んだんだ劇場2005年2月号 vol.74
No19
日本に帰ることにした

本のこと
 文協には図書館がある。私が青年ボランティアだった頃、本はダンボールに入れられ日本語学校の倉庫で眠っていた。活字に飢えた私が(一緒に出歩く友達もいなかったし、テレビを見てもポルトガル語ばっかり…。もともと本は好きだったから、本を読まないわけがない)日本語学校の夏休みに本を引っ張り出し雑巾でふき、テープで補強して本を直した。今、文協にある本棚は片側6段で一段に文庫本40冊弱。両側に入るから一つに12段、それが7つ。ハードカバーの本も結構あるから私が修理した本は少なく見ても1000冊はあったと思う。
 修理が必要ないものもたくさんあったが、それと同じくらい"もうダメ"な本もたくさんあった。ここにはクッピンという紙を食べるアリがいて、本がレースのようにまだらになっているものもあった。本の間からは土や小さな蜘蛛、手紙やお金(たしか日本円にしたら300円くらい)が出てきた。ほとんど本を修理し終わった頃、いつのまにか文協に本棚ができていた。ここに本を入れて今の図書館ができた、というわけだ。本職の日本語教師の仕事よりもこれが一番かたちの残った仕事だ。誰にでもできるけど、誰もやらなかったことをやったのでこの図書館は私の誇りだ。
 いったん整えてしまえばあとは本を寄付してもらったり、元からある資料をここに置いたり蔵書は一気に増えていった。新旧の文庫本、ハードカバーの本に混じってコバルト文庫(いわゆる少女小説です)、農業情報誌、70年代から80年代にかけてのSF月刊雑誌、スポック博士の育児書もある。農業情報誌は去年急逝したOさんが購読していたものだろう。奥さんが寄付してくれたのだと思う。雑誌は日本から取り寄せている人が結構いるのだが、みんなで回し読みして大事にしている。
 なんとなく貴重なものと言う意識があるのか、女性週刊誌もずいぶん古いものまで(貴花田と宮沢りえの婚約のニュースが載っている)捨てないでとってある。SF月刊誌もMさんが家を建て替えたとき、しまってあったのが出てきたそうでMさんの奥さんによれば「息子が『これ、何とかしろ』って言うからとりあえず文協に持ってきた」そうだ。ハッキリ言って、クッピンにやられていてほとんどゴミ!なのだが、これに載っている手塚治虫の「鳥人大系」(鳥が人間を家畜のように支配している世の中なのだ)という未来もののマンガがものすごく面白く、クッピンに食われて見えないところを想像力で補いながら読んだ。読んだ後、本から落ちた土で手がざらざらになってしまい、手を洗ったら水が真っ黒になっていた。
 トメアスーが調査対象になっている研究書もあるし、広辞苑(第3版昭和58年出版)、日葡辞典、アリガトウ(パラー州の日本人移民の記録)トメアスーの移住25周年記念誌(夫の小1の時の作文が載っている)、「アマゾンの歌」(角田房代)「メタルカラーの時代」(山根一真)などのここが舞台になっていたり、取材されたりした本…。ジャンルはない、色々な本が集まっている。
 新刊はなかなか読めないが、過去の名作を読むならやはりこのくらいの量がちょうどいい気がする。ここでしか日本の本が読めないし、そうそう娯楽がたくさんあるわけでもないので高校の国語の試験問題に出てずーーーーっと読もうと思っていた(だから13年越しだ)幸田文の「おとうと」もやっと読めたし、懐かしい藤川桂介の「宇宙皇子」や買ったか借りたかしたけど読まなかった佐藤春夫の「小説千恵子抄」とまた出会えた。名前は知っていたけど読んだ事のなかった向田邦子や(エッセイと小説にギャップのある人だ)北杜夫「どくとるマンボウ」、横溝正史の金田一耕介シリーズ、(おどろおどろしいけど、ぐいぐい読める)もついに読んだ。時代小説なんて、と思っていたが岡本綺堂「半七捕物帳」を読んでからこういう世界も悪くない、と思った。事実この後結構時代小説を読んでみたのだ。
 もちろんマンガもたくさんあってこれは日本語が読めない子ども達も借りていったりしているようだ。(実は何でもかんでももらっているのでちょっとエッチなマンガもある。字がちゃんと読めればこれを持っていくことはないと思うけど、読めない子も借りていくのでこのエッチな本は子どもの手が届かない上の段にこっそり隠したりしている私だった)ここでも手塚治虫のブラックジャック、萩尾望都の「11人いる!」などの名作に出会った。こういう少し昔のマンガはストーリーが抜群におもしろい。先が読めないのだ。絵も最近のはキレイだが、この頃のはキレイというより「上手い」という感じがする。
 読まず嫌いだった村上春樹も何冊か読んでみた。思ったほど嫌いなタイプではなかったけどその後何冊も読んでみよう、という感じではなかった。この図書館で知った北村薫とねじめ正一は気に入ったので、この人達の著書のここにある分は読んでしまった。この二人の本はもちろん日本の図書館にはたくさんあるのだろうが、このサイズの図書館だったからこそ二人を知らなかった私でも本を見つけられたのだと思う。そういう意味ではちょうどいい大きさの図書館だ。

