田植えが始まった
道草を食う
日溜りに、イヌノフグリが咲いている。
群がり咲くイヌノフグリ |
一つ一つは小さな花だが、地面を覆うように咲くこの花に出会うと、春になって、日差しが地面を十分に温めてくれたんだな、と思う。
それにしても、イヌノフグリとは、かわいそうな名前をつけられたものだ。恥ずかしくて、「ふぐり」とは「きんたま」のことだなんて、言えないじゃないか(……言ってしまった)。
ところで私は、4か月の子犬だったモモが我が家に迷い込み、初めて犬を飼ってみて、本来は肉食獣である犬が草も食べることを知った。散歩に連れて行くと、イヌノフグリには見向きもしないが、そのわきの草むらに、鼻を突っ込むようにして草を食うのである。それは決まって、イネ科の植物だ。
ある日、かみさんがホームセンターのペットコーナーで売っていたと、燕麦の種を買って来た。芽が出て、育って来た燕麦の葉を、なるほどモモは喜んで食べる。なぜ、犬が特定の草だけを食べるのか、私にはわからない。
その点、牛はたいていの「道草を食う」ようだ。そんな牛の特性を生かして、特産品を売りさばいた話が、江戸時代にあった。
岩手県の伝統産業に、「南部鉄器」がある。釜石で近代製鉄が始まったのは明治になってからだが、それ以前から南部地方は鉄の産地で、鍋、やかんなどの生活用品を大量に作っていた。南部盛岡藩内の需要をはるかに超える量である。それをどこで売ったのかと言うと、全国最大の消費地、江戸である。
北上川流域に広がる穀倉地帯の米は、舟で現在の宮城県・石巻まで運んで、大きな船に積み替え、江戸へ送った。そのルートなら、一度に大量の鉄器も運ぶことができる。しかし、そうはしなかった。鉄器は牛の背に乗せて、陸路で運んだのである。
盛岡から東京まで、JR新幹線の営業距離で535qもある。仙台、福島、宇都宮と城下町を結ぶ奥州街道を、1人が3、4頭の牛を曳いて江戸を目指したのだ。まことにのんびりした話だが、それは、牛だからできたことなのだという。
腹が減ると、牛は道端の草を食べる。だから、えさの心配はない。そのために南部鉄器を運ぶ人は、街道のわき道を歩いた。よく時代劇に登場する「関所破りの裏街道」というようなものではない。田んぼのあぜ道のような道だ。街道に沿って、必ずそういう道があるのだ。夜は、牛をつないでおけるような所で、ほとんど野宿していたようだ。
たとえ道草を食ったとしても、歩き出せば、牛の歩みは意外に速い。それどころか、走り出せばかなりのスピードを出せる。
話は飛ぶが、終戦後の一時期、私の父親は、阿武隈山地の一角にある福島県安達郡白沢村に住んでいた。二本松市の南東にある村だ。そこに、父方の本家があった。父親はそこから、新制中学に通っていた。あるとき、畑で育てた菜種を本宮の街(二本松の南に隣接する本宮町)まで持って行って、油を絞ってもらってくれと頼まれて、本家の息子と二人で出かけたそうだ。菜種は荷車に積み、牛に曳かせた。父親は荷車に乗り、牛の鼻管に通した手綱を持っていた。その帰りに、牛が暴走したのである。
その牛は、子供を産んだばかりの母牛だった。途中で乳が張って、子牛に乳を飲ませたいと思ったのだろう、猛然と走り始めた。牛が、よく道を覚えていたものだと感心するが、母牛は間違いなくたどり着いた。
「いやはや、その速いこと。振り落とされないように、荷車にしがみついているのがやっとだった」と、父親は今も時々、懐かしそうにその話をする。
南部鉄器を背にした牛も、盛岡から江戸まで、1か月ほどで到着した。その昔の国会で、社会党がしばしば、愚にもつかない「牛歩戦術」をやったが、あんなにノロノロしていると思われたのでは、牛がかわいそうである。
