んだんだ劇場2005年3月号 vol.75
No9
大活躍の薪ストーブ

父親が選んだストーブ
 私が住んでいる千葉県大原町は、沿岸を黒潮が流れる温暖の地である。雪が舞うことはあるが、積もることはない。しかし、霜で菜園が真っ白になっている朝は、時々ある。そんな日の前夜は、たいてい、降るほどに星がまたたいている。そして、寒い。
 ここでも、真冬には暖房が必要だ。
 この家を建てる時、父親は「薪(まき)ストーブにする」と宣言した。「木の灰が、カリ肥料になるから」だと言う。そして選んだのは、デンマークのアンデルセン社のストーブだった。

デンマーク製の薪ストーブ
 薪ストーブとしては小型だが、すこぶる燃焼効率がいい。詳しくは説明できないが、DIY店などで売っている日本製のストーブに比べて、構造が各段にすぐれているようだ。ストーブ本体と、煙突に、それぞれ空気の流通調節が付いていて、「全開」にするとゴウゴウと音を立てて炎が上がる。
 逆に、通風を最小にしておくと、いつも私が就寝する午前0時ごろに入れておいた薪が、ホトホトと朝まで燃えている。もちろんそれは、朝には炭になっているのだが、空気弁を開けてやれば、すぐさま火が起こり、新しい薪に着火してくれる。
 基本的には、我が家の暖房は、この薪ストーブだけだ。
 「基本的には」と言ったのは、我が家は幅20メートル、奥行き6メートルという、住宅としては大きく、しかも細長い構造なので、1階の父親の寝室、2階の私の寝室など、ストーブから最も遠い場所は、どうしても真夜中には寒くなるので、それぞれ石油ファンヒーターを置いているからだ。ただし、それを使うのは、夜の少しの時間だけである。

樵の荒木さん
 家ができたのは春で、私とかみさんは引っ越すための準備がいろいろあり、最初の1年は、両親だけで暮らしていた。そして冬を迎えると、薪ストーブにしたのはいいが、薪が調達できなくて苦労したそうだ。
 田舎だから薪なんか困らないだろう、と思うのは大間違いで、桃太郎のお爺さんのように「山へ柴刈りに」行くくらいでは、とても間に合わないのである。それに、他人の山から勝手に木を持って来るわけにもいかない。しかたなく、両親は建築廃材をくべたり、家の周囲に落ちていた枯れ木を拾い集めたり、とにかく何でも燃やした。しかし、そうした木は「生木」である。水分が多く、よく燃えてくれない。煙突の内部を煤だらけにしながら、煙ばかりが立ち昇っていた。
 その煙を見て、「おたくでは、薪を燃やしているのかね」と、立ち寄ってくれた人がいた。この辺ではただ一人、樵(きこり)をなりわいとしている荒木翁(父親より年齢は上だが、すこぶる元気な方)である。
 房総半島には、かなり杉の植林がある。大原町は夷隅(いすみ)郡だが、もっと北の、九十九里浜を含む山武(さんぶ)郡が中心地らしく、建築材として「山武杉」というブランドがある。ただし、「秋田杉」などに比べると、安い杉材である。
 荒木翁は、杉の立ち木をまとめて買って伐採し、材木市場へ運んで売っている。その中には、中心部に空洞があったりして、売り物にならない木もある。「薪が要るなら、そういう木を持って来てあげようか」と、言いに来てくれたのである。
 以来、薪の材料には困らなくなった。しかも、荒木翁は雑木も持って来てくれる。杉は火力が強いが、すぐに燃え尽きてしまう。その点、広葉樹はゆっくり燃えるので、ストーブの薪としては重宝する。
 無料と言うわけにはいかないから、トラック一台分で何千円かの「運賃」を払うようにしているが、見知らぬ土地に来て、これほど助かったことはない。
 私が同居するようになってからは、薪割りは私の役目になった。

この冬も、だいぶ薪を作った
 畑のとなりの空き地に、荒木翁が置いて行った大木を、チェンソーで30〜40センチの輪切りにして、それをマサカリで割る。杉、クルミ、エノキは簡単に割れるが、椎、クヌギ、ケヤキなどは一筋縄ではいかない。ことにケヤキは、木目がねじれていて、しかも表皮と中心部の木目が逆なのがやっかいだ。まず、表皮をはがすようにマサカリを打ち込み、中心部は別に割るという手間がかかる。しかも枝分かれした節の部分などは、さらに木目が複雑で、とてもじゃないが割れるものではない。そういう時は、幅10センチほどの輪切りにしてしまうのである。
 何年も薪割りをしたおかげで、かなり太い木でも、どこにマサカリを打ち込めばいいか、切断面を見て、私にもわかるようになった。今年は、例の土砂崩れで切り倒さなければならなくなった立ち木や、自然に枯れてしまったクルミの木も、どんどん薪にした。父親に「チェンソーの使い方がうまいな」とほめられたのは、この作業に慣れたからだろう。
 私が割った薪は、父親が積み上げ、最低1年は乾燥させる。薪を山に積むのは、几帳面な父親の方が、ずっと上手だ。母親が元気だったころ、私と母親が積んだ薪は、大風が吹いた日に崩れてしまった。意外に難しいものだ。
 薪は、買おうと思えば買える。外房の海岸はサーファーに人気があり、冬でも若者がたくさんいる。薪を買うのは、主に彼らだ。海から上がって、冷えた体を温めるのに、ドラム缶などに薪を入れて燃やすのだ。が、1束400円ぐらいする。その値段だと、我が家では、ひと冬に20万円はかかってしまうだろう。
 だから、自前で薪を準備できなければ、薪ストーブは贅沢な暖房具なのである。