11月x日
ここ2、3日農業用の飛行機が朝早くからブンブン音をさせて飛んでいる。飛行場と我が家は距離的にそんなに離れていないので結構低い位置で飛行機が見える。牧草用の種をまく飛行機だそうで、風のない時間に「今だ!」という感じで飛んでいる。オレンジや黄色のかわいらしい小さなセスナなので、娘は飛んでくるたびに大喜び。でも音が恐いので一人でいる時に飛行機が来ると「ママ!ひこうき、ぶん!ひこうき、ぶーん!」と泣きべそをかいて私のところに走ってくる。おもちゃの小さい飛行機でも遊ぶようになり、あまりにも飛行機にハマッているので、涼しくなってから飛行場に飛行機を見に行った。同じように小さな子を連れて見に来ている人もいた。娘が「ひこうき、ぴーす!」と写真を取ってくれと言うので写真をとって帰ってくる。これはこれで、いいイベント(?)だよなあと思っていたら、牧場が家の近くにあるという人は「こぼれた種がウチの畑に全部落ちるのよ!雑草が生えて困っちゃう!」と怒っていた。なるほど…。

11月x日
ずーっとずーっと考えていたことだが、私が「デカセギ」でない仕事ができるうちに日本に帰る事にした。他の先生に来年の話をされる度に、日本に行く事を言わなければと思ってきたが、日本行きの話をすると夫の退職の話もしなくてはいけなく、まだ夫がその準備ができていないので黙っていた。が、T先生に「今の日本語学校は先生が一人余ってる」と言われたので、ついに今日「来年は私は日本に行くのでもうやりません。」と言った。言ってしまった。びっくりされたけど、いつかは言わなくちゃいけないことだ。何だかいろいろ残念だとか言ってもらったけど「言った」という興奮であまり覚えていない。さあ、公表したからには動き出さなければ。

11月x日
日本に行く事によって財産処分というか、いらないものを少しづつ片付ける事にした。まずはベビーベッド。お義父さんたちが買ってくれたのだが、結局娘は数えるくらいしかここで寝てくれなかった。(まあ、寝ないにしても私が家事をしている間にここに入って遊んだりはしていたのだが)なのでほとんど新品同様。これをいつも整体マッサージをしてもらうJくんにプレゼント。売ってくれと言われたけど、私たちが自分で買ったものでもないので、プレゼントするよ、と言っていた。そうしたら、マッサージで返してくれることになって私と夫と二人、ただでマッサージしてもらった。その後、Jくんの家でご飯をご馳走になる。彼の家の隣りには彼のイトコで私の友達、Yちゃんが住んでいるので大人5人、子ども4人の大所帯で大騒ぎしながらご飯を食べる。Yちゃんのところはダンナさんがまだ日本で働いている。5歳と4歳の女の子と1歳の男の子がいる。このお姉ちゃんが娘の面倒をよく見てくれて、大人たちはすっかり酔っ払ってしまったのだった。あまりにも愉快だったので第二回夕食会がその場で計画された。次は我が家で、何を作ろうか。
Jくんの奥さんはパラグアイの日系人なのでもしかしたらパラグアイ料理が出るかなーと思ったけど普通のブラジル風ご飯だった。ところでパラグアイ料理って何だろう?(後日聞いたところによれば、肉、だそうだ。)

