鎌倉崩壊
鎌倉幕府の最後の執権となる北条高時が即位してから二年後、今後の世の中を大きく左右する人物が天皇として即位する。大覚寺統出身の後醍醐天皇である。しかし、後醍醐天皇の即位した時代は、鎌倉の地位が強まり、「持明院統」と「大覚寺統」という天皇家内の抗争があり、更には、後醍醐の父、後宇田院が「院政」を敷いており、即位したといっても後醍醐は「飾り」的なものであったと思われる。
しかし、後宇田院が「院政」を廃止すると、後醍醐は「天皇親政」を掲げ、積極的な政策を推し進めたのである。あまりの後醍醐の積極的な政策に北条得宗家は危機感を強め、ついに1324年(正中元年)後醍醐の近臣、日野資朝、俊基が六波羅探題(鎌倉幕府の朝廷警護役)に捕えられ、後醍醐天皇が密かに進めていた「鎌倉幕府倒幕計画」が露見してしまった。この事件は現在「正中の変」と呼ばれている。日野資朝は佐渡(現・新潟県佐渡市)に流されたが、後醍醐に対する幕府の沙汰はなかった。
後醍醐天皇はそれでも諦めず「倒幕」を掲げ、先の変で捕えられた日野俊基や醍醐寺の僧、文観らと綿密な計画を立てる。1331年(元弘元年)天皇家の内部から六波羅探題への密告があり、再度、後醍醐天皇は幕府から疑いをかけられた。俊基や文観は幕府に捕えられた。どうすることもできなくなった、後醍醐天皇は挙兵を決意する。同年八月、後醍醐は近臣の万里小路藤原藤房(までのこうじふじわらふじふさ)と供に天皇家に伝わる秘宝、三種の神器を抱え、内裏を脱出。京の外れ笠置山(かさぎやま)に陣を構え、河内(現・大阪府東部)の悪党である楠木正成(くすのきまさしげ)や比叡山や奈良の寺社勢力に働きかけ、支援を求めた。笠置山(かさぎやま)は京都府笠置町に位置する木津川を天然の要害とする標高300メートル足らずの山である。
長々と後醍醐天皇の笠置挙兵の経緯を綴ってきたが、実はこの歴史の大舞台に先祖の名前が登場する。「諏訪家系類項」では「十五 範武 左兵衛督従七位元弘元八月笠置戦死」とある。当初、この記述を見た私だが意味が分からなかったが、「笠置」というキーワードを検索サイトに打ち込んでみたところ、ヒットしたのである。驚いたのは、後醍醐の笠置挙兵の年月と、「諏訪家系類項」の範武(左兵衛督)の戦死した年月が一致したことである。詳細なことは分からないが、前回も述べたように、空白の110年の後に家系に登場した十四代信員(大炊助)が京の街に住み、その後、十五代範武が後醍醐天皇の笠置山挙兵に加わり戦死したということであろうか。笠置での挙兵の目的は「倒幕」であるから、伊東一族の末裔である彼らの「鎌倉への逆襲」のためにはもってこいの機会であったのではないだろうか。110年もの間、歴史の裏で過ごしてきたのであるから……しかし、範武がこの軍勢に加わった経緯は明らかではない。範武は楠木正成同様、この時代に京で盛んに悪事を働いていた悪党であったのだろうか。
ところで、笠置山挙兵と同時に楠木正成が河内赤坂で挙兵。幕府は大軍を率いて、京へ向けて進軍する。この軍勢の中には、後に室町幕府を開く北条得宗家配下の有力御家人、足利高氏(後の尊氏)の姿もあった。後醍醐の軍勢は必死に防戦するが、同年十月、後醍醐天皇は六波羅探題に捕えられ隠岐(現・島根県)に流された。これにより持明院統から光厳天皇が即位した。これによって、後醍醐天皇一派の倒幕派は一掃されたかと思われたが、幕府に対する不満の強まる御家人たちにより「倒幕」の風潮は世の中に浸透していった。
後醍醐天皇配流後は、皇子の護良親王(もりよししんのう)や楠木正成らを中心に「倒幕」が展開された。1332年(元弘二年)吉野(現・奈良県吉野町)で挙兵した護良は千早城(現・大阪府千早赤坂村)の正成とともに連携しながら、幕府に対し抵抗を開始した。