日中は暑すぎる
 夜は寒いが、日中は、太陽さえ出ていれば、家の中は暑いくらいに温まる。最初から、そういう構造の家を建てた。しかも、断熱材は、屋根裏に入れただけだ。
 実は我が家は、日本に何軒もない(はずの)特殊な構造なのである。
 驚くかもしれないが、我が家には柱がない。
 その代わり、全体が木の壁でできているような家なのだ。
 建材は、厚さ9センチ、幅60センチ、長さ6メートルの、松の木の集成材である。これを縦に並べてつなぎ合わせ、箱の形にして屋根を載せた、と、簡単に言えばそうなる。集成材は、まとめてフィンランドから輸入した。床板もフィンランドの木である。寒い国で育ったせいで、木質が緻密で、堅牢な材木だ。輸入したのは、同様の国産材よりかなり安いからだ。
 木は、あらゆる建材の中で、最も断熱性が高い。だから、断熱材で建てた家、と言ってもいい。それに、ガラスはすべて二重ガラスにした。そのおかげで室内は、外気温にはほとんど影響されないのである。結露など、したことがない。
 東側の川に面したリビングは、吹き抜けにした。しかも東側と、南側は、天井までガラス張りだ。気持ちのよい、広い空間である。そのガラスを通して、燦々と日の光が入って来る。冬の風の冷たさは遮断するが、高度の低い冬の太陽は、リビングの奥まで明るくし、一緒に熱も運んで来てくれる。
 晴れていれば、日中は暑くて、まぶしくて、以前は日の差さないキッチンで昼飯を食べていた。それも困るので、昨年暮れ、南側の窓に天井からロールブラインドを下げた。DIY店で適当なロールブラインドを見つけ、私が長い梯子を上って取り付けた。
 だからと言って、夏も暑いのかと言うと、そうではない。夏は太陽が高くて、光が入って来ない。網戸にしておくと、四方のどこからか風が入って、けっこう涼しく過ごせる(無風だと困るが)。それで、我が家にクーラーはない(本当は、父親の寝室にあるが、使ったことがない)。
 ところが、リビングの天井には、「エマニエル夫人」の映画に出て来たような扇風機が2つある。だが、夏は動かさない。それは、冬に回す扇風機だ。ストーブで暖まった空気を下に流す、サーキュレーターなのである。
 田舎に暮らし、野菜を作るために、この家には、ほかにもいろいろな工夫がある。少しずつ、そんなことも紹介したいと思っている。

リビングの南窓に、天井からロールブラインドを下げた

夏は無用の扇風機



梅は咲いたが……

里山のよさ
 2月21日、22日と、1泊で父親が地域のグループ旅行に出かけた。この時期に満開になる、伊豆半島・河津の桜を見に行ったのである。
 日本で最も早い桜は、1月に咲く沖縄の桜だが、河津はそれに次ぐものだろう。しかも、見事である。父親が持ちかえったパンフレットを見ると、川の土手が延々とピンクで彩られている。私は、かつて毎年のように見た、秋田県・角館の檜内川の桜を思い出したが、それよりかなり色の濃い花だ。河津の桜は、緋寒桜と早咲き大島桜の自然交配で誕生したと推測されているようだが、川の土手に植えたのは30年ほど前だというから、それほど歴史のあるものではない。
 桜は、樹齢30年から50年くらいが、最も勢いがあるというから、この景色はまだまだ楽しめる。しかも父親は、「今咲いている木のわきに、細い苗木が植えてあった」のに気づいたそうだ。河津では、次代の桜も用意しているのだろう。
 木を育てるには、そういう長期展望が必要だ。
 故郷の福島市にも、今は大盛況の花の名所がある。阿武隈川の右岸、福島市渡利にある「花見山」である。私が子供のころも、この山に花は咲いていた。が、個人の持ち山で、そのころは、そこのお爺さんだかお婆さんが、せっせとさまざまな花の咲く木の苗を植えているという話で、知る人ぞ知る程度だったと思う。それから30年以上の歳月が流れ、訪れる人々を瞠目させる「花の山」になったのだ。
 枯れ木に灰をまいたくらいでは、花は咲かないのである。
 そういう視点で見直すと、私が住んでいる千葉県大原町の山々は、不細工である。ここへ移ったころ、かみさんが「杉も紅葉するのかと思った」と言うほど、この時期は杉が真っ赤に山肌を彩っている。大量に花粉を飛ばす杉の木だ。そういう山がやたらと多い。

