鎌倉への逆襲
1182年(寿永元年)伊豆鯉名浜で捕えられた伊東祐親(いとうすけちか)は源頼朝によって幽閉され、その後自害した。この頃から平家は衰退し続け源氏軍の勢いは増すばかりであった。奥州平泉(現・岩手県平泉町)から頼朝のもとへ駆けつけた、源義経や木曽義仲といった源氏の武者たちが活躍したのもこの頃である。
祐親の後継である、伊東祐清(いとうすけきよ)は源氏からの要請を断り平家方についた。これも父、祐親の遺言を忠実に守ってのことであろう。平家の棟梁、平清盛はこの前の年に病死している。頼朝の首を見ることなく熱病で苦しみながら死んでいった清盛。勢いを失いかけた平家方は北陸道から進軍する源氏方の木曽義仲を討つべく平教盛(清盛の弟)、維盛(清盛の孫)を北陸道に派遣した。どうやらこの平家の軍勢に伊東祐清は加わったらしい。しかし、義仲の奇策が功を奏した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦」で平家方は大敗し、平家一門は命からがら加賀(現・石川県南部)まで後退したそうである。
翌年五月。一路、都へ北陸道を南下する平家の軍勢に背後から木曽義仲の軍勢が襲いかかった。「篠原の戦い」である。「修羅の巨鯨」によると、この戦いで伊東祐清は奮戦し命を落としたと言われている。
同年六月。木曽義仲は入京を果たし、平氏はついに西国へ奔った。しかし、横暴を極めた義仲と当時の都の権力者である後白河法皇は折があわず、法皇は頼朝に義仲の討伐を依頼した。頼朝の命を受けた源義経が翌年の1184年(元暦元年)1月に入京し、近江において木曽義仲を討った。
私は高校の山岳部に所属している。山や自然が好きということもあったが、やはりママチャリ愛好者でもある性癖が影響したのかもしれない。
2005年夏。その合宿で山梨県と長野県にまたがる「南アルプス」の縦走を行った。今、思うことだが、よくあの重量の重荷を背負って四日間にかけて縦走をしたものだと、我ながら驚いている。帰途、私は顧問に頼み長野県南西部の盆地に広がる「木曽路」に行ってみたいと懇願した。私は義仲のことではないが、別件でどうしても木曽路を訪ねてみたかった。唱歌「信濃の国」にも「信濃の国は十州に・・・♪」とあるように長野と一言にいっても広大である。また地域によって言葉や文化も違いとても私にとっては興味深い土地である。
私が初めて長野の土を踏んだのは、2000年(平成十二年)3月のことであった。前にも触れたが当時、戦国武将の武田信玄や上杉謙信に異常なまでの興味を持った私は一目でいいから、川中島の古戦場を見てみたかった。親に懇願して8日間かけて車で出かけることにした。故郷の伊豆に立ち寄り、富士山を東に仰ぎつつ、山梨から諏訪盆地へと入った。早朝、眼下に広がる「諏訪湖」の印象が未だに目に焼き付いている。この頃はまだ先祖にも興味はなく、この「諏訪」に先祖がいたんだ・・・くらいの感覚であった。甲州街道を北上して松本に入ったが、このとき長野県の地図を眺め「木曽」というところが想像以上に遠いということが分かってから、どうも頭の片隅から「木曽」というキーワードが離れない。言葉では言い表せないが、何か引っかかる存在なのである。
それから5年、ようやく木曽の土を踏むことができた。地名は長野県木曽郡だが、やはり文化や言語は長野のものではなく独特なイメージを持っているような感じを受ける。岐阜県中津川市から木曽時を北上し宿場が残る馬籠宿、妻籠宿、上松、浦島伝説の寝覚の床を観光して、木曽地方最大の街「木曽福島」に入った。ここには興禅寺という木曽氏の菩提寺があり、境内には東洋一という「枯山水の石庭」がある。石庭を拝観した後、木曽義仲の廟所を訪ねた。廟所の整備は想像以上に行き届いていた。更に驚いたのは外国人観光客が参拝に来ていたことだ。妻籠宿の観光案内所では英語を流暢に話す案内人がいた事を思い出し、このような木曽の山奥でもグローバルが進んでいると僅かながら実感した。
先祖を討った、義仲の廟所を参拝するということでいささか複雑な気持ちにもなったが、頼朝のために犠牲になったという点では全く伊東一族と状況は同じではないだろうか。
義仲を討った、源義経は翌年の1185年(文治元年)に平家を壇ノ浦(現・関門海峡)に追い詰め滅亡させる。平家一門の安徳天皇らは入水した。
翌年、源氏勝利に大きく貢献した義経はささいなことから頼朝の怒りを買い、追討命令が下される。義経は奥州藤原氏を頼り落ち延びるが、1189年(文治五年)奥州平泉の高館に攻められ討たれた。しかし、義経を滅ぼしたくない人々が「義経北行伝説」を唱え、数多くの伝説が北日本には残っている。
義仲、義経亡き後の源氏の体制は磐石なものとなり、1192年(建久三年)に後白河法皇の死と同時に頼朝は「鎌倉幕府」を開く。将軍の下、執権の北条氏を中心とする封建制度が確立した。この瞬間から今でいう「中世」という時代が始まった。
中世の始まりと同時に伊東一族の動向も激しくなった。祐親の嫡男、河津祐泰(かわづすけやす)の遺児の曽我兄弟らが父の仇を討つため幕府が主宰する「巻き狩り」と呼ばれる狩りにおいて工藤祐経(くどうすけつね)を見事討ち取る。しかし、この仇討ちは祐経に対するものでなく頼朝に対して、すなわち曽我兄弟の直系の祖父、祐親の仇討ちではなかったのではないだろうか。更にこの仇討ちには兄弟の烏帽子親でもある執権、北条時政も一枚噛んでいると言われている。時政と頼朝の不和が原因ではないだろうか。
1199年(正治元年)、源頼朝はあっけない最後を遂げた。この後、源氏の将軍は三代目で絶え、以後は北条得宗家が幕府の実質的な権力者となる。
北条得宗家のもと、承久の乱や元寇、更には霜月騒動など世の中の大きな変化の中で、私の先祖の動向はまったく途絶えてしまった。その空白はおよそ110年。110年後「諏訪家系類項」の系譜には「信員」という名前が突如として現われる。「大炊助嘉元度京師轉ス」とある。
嘉元年間(1303〜1306)というと、世の中の治安は乱れ「悪党」と呼ばれる組織が出没した頃である。しかも信員(大炊助)という人物はその治安の乱れの中心「京」に住していたというのである。この頃、幕府は元寇に参加した御家人たちに恩賞を与えることができず、御家人たちは多額の借金に苦しんでいた。幕府は援助策として徳政令などを出すも効果はなかった。1316年(正和五年)北条高時が執権となった。これが鎌倉幕府最後の執権となる。
これ以後、頼朝が築き上げた鎌倉時代は終焉を向かえ、混乱を極める「南北朝時代」に世の中は突入する。後醍醐天皇。足利尊氏。さらには日本中を巻き込んだ混乱の時代である。
息を潜めていた先祖、伊東一族はこの時代、大きく世の中に登場する。祐親の仇、「鎌倉」への逆襲が今、まさに始まろうとしていた。
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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『修羅の巨鯨 伊東祐親』(永井秀尚・叢文社刊)
・『週刊 ビジュアル日本の歴史』(デアゴスティーニ)
・『木曽福島町観光パンフレット』
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