ラムヤイの季節 ラムヤイ(竜眼)の季節がやってきた。チェンマイでは、ほとんどの家に必ず一本ラムヤイの木があって、どの枝にも大きいぶどうのような茶色い実がたわわに実っている。 皮をむくと、中から半透明の白い実がでてくる。これがまた、あっさりと、でも奥深−い、じわーっとした甘さで、とってもおいしいのだ。近所の人が毎日のようにラムヤイを持ってきてくれるので、私と二人の娘は毎日毎日ラムヤイばかり食べている。 天気のほうは、3日雨が降ると次の3日は秋晴れのような青空が広がるという感じで、夜などもだいぶ涼しくなってきた。雨上がりの日差しにゆれる木の葉が、本当にきれいな緑色で、思わずみとれてしまう。 さて、6月7月とつづいたデータ収集がちょっと一段落した。気が抜けてしまったのか、なーんにもやる気にならない。しかもパソコンが壊れてしまった。ショック!一応修理に出したのだが、あまり期待できない気がする。幸いなことにデータはバックアップしてあったので大丈夫であった。大学の指導教官に"データは3コピー分をしっかり保存しておくこと"と言われていたのだが、全くそのとおりである。これで今までの努力が水の泡になってしまったら、死んでも死にきれない。ほんと。 このところ毎晩8時に子供と一緒に寝て、朝は6時までぐっすり寝てしまう。あー、でもそろそろデータ入力と分析を始めなければ!午前中は掃除、洗濯、子守、午後はタイ語学校に行き、長女のお迎えで終わってしまう。夜は絵本の読み聞かせをしているうちに眠くなってしまうので、私に残された時間は早朝しかないのであるが、朝早く起きるのはどうしてこんなにつらいのでしょう。あー、もうPhDやめちゃおうかなあ、と思うが、今までの苦労を思うとそういうわけにもいかないし、ここチェンマイでののんびりとした生活も気に入っているのでやっぱりやるしかないのだ。明日は早起きするぞ! 次女、立つ 次女もそろそろ1歳になる。このところ足がぐんとしっかりしてきた。 ある日つかまり立ちしているとき、何かを両手で持ったはずみに偶然2本足で立つ。そしてその日からどんどん上達し始めた。 今では足をうんと踏ん張って、重量挙げの選手のように立ち上がり、"見て見て!"とでもいうように私や長女の顔を見る。そして腰をひねって横を向く技を加えた後、両手をぐんと天井のほうへのばしてフィニッシュ!どしんと尻餅をついて、おかしそうに笑う。 4つ足歩行から2本足への移行は、まさに人類の進化を目の前で見せられているのであるから、本当に感動的だ。母親、父親、そして姉から拍手大喝采をあびる次女。うれしくて何度も何度も繰り返し、そしてどんどん上達していく。 次女をほめまくりながら、ふと気がついた。 とかく次女に関しては、できることがどんどん増えていくのがうれしくて、周りの人間も彼女の"できること"にだけ注目している。ところが、長女に関しては、ついつい彼女の"できないこと"、例えば、あいさつが上手にできない、ご飯がしっかり食べられない、などに注目し、叱ってばかりだ。長女が小さいころは、今の次女と同じように、いい所ばかり見ていたのに、いつからこうなってしまったのか。 いつも叱られる長女にほめられる次女。 どうしても、初めての子どもに対しては、期待も大きく、気合も入っているので、ついつい厳しくなってしまうような気がする。気の毒なことである。もう一度初心に帰って、長女のいいところをもっとよく見るようにしなければ。 次女の成長を喜び、反抗期の長女と戦い、親というのは本当に難しい仕事だなあ、とつくづく感じる今日この頃だ。 エイズによる差別 リサーチで小学校を訪問し、いろいろな先生とエイズについて話をする機会があった。どこでもみんな言うのは、「エイズによる差別は今はほとんどない。」ということだ。でも私にはどうも信じられない。 実際、エイズ感染者が感染の事実をオープンにしている地域も多いようだ。しかし、感染者が事実を隠している場合もある。でも、村のような小さなコミュニティーで、感染を隠すことは、果たして実際可能なのだろうか。 ある先生によれば、村の中で隠すことは不可能とのことであった。しかし村人全員が事実を知っていても、エイズ感染者とその家族は、あくまで「エイズではない」と言い張り、周りの人もあえてそのことを口にしない。村人たちも100%の確信があるわけではなく、感染者とその家族が「感染していない」ということによって、もしかしたら、本当は感染していないかも、と思うのだろうか。 とにかく、そうすることによって村の中での社会関係がスムーズにいく、例えば、感染者が村の中での結婚式や葬式の手伝いに行くことが可能になる、とのことだった。 またエイズ患者が亡くなったときには、死体を布ですっぽりとくるみ、外から何も見えないようにしてしまうそうだ。これもエイズ感染の事実を隠すためらしい。ある小学校では、子どもから「どうしてエイズで死んだ人の体を布でぐるぐる巻きにしなくてはいけないのか?」という質問もでた。 このような話を聞くと、差別がなくなったのではなく、人々が差別に対する対処の仕方を学んだため、一見それがなくなったようにみえているだけなのではないか、と思えてくる。これは進歩なのか、それとも後退なのだろうか。 興味深いのは、これらの対処方法があくまで形式的なものということだ。つまり本当はみんな感染のことをしっているのに、まるでそれがなかったことのようにふるまっている。 沈黙。これがタイのエイズ差別の鍵なのかもしれない。 |