 カンボジアには保健所を支える地域委員会という立派なものがあるらしいが、どうも名前だけらしい。どうして名前だけかと言うと、地域の人たちにどうして保健所を支えないとならないかがハッキリしていないからである。地域の人たちに説明するのは誰か、それはやはり保健師しかいないのである。地域住民に理解されない予防医療は存在できない。治療なら、死にそうならひどい医者だと思っても、そこしかなければ、行くのであるが、予防はそういうわけにはいかない。悪くなっていないのだから、意味が分かって初めて保健所にも出向くし、予防医療を受け入れる事が出来る。
 カンボジアの保健師の給料は確かに安い。たった30ドルの月給が何ヶ月も遅れてくる。田舎でも30ドルじゃとても暮らせない。住民を訪ねる足代もない。保健所にいれば安い薬が手に入ったり、わずかなお金が入ったり、少し得なのでいるだけ。いい仕事があったらいつでも辞めたい。そんな声が聞こえる。いまでも地方にいく保健師の数は減り続けている。
 住民のことを考えると言ってもまず自分の生活のことが先だろう。それを非難する事は誰も出来ない。でも、何か少しの工夫と、少しの気持ちと、少しの心で地域の人が喜んでくれる方法があるんじゃないか。それはそこに住んでいる人にしかわからない何かで、それはきっとここの保健師達が見つけてくれる筈だと、僕は信じている。答えが簡単なはずはない。ただ、保健所を支えるのが地域住民なら、地域住民を支えるのはやはり保健師たちなのだと言いたい。僕の仕事に対する好奇心も、その行き着く先も辺にあると言ってもよさそうだ。この話しはまだまだ続く。終わりがない。

チェンマイの石川一家
 バンコクで会議があったので、ついでにタイ東北部、ミャンマーの国境に近いチェンマイまで足を伸ばした。そこに住む石川尚子一家を女房と一緒に訪ねたのである。石川さんは「んだんだ劇場」の「Drナオコのアジア家族放浪記」でもお馴染みだが、実は僕の大事な大学の後輩でもある。僕の無責任なアドバイスのせいで彼女はこんななってしまったと思っている人もいるようだが、僕としては彼女の才能も、人間性も、類稀な実行力も大いにかっているのである。
 数年ぶりに再会したが、家族と会って僕の心配も杞憂となった。相変わらずお金はあまりなさそうであるが、とても幸せそうである。彼女達自身もとても幸せだと言う。ご主人のカレン族出身のオニさんが手によりをかけて作ったカレン料理をご馳走してもらいながら僕も幸せになる。5歳になる長女のマナポちゃんはパパの膝の上ではカレン語で話をし、ママの膝の上では日本語で童謡を歌う。一歳になったばかりの次女のサワポちゃんにも、二人は自分達の母国語で話し掛ける。マナポもサワポもパパの貴重な小数民族の文化とママの日本の文化をつなぐ小さな青い鳥のようである。石川夫婦がお互いの文化の大切さをしっかりと尊重しているのが心を和ませる。石川さんは今ロンドン大学の博士課程の研究をHIVエイズの子供の教育問題をテーマに進めている。オニさんは主夫としてしっかりと彼女と家庭を支えている。石川家のあまりお金のない、それなりに十分に幸せな生活はまだこれからも続きそうである。
 チェンマイでもうひとつ楽しい事があった。象の学校である。象使いに世話されている何十頭もの象が山の中腹で訓練されているのである。観光化されているとはいえ何十頭もの象に囲まれるのは不思議な気持ちである。象に乗って雨にぬかるんだ山の中腹を歩いてみた。巨体な象がぬかるみに膝まで足を沈めながら山道を歩く。ぬかるみから足を引き抜き、前の象が歩いた固い足場をゆっくりと探して次ぎの足を運び、バランスを崩すことなく歩を進めていく。背中に乗せられているとその動きはまさに感動的だ。
 この象さんたち、サッカーも見せてくれるのであるが、もっと驚いたのは鼻で筆を握ると白いキャンバスの上に少しシュールな見事な絵を描いてくれるのである。象はおりこうさん以上。つぶらな象の目を見ていたら4年前にインドのジャイプールで乗った象の目を思い出した。一歩一歩じっと耐えながら山を登るあのつぶらな目を、与えられた運命に逆らう事もなく、じっと耐えているあの優しい目を。人間はいつまでも動物から教えられる事の方が多そうだ。

チェンマイの象さんの学校


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