11月x日
日本語学校教師の勉強会。ベレンからシニアボランティアの先生が来てお話大会のビデオを見ながら、指導法を勉強する。シニアの先生はNHKのアナウンサーなので敬語の使い方がとてもきれい。日本語を教えていて音声指導は一番手が回りにくいところで、私が日本で教授法を教わっている時も音声の先生が「音声指導を武器にできると日本語教師として強みになるんだけどなあ。」と言っていた。
ビデオで見てみると、本番の時には冷静に聞けなかった子供たちの注意するべきところが色々見えてきた。そこで私が指導した生徒のことをシニアの先生が誉めてくださったので、賞は取れなかったけれど、ちょっと報われた気がした。後日、その子に「前にNHKのアナウンサーしてたベレンの先生が君のことを誉めていたよ。」と言ったら、トメアスーでのお話発表会に出ると言いだし(ベレンで賞が取れなかったから、もうやらない!と言っていた)実際その発表会ではこれだけ読めたらベレンで賞取れたよ!というすばらしい発表をしてくれた。うーん、子どもって単純だけど、すごい力があるんだなあ…。

11月x日
んもう、なんて勝手なんだ!トメアスーでのお話発表会の1週間前になって「やっぱり出たい。」と言い出した子がいた。いくら内輪の発表会でもずいぶん前から出るかどうか子ども達に聞いているし、準備や練習もあるので最低ギリギリでも2週間は欲しい。(それだってすごく無理して、だ。)とは言っても出たいなら、と超特急でお話を用意し、時間がないから短いものにした。そうしたら、それでもその子は「これじゃ長いからイヤだ。」と二枚ある原稿を一枚しか練習しないと言う。それじゃお話が途中で終わっちゃって何だかわからないよ、と言ってもヘラヘラ笑って言う事を聞かない。でも練習してきてよ!と言って今日の授業になった。聞いてみたら最初からまだ拾い読みなのだ!どんなにできない子でも練習していたら最初だけはすらすらとは行かなくても「すら」くらいは読めるものなのに。挙句の果てに「発表会の前の日までにできなければ出ない。」と言うので、私は「じゃあ、もうやめなさい!」と言った。『前の日までにできなければ』じゃないのだ。『前の日までに練習する気が起きなければ』なのだ。そんなのに付き合わされるほどヒマじゃない。その子はさすがにここまで私に言われるとしょぼんとしていた。(でも練習するとは言わない)怒られてもくじけないのはいいけど、あまりバカにされても困ります!

11月x日
ついに日本語学校の終業式。最後だから、と日本語とポルトガル語の司会をまかされる。これが思ったよりとっても大変で、あっちに走ったりこっちに注意したりしているうちに終わってしまって、感慨にふけるヒマもなし…。でも湿っぽくなるよりはいいかもしれない。とにかく終わった、終わった。