1333年(元弘三年)二月、後醍醐天皇が密かに配流先の隠岐を脱出し、地元の豪族、名和長年の支援のもと船上山(現・鳥取県琴浦町)で挙兵。北条得宗家追討の勅命を出し、全国の御家人に倒幕を訴えた。同年三月、悪党出身の赤松則村が京の六波羅探題を襲撃したことをきっかけに全国に倒幕運動が飛び火した。幕府配下の有力御家人である足利高氏も幕府に反旗を翻した。同様に幕府軍から寝返った、上野(現・群馬県)の御家人、新田義貞が同年五月、風のような勢いで鎌倉に進撃し、執権、北条高時は自害し、ついに鎌倉幕府は滅亡した。これだけの政変がわずか二、三年の間に一気に起こったのである。この頃の先祖の動向は定かではないが「諏訪家系類項」によると、範譽(隼人正)という人物の存在が描かれている。この範譽は、笠置で戦死した範武の後継にはなっているが、実際のところはよく分からない。
足利高氏、新田義貞の力を借り、後醍醐天皇は見事、後鳥羽上皇以来の悲願であった「鎌倉幕府打倒」を成功させる。その後、天皇中心の「建武の新政」を行い、太政官制度を政治の中心から外し、自らが独裁できるような政治体制を確立したのである。何もかもが後醍醐天皇の思うように、事が進んだかに見えたが実際は後醍醐の思惑とは遠いものであった。まず、倒幕に対する恩賞に足利高氏は不満を抱いた。後醍醐は楠木正成などの近臣を重用し、武家の高氏には功績の割に大した恩賞は与えられなかったのである。その後、皇は高氏に自分の名前である「尊」の字を与え、機嫌をとらせる一方で、尊氏に対して危機感を抱き、陸奥国(現・東北地方東部)に護良親王と重臣の北畠親房(きたばたけちかふさ)の嫡男、顕家を多賀城(現・宮城県多賀城市)に派遣した。関東に覇を唱え、第二の鎌倉と成り得る足利尊氏を北から牽制するためである。
こんな頃、中学校の歴史の教科書にも登場する「二条河原の落書」という文書が京の二条河原に掲げられた。建武の新政といっておきながら一向によくならない民衆の生活を「この頃、都に流行るもの……」という書き出しで皮肉っている。もともと落書(らくしょ)というものは罪人を告発するものであったが、時代の変化とともに「社会風刺的」なものへとなっていったのである。
ところで、この後に北条得宗家の遺臣が鎌倉を襲い、鎌倉奪還を図る。これを中先代の乱というが、皮肉なことに数年前まで日本で最も権力のあった、北条得宗家が世の中の権力に抗い勝てるはずのない戦に挑もうとする。かつての伊東祐親のように。しかしながら、世の中とは分からないものであり、得宗家の遺臣であった北条時行が鎌倉を奪還してしまう。これに対し、尊氏は後醍醐に征夷大将軍の位を要求するが、天皇に拒否されてしまう。尊氏は単独で、鎌倉を攻撃し、再度鎌倉を奪還する。後醍醐天皇は高官位を与えて京への帰還を命じるが、尊氏はこれを黙視した。
落書の最後には建武の新政の終焉を予期することまで書かれていたが、実際、この新政は失敗に終わってしまう。尊氏は後醍醐天皇への反旗を決意。世の中はさらに大きく動き、時代は混迷を極める南北朝時代に突入していくのである。
「南北朝時代」というのは、日本史の中でも、最も分かりにくい時代である。中世というテーマの中枢部にありながら、私にはあまり興味を抱けない時代である。だいたい二つの朝廷が存在するということ事態、過去に類をみない。しかし、こうして自分の先祖を辿っていくと、この時代が一番、先祖が活躍した時代ではないだろうか、とも思う。空白の110年を経て、時代が変わり、伊東一族の動向が活発になってきた。この事実を中学生の時知ったが、「先祖」が後醍醐天皇のもとで歴史の舞台に登場したということを踏まえて、ほんの少ない南北朝時代に関する教科書のページから「等身大の時間の歴史」を見出すことができたように思う。日本史における南朝、北朝の分裂の経緯は追々述べていくつもりだが、あまりにも混迷を極める時代背景のため日本史の好きな私でさえも本当に敬遠してしまう。
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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『修羅の巨鯨 伊東祐親』(永井秀尚・叢文社刊)
・『週刊 ビジュアル日本の歴史』(デアゴスティーニ)
・『羽顕誌』(http://www.geocities.jp/kitadewa/suwa.htm)
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