紅葉のように見える近くの杉林
 あらゆる物資が不足した終戦後のころ、全国で杉を植えた。山を持っている人は、「子供たちが、これで豊かになる」と信じていたことだろう。ところが、花粉症が蔓延している今は、杉はやっかいものになりかねない。
 特にこの周辺の杉は、建材としては安くて、ほとんど収入にならない。それは、枝を地面に突き刺して、挿し木苗で植林することも大きな原因らしい。こうすると、杉の実を植えて芽吹くのを待つより、早く育つのだというのだが、木目がねじれたりして、良質の杉材には育たないのだそうだ。加えて、地域が高齢化して、枝打ちなどの世話もできないから、杉は植えっぱなしである。山の中を歩くと、倒れた杉が放置されているのを、よく目にする。
 そんなことなら、花の咲く木でも植えればいいのにと、私は思う。
 せめて落葉樹を植えたらいいだろう。落ち葉は土を豊かにしてくれる。雑木山にしみ込んだ雨は、川の水をきれいにし、そして海をきれいにする。漁場を豊かにするために、漁民が山に木を植えることは、最近、各地で行われている。その時、杉などは植えない。見ればわかるが、杉林の中は、雑草も、昆虫も少ない、生物相の貧困な世界だ。葉が落ちた後、さんさんと日光が地面に降り注ぐ雑木山は、多用な価値のある山なのである。
 そういう山を、特に江戸時代の日本人は、集落の周辺につくって来た。それが「里山」だ。
 炭焼きが斜陽産業になり、建材にするには時間がかかりすぎる雑木は、「経済の効率性」からは敬遠されて来たのが、高度経済成長以後の現実である。
 「無用の価値」を未来に見出すのは、何が子孫のためになるのかを見据えた「信念」しかないのだろう。

八重桜の咲くころ
 暖かい房総半島でも、さすがに2月に桜は咲かない。その代わり、今は梅が見ごろだ。
 先日、愛犬モモと散歩の途中、見事な花を咲かせている梅の古木を見つけた。よく見ると、花びらが八重のようだ。それで一層、豪華に見えるのだろう。

近くの庭に咲いた見事な梅の花
 我が家から5キロほどの山際に、ちょっとした梅林がある。かみさんが見つけて来て、私も行ってみた。白梅ばかりだが、数十本の梅の木が立ち並んでいた。
 それは、3年前の春で、そのとき、母親は入院していた。
 母親に胃癌(がん)が見つかったのは、前年の夏だった。実は母親は、その17年前にも胃癌の手術を受け、胃袋の三分の2を切除していた。17年後の今回は、癌が再発したのではなく、残った胃袋に新たに癌が発症したのである。
 前の経験があるので、「切り取ればいいんだ」と、母親はすこぶる元気だった。そして、涼しくなるころに退院した。
 しかし、寒くなり始めたころ、「水がのどを通らない」と言い始めた。再発した癌細胞が、食道を塞いでいたのである。
 私と父親は、その写真を12月に見せられた。
 担当医師は、「再発した胃癌は、現代医学では治療する方法がないのです。残念です」と言った。そして、「あと3か月」と付け加えた。
 私たちは、次善の策として、可能な限りの時間を家で過ごせるようにと、医師に頼んだ。
 寒いと傷が痛むのか、家に戻った母親が、夜中に、薪ストーブの前に腰掛けて、じっと炎を見つめている姿を、私は毎晩のように見ていた。
 そして、梅の花が咲き始めたころ、母親は病院へ戻った。見舞い客があると、自分でカメラのシャッターを切り、冗談を言って笑わせていた。
 相変わらず元気なので、見つけたばかりの梅林を見に行こうと誘ったことがある。ちょっと病院を脱け出せばできることだ。
 だが、母親は、「それは、疲れてだめだ。来年見るから。ありがとう」と言った。
 帰りの車を運転しているうちに、私は、突然涙があふれて、目の前がグシャグシャになった。「来年の梅の花は、見れないんだよ」と、私は声に出した。
 この時期、梅の花を見ると、私はその時のことが思い出されてならない。
 母親が息を引き取ったのは、4月20日だった。もう、八重桜も終わろうとしていた。
 
八重桜母をむしばむ癌殖ゆる
 
母を焼く煙のほかは春の風

 そのころ、こんな句ができた。


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