日本へ帰る
 どうして、と言われてもすぐには説明できないしここに書くことも私の気持ちを正確に表せるとは思わない。でも自分の気持ちを整理するためにも、やってみようと思う。
 この国に住むのは面白い。日本にはないイイカゲンさ(この場合は普通の意味の「いい加減」と「好い加減」の両方の意味がある)、と日本人の想像を絶するブラジル人のものの考え方。いいことにしろ、悪いことにしろ、それに触れる度に目からウロコが落ちる想いだった。日本に行こうと夫に言った時、夫は「結婚する時、そういうことわかってたんじゃないの?」と言った。わかっていた、つもりだった。でも、娘が生まれて少し考え方が変わった。遠くにあった問題が急に自分の目の前に見えてきたという感じ。
 まず第一は教育。日本に行く理由のほとんどがこれと言ってもいい。ここトメアスーのような地方では「教育」はあまり期待できない。何も"お受験"をしようというのではない。歌を歌ったり、お遊戯をしたり、工作をしたり、そういうことでいい。娘には色々な体験をさせてあげたいと思う。でもブラジルの学校では授業に情操教育はない。あってもオマケ程度だ。
 娘が大人になってから自分の子どもに歌ってあげる歌を知らないのは何だかすごく悲しい。この国は公務員の待遇が日本みたいにはよくないし、先生たちにだって教育という仕事をしてる誇りみたいなものはあまり見られない(らしい。私はここの学校に行ってないからわからないけど、子ども達や友達の話を総合するとそう思わざるを得ない。)例えばテスト問題で分数の計算が出た。学校の先生が教えた方法は約分をせずにテスト用紙の下のほうまで届くくらい長々とする計算。Tさんの息子さんは約分をして半分くらいで済ませたそうだ。もちろん答えは同じ。それはバツ、不正解になったそうだ。理由は「教えたとおりにやらなかったから。」
 ある学校の評判が良ければ別の学校が生徒を取られまいとして政治的にいやがらせをしたり、「ホントにそんなんで勉強ちゃんとできるの?!」と言いたくなるような話がたくさんあった。日本の学校には日本の学校の問題があるだろう。でも問題のないところなんてないし、どっちの問題なら我慢できるか、という話になると私は日本を選ぶ。ここは問題への対処の仕方がよくわからないし、夫はあんまり当てにならないし(彼は私みたいにカッとすることもあまりないけど、言わなくちゃいけないと思うことのレベルも私よりずーっと下。かなり我慢がきく。)日本だったら自分で対処できるからだ。
 地方がダメなら都会に出ればいいじゃないか、と思うが今度は治安の問題がある。殺人、強盗は日本の何百倍も身近なことだ。ものを盗まれたりなんてことは日常茶飯事。前に母がブラジルに遊びに来た時、空港に一緒に迎えに行ってくれたUさんが「ベレンは"危ないところ"と"とっても危ないところ"の二種類しかありませんから。」と言って笑っていた。夫は「大丈夫だって。」と言うが私は今でもやっぱり怖い。夫が夜遅い時なんかガッチリカギをかけて"閉じこもる"という感じだ。
 もう一つの問題が給料体系。昇給、という制度がないのでいつまでたってもほとんど同じ給料。給料があがってもそれはインフレに伴うもので「昇給」ではない。農業をしていても農業政策というものがないので農作物の値段のアップダウンで農家は大変だ。こうやって書くと本当に大変そうだが、みんなのほほ〜んと暮らしている。お金がなくても何とかやっていけるのがブラジルのすごいところなのだ。でも子どもがベレンやサンパウロの学校に行けば親は出稼ぎに行かざるを得ない。
 私がもっとオバさんになって日本にデカセギに行ったら、どんな気持ちになっちゃうだろう?きっとすごく卑屈な気持ちになるか、日本をけなすかどっちかだと思う。そうなる前に自分で行きたいのだ。きっとアマゾンでぼーっとのんびり暮らしてきた身には日本は大変だと思う。でもしなびたレタスだって冷たい水に入れたらシャッキリするのだから私だってたぶんまだシャッキリできると思う。冷たい水に入る覚悟さえあれば。

12月x日
ベレンでクリスマスの買い物。まず日本行きの切符を買う。娘のパスポートは機械で読み取りのできないものなのでアメリカ経由にするとパスポートを取り直ししなくてはならない。まだ1ヶ月以上もあるのに領事館によれば年末年始が入るから、ギリギリにならないとパスポートができないそうだ。前に痛い目にあっているので機械読み取りでなくても通れるヨーロッパ周りにする。費用面でもパスポート取り直しのお金と飛行機の値段の差はそんなに変わらないので。相変わらず1月上旬はものすごく混んでいてどこ回りでも全然取れない。
結局1月中旬にリオデジャネイロからパリへ、そこから成田へというルートで帰る事に。
次に娘にポルトガル語の絵本を買ってあげる。A Todo Vapor(全速力で)と言う本で船がくじらになったり、三輪車がかたつむりになったりという乗り物が動物に変わるしかけ絵本だ。絵もハッキリした色使いの割りにキツイ感じがしなくて「ブラジルにもいい絵本作家がいるなあ」と思って見たら外国の人の翻訳物だった。
最後に私のジーパンを買ったのだが、私のサイズがない!ストレートのが欲しかったのだがほとんどのジーパンがすごく股上が浅いし、日本のおへその上までパンツをはいたらジーパンの上から見えそうなデザインしかない。仕方なくものすごく若いデザインの腰ではくしかないようなジーパンを買った。はいてみたら娘が最近
覚えた「ママ、すごーい!」を連呼して何がすごいんだか情けなくなった。