さて、江戸で鉄器を売り払った後は、また牛を曳いて南部まで帰るのかというと、そうではなかった。牛は、今の埼玉県辺りの農家に売り払ってしまうのである。「鉄器売り」は、その金を懐に、身軽になって帰るのだ。南部の牛は力が強く、農耕用に人気があったという。実に合理的な話だ。江戸時代の歴史を調べていて、この知恵を知り、私はとても感心した。
田植えとソラマメ
4月14日に、モモに狂犬病の予防注射をした。大原町が毎年、地区ごとに日時を決めて注射と飼い犬登録をしているのだ。私の住んでいる地区は、歩いて7、8分の「トンボ沼」の駐車場が会場である。
その帰り、近所のHさんの田んぼで、おじいさんが田植えをしているのを見かけた。私が見ている限りでは、この辺りで最も早い田植えである。
前にも書いたが、周辺の水田は区画整理をして、1枚が1ヘクタールほどもある広い田んぼが多い。そういう水田では、人が乗る大型の田植え機を使うが、ここは昔ながらの、家の前の田んぼだ。もう80歳を超えているH老は、かくしゃくとしていて、手馴れた様子で小型の田植え機を押していた。
そのあぜに、ソラマメの花が咲いていた。
田植えの時期に咲くソラマメ |
東北地方では、田のあぜに小豆や大豆を蒔くことが多いが、房総半島ではソラマメが一般的である。前年の秋にタネを蒔き、今ごろ花が咲く。花が終わると、豆のサヤは上に向かって育つ。空に向かって伸びるので、ソラマメというのである。
まだ両親が福島県北部の霊山町に住んでいたころ、父親から「ソラマメのタネを買って送ってくれ」と電話をもらったことがある。今は確か、鹿児島県が最大の産地だと思うが、ソラマメは暖かい地域でよく育つ作物で、福島市やその周辺では、タネさえ売っていなかったのだ。
千葉県大原町で同居を始めてから、父親が言うには、「福島でソラマメのタネを売っていないのは、当たり前」なのだそうだ。福島の冬は寒すぎて、春が遅くて、ソラマメはちっとも育たないのだと言う。
「それにね」と、母親が口を出した。
「ソラマメの食べ方を知らなかったんだよ」
エダマメにしてもソラマメにしても、採りたて、ゆでたてがおいしい。エダマメを買うなら、茎ごと買って来て、サヤをもいでゆでるのがいい。ソラマメは、茎ごとは売っていないから、サヤのままのを買って来て、豆を取り出してゆでる。だが、豆を白い羽毛でくるんでいるようなサヤから豆をはずすと、がっかりするくらい豆の量は少ない。逆に言えば、それくらい、ソラマメのサヤは立派なのである。
ところが両親は、エダマメと同じように、ソラマメをサヤごとゆでて、サヤごと食べたというのだ。
「なんだか変な味の豆だねって、二人で話したんだよ」と母親。
だから、ここに越して来た最初の年の秋に、父親はソラマメを蒔いて、次の春には、「なるほど、房総半島では、こんなに大きく育つのか」と、しきりに感心していた。しかし、「やっぱり、それほどうまいもんじゃないな」と言って、父親はその後、ソラマメを作らない。食べなれた味ではないから、執着もないのだろう。
スダチの花盛り
家の玄関先に、大きなアマナツの木を父親が植えたことは、前に書いた。かんきつ類が育つ暖かさは、私もうれしくて、親と同居を始めた6年前に、スダチ、レモン、ユズ、キンカンの苗木を植えた。レモンとキンカンは枯れてしまい、昨年、かみさんがまたキンカンを植えなおしたが、スダチは2年前から実をつけるようになった。
しかしスダチは、太くて、長くて、固いトゲがたくさんあって、実を採るのに苦労する。その上、絡み合うように枝が繁茂するので、トゲの数は半端ではない。全体がマリモのようになって来たのを見かねて、昨年の冬の初め、父親がばっさばっさと枝を刈り取った。
そして今、スダチは見事な花を咲かせている。
白い花を咲かせているスダチ |
昨年も、一昨年も、同じように花をつけていたはずなのに、今年の花がすばらしいのは、父親が剪定してくれたおかげで、樹形がすっきりしたからだろう。
それに比べて、ユズは、いつになったら花を咲かせ、実をつけるのかわからない。よく「桃栗三年、柿八年」と言うけれど、その次には、「ユズの大バカ十八年」(十三年だったかもしれない)と続けるのだそうだ。30センチぐらいの苗木を植えて、もう背丈を越す高さにはなったものの、ユズが実るまでは、まだまだ、のんびりと待つほかなさそうである。
城跡の鯉のぼり
剣の達人、御子神典膳
ゴールデンウイークに、楽しみにしていることがある。近くにある中世の山城の跡に、300尾(匹とか、本と数えた方がいいのかな)もの鯉のぼりが泳ぐことだ。
私が住んでいるのは、千葉県夷隅(いすみ)郡大原町で、となりに夷隅郡夷隅町がある。大原町役場までは8qもあるが、夷隅町役場までは3qほどで、日常の買い物も夷隅町のスーパーに行っている。夷隅町役場よりは少し遠いが、車で5、6分の所に、戦国時代の山城の跡、「万木城(まんぎじょう)公園」がある。小高い山の頂上に、なんとなくお城を思わせる展望台があって、そこから四方に張った綱に、たくさんの鯉のぼりが泳ぐのだ。
万木城の展望台と鯉のぼり |
展望台からは、西側に夷隅町の平野部が一望できるし、反対方向には太平洋も見える。それどころか、空気が澄んだ冬晴れの日には、富士山まで見える。
そんな山の上にはためく鯉のぼりは、なかなかの壮観だ。神奈川県相模原市の相模川河川敷には、1200尾もの鯉のぼりが遊泳するし、鯉のぼり製作が伝統産業になっている埼玉県加須市の利根川河川敷には、長さ100m、口の直径10mという「世界最大の鯉のぼり」(日本にしかない鯉のぼりを世界最大というのも、なんだかおかしい)が泳ぐというが、私にとっては、万木城の鯉のぼりで十分に楽しい。
さて、この城は戦国時代、小田原北条氏に属した土岐氏の居城だったらしい。今回、鯉のぼりを見ようと久しぶりに登ってみたら、「御子神典膳」(みこがみ・てんぜん)の解説板があったのに驚いた。
御子神典膳というのは、柳生家と並んで徳川将軍家の剣術師範となった小野次郎右衛門忠明のことだ。小野忠明が御子神典膳と名乗っていた若いころ、この万木城の土岐氏に仕えて、合戦にも出ていたというのである。
解説板によると、剣聖と言われた伊藤一刀斎がこの地を訪れた時、典膳は試合をして惨敗し、一刀斎の弟子になったという。それを読んで、私は、なんだかうれしくなった。『大菩薩峠』を書いた中里介山の『日本武術神妙記』や、直木賞の由来となった作家、直木三十五の『日本剣豪列伝』などで、御子神典膳を知っていたからだ。
一刀斎の秘伝を受けるため、典膳が、相弟子の小野善鬼を討ち果たした「小金ヶ原の決闘」などは、いろいろな人が読み物に仕立てている。あの柳生十兵衛が試合をして、構えただけですぐに木刀を捨て、「とてもかないませぬ」と言ったくらいだから、並大抵の強さではなかった。江戸に出て小野と姓を変え、2代将軍秀忠に従って関ヶ原へも行ったが、相手が将軍でも手加減せずに鍛えるので、坊ちゃん育ちの3代将軍家光には嫌われたらしい。それで、柳生家が1万石の大名になったのに、小野の方は600石の旗本にしかならなかったといわれている。よく時代劇映画で「小野派一刀流」などというせりふがあるが、その「小野派」の元祖である。
新しい土地に住んで、思いがけぬ郷土史にふれるのは、また楽しい。
ボウズシラズのネギ
父親は毎年、ネギをたくさん育てる。ここに住み始めて、長ネギを買った記憶はほとんどない。唯一、ネギが不足しがちになるのが、今ごろだ。ネギの花、いわゆる「ネギ坊主」が育って来ると、固くなって食べられなくなるからだ。
しかし、今年は大丈夫。花を咲かせない品種のネギが、十分に数を増やしたからだ。このネギ、「ボウズシラズ」と言う。「ネギ坊主」ができないので、「坊主知らず」。
坊主(花)つけた普通のネギの向こうに並ぶボウズシラズのネギ |
このネギは、私が千葉県佐倉市に住んでいたころ、東京都江戸川区の農家からいただいた。いただいたのは2株で、1株が10本くらいだった。それを1本ずつに分けて植えた。花が咲かないので種もできないが、このネギは株分かれして殖える。大原町に越した時、何本かを移植したのが、年々数を増やし、ようやく、いくらでも食べられる数になったのである。
かみさんは、「やわらかくて、おいしいネギよね」と言う。
家庭菜園には、ありがたい品種だ。
ぜいたくに蜜柑風呂
家のすぐ前に植えてある甘夏を、今年はたくさん食べた。父親とかみさんには少しすっぱいらしく、食べたのは私一人だったが、残った蜜柑の皮を干しておいて、二度、蜜柑風呂にした。
ただし、蜜柑の皮は半端な量ではない。父親が、大きな洗濯ネット一杯になるまでためておいて、ドカッと風呂に放りこむのである。浴室全部が、蜜柑の香りにあふれかえった。昔、正月の炬燵で食べた温州蜜柑の蜜柑風呂とは、比べものにならない。
蜜柑風呂を楽しんだ2階の浴室 |
蜜柑風呂がこんなにウキウキするものだとは、初めて知った。
それに、我が家の風呂は2階にある。これがまた、気持ちよい。これからの、昼が長い時期、まだ明るいうちに浴槽に身を沈めると、木々の緑が美しい。
その窓際に、最近、手すりを付けた。父親が「風呂で立ち上がろうとしたら、足が滑った」というからだ。浴室に入ると、すぐわきの壁には、前々から手すりを取りつけていたが、それは、洗い場での安全のためだった。しかし、浴槽から立ち上がる時のことは考えていなかった。確かに、浴槽のへりに手をつくより、手すりの方がしっかり体を支えられる。
それに我が家は、全体が厚い木の壁でできている構造なので、手すりはどこにでも、簡単に取り付けられる。家ができてから、階段の両側にも手すりをつけたし、玄関の上がりがまちにも付けた。そういう、屋内の安全対策、それに床面に段差のないバリアフリー構造については、また、いずれ紹介したい。
今回は、浴室に関する、ちょっとした生活の知恵に触れておこう。
我が家は建てて七年になるが、浴室の壁にカビが生えたことがない。それは、たった一つのことに注意しているからだ。
入浴後、浴室のドアを全開にしておく。たったそれだけのことだ。
浴室の湿気を出すために、たいていの家の浴室に換気扇がついている。だが、ドアを閉めておくと、換気扇を回しても外から空気が補給されないので、湿気を追い出すのに十分な量の空気の流れができないのだ。私が前に住んでいたマンションの浴室には、窓がなかった。だが、風呂からあがったら、ドアを開けっぱなしにして換気扇を回すことを忘れなかったおかげで、カビには無縁だった。
建築家の藤原昭夫さんに教えてもらった知恵だ。そして、大原町のこの家を設計したのも、藤原さんである。