んだんだ劇場2005年12月号 vol.84
遠田耕平

No54  ビエンチャンと世界遺産の町

カンボジアの水祭り
 11月は実に慌しく過ぎた。長ったらしい英語の報告書書きを3つも抱え、B型肝炎の血清調査の準備、その上、連日のようにこれまた長ったらしいミーティングが続く。舟に乗ってフィールドを渡り歩いた先月とは打って変わって、プノンペンに幽閉されたようだ。もちろん毎日泳いではいる。でも、あとは、ひたすらオフィスと保健省との行き来である。カンボジアにいるのだからもう少しのんびりしていてもいいのではないかと思うのだが、思いとは逆にやる事はなぜか雪だるまのように増えていく。もちろん保健省の仲間たちも忙しい。長ったらしい報告書書きが僕にポイと投げられるのも、その副産物のようなものである。まあ、暇すぎるよりか、前向きなのだからいいのだろうとも思うが、もう少しゆっくりでも良さそうだ。
 11月9日は独立記念日だ。この日は1953年、シアヌーク王が90年間のフランス植民地支配から完全独立を果たした日である。フランスは翌1954年、ベトナムのディエンビエンフーの戦いでの大敗を機にインドシナから撤退し、代わってアメリカが北緯17度線を境に南ベトナムを傀儡化、共産勢力によるドミノ理論を唱えて、ベトナム戦争に突き進む契機でもあった。
 この日はまた、我が家の犬の散歩道にもなっている汚い独立記念塔が年に一度清掃され、王様によって火がともされる日でもある。テレビで見たのだが、去年即位したばかりのシハモニ王が、たくさんの学生たちや群集に囲まれてその一人一人全てと笑顔を絶やさず、丁寧に両手合わせては握手をしていくその様は、一種の感動だった。僕は正直、目を疑った。ゲイだからかな?とも思ったが、それにしてもすごい。いくらカンボジアとはいえ、一国の王様が、こんなにも民衆に近いとは。春の園遊会とかで「あ、そー。」とかいう挨拶を繰り返す姿をテレビで見慣れていた僕には、なかなかの感動であった。勿論、数日後にはまたもとの小便の臭い漂う独立記念塔に戻ってはいるのであるが。

 今年もカンボジアの水祭りがやってきた。11月の中旬、満月の日を中において3日間ボートレースが続く。このレースをはさんで官公庁は一週間休止状態となり、この時期、地方から上ってくる人で、100万とも150万ともいわれるプノンペンの人口は2倍に膨れ上がる。プノンペンは騒がしい。今年も400艘近い舟が一対一のレースを朝から晩までやって勝敗を競う。
 今年はタイ、ベトナム、ラオスを招待して国別対抗レースをやったらしい。結果はカンボジアが負けてしまったが、カンボジアの新聞はタイが何ヶ月も特訓した軍人たちを漕ぎ手にしていた、とこき下ろしていた。去年は雨が降って、沈んでいく舟もあったが、まあ、今年は天気がよくてよかった。僕は初日だけを行きつけのレストランのテラスから観戦して、それから女房を連れてラオスに遊びに行った。

ラオスの首都ビエンチャン
 プノンペンからメコン川の上空を上流に向かって1時間半余り飛ぶと、そこはメコン川のほとりの町ビエンチャンである。川向こうに見えるのはタイの町である。僕は8年前に仕事で来たことがあるが、そのころは舗装道路は町の中心部の一本だけで、車も少なく、人も少なく、静かで、本当に気持ちのいい町だった。
 最近の友人たちの話でも相変わらず田舎だというので、少し期待して降り立った。ところが、道路は見事に舗装され、数こそプノンペンより少ないが、きれいな車やバイクがひしめいて走っている。高いビルは、たぶん規制があって少ないが、こじゃれた店も飲み屋もある。汚かったマーケットはすっかりきれいになり、タイの田舎の小都市とまったく変わりなく見える。
 僕の空想は見事に立ち消えた。数ヶ月前にアセアンの首相外相会議が開催され、それに合わせていろいろなものが整備されたらしいが、それにしても、10年の変化はこれほど静かな山の国を変えてしまうのかなと思う。プノンペンの変化もたぶん同じだろう。
 ビエンチャンでは、最近カンボジアからラオスに移った友人たちにとてもお世話になった。どこに行くときでも、そこに友達がいると気持ちが和む。見知らぬ場所を見る目も変わる。だから僕は友達のいない国にはあまり行く気が起こらない。
 ラオスのひとつの楽しみは手織物だ。ラオスの手織物は繊細でいながら、柄にもパターンにも自由でどことなく艶やかさがある。山の人たちが伝え続けてきた伝統がある。
 友達が紹介してくれた職業訓練センターにいった。日本の援助で立ち上げたものらしいが、今では立派に自立している。ひとつの染色、ひとつの織りに何十日もかける。カンボジアにも歴史のある独自の手織りがあるが、その伝統を継いだ織り手はポルポトにほとんど殺された。日本の職人が消えた伝統の織りを復活させているとも聞いたが、本当の伝統がまた息を吹き返すにはどれほど時間がかかるのだろうか。

ビエンチャン市街

機織り

世界遺産の古都ルアンプラバン
 僕らは首都のビエンチャンから飛行機で30分北上したルアンプラバンに飛んだ。ルアンプラバンは世界遺産にもなっている古都である。ラオ族によって14世紀に栄えたランサン王国の首都が置かれ、その後16世紀にビエンチャンへ遷都をするが、1975年共和制に移行するまで王宮がおかれた。
 メコン川の周りの風景はここまで来ると少し違う。小高い山や岩肌をむき出しにした崖が時に流域を囲み、その間をメコン川が流れている。川の中央の浅瀬にはフランス植民地時代に作られた道標がところどころに高く立って、水位を今も教えてくれる。

ラオスのうどん(カオーピエック)、もち米の麺で、少々どろどろするが、腹持ちがいい。

ルアンプラバンのお寺、ワットシェントン

 ルアンプラバンはメコン川の畔の小さな町だが、朝靄の中を仏教寺院から出てきたたくさんの僧たちが托鉢に歩き、近くの山に住むモン族が民族衣装に身を包み、道端で素晴らしい手織りを売ることで有名だ。僕の期待と空想はパンパンに膨らんでいたわけだが、小さな路地にあふれる観光客を見て僕の空想は見事にしぼんでしまった。
 毎夜路上を埋め尽くす裸電球で照らし出される織物市は確かに見事だが、観光客が多すぎる。フランス、イギリス、ドイツ、北欧、アメリカの欧米人に混じって日本、韓国、タイのアジア人がいる。道路は小奇麗に舗装され、欧米人向けのベーカリーが立ち並び、マッサージ屋が並び、山岳部族の村を回るアドベンチャーツアーの広告が目に飛び込む。
 小さな町には建てかけの新しいゲストハウスが目立つ。これからこの町はどんなに変わってしまうのか予想もつかない。昔ながらの静かな神聖な風情が消えようしているのがはっきり感じられた。僕はどうしても自然と不機嫌となり、つい女房とも口喧嘩をしてしまう。これがまた憂鬱に拍車かける。
 あなたのような人間ははじめから観光地には来なければいのよ、と言いたげな女房の横顔をみながら、僕はまったくだと思っている。でもやっぱり行ってみたい観光地がある。この目で実際に見てみたいという欲求はある。勝手に空想を膨らませ過ぎるのが僕の問題であるようだ。
 とはいえ、僕の空想癖はどうにもならない。これからますます世界は狭くなり、どんな世界遺産へもツアーで翌日には行けるようになる。ところがどこも、何かが似ている。どこも車とバイクと店が増え、人もゴミも増えて騒がしい。お金を求めて集まる現地の人の目もすさみがちだ。僕のような人間はできるならあまり観光地には行かないほうがいいよ、ということになりそうだ。一方で、僕は仕事柄ずいぶんと得をしているなと思うことがある。それは現場で時に本当に心洗われる風景や情景に出会うことがあるからである。そのとたん、僕の空想は自由に何の遠慮もなくはじけていくのである。
 ルアンプラバンからビエンチャンに戻ると、友人たちがおいしい鍋を食べようというので連れて行ってくれた。道端に小さなテーブルをいくつも出した店で、テーブルの中央に穴を開け、小さな七輪をはめ込んで、鍋をかける。地元の若者たちもいっぱい来ている。乾季に入ったせいでラオスの夜風はセーターがほしくなるほど冷たい。野菜と肉を入れながら、冷たい外の風に吹かれてついばむ鍋は最高である。僕の不機嫌は優しい友達たちのお陰ですっかり吹き飛んだ。

ルアンプラバンの朝の托鉢

店番のかわいい子供


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次