12月x日
飼っていた犬が死んでしまった。しかもバカなのと賢いのといたのだが賢い方が死んでしまった。1ヶ月くらい前から餌を食べなくなって、何日か前にはあばら骨が見えるくらいやせていた。大好きだったパパイヤも食べなくなった。犬嫌いの私も椰子の実ジュースを飲ませたり、卵をあげたりした。2、3日前に比べてちょっと持ち直したように見えたのだが・・・。いつのまにかひっそり死んでいた。ガッカリした。そして犬が死んでガッカリしている自分にビックリした。
ここらへんではたまに犬の病気のウィルスが流行るらしく、そうするとどんなに大きくて立派な犬でもコロリと逝ってしまう。うちのは吐いたりしなかったし、もう一匹はピンピンしているからウィルスではないと思うのだが、死因がわからないだけに娘も犬小屋の近くには行かせないようにした。
娘はまだ「死ぬ」ということはわからないと思うのだが、死んだ犬を埋めるときは静かにしていた。時々「ワンワンは?」と聞くので「リッピ(前に死んでしまった子犬)のところに行ったよ。」と言うと聞かなくなった。リッピの時はまだ何度も「リッピいるー。」と言って誰もいない空間を見つめたりして私を怯えさせていたが、今度は「死んだ」ことはわからなくても「もういない」ことはわかるらしい。

12月x日
日本に帰るのだからあまり荷物を増やさないようにと思って、クリスマスツリーを買うのはやめていたのだが、あまりにも娘が「ピカピカ〜」とか「キラキラ〜」と喜ぶので何とかしてやりたくなった。銀行に行ったら椰子の木の鉢植えに色々な色の電飾を巻いているのがあって、それが割合豪華に見えるので我が家も100個つきの電飾を2箱買うことにした。ただ電飾をぐるぐる椰子にまいただけなのだが、娘は大喜びで怒られて泣いていても「ピカピカ見る〜。」とこの簡易ツリーを見て自分で立ち直るくらいだ。25日に「今日で最後だからよーく見ておきなさい。」と言ったら夫が「え、まだ取らないよ。1月10日くらいまでつけっぱなし。」なんだか間が抜けてる気がしたが、日本で門松を元日だけでなく3が日つけておくようなもの?
ちなみに年が開けてもまだ商店の中の飾りはクリスマス、家の前の通りの家にも相変わらず電飾ピカピカだ。
さて、クリスマスの夜だがMさんのお家にお呼ばれ。1週間前くらいから誘われていたのだが24日の夕方になっても何時に来いとか何にも言ってこない。あー、これはなしになったかなあと思っていたら夕方6時過ぎに「7時過ぎ頃どうぞ。」と電話があった。こういう時間ギリギリはよくあること。お呼ばれのときはビールなどの飲み物やデザート、または何かおかず一品を持っていく。そう決まっているわけではないが、そうするとお互いあまり気にせずに呼んだり呼ばれたりができる。というわけで大急ぎで持っていくパンのグラタンを作る。持っていくつもりで昨日作ったロールケーキは3回目にしてやっと成功していた。夫と娘がシャワーを浴びてドレスアップしている間に私は汗みどろになってグラタンを作る。生意気にも娘は自分のコロンを持っているので「しゅしゅしゅしてー。」と言う。そして自分で「んー、ちょっといいにおい!」とか言っている。ちょっと、って何なんだ。グラタンをオーブンに入れ、自分がシャワーを浴びて出てきたらどしゃぶりの雨だった。ここのところ、ずーっと雨なんて降った事なかったのに・・・。月の満ち欠けに関係あるそうだ。
結局夜11時ごろまで飲み食いして、余ったごちそうをごっそりもらってきた。あー、おいしかったクリスマス